第61話「三つ目の音節が、きた、という朝と、知ってるにおいがする、というルルの声と、初めて、意味の輪郭が、届いた」
夜が、明けた。
灰の台地の方角からは——今日も、風が、なかった。
炉の火は、また、灰になっていた。白い、軽い灰が——残っていた。
ジンが、目を覚ました。
すぐに——台地の方角を、見た。
しばらく——何も、言わなかった。
それから——眉を、静かに、寄せた。
「……今日は——違う気がする」とジンが、ぽつりと、言った。「増えるとか、続くとかじゃない。何か——変わる、気がする」
―――
ルルが、目を覚ました。
すぐに——台地の方角に、鼻を、向けた。
しばらく——何も、言わなかった。
それから——ルルが、鼻先を、止めた。
動かなかった。
ジンが、様子を見た。
「……ルル」とジンが、静かに、呼んだ。
ルルは、しばらく——それでも、動かなかった。
それから——ゆっくりと、口を、開いた。
「……知ってる」とルルが言った。声が、少し、震えていた。「このにおい——知ってる、気がする」
「知ってる、というのは」とジンが聞いた。
ルルが、少し、首を、かしげた。
「……うまく、言えない。初めて、嗅ぐにおいなのに——どこかで、嗅いだことがある、気がする。遠い場所の——遠い時の——でも、同じにおい」
―――
ノアが、静かに、起き上がった。
台地の方角を、しばらく、見ていた。
「……また、変わってる」とノアが言った。「昨日——二つ、並んだ。今日は——胸の奥が、もっと、広い。何か——もう一つ、来ようとしてる。でも——それだけじゃない。何か——方向が、ある。向かってくる先が——俺たちじゃない気がして——いや、違う。俺たちに——向かってきてる。でも——何かを、呼んでる」
「呼んでる、というのは」とエリナが、ペンを止めて、聞いた。
ノアが、しばらく——言葉を、探した。
「……アルトが——名前を、呼ばれた時の——あの瞬間の、前に、似てる。名前が、声になる、直前の。息が、形を、探してる感じ」
―――
カインが、地図を、膝の上に広げた。
「……今日も、掘りません」とカインが言った。「方針は、変えません。ただ——今日は、一つだけ、違う可能性を、頭に、入れておいてほしい」
「違う可能性、というのは」とジンが聞いた。
カインが、少し、間を置いた。
「……昨日、二つの音節が、並びました。アル・ヴェリアの記録には——『最初の言葉は、いつも、自分を呼ぶ言葉である』とあります。でも——記録には、もう一行、続きが、あります」
カインが、写しを、開いた。
「『ただし、四百年以上を経たものが初めて発する言葉は——自分ではなく、目の前にいる者を、呼ぶことがある。それほどに——長く、待った、ということである』」
誰も——しばらく、何も、言わなかった。
「……目の前にいる者を、呼ぶ」とジンが、低く、繰り返した。
「……はい」とカインが言った。「もし今日——三つ目の音節が来て、それが、これまでと——全く違う、向きを、持っていたとしたら」
カインが、言葉を、止めた。
セレクが、静かに、続けた。
「……私たちの——誰かの名前を、呼ぼうとしているかもしれません」
―――
境界を、越えた。
窪みまで——いつもの道を、歩いた。
黒い、小さな何かは——昨日と、同じ場所に、同じ形で。
けれど——何かが、違った。
シアが、近づいて、空間を、探った。
すぐに——立ち止まった。
「……形が——揺れてる」とシアが言った。「昨日は——輪郭が、二つ、繋がって、静かに、あった。今は——その輪郭の、端が、揺れてる。何かを——探してる。触れようとしてる」
ルルが、鼻を、押さえたまま——動かなかった。
「……においが——ずっと、向かってきてる」とルルが言った。「私の、方に」
ジンが、ルルを、見た。
「……私の方に、というのは」
ルルが、少し、考えた。
「……みんなの方に、じゃない。私の——鼻の、先に。真っ直ぐ、届いてくる」
―――
ジンが、窪みの中央に、両手を、当てた。
目を、閉じた。
何も、問わずに——そのまま、待った。
しばらく——静かだった。
それから——
空気が、震えた。
昨日と、同じ——二つの音節が、先に、響いた。
同じ、形。同じ、順番。
けれど——今日は、それで、終わらなかった。
ほんの、一拍。
少し——長い、一拍を、置いて。
三つ目が、来た。
これまでとは——全く、質感の違う、音だった。
低くも、短くも、なかった。
高くも、なかった。
ただ——まっすぐに。
一つの、はっきりとした、形で。
伸びるように——響いた。
ルルが、鼻を押さえたまま——その場に、座り込んだ。
「……これ」とルルが、小さく、呟いた。「知ってる」
―――
ノアが、地面に、両手を当てたまま——動けなかった。
しばらく——言葉を、失っていた。
それから——ようやく、口を、開いた。
「……待って」とノアが言った。声が、震えていた。「これ——もしかして」
「もしかして、というのは」とカインが、すぐに、聞いた。
ノアが、答えられなかった。
しばらく——頭を、抱えるように、うつむいた。
それから——顔を、上げた。
「……この三つ目の音——俺、聞いたことが、ある。どこかで。いつか——同じ、音を、聞いた気がする。でも——どこで聞いたか、思い出せない」
ルルが、小さく、頷いた。
「……私も」とルルが言った。「このにおい——知ってる。でも——ずっと、遠い。霞の、向こうにある、みたいな気がする」
―――
ジンが、目を、閉じたまま——耳を、すませた。
「……俺たちに、向かって、言ってるのか」とジンが、低く、問うた。
窪みの奥から——返事は、なかった。
でも——もう一度、三つの音節が、来た。
一つ目。二つ目。
そして——三つ目。
さっきより——少し、はっきりと。
さっきより——少し、まっすぐに。
「……二度目も——同じ」とルルが言った。「やっぱり、私の方に、向かってきてる」
「……俺じゃない、か」とジンが、静かに、言った。
「……ジンじゃない」とルルが言った。「ノアでも——ない。もっと——うまく、言えないけど。においで言うなら——私が、一番、近い。でも——私のことを、呼んでるわけでも——ない、気がする。私を——通して、向こうにいる、誰かを、呼んでる」
「私を——通して、向こうにいる、誰か」とノアが、小さく、繰り返した。
誰かが——息を、呑んだ。
―――
カインが、革の鞄から——アル・ヴェリアの写しを、取り出した。
今日は——震えなかった。
ただ——静かに、強く、握った。
「……教会の記録にも、ない、構造です」とセレクが言った。
カインが、セレクを、見た。
「……どういうことだ」
セレクが、少し、間を置いた。
「……三つの音節が、一組になって、特定の——対象に向かって、発せられる。これは——私が知る、いかなる言語の記録にも、一致しません。ただ——」
セレクが、珍しく——言葉を、切った。
しばらく——何も、言わなかった。
全員が——セレクを、見た。
「……ただ——一つ、だけ」とセレクが言った。「教会の、最も古い層の記録に——こんな一行が、あります。『名のない者が、初めて呼ぶ言葉は——名前ではない。それは——感謝である』」
―――
エリナが、手帳を、開いたまま——ペンを、構えていた。
昨日——「名前、と書くべきか」と迷って、手が、止まった。
今日——ペンを、握ったまま——涙を、こらえていた。
書けなかった。
書こうとして——目が、滲んだ。
なぜ——自分が、泣きそうなのか。わからなかった。
ただ——三つ目の音が、来た瞬間に——胸の、奥の、もっと奥の、ずっと奥で——何かが、静かに、ほどけた気がした。
「……エリナさん」とノアが、小さく、言った。
エリナが、顔を、上げた。
「……はい」とエリナが言った。「すみません。書けなくて——じゃなくて。書き方が——わからなくて」
「わからなくて——いい」とジンが言った。
エリナが、ジンを、見た。
「……今日は——わからないまま、書いていい」とジンが言った。「わからないことを、書いておけばいい」
エリナが、少し——頷いた。
ペンが、動いた。
ゆっくりと——「かんしゃ?」と、ひらがなで、書いた。
その後に——「ちがうかも」と、書いた。
―――
ルルが、ふと——息を、止めた。
「……五本目の糸」とルルが言った。「今——大きく、揺れてる。でも——いつもと、違う。跳ねてるんじゃない。揺れてる——方向が」
ルルが、少し、目を、細めた。
「……アルトが——こっちに、向かって、揺れてる。いつもは——私たちの方を、向いて、震えてた。今は——私たちを、通り越して——もっと、遠くを、向いてる」
「もっと遠く、というのは」とシアが聞いた。
ルルが、少し、考えた。
「……灰の台地の——向こう。南東の、さらに、向こう。どこか——ずっと、遠い場所を、アルトが——見てる。泣いてるわけじゃない。ただ——見てる。懐かしそうに。まるで——昔、知ってた場所を、思い出してるみたいに」
ノアが、少し——空を、見上げた。
「……お前も——知ってるのか」とノアが、小さく、呟いた。「この音のことを」
―――
「……今日は、ここまでにしましょう」とカインが言った。「三つの音節が、来ました。向きが、あります。構造が——これまでとは、違います。今日——無理に、意味を、決めるべきではありません」
「触れても——いいのか」とジンが聞いた。
セレクが、少し、考えた。
「……今日も、触れない方が、いいと思います」とセレクが言った。「ただ——一つだけ。向こうが——今日、自分から、誰かに向けて、発した言葉には——時間が、必要です。届いたかどうかを——確かめる時間が。私たちが、急いで近づけば——その確かめる機会を、奪ってしまうかもしれません」
ジンが、頷いた。
窪みを、もう一度、見た。
「……届いた」とジンが言った。「それだけは、わかった」
―――
外に出ると——風が、あった。
炉に、火が、ついた。火が、揺れた。
「……感謝、か」とジンが、ぽつりと、言った。「四百年以上——燃えたくて、終わりたくて——でも、終われなくて。その間に——俺たちが来て。初めて、聞いてもらえて。初めて、声が、出て。初めて、音節になって、言葉になって——それで、最初に、言いたかったのが、感謝だったとしたら」
しばらく——誰も、何も、言わなかった。
「……そうだとしたら」とノアが言った。「あいつは——燃えることよりも、終わることよりも、先に——礼を、言いたかったんだな」
「……ルルの方に向かってきていたのは」とセレクが、静かに言った。「ルルに——感謝を、伝えたかったわけでは、ないかもしれません。ルルの感覚は——においで、遠くの存在を、繋ぐ。あの存在には、それが——わかっていた。ルルを——媒介にして、遠くにいる誰かへ、届けようとしたのかもしれません」
「遠くにいる誰か」とエリナが言った。「アルト——ですか」
セレクが、少し、間を置いた。
「……あるいは——アル・ヴェリア、かもしれません」
全員が——しばらく、何も、言わなかった。
―――
エリナは、ランプの光で、手帳を書いた。
今日のこと——朝、ジンが「変わる気がする」と言ったこと、ルルが「知ってるにおい」という感覚を持ったこと、ノアが「向かってくる方向がある」と語ったこと、カインがアル・ヴェリアの記録の続きを引き「目の前の者を呼ぶことがある」という一文を示したこと、セレクが「私たちの誰かの名前を呼んでいるかもしれない」と言ったこと、窪みで二度、三つの音節が同じ順番でルルの方向へ向かって響いたこと、ルルが「知ってる」と言って座り込んだこと、ノアが「聞いたことがある」と言いながら思い出せずにいたこと、ジンが「届いた」と言ったこと、セレクが教会最古記録の「名のない者が初めて呼ぶ言葉は感謝である」という一行を引いたこと、アルトが南東の彼方を懐かしそうに見つめていたこと、セレクが「届けようとしていた先がアル・ヴェリアかもしれない」と言ったこと。すべてを、書いた。
書き終えて、ペンを止めた。
それから——もう一行、追加した。
『今日、窪みの中央から、三つ目の音節が来ました。その音節は、これまでと全く違う質感で、ルルさんの方向へ、まっすぐに、向かってきました。ルルさんは「知ってる」と言って、その場に座り込みました。私には、わかりませんでした。でも——三つ目の音が来た瞬間に、胸の奥で、何かがほどけた気がして、涙が出そうになりました。なぜかは、わかりません。セレクさんが引いた記録には「名のない者が初めて呼ぶ言葉は感謝である」とありました。もし、そうなら。四百年以上待って、ようやく声を持って、最初に言いたかったのが——誰かへの感謝だったとしたら。私は、それを、うまく書けません。でも——書けないことも、今日は、記録です。私は今日、「かんしゃ?ちがうかも」とだけ書きました。それが精一杯でした。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』
ランプの炎が、静かに、揺れた。
―――
ルルは、台地の方角を見ていた。
においの先に——三つの音節が、並んでいる、何かの気配が、あった。
今日——三つ目の音が、来た。
今日——それが、自分の方へ、向かってきた。
今日——アルトが、遠い場所を、見ていた。
ルルは、少し、目を細めた。
「……燃える前のにおい」とルルが、小さく、呟いた。「三つ、並んだ。意味が——ある。どこかで、嗅いだことがある。でも——思い出せない。明日——もしかしたら、思い出せるかもしれない」
地面の奥から——返事は、なかった。
でも——窪みの方角から、ごく小さく——届いた、と——においが、震えた、ような気がした。
ルルは、それを確かめて、眠った。
―――
夜が、深くなった。
炉の火が、揺れていた。
窪みの中では——黒いものが、灰の中に、静かに、あった。
長い間——燃えたいまま。
長い間——終われないまま。
それでも——消えずに、あった。
今日——三つの音節を、並べた。
それは——自分を、呼ぶ言葉では、なかった。
それは——名前でも、なかった。
四百年以上——誰にも、言えなかった言葉。
聞いてもらえなかった言葉。
届かなかった言葉。
今日——初めて。
三つの音節が、形になって。
遠い、遠い場所の——誰かに向かって。
ようやく、届いた。
届いたかどうか——まだ、わからない。
でも——向かって、出せた。
それだけで、よかった。
四百年以上、ずっと——言いたかった。
今日——ようやく、言えた。
灰の下で——何かが、静かに、少しだけ——楽になっていた。
―――
― 第61話・了 ―
―――
次話予告:翌朝、ルルが「思い出した」と言い、震える声で告げる。「……このにおい——アルト、じゃない。もっと、古い。もっと、遠い。アル・ヴェリアの——においだ」。ノアが絶句し、地面に手をつく。「……あいつが、アル・ヴェリアに——礼を、言ってたのか。四百年——届かなかった言葉を」。カインが写しを握りしめ、震える手で一行を指す。「アル・ヴェリアの記録に——こう、あります。『灰の下にあるものは、私が止めたのではない。私が、守った』」。セレクが静かに、しかし確信を持って言う。「……アル・ヴェリアは、この存在を——燃えさせないために、止めたのではない。燃えるその日まで、守るために、ここに、置いた」。ジンが低く、「……じゃあ、あいつが終わるための条件は——何だ」と問う。エリナが、ペンを走らせながら、涙をこらえる。明日——四百年越しの、感謝の意味が、明らかになる。




