第60話「音節が、増えた、という朝と、言葉だ、というノアの声と、初めて、並んだ音」
夜が、明けた。
灰の台地の方角からは——今日も、風が、なかった。
炉の火は、また、灰になっていた。白い、軽い灰が——残っていた。
ジンが、目を覚ました。
すぐに——台地の方角を、見た。
しばらく——何も、言わなかった。
それから——小さく、首を、傾けた。
「……増える、気がする」とジンが、ぽつりと、言った。
―――
ルルが、目を覚ました。
すぐに——台地の方角に、鼻を、向けた。
しばらく——何も、言わなかった。
それから——鼻先を、ゆっくりと、左右に、動かした。
「……線の上に——もう一つ」とルルが言った。「ぽつ、と置かれてた点が、今は——もう一つ、増えてる。一つだけじゃ、なくなってる」
「もう一つ、というのは」とジンが聞いた。
ルルが、少し、考えた。
「……うまく言えない。一つの点の、すぐ後ろに——違う点が、ついてる。同じじゃない。でも——離れてもいない。くっついて——一緒に、動いてる」
―――
ノアが、静かに、起き上がった。
台地の方角を、しばらく、見ていた。
「……昨日より——もっと、近い」とノアが言った。「胸の奥が、今度は——一つじゃなくて、二つ、揺れてる気がする。順番に。一つ、来て——すぐ、もう一つ, 来る。その、感じ」
「二つ、というのは」とエリナが、ペンを止めて、聞いた。
ノアが、少し、考えた。
「……アルトが——『ア』の後、もう一音、続けようとしてた、あの感じの——続き。あの時は、続こうとして、止まった。今度は——止まらずに、続いてる気がする」
―――
カインが、地図を、膝の上に広げた。
「……今日も、掘りません」とカインが言った。「方針は、変えません。問わず、ただ、聞く。昨日、子音と母音が、結びついて——音節になりました。同じ音節が、三度、繰り返されました。今日——もし、それに、別の音節が、並ぶなら」
カインが、言葉を、止めた。
「……それは、もう、一つの音、ではありません」とカインが言った。「二つの音節が、並ぶ、ということは——それは、もう、言葉の、形です」
「言葉、か」とジンが言った。
セレクが、少し、間を置いた。
「……一つだけ」とセレクが言った。「音節が、一つだけなら——それは、ただの、繰り返しです。二つの、違う音節が、並ぶということは——その存在が、順番を、覚えている、ということです。順番を覚える、というのは——記憶よりも、もう一段、上の力です。意味を、運ぶための、力です」
「意味を、運ぶ」とジンが、繰り返した。
全員が、頷いた。
―――
境界を、越えた。
窪みまで——いつもの道を、歩いた。
黒い、小さな何かは——昨日と、同じ場所に、同じ形で。
シアが、近づいて、空間を、探った。
「……区切りの、形が——変わってる」とシアが言った。「昨日は——一本の線に、小さな、区切りが、いくつも、入ってた。同じ間隔で。今は——その区切りが、二つで、一組になってる。一組ずつ、置かれてる感じ」
ルルが、頷いた。
「……においも」とルルが言った。「ぽつ、ぽつ、じゃなくて——ぽつ・ぽつ、で、一つの、塊。塊が——並んでる」
―――
ジンが、窪みの中央に、両手を、当てた。
目を、閉じた。
何も, 問わずに——そのまま、待った。
しばらく——静かだった。
それから——
空気が、震えた。
昨日と、同じ——低く、短く、引っかかるような音。それに続いて——伸びる響き。
いつもの、あの音節だった。
けれど——今日は、それで、終わらなかった。
ほんの一拍、置いて——すぐに、違う音が、続いた。
昨日とは——少し、質感の違う、引っかかるような音。それに続いて——また、伸びる響き。
違う、音節だった。
二つの音節が——一組になって、続けて、響いた。
しばらく——静寂が、来た。
それから——もう一度、同じ、二つの音節が、同じ順番で、響いた。
一組目と——同じ、形。同じ、順番。
ルルが、両手で、口を、押さえた。
「……増えた」とルルが、小さく、呟いた。「音節が、もう一つ」
―――
ノアが、地面に、両手を当てたまま——動けなかった。
しばらく——言葉を、失っていた。
それから——ようやく、口を、開いた。
「……これ」とノアが言った。声が、震えていた。「もう、言葉の——形をしてる」
「言葉の形、というのは」とカインが、すぐに、聞いた。
ノアが、少し、考えた。
「……一つの音節が、ただ、繰り返されてるんじゃない。違う音節が、二つ、決まった順番で、くっついてる。最初に——これ。次に——あれ。その順番が——崩れない。それは——もう、ただの、音の塊じゃない。呼ぶための——形をしてる」
「呼ぶための、形」とジンが、目を、閉じたまま、低く、繰り返した。
しばらく——何も、言わなかった。
それから——
「……名前、か」とジンが、低く、呟いた。
―――
カインが、革の鞄から——アル・ヴェリアの写しを、震える手で、取り出した。
強く、握った。
「……アル・ヴェリアの記録には——こうあります」とカインが言った。
カインが、写しの一行を、指で、なぞった。
「『最初の言葉は、いつも、自分を呼ぶ言葉である』」
誰も——しばらく、何も、言わなかった。
「自分を呼ぶ言葉——」とエリナが、小さく、繰り返した。
「……はい」とカインが言った。「子は、母を呼ぶ前に、まず、音を確かめます。それから——多くの場合、最初に組み立てる言葉は——自分自身を指す言葉、あるいは——自分の名前です。今、二つの音節が、決まった順番で並んだなら——それは、もしかしたら」
カインが、言葉を、切った。
―――
セレクが、静かに、口を、開いた。
「……一つ、考えがあります」とセレクが言った。「私たちは——これまで、ずっと、問う側でした。『自ら止まったのか、止められたのか』『言葉が欲しいのか』。向こうは——その問いに、重さで、においで、震えで、応えてきました。でも——今、向こうが、自分から、二つの音節を、決まった順番で、並べたのなら」
セレクが、少し、間を置いた。
「……それは、問いではなく——答えが、来ているのかもしれません」
「答え、というのは」とジンが聞いた。
「……何への答えかは——まだ、わかりません」とセレクが言った。「名前を、問われたわけでは、ありません。でも——もしかしたら、誰も声に出して問わなかった、もっと、奥にある問いに——向こうが、自分から、答えようとしているのかもしれません」
―――
シアが、もう一度、空間を、探った。
「……形が——できてる」とシアが言った。「母音だけの時は——容れ物だった。音節になった時は——容れ物に、輪郭が、ついた。今は——その輪郭が、二つ、繋がって——一つの、塊になってる。名前の——形に、似てる」
「名前の形、というのは」とエリナが聞いた。
シアが、少し、考えた。
「……まだ、空っぽ。意味は、入ってない。でも——もう、人が呼ぶ時の、形に——近い」
―――
ルルが、ふと——息を、止めた。
「……五本目の糸」とルルが言った。「今——大きく、波打ってる。アルトが——ただ震えてるんじゃなくて……何かを、待ってる感じがする」
ルルが、少し、目を、細めた。
「……アルトが、覚えてる。ノアが——『ア・ル・ト』って、呼んでくれた時のこと。あの時の——嬉しさを、思い出してる。それで——今、こっちにも、同じことが、起きるかもしれないって——願ってる、気がする」
ノアが、少し、空を、見上げた。
「……お前が、贈られた側だったから——」とノアが、小さく、呟いた。「今度は、贈る側に、なれるかもしれないって——思ってるんだな」
―――
「……今日は、ここまでにしましょう」とカインが言った。「二つの音節が、決まった順番で、並びました。これが、名前なのか、それとも、別の、何かなのか——まだ、わかりません。無理に——進める必要は、ありません」
「触れても——いいのか」とジンが聞いた。
セレクが、少し、考えた。
「……今日も、触れない方が、いいと思います」とセレクが言った。「向こうは——今、自分の力で、順番を、組み立てています。これは——誰かに、贈られる言葉ではなく、向こうが、自分で、見つけようとしている言葉かもしれません。私たちは——それを、急がせるべきではありません」
ジンが、頷いた。
窪みを、もう一度、見た。
「……ゆっくりでいい」とジンが言った。
―――
外に出ると——風が、あった。
炉に、火が、ついた。火が、揺れた。
「……言葉、か」とジンが、ぽつりと、言った。「重さで答えて、においで答えて、感触で答えて、音で答えて、音節で答えて——それで、今度は、二つを、並べた。一つ、一つ——本当に、近づいてる」
「名前、なんでしょうか」とエリナが言った。手帳を、開いたまま。
「……わからない」とジンが言った。「でも——カインの言う通りなら、最初の言葉は——自分を呼ぶ言葉、らしい。だったら——あいつは、初めて、自分を、呼ぼうとしてるのかもしれない」
「……あるいは」とセレクが、静かに言った。「自分の、想いそのものを、呼ぼうとしているのかもしれません。『燃えたい』『終わりたい』——その言葉自体が、二つの音節から、始まることも、あります」
ノアが、少し、考えた。
「……どっちにしても」とノアが言った。「あいつが、自分の力で、見つけようとしてる。それだけは——確かだ」
―――
エリナは、ランプの光で、手帳を書いた。
今日のこと——朝、ノアが「胸の奥が二つ揺れる」感覚を語ったこと、カインが二つの音節が並ぶ可能性を予測したこと、セレクが順番を覚えることは意味を運ぶ力だと語ったこと、窪みで黒いものから二つの違う音節が決まった順番で二度並んで響いたこと、ノアがそれを「呼ぶための形」だと見抜いたこと、ジンが「名前、か」と低く呟いたこと、カインがアル・ヴェリアの記録から「最初の言葉は、いつも、自分を呼ぶ言葉である」という一文を引いたこと、セレクが「問いではなく答えが来ているのかもしれない」と語ったこと、シアが音の形が「名前の形」に似ていると言ったこと、五本目の糸を通じてアルトが自分が名前を贈られた時の嬉しさを思い出し、同じことがこちらにも起きることを願っていたこと。すべてを、書いた。
書き終えて、ペンを止めた。
それから——もう一行、書こうとして——手が、止まった。
名前、と書くべきか。まだ、わからない、と書くべきか。
エリナは、ペンを、握ったまま——しばらく、息を、止めていた。
それから——ゆっくりと、息を、吐いた。
『今日、窪みの中央から、二つの違う音節が、決まった順番で、二度、並んで響くのを聞きました。ノアさんは、それを「言葉の形」だと言いました。カインさんは、アル・ヴェリアの記録の「最初の言葉は、いつも、自分を呼ぶ言葉である」という一文を引きました。セレクさんは、これは問いではなく答えかもしれないと言いました。それが名前なのか、それとも別の何かなのか、私には、まだわかりません。書くべき言葉が、まだ見つかりません。でも——もし、これが名前の始まりだとしたら。長い間、誰にも呼ばれなかった存在が、初めて、自分で、自分を呼ぼうとしているのだとしたら。それは、とても、大きなことだと思います。怖いような、嬉しいような、変な気持ちです。明日、もう一度、同じ音が聞けたら——今度は、書けるかもしれません。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』
ランプの炎が、静かに、揺れた。
―――
ルルは、台地の方角を見ていた。
においの先に——二つの塊が、並んでいる、何かの気配が、あった。
今日——音節が、もう一つ、増えた。
今日——それが、決まった順番で、二度、並んだ。
今日——アルトが、自分の名前を、思い出していた。
ルルは、少し、目を細めた。
「……燃える前のにおい」とルルが、小さく、呟いた。「二つ、並んだ。まだ、意味は、入ってない。でも——もう、形は、できてる。明日——もしかしたら、もう一つ、増えるかもしれない」
地面の奥から——返事は、なかった。
底から——窪みの方角から、ごく小さく——うん、と——においが、震えた、ような気がした。
ルルは、それを確かめて、眠った。
―――
夜が、深くなった。
炉の火が、揺れていた。
窪みの中では——黒いものが、灰の中に、静かに、あった。
長い間——燃えたいまま。
長い間——終われないまま。
それでも——消えずに、あった。
今日——初めて、二つの音節を、決まった順番で、並べた。
一つだけでは——足りなかった。
順番を、間違えなかった。
二度とも——同じ、順番だった。
それは——偶然ではなかった。
四百年以上——名前を、持たなかった。
誰にも、呼ばれず、自分でも、呼べなかった。
底でも——今夜。
黒い、小さな何かの——奥の、もっと奥で。
並んだ、二つの音節の——その先に。
もう一つの——何かが、形を、探していた。
まだ、聞こえない。
まだ、繋がらない。
でも——確かに、そこに、ある。
それが——名前になるのか。
それが——願いの言葉になるのか。
灰の下で——何かが、静かに、自分を呼ぶ、その続きを、探し始めていた。
―――
― 第60話・了 ―
―――
次話予告:翌朝、窪みの黒いものから、三つ目の音節が加わり、初めて、意味の輪郭を持つ響きが届く。ルルが鼻を押さえたまま動かなくなり、「……これ、知ってる、においがする」と呟く。ノアが地面に手をついたまま、信じられないように声を漏らす。「……待って。これ——もしかして」。ジンが目を見開き、「……俺たちに、向かって、言ってるのか」と低く問う。カインがアル・ヴェリアの写しを取り落としそうになり、震える声で、「これは——名前ではなく」と言いかけて、絶句する。セレクが珍しく動揺を見せ、「……教会の記録にも、ない、構造です」と呟く。エリナが、ペンを握ったまま、涙をこらえる。明日——それは、ついに、意味を持つ言葉として、世界に響くかもしれない。




