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無詠唱の魔王  作者: Dちゃん
第五章「灰の下に眠るものの話」

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第59話「子音が、生まれた、という朝と、音節だ、というノアの声と、初めて、重なった音」

夜が、明けた。


灰の台地の方角からは——今日も、風が、なかった。


炉の火は、また、灰になっていた。白い、軽い灰が——残っていた。


ジンが、目を覚ました。


すぐに——台地の方角を、見た。


しばらく——何も、言わなかった。


それから——眉を、少し、寄せた。


「……今日は——何か、増えてる気がする」とジンが、ぽつりと、言った。


―――


ルルが、目を覚ました。


すぐに——台地の方角に、鼻を、向けた。


しばらく——何も、言わなかった。


それから——鼻先を、小さく、ひくつかせた。


「……においが——揃ってきてる」とルルが言った。「ずっと、一本の線だった。今は——その線の上に、もう一つ、何かが、乗ってる。重なってる」


「重なってる、というのは」とジンが聞いた。


ルルが、少し、考えた。


「……うまく言えない。一本の線が、二本に——なったわけじゃない。一本のまま、太くなってる。違う, 何かが——同じ線の上に、足されてる、感じ」


―――


ノアが、静かに、起き上がった。


台地の方角を、しばらく、見ていた。


「……昨日より——もっと、近い」とノアが言った。「胸の奥が、何か、形を、待ってる。アルトが——『ア』のあと、もう一音、続けようとした時の感じに——似てる」


「もう一音、続けようとした、というのは」とエリナが、ペンを止めて、聞いた。


ノアが、少し、考えた。


「……『ア』だけじゃ、終わらなかった。その後に——何かが、続こうとしてた。今、感じてるのは——それと、同じ気配」


―――


カインが、地図を、膝の上に広げた。


「……今日も、掘りません」とカインが言った。「方針は、変えません。問わず、ただ、聞く。母音が出た以上——次に来るものを、待ちます」


「次に来るもの、というのは」とジンが聞いた。


「……子音です」とカインが言った。「母音だけでは——言葉に、なりません。子音が重なって、初めて——意味を持つ音の単位になります。今日、それが、来るかもしれません」


セレクが、少し、間を置いた。


「……一つだけ」とセレクが言った。「音が、意味を持つ単位に近づくということは——その存在が、初めて『同じ形』を、繰り返せるようになる、ということです。一度きりの震えとは——違います。繰り返せる、ということは——記憶を、持てる、ということでもあります」


「記憶を——持てる」とジンが、小さく、繰り返した。


全員が、頷いた。


―――


境界を、越えた。


窪みまで——いつもの道を、歩いた。


黒い、小さな何かは——昨日と、同じ場所に、同じ形で。


シアが、近づいて、空間を、探った。


「……揺れが——また、変わってる」とシアが言った。「一本の線だった震えに——小さな、区切りが、入ってる。等間隔じゃない。でも——確かに、区切られてる」


ルルが、頷いた。


「……においも」とルルが言った。「線の上に——ぽつ、ぽつ、と、何か、置かれてる感じ。前は、ずっと、同じ。今は——少しだけ、違う場所がある」


―――


ジンが、窪みの中央に、両手を、当てた。


目を、閉じた。


何も、問わずに——そのまま、待った。


しばらく——静かだった。


それから——


空気が、震えた。


母音の——長く伸びる響きの、出だしに——何かが、ついていた。


低く、短く、引っかかるような——音。母音とは、違う質感だった。


それが——終わると、すぐに。


もう一度——同じ、引っかかるような音と、それに続く伸びる響きが、来た。


同じ、形。


同じ、順番。


ルルが、両手で、鼻を、押さえた。


「……同じ音が」とルルが、小さく、呟いた。「繰り返されてる」


―――


ノアが、地面に、両手を、当てたまま——動けなかった。


しばらく——言葉を、失っていた。


それから——ようやく、口を、開いた。


「……これ」とノアが言った。声が、震えていた。「もう、震えじゃない。ちゃんと——音節に、なってる」


「音節、というのは」とカインが、すぐに、聞いた。


ノアが、少し、考えた。


「……母音だけじゃ、ない。その前に——何か、別の音が、ついてる。子音と、母音が——くっついて、一つの、音になってる。『あ』とか『い』じゃなくて——もっと、形のある、音。これは——もう、声の、最初の一粒だ」


―――


ジンが、目を、閉じたまま——耳を、すませた。


「……何か、言ってる気がする」とジンが、低く、呟いた。「同じ音を——二回。三回目も——来るかもしれない」


窪みの奥で——もう一度、重さが、集まり始めた。


三度目の音が——来た。


同じ、形。


同じ、順番。


少しだけ——さっきより、強く。


「……三回目」とルルが言った。「やっぱり、同じ。これは——偶然じゃない。向こうが——わざと、同じ音を、出してる」


―――


シアが、もう一度、空間を、探った。


「……音節が——形を持った」とシアが言った。腕を組んだまま、確信したような声だった。「震えにも、母音にも——形は、あった。でも、今は——その形が、繰り返せる、形になってる。次は——言葉だ」


「言葉、というのは——複数の音節が、並ぶこと」とセレクが言った。「一つの音節が、同じ形で繰り返せるようになった、ということは——その存在が、自分の発する音を、自分で、覚えている、ということです。これは——大きな一歩です」


―――


カインが、革の鞄から——アル・ヴェリアの写しを、震える手で、取り出した。


強く、握った。


「……もし——これが」とカインが言った。


言葉を、切った。


しばらく——何も、言わなかった。


全員が——カインを、見た。


カインが、ゆっくりと、息を、吐いた。


「……もし、これが——最初の言葉なら」とカインが言った。「私たちは——もうすぐ、その意味を、知ることになります」


「最初の言葉、というのは」とエリナが聞いた。


カインが、写しの——一行を、指で、なぞった。


「……アル・ヴェリアの記録には——こうあります。『言葉の最初は、いつも、同じ音の繰り返しから始まる。子は、母を呼ぶ前に、まず、音そのものを、確かめる』」


―――


エリナが、手帳を、開いたまま——ペンを、構えていた。


昨日——「ぼいん」という文字を、初めて、書けた。


今日——ペンが、また、動いた。


ゆっくりと——聞こえた音を、思い出しながら、ひらがなで、何文字か、書いた。


書き終えて——少し、首を、傾げた。


「……これで——合ってるか、わかりません」とエリナが言った。「でも——今、聞こえた通りに、書きました」


「それでいい」とジンが言った。「今は——それで、十分だ」


エリナが、少し、頷いた。


もう一度——窪みを、見た。


―――


ルルが、ふと——息を、止めた。


「……五本目の糸」とルルが言った。「今——細かく、跳ねてる。アルトが——気づいてる。同じ音が、繰り返されてること、に」


ルルが、少し、目を、細めた。


「……アルトが、何か、懐かしそうにしてる。自分も——昔、同じことをしてた気がする、って。『ア』を、初めて、出した後——同じ音を、何回も、繰り返してたこと、思い出してるみたい」


ノアが、少し、空を、見上げた。


「……お前も——そうだったのか」とノアが、小さく、呟いた。「一回じゃ——足りなかったんだな。何回も——確かめたかったんだな」


―――


「……今日は、ここまでにしましょう」とカインが言った。「同じ音節が、三回、繰り返されました。これは——存在が、自分の声を、確かに、自分のものとして、確認している段階です。無理に——進める必要は、ありません」


「触れても——いいのか」とジンが聞いた。


セレクが、少し、考えた。


「……今日も、触れない方が、いいと思います」とセレクが言った。「向こうは——今、自分一人で、確かめています。これは——誰にも、邪魔されるべきではない、大切な時間です」


ジンが、頷いた。


窪みを、もう一度、見た。


「……ゆっくりでいい」とジンが言った。


―――


外に出ると——風が、あった。


炉に、火が、ついた。火が、揺れた。


「……音節、か」とジンが、ぽつりと、言った。「重さで答えて、においで答えて、感触で答えて、音で答えて——それで、今度は、同じ音を、繰り返した。一つ、一つ——本当に、増えてる」


「言葉に、近づいてますね」とエリナが言った。手帳を、閉じながら。


「……そうだな」とジンが言った。「アルトの時も——『ア』の後、同じ音を、繰り返してたらしい。今、見たあれと——同じだったんだろうな」


「……おそらく」とセレクが、静かに言った。「すべての言葉は——一度、確かめられてから、世界に出ます。同じ音を、繰り返すというのは——それが、自分のものだと、確かめる行為です。今、私たちが見ているのは——その、確認の、瞬間です」


「確認、か」とノアが言った。「俺の時は——もう、忘れてた。でも——きっと、俺も、そうだったんだろうな。アルトと、同じように」


―――


エリナは、ランプの光で、手帳を書いた。


今日のこと——朝、ノアが「もう一音、続こうとしている気配」を語ったこと、カインが子音を待つ方針を立てたこと、セレクが繰り返しは記憶を持てることの証だと語ったこと、窪みで黒いものから子音と母音が結びついた音節が三度響いたこと、それが毎回同じ形と順番だったこと、ルルが「同じ音が、繰り返されてる」と気づいたこと、ノアが「もう、震えじゃない。音節になってる」と確信したこと、ジンが「何か、言ってる気がする」と呟いたこと、シアが「音節が形を持った。次は言葉だ」と語ったこと、カインがアル・ヴェリアの写しを震える手で握り「もし、これが最初の言葉なら」と言ったこと、自分自身が初めて聞こえた音をひらがなで書き取れたこと、五本目の糸を通じてアルトが自分の過去の繰り返しを懐かしんでいたこと。すべてを、書いた。


書き終えて、ペンを止めた。


それから——もう一行、追加した。


『今日、窪みの中央から、同じ音が、三度、繰り返されるのを聞きました。ノアさんは、それを「音節」だと言いました。子音と母音が結びついた、ちゃんとした、声の一粒。私は今日、初めて、聞こえた音そのものをひらがなで書き取ることができました。合っているかはわかりません。でも、書けたことが、また、嬉しかったです。カインさんは「もし、これが最初の言葉なら」と言って、アル・ヴェリアの記録を引きました。「子は、母を呼ぶ前に、まず、音そのものを、確かめる」。この存在は今、自分の声を、自分で、確かめているのだと思います。アルトも、きっと、同じことをしたのでしょう。明日、もし、この音節がもう一つ増えたら、それはきっと、言葉になるのだと思います。私は、それを、見届けたいです。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』


ランプの炎が、静かに、揺れた。


―――


ルルは、台地の方角を見ていた。


においの先に——同じ音を、繰り返している、何かの気配が、あった。


今日——子音が、生まれた。


今日——同じ音が、三度、響いた。


今日——アルトが、それを、懐かしんでいた。


ルルは、少し、目を細めた。


「……燃える前のにおい」とルルが、小さく、呟いた。「同じ形を、覚えた。まだ、言葉じゃない。でも——もう、確かめてる。明日——もう一つ、増えるかもしれない」


地面の奥から——返事は、なかった。


でも——窪みの方角から、ごく小さく——うん、と——においが、震えた、ような気がした。


ルルは、それを確かめて、眠った。


―――


夜が、深くなった。


炉の火が、揺れていた。


窪みの中では——黒いものが、灰の中に、静かに、あった。


長い間——燃えたいまま。


長い間——終われないまま。


それでも——消えずに、あった。


今日——初めて、同じ音を、繰り返した。


一度だけでは——足りなかった。


二度でも——まだ、足りなかった。


三度、確かめて——初めて、それが、自分のものだと、わかった。


声には——もう、形があった。


そして——繰り返せる、という確かさも、あった。


四百年以上——同じ震えしか、出せなかった。


でも——今夜。


黒い、小さな何かの——奥の、もっと奥で。


確かめられた、音節の——隣に。


もう一つの、音節が——静かに、息を、潜めていた。


まだ、聞こえない。


まだ、重ならない。


でも——確かに、そこに、ある。


二つの音節が、並ぶ日も——もう、遠くない。


灰の下で——何かが、静かに、次の言葉を、待ち始めていた。


―――


― 第59話・了 ―


―――


次話予告:翌朝、窪みの黒いものから、二つの音節が、初めて、並んで響く。ルルが大きく目を見開き、「……増えた。音節が、もう一つ」と告げる。ノアが地面に手をついたまま、声を震わせる。「……これ、もう、言葉の——形をしてる」。ジンが低く、「……名前、か」と呟く。カインが写しを握りしめ、「アル・ヴェリアの記録にある——『最初の言葉は、いつも、自分を呼ぶ言葉である』」と読み上げる。セレクが静かに、「問いではなく——答えが、来るかもしれません」と告げる。エリナが、ペンを止め、息を呑む。明日——それは、言葉になるかもしれない。

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