第58話「音が伸びていった、という朝と、母音だ、というノアの声と、初めて、形になった音」
夜が、明けた。
灰の台地の方角からは——今日も、風が、なかった。
炉の火は、また、灰になっていた。白い、軽い灰が——残っていた。
ジンが、目を覚ました。
すぐに——台地の方角を、見た。
しばらく——何も、言わなかった。
それから——小さく、頷いた。
「……音が、伸びる気がする」とジンが、ぽつりと、言った。
―――
ルルが、目を覚ました。
すぐに——台地の方角に、鼻を、向けた。
しばらく——何も、言わなかった。
それから——耳をすますように、首を、かしげた。
「……においが——伸びてる」とルルが言った。「いつもは——強くなって、弱くなって、ってだった。今は——ずっと、同じ強さで、続いてる。途切れない」
「途切れない、というのは」とジンが聞いた。
ルルが、頷いた。
「……うん。前は、波だった。今は——一本の、長い線になってる」
―――
ノアが、静かに、起き上がった。
台地の方角を、しばらく、見ていた。
「……昨日より、もっと——ざわついてる」とノアが言った。「胸の、奥が。何かが、形になる直前の感じが——強くなってる」
「形になる直前、というのは」とエリナが、ペンを止めて、聞いた。
ノアが、少し、考えた。
「……うまく、言えない。でも——アルトが、『ア』を、ようやく声に出した時と——似てる。あの時も——こんな感じが、あった気がする」
―――
カインが、地図を、膝の上に広げた。
「……今日も、掘りません」とカインが言った。「昨日、向こうが——自分から、音を出しました。今日も——同じ方針です。問わず、ただ、聞く」
「……一つだけ」とセレクが言った。「昨夜の震えは——一段、伸びていました。それは——存在が、自分の中の何かを、もう、止められなくなっている、ということかもしれません。今日——何かが、出てくるかもしれません」
「わかってる」とジンが言った。
全員が、頷いた。
―――
境界を——越えた。
窪みまで——いつもの道を、歩いた。
黒い、小さな何かは——昨日と、同じ場所に、同じ形で。
シアが、近づいて、空間を、探った。
「……揺れが——変わってる」とシアが言った。「脈みたいだった震えが——今は、一本の線になってる。途切れない」
ルルが、頷いた。
「……においも、同じ」とルルが言った。「もう、波じゃない。ずっと、続いてる」
―――
ジンが、窪みの中央に、両手を、当てた。
目を、閉じた。
何も、問わずに——そのまま、待った。
しばらく——静かだった。
それから——
空気が、震えた。
昨日までの、短い震える音とは——違かった。
途切れることなく——震えながら、伸びていく音。低く、長く、一つの調子で——ずっと、続いていく。
誰も——動けなかった。
ルルが、先に、口を開いた。
「……これ」とルルが、小さく、呟いた。「形になってる」
ノアが、地面に、両手を当てたまま——目を、見開いた。
「……母音だ」とノアが言った。声が、震えていた。「これ——母音になってる」
「母音、というのは」とカインが、すぐに、聞いた。
ノアが、少し、考えた。
「……『あ』とか、『い』とか、『う』とか。声の——一番、最初の形。子音が、つく前の——むき出しの音。これは——もう、震えじゃない。ちゃんと、母音の、形をしてる」
ジンが、目を、閉じたまま——耳を、すませた。
「……『う』か」とジンが、低く、聞き返した。「いや——『お』か。どっちにも、聞こえる」
―――
エリナが、手帳を、開いたまま——ペンを、構えていた。
昨日は——一文字も、書けなかった。
今日——ペンが、動いた。
ゆっくりと——「ぼ、いん」と、ひらがなで、書いた。
「……書けました」とエリナが、小さく、言った。「初めて——音に、文字を、あてられた気がします」
―――
カインが、革の鞄から——アル・ヴェリアの写しを、震える手で、取り出した。
強く、握った。
「……もしこれが——」とカインが言った。
言葉を、切った。
しばらく——何も、言わなかった。
全員が——カインを、見た。
カインが、ゆっくりと、口を、開いた。
「……もしこれが——名前の、始まりだとしたら」とカインが言った。「私たちは——またひとつ、名づける場に、立つことになります」
「名づける」とジンが言った。
「……はい」とカインが言った。「アルトの時は——もともと、『名前』を、待っていました。失われた名を、取り戻す。でも——ここは、違う気がします。この存在は——『燃えたい』『終わりたい』と、言いました。名前を——欲しがったわけでは、ない」
セレクが、少し、間を置いた。
「……名前は——結果かもしれません」とセレクが言った。「終われないものが、終わるために、最初に必要なのは——声。声が、形になれば——その先に、名前が、生まれることもあるでしょう。でも——順番が、逆かもしれません」
―――
シアが、もう一度、空間を、探った。
「……音が——容れ物に、なってきてる」とシアが言った。「震えだけだった頃は——何も、入る場所が、なかった。母音になった今は——そこに、何かを注げる、形が、できてる」
「容れ物、というのは」とエリナが聞いた。
シアが、少し、考えた。
「……まだ、空っぽ。でも——空っぽの形が、できた、ということ。次に——何かが、そこに、入」
―――
ルルが、ふと——息を、止めた。
「……五本目の糸」とルルが言った。「今——大きく、揺れた。アルトが——聞いてる。それから——」
ルルが、少し、目を細めた。
「……アルトが、何か、思い出してるみたい。自分が——『ア』を、初めて、声にした時のことを」
ノアが、少し、空を、見上げた。
「……お前も——こうだったんだな」とノアが、小さく、呟いた。
―――
窪みの奥で——もう一度、重さが、集まり始めた。
二度目の音が——来た。
さっきより——少し、長く。さっきより——少し、はっきりと。同じ調子で、震えながら、伸びていく。
ルルが、両手で、口を、押さえた。
「……まだ、続いてる」とルルが言った。「においが——薄くならない。ずっと、強いまま」
ジンが、地面から、手を、離さなかった。
「……これは——」とジンが、低く、言った。「一晩、置いたら——もっと、はっきりするかもしれない」
―――
「……今日は、ここまでにしましょう」とカインが言った。「母音が、出ました。これは——大きな一歩です。明日、もっと、はっきりした形に、なるかもしれません。今は——無理に、進めない」
「触れても——いいのか」とジンが聞いた。
セレクが、少し、考えた。
「……今日は、触れない方が、いいと思います」とセレクが言った。「向こうが——自分の力で、音を、伸ばしています。私たちが、触れることで——その力を、止めてしまうかもしれません」
ジンが、頷いた。
窪みを、見た。
「……わかった」とジンが言った。
―――
外に出ると——風が、あった。
炉に、火が、ついた。火が、揺れた。
「……母音、か」とジンが、ぽつりと、言った。「アルトは——『ア』から、始まった。こっちは——まだ、『う』なのか『お』なのか、わからない。でも——同じところから、始まってる気がする」
「同じところ、というのは」とエリナが聞いた。
「……声になる前の、震え」とジンが言った。「そこから——形が、生まれる。アルトも、こいつも——同じ場所から、来てる」
「……母音は」とセレクが、静かに言った。「言葉の——一番、はじめの場所です。子音は——形を、与えるもの。でも、母音は——息そのもの。すべての声は——そこから、始まります」
「息そのもの、か」とノアが言った。「……俺の中にも——まだ、あったんだな。10年間——出せなかった、息が」
全員が、しばらく、何も、言わなかった。
―――
エリナは、ランプの光で、手帳を書いた。
今日のこと——朝、ノアが「形になる直前の感じ」を語ったこと、窪みで黒いものから初めて途切れない長い音が響いたこと、ノアがそれを「母音」だと見抜いたこと、ジンが「う」か「お」か判断に迷ったこと、自分自身が初めて「ぼいん」という文字を書けたこと、カインがアル・ヴェリアの写しを握り「名前の始まりだとしたら」と言ったこと、セレクが母音は声の始まりであり名前は結果かもしれないと語ったこと、シアが音が「容れ物」になってきていると言ったこと、五本目の糸を通じてアルトが自分の最初の音を思い出していたこと、二度目の音が一度目より長く続いたこと。すべてを、書いた。
書き終えて、ペンを止めた。
それから——もう一行、追加した。
『今日、窪みの中央から、初めて、途切れない音を聞きました。ノアさんは、それを「母音」だと言いました。子音もなく、まだ言葉にもならない、けれど確かに、声の形をした音。私は今日、初めて、その音に「ぼいん」という文字をあてて、書くことができました。書けたことが、こんなに嬉しいとは思いませんでした。カインさんは、「名前の始まりかもしれない」と言って、言葉を止めました。それが何を意味するのか、まだわかりません。アルトと同じように、この存在にも、いつか名前が贈られるのでしょうか。それとも——名前ではなく、別の何かが、必要なのでしょうか。明日、もっと、はっきりとした形を、聞きたいと思います。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』
ランプの炎が、静かに、揺れた。
―――
ルルは、台地の方角を見ていた。
においの先に——母音になった、何かの気配が、あった。
今日——初めて、長く、伸びる音を、聞いた。
今日——それが、母音だと、わかった。
今日——アルトが、自分の最初の音を、思い出していた。
ルルは、少し、目を細めた。
「……燃える前のにおい」とルルが、小さく、呟いた。「もう、震えだけじゃない。形になった。まだ、言葉じゃない。でも——もうすぐ。明日——もっと、はっきり、聞こえるかもしれない」
地面の奥から——返事は、なかった。
でも——窪みの方角から、ごく小さく——うん、と——においが、震えた、ような気がした。
ルルは、それを確かめて、眠った。
―――
夜が、深くなった。
炉の火が、揺れていた。
窪みの中では——黒いものが、灰の中に、静かに、あった。
長い間——燃えたいまま。
長い間——終われないまま。
それでも——消えずに、あった。
今日——初めて、途切れない音を、出した。
震えが——形を、持った。
声には——まだ、足りない。
でも——もう、震えではなかった。
四百年以上——形のない震えしか、出せなかった。
でも——今夜。
黒い、小さな何かの——奥の、もっと奥で。
母音の——隣に。
何かが——もう一つ、生まれようとしていた。
まだ、聞こえない。
まだ、形にならない。
でも——確かに、そこに、ある。
子音に——なろうとする、何か。
灰の下で——何かが、静かに、次の形を、待ち始めていた。
― 第58話・了 ―
―――
次話予告:翌朝、窪みの黒いものから、母音に——子音が重なった、一つの音節が響く。ルルが鼻を押さえ、「……同じ音が、繰り返されてる」と告げる。ノアが地面に両手をついたまま、言葉を失う。「……これ、もう、震えじゃない。ちゃんと、音節になってる」。ジンが低く、「……何か、言ってる気がする」と呟く。カインが写しを握る手を震わせ、「もし——これが、最初の言葉なら」と声を落す。シアが空間を見つめ、「音節が、形を持った。次は——言葉だ」と確信する。エリナが、ついに、文字を書き始める。明日——その音節に、意味が宿るかもしれない。




