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無詠唱の魔王  作者: Dちゃん
第五章「灰の下に眠るものの話」

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第57話「音を待った、という朝と、似てる、というノアの声と、初めて、響いた音」

夜が、明けた。


灰の台地の方角からは——今日も、風が、なかった。


炉の火は、また、灰になっていた。白い、軽い灰が——残っていた。


ジンが、目を覚ました。


すぐに——台地の方角を、見た。


しばらく——何も、言わなかった。


それから——小さく、息を吐いた。


「……今日、来るな」とジンが、ぽつりと、言った。


―――


ルルが、目を覚ました。


すぐに——台地の方角に、鼻を、向けた。


しばらく——何も、言わなかった。


それから——少し、耳を、すませるように、首を傾けた。


「……においが——待ってる」とルルが言った。「困ってる、伝えたい、そういうにおいの、もっと先に——今は、待ってる、というにおいがある。何かが、出てくるのを——待ってる」


「待ってる、というのは——あっちが」とジンが聞いた。


ルルが、頷いた。


「……うん。あっちも——待ってる。こっちが来るのを」


―――


ノアが、静かに、起き上がった。


台地の方角を、しばらく、見ていた。


「……変な感じがする」とノアが言った。「昨日の夜から——ずっと。胸の——奥の方が、少し、ざわついてる。アルトに名前をつける前の夜と——似てる気がする」


「名前をつける前の夜、というのは」とエリナが、ペンを止めて、聞いた。


ノアが、少し、考えた。


「……何かが、生まれる前の夜。何が生まれるかは——まだ、わからない。でも——確かに、生まれる。それが、わかってる夜」


―――


カインが、地図を、膝の上に広げた。


「……今日は、掘りません」とカインが言った。「昨日、わかったことで——十分です。声になろうとしている震えが、あった。今日は——掘るのではなく、待ちます。聞くために」


「聞く、というのは」とジンが聞いた。


「……はい」とカインが言った。「触れて、問うのではなく。今日は——何も問わず、ただ、そこにいる。向こうが——自分から、何かを発するなら。それを、聞く。アル・ヴェリアの記録にも——こうあります」


カインが、写しの一行を、指でなぞった。


「『問わずとも、満ちれば、こぼれる』。今、向こうは——満ちている、ということかもしれません」


―――


「……一つだけ」とセレクが言った。「初めての音は——存在にとって、誕生に近い出来事です。生まれる時の音は——時に、大きな揺らぎを伴います。何かが起きても——驚かないでください」


「わかってる」とジンが言った。


全員が、頷いた。


―――


境界を——越えた。


窪みまで——いつもの道を、歩いた。


窪みの中央には——黒い、小さな何かが、灰の中から、わずかに、顔を出していた。


昨日と——同じ場所に、同じ形で。


「……変わってない」とエリナが、覗き込んで、言った。


「……いや」とシアが言った。腕を組みながら、空間を、見つめている。「魔力は——変わってる。さっきより——揺れが、速い。脈みたいに——一定の間隔で、震えてる」


ルルが、窪みの縁に、両手を、ついた。


「……においも」とルルが言った。「波になってる。さっきより——強くなって、弱くなって、また強くなって。何かが——近づいてきてる」


―――


ジンが、窪みの中央に、両手を、当てた。


目を、閉じた。


何も、言わずに——そのまま、待った。


しばらく——静かだった。


それから——


空気が、震えた。


誰の耳にも——確かに、聞こえた。


低く、短く、一つだけ。


言葉ではない。意味のある響きでもない。ただ——一つの、震える音。風の音でも、地鳴りでもない。何かが——初めて、外に向かって、発した、音。


誰も——しばらく、動けなかった。


ルルが、先に、口を開いた。


「……今——聞こえた」とルルが、小さく、呟いた。


ノアが、地面に、両手を当てたまま、顔を上げた。


「……これ」とノアが言った。声が、少し、震えていた。「アルトの——最初の音と、似てる」


「似てる、というのは」とカインが、すぐに聞いた。


ノアが、少し、考えた。


「……ア、を呼んだ時。あの時の——一番最初の、音にならない、音みたいな響き。あれと——同じ質感がする。言葉になる、ほんの一歩、手前の音」


―――


ジンが、地面から、手を、離さなかった。


目を、見開いたまま。


「……もう一回、来る」とジンが、低く、告げた。


全員が、息を、止めた。


窪みの奥で——重さが、また、集まり始めていた。


今度は——さっきより、少し、長く。


空気が——もう一度、震えた。


短い、低い、震える音。一度目より——わずかに、明確だった。形になろうとして、まだ、形になれない、けれど——確かに、音だった。


ルルが、両手で、口を、押さえた。


「……二回目」とルルが言った。「さっきより——強い。においも、強くなった。話したい、っていうにおいが——今、一番、強い」


―――


カインが、革の鞄から——アル・ヴェリアの写しを、取り出した。


両手で、強く、握った。


「……これが」とカインが言った。「声の——始まりなら」


カインが、言葉を、切った。


しばらく——何も、言わなかった。


それから——もう一度、口を、開いた。


「……四百年以上、止められていたものが——今、初めて、自分から、音を発しました。これは——私たちが、触れて、問うて、引き出したもの、ではありません。向こうが——自分の意志で、外に向かって、発した、最初の音です」


「自分から」とセレクが、静かに、繰り返した。「それは——大きな意味があります。問われて応える、のではなく。自分から、伝えようとする。それは——存在が、自分の意志を、はっきりと、持った、ということです」


―――


シアが、空間を、もう一度、探った。


「……揺れの形が——変わった」とシアが言った。「震えだった頃は——どこにも向かってなかった。今は——向きがある。こっちに——向かって、来てる」


「こっちに」とジンが言った。


「……うん」とシアが言った。「私たちに向かって。私たちに——聞いてほしい、っていう向き」


―――


エリナは、ペンを、構えたまま——窪みの中央を、見つめ続けていた。


手帳には——まだ、一文字も、書かれていなかった。


「……書けません」とエリナが、ぽつりと、言った。「今のこの音を——どんな言葉で書けばいいのか、わからなくて」


「書かなくても——いいんじゃないか」とジンが言った。「今は——聞くだけで」


エリナが、少し、頷いた。


ペンを、止めたまま——もう一度、窪みを、見た。


―――


ルルが、ふと——息を、止めた。


「……五本目の糸」とルルが言った。「今——大きく、跳ねた。アルトが——驚いてる。それから——」


ルルが、少し、目を細めた。


「……アルトが、震えてる。一緒に、震えてる。たぶん——アルトにも、聞こえてる気がする。あの時の自分の音を——思い出してる」


ノアが、少し、空を、見上げた。


「……アルト」とノアが、小さく、呟いた。「お前の時も——こうだったのか」


―――


「……今日は、ここまでにしましょう」とカインが言った。「向こうが——自分から、音を発しました。これ以上、急ぐ必要は、ありません。今夜——もう一晩、待ちましょう。明日——もしかしたら、もっと、はっきりとした音が、聞けるかもしれません」


「掘らなくて——いいのか」とジンが聞いた。


「……はい」とカインが言った。「掘る、という行為は——もう、必要ないかもしれません。向こうが——自分から、出てこようとしている。私たちは——それを、待つだけで、いいのかもしれません」


ノアが、窪みの黒いものに、そっと——目をやった。


「……待ってるからな」とノアが言った。「ゆっくりでいい」


―――


外に出ると——風が、あった。


炉に、火がついた。火が、揺れた。


「……音、か」とジンが、ぽつりと、言った。「重さで答えて、においで答えて、感触で答えて——それで、今度は、音だ。一つ、一つ——増えてる」


「言葉に、近づいてるんですね」とエリナが言った。手帳を、開きながら。


「……そうだな」とジンが言った。「アルトの時も——『ア』の前に、何かがあったんだろうな。今、聞いたあの音みたいなのが」


「……おそらく」とセレクが、静かに言った。「すべての言葉は——音になる前に、震えから、始まります。震えが——音になり、音が——言葉になる。今、私たちが見ているのは——その、一番、最初の段階です」


「最初の段階——か」とノアが言った。「俺の時は——もう、忘れてた。でも——あれも、こうだったのかもしれない」


―――


エリナは、ランプの光で、手帳を書いた。


今日のこと——朝、ノアが「何かが生まれる前の夜と似ている」と感じたこと、カインが今日は掘らずに待つ方針を立てたこと、窪みで黒いものから初めて明確な音が二度響いたこと、ノアがそれをアルトの最初の音と似ていると言ったこと、ジンが「もう一回来る」と告げて実際に二度目の音が来たこと、カインが「声の始まりなら」と言葉を切ったこと、シアが揺れの向きがこちらに向いてきたと言ったこと、五本目の糸を通じてアルトも一緒に震えていたこと。すべてを、書いた。


書き終えて、ペンを止めた。


それから——もう一行、追加した。


『今日、窪みの中央から、初めて、はっきりとした音を聞きました。言葉ではありません。でも——確かに, 音でした。あの音をどう書けばいいのか、まだわかりません。でも、書けないということ自体を、書いておきたいと思います。音は、二度、響きました。一度目よりも、二度目は、わずかに強く、はっきりしていました。ノアさんは、それをアルトの最初の音と似ていると言いました。私には、確かめる方法がありません。でも、信じています。明日、もしかしたら、もっと聞こえるかもしれません。それが、楽しみで、少し、怖いです。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』


ランプの炎が、静かに、揺れた。


―――


ルルは、台地の方角を見ていた。


においの先に——音になろうとしている、何かの気配が、あった。


今日——初めて、音を、聞いた。


今日——その音が、二度、響いた。


今日——アルトも、一緒に、震えていた。


ルルは、少し、目を細めた。


「……燃える前のにおい」とルルが、小さく、呟いた。「音になった。まだ、言葉じゃない。でも——もう、震えだけじゃない。明日——もっと、聞こえるかもしれない」


地面の奥から——返事は、なかった。


でも——窪みの方角から、ごく小さく——うん、と——においが、震えた、ような気がした。


ルルは、それを確かめて、眠った。


―――


夜が、深くなった。


炉の火が、揺れていた。


窪みの中では——黒いものが、灰の中に、静かに、あった。


長い間——燃えたいまま。


長い間——終われないまま。


それでも——消えずに、あった。


今日——初めて、音を、出した。


誰かに、問われたから、ではなかった。


自分から——発した、音だった。


それが——どれほどのことだったか。


四百年以上——震えることしか、できなかった。


今日——震えが、初めて、外へ、出た。


音には——まだ、足りない、何か、があった。


でも——確かに、一歩だった。


誰かが——聞いてくれた、という確かさが。


もう一度、震えの中に——温かく、残っていた。


そして——もっと、奥で。


次の震えが——もう、用意され始めていた。


今度は——もっと、長く。


今度は——もっと、はっきりと。


灰の下で——何かが、静かに、次の音を、待ち始めていた。


―――


― 第57話・了 ―


―――


次話予告:翌朝、窪みの黒いものから、これまでにない長さの音が響く。途切れることなく、震えながら、伸びていく音。ルルが「……これ、形になってる」と呟き、ノアが地面に手を当てたまま目を見開く。「……母音だ。これ——母音になってる」。ジンが低く、「……『う』か。『お』か」と聞き返す。カインがアル・ヴェリアの写しを震える手で握り、「もしこれが——」と言いかけて、言葉を失う。エリナが、ついにペンを動かし始める。明日——その音に、形が宿るかもしれない。

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