第56話「灰を払った、という朝と、声になろうとしてる、という震えと、初めて、触れた音」
夜が、明けた。
灰の台地の方角からは——今日も、風が、なかった。
炉の火は、また、灰になっていた。白い、軽い灰が——残っていた。
ジンが、目を覚ました。
すぐに——台地の方角を、見た。
「……今日だな」とジンが、ぽつりと、言った。
―――
全員が、集まった。
カインが、地図を——膝の上に、広げた。
「……今日は、窪みを、掘ります」とカインが言った。「昨日、決めた通りです。ただし——慎重に。少しずつ、灰を、払う。何が出てくるか——わからない以上、急がない」
「……一つだけ」とセレクが言った。「掘るという行為は——眠っているものを、起こす行為にもなります。今日、何かが、目を覚ますかもしれません。それを——覚悟して、進んでください」
ジンが、頷いた。
「わかってる」とジンが言った。「起こしに、来たんだ。最初から」
―――
境界を、越えた。
窪みまで——昨日と、同じ道を、歩いた。
窪みの縁に——ノアが置いた小石が、そのまま、残っていた。
「……ここだ」とノアが言った。
ジンが、窪みの中央に、片膝を、ついた。
両手を——灰の上に、置いた。
「……いくぞ」とジンが言った。
ゆっくりと——灰を、すくった。
一度。
二度。
灰が——驚くほど、軽かった。風もないのに——少し、舞った。
―――
ルルが、窪みの縁で、鼻を、動かした。
「……においが——変わってきてる」とルルが言った。「掘るたびに——強くなってる。さっきより——もう、ずっと、強い」
ジンが、灰を——さらに、すくった。
層が——見えてきた。白い灰の下に——少し、灰色の濃い、層。さらに下に——黒に近い、灰の層。
「……色が変わってる」とエリナが、手帳を持ったまま、覗き込んだ。「白から——灰色、そして——黒に」
「燃え方の順番が——逆になってる気がする」とジンが言った。「普通は——燃えて、白い灰になる。これは——黒い方が、下にある。まだ——燃えてない方に、近い」
―――
ジンが——もう一度、両手で、灰を、払った。
手のひらに——何か、固いものが、触れた。
動きを、止めた。
「……これは」とカインが、声を、低くした。
ジンが——そっと、周りの灰を、払い続けた。
そこに——あった。
黒い——小さな、何か。
大きさは——握りこぶし、ほど。表面は——滑らかで、わずかに、光を、反射していた。形は——歪な、しずく、のような形。
熱は——なかった。冷たくも、なかった。
ただ——そこに、あった。
―――
シアが、近づいた。
手を、伸ばした。触れる、前に——止めた。
「……魔力が——震えてる」とシアが言った。「さっきより、ずっと。これに——近づくたびに、揺れが、強くなる。これが——中心だ。間違いない」
「これは——何だと、思いますか」とエリナが聞いた。
シアが、少し、考えた。
「……色のない火の形が——窪みの中央に、立ち上がってた。これは——その、根元にあるものだと思う。火そのものじゃない。火が——燃える前の、種みたいなもの」
―――
ルルが、息を、止めた。
窪みの中に——両膝を、ついた。
「……においが——一気に、強くなった」とルルが言った。「すぐそこにある。これだ。これが——困ってたにおいの——一番、奥」
ルルが、その黒いものに——鼻を、近づけた。
触れる、ことは——しなかった。
「……燃える前のにおいが——ここから、全部、出てる」とルルが言った。「乾いた、古い、燃えたいのに燃えられないにおい。これが——全部の、源」
―――
ノアが、窪みの縁に、片膝を、ついた。
地面に——両手を、当てた。
目を、閉じた。
しばらく——何も、言わなかった。
それから——少し、眉を、寄せた。
「……何か、聞こえる気がする」とノアが言った。声が、静かだった。「声じゃない。まだ——声には、なってない。でも——声になろうとしてる、何か。震えてる。すごく、小さく」
「震えてる、というのは」とカインが聞いた。
ノアが、少し、考えた。
「……音になろうとして——音に、なれてない感じ。何かを——言いたいのに、言葉が、まだ、ない。そういう、震え」
ジンが、ノアを、見た。
「……それ、お前の——10年の時と、似てるか」とジンが聞いた。
ノアが、少し、頷いた。
「……似てる」とノアが言った。「俺も——あの時、言いたいことが、あった気がする。でも——言葉に、できなかった。10年——ずっと」
―――
「……今日は」とカインが言った。「これ以上——掘るのは、やめましょう。掘り出す、という行為は——この存在にとって、大きな意味を持つかもしれません。慎重に——進めるべきです」
「触れても——いいのか」とジンが聞いた。
セレクが、少し、考えた。
「……触れることと、掘り出すことは——違うかもしれません」とセレクが言った。「触れて、応えを、聞く。それは——これまでも、してきましたことです。掘り出す前に——もう一度、聞いてみては、どうでしょうか」
ジンが、頷いた。
黒いものに——そっと、両手を、当てた。
目を、閉じた。
―――
「……聞いていいか」とジンが言った。「お前は——言葉が、欲しいんだろう。何か——言いたいことが、あるんだろう」
黒いものの——奥で。
何かが——震えた。
今までと——違う、震え方だった。
重さじゃ——なかった。
音、でも——まだ、なかった。
傷でも——なかった。
でも——その間にある、何か。
ジンが——目を、見開いた。
「……来た」とジンが、低く、言った。「重さじゃ——ない。これは——違う。これは——」
ジンが、言葉を、探した。
「……これは、声になる前の——震えだ。音の——一歩、手前」
全員が——黒いものを、見た。
誰も——何も、言わなかった。
―――
シアが、もう一度、空間を、探った。
「……揺れが——一段、変わった」とシアが言った。「さっきまでは——震えだった。今は——形に、なろうとしてる。これは——もうすぐ、何か、出る前の、揺れだ」
ルルが、頷いた。
「……においも、同じ」とルルが言った。「困ってる、だけじゃない。今は——伝えたい、ってにおいが、強い。話したい。すごく、話したい」
ノアが、地面から、手を、離した。
「……俺にも——わかる」とノアが言った。「声に——もうすぐ、なる。あと——少し」
―――
「……今日は、ここまでにしましょう」とカインが言った。「これ以上、進めるのは——明日にします。今日——わかったことは、十分です。窪みの中央に——黒い、小さな何かがあること。それが——火の種であり、声になろうとしていること」
ノアが、黒いものの周りに——そっと、灰を、戻した。完全には——覆わなかった。
「……隠すんじゃない」とノアが言った。「ただ——守りたい。明日まで」
全員が、頷いた。
―――
外に出ると——風が、あった。
炉に——火が、ついた。火が、揺れた。
「……声になろうとしてる、か」とジンが、ぽつりと、言った。「アルトは——名前を、待ってた。これは——声そのものを、待ってる」
「似ているようで——違いますね」とエリナが言った。「アルトには——すでに、伝えたい想いが、ありました。言葉が——なかっただけ。これは——想いも、言葉も——両方、これから、生まれようとしている」
「……いや」とセレクが、静かに言った。「想いは——もう、ある。燃えたい。終わりたい。それは——すでに、聞きました。今、足りないのは——それを、声にする、力だけです」
ジンが、少し、考えた。
「……力が、足りない、か」とジンが言った。「それなら——俺たちが、貸せばいい」
―――
エリナは、ランプの光で、手帳を書いた。
今日のこと——窪みを掘り、黒い、小さな何かを見つけたこと、シアが「色のない火の根元」だと推測したこと、ルルが「困ってたにおいの源」だと確認したこと、ノアが「声になろうとしてる震え」を感じたこと、ジンが触れて「声になる前の震え」を受け取ったこと、シアが「揺れが形になろうとしてる」と言ったこと、灰を完全には覆わずに窪みを守ったこと。すべてを、書いた。
書き終えて、ペンを止めた。
それから——もう一行、追加した。
『今日、窪みの中央から、黒い、小さな何かを見つけました。火の種、なのだと思います。冷たくも、熱くもない。ただ、そこにありました。触れたジンさんが、「声になる前の震え」を受け取ったと言いました。言葉ではなく、まだ音にもならない、何か。それでも——震えていました。伝えたいことが、ある、というように。私は、その震えを、書いておきたいと思います。声になる前のものを、声になる前から、記録しておくこと。それが、今、私にできることだと思います。明日、もっと近くで、聞きたいと思います。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』
ランプの炎が、静かに揺れた。
―――
ルルは、台地の方角を見ていた。
においの先に——声になろうとしている、何かの気配が、あった。
今日——黒い、小さな何かを、見つけた。
今日——震えを、聞いた。
今日——伝えたい、というにおいを、感じた。
ルルは、少し、目を細めた。
「……燃える前のにおい」とルルが、小さく、呟いた。「声になろうとしてる。まだ、言葉じゃない。でも——もうすぐ。明日——聞こえるかもしれない」
地面の奥から——返事は、なかった。
朝——窪みの方角から、ごく小さく——うん、と——においが、震えた、ような気がした。
ルルは、それを確かめて、眠った。
―――
夜が、深くなった。
炉の火が、揺れていた。
窪みの中では——黒いものが、灰の中に、静かに、あった。
長い間——燃えたいまま。
長い間——終われないまま。
それでも——消えずに、あった。
今日——触れられた。
今日——「言葉が欲しいんだろう」と、聞かれた。
その震えが——応えになった。
声には——まだ、ならなかった。
でも——震えの中に、初めて——形が、生まれかけていた。
音、ではない。
言葉、でもない。
底は——それは、確かに——「これから、音になる」という、約束のようなものだった。
四百年以上——震えることしか、できなかった。
滅び——今夜。
黒い、小さな何かの——奥の、もっと奥で。
何かが——一音、形になろうとしていた。
まだ、出てこない。
まだ、聞こえない。
でも——もう、すぐ、そこに。
― 第56話・了 ―
―――
次話予告:翌朝、窪みの中央から——初めて、はっきりとした音が、響く。それは言葉ではない。ただ一つの、震える音。ルルが「……今——聞こえた」と呟き、ノアが「これ——アルトの最初の音と、似てる」と言う。ジンが地面に両手をついたまま、低く「……もう一回、来る」と告げる。カインがアル・ヴェリアの写しを握りしめ、「これが——声の始まりなら」と言葉を切る。エリナが、ペンを構えたまま、窪みの中央を見つめ続けた。明日——その音が、初めて、言葉になるかもしれない。




