第55話「重さが一点を指した朝と、近い、というノアの声と、たどり着いた窪みの音」
夜が、明けた。
灰の台地の方角からは——風が、なかった。草原側には、風があった。
炉の火は、また、灰になっていた。白い、軽い灰が——残っていた。
ジンが、目を覚ました。
すぐに——台地の方角を、見た。
しばらく——何も、言わなかった。
それから——ゆっくりと、地面に、片手を当てた。
目を、見開いた。
「……強い」とジンが、低く、言った。「昨日より——ずっと、強い。重さが——上に向かって、来てる。それに——昨日は、ただ来てただけだった。今日は——どこか一点に、集まってる感じがする」
「一点に」とエリナが、ペンを止めて、聞いた。
ジンが、少し、考えた。
「……うん。広く来てたのが——今は、一本に。重さの線が——一点を、指してる」
―――
ルルが、目を覚ました。
すぐに——台地の方角に、鼻を、向けた。
しばらく——何も、言わなかった。
それから——少し、目を細めた。
「……においが——形になってる」とルルが言った。「昨日は——ただ動いてただけだった。今日は——向きがある。台地全部のにおいが——上に向かって、一点に。どこかに、向いてる」
「一点に向かってる、というのは——ジンが言ったのと、同じか」とジンが聞いた。
ルルが、頷いた。
「……同じ。重さの線と——においの線が、同じ場所を、指してると思う」
―――
ノアが、静かに、台地の縁に来た。
地面に、片手を当てた。
しばらく——何も、言わなかった。
それから——ゆっくりと、顔を上げた。
「……近い」とノアが言った。「昨日より——ずっと、近い。そっちに——何かがある。場所が——わかる気がする」
「場所が、わかる」とカインが、地図を出しながら、聞いた。
ノアが、少し、台地の中の——一点を、指した。方角としては——東寄りの、少し奥。
「……あっち。たぶん」
―――
カインが、地図を、膝の上に広げた。
「……三人の言葉が——同じ場所を、指しています」とカインが言った。「重さも, においも、ノア殿の感覚も——同じ一点を。これは——偶然ではないと思います」
カインが、革の鞄から——アル・ヴェリアの写しを、取り出した。
「……改めて、この一行を、読み直していました」とカインが言った。「『そこには——灰がある。でも、火は、ない』。昨日までは——これを、単純な意味で読んでいました。灰はあるが、火が存在しない、と」
カインが、少し、間を置いた。
「……でも——今朝、思いました。『火は、ない』という言葉には——別の読み方もあります。火が——もともと、なかった、ではなく。火が——どこかへ、ない。つまり——奪われた、ということ」
「奪われた」とジンが言った。
「……はい」とカインが言った。「灰だけが残った、のではなく。火そのものが——どこかへ、抜き取られた。それなら——『止められた』という言葉とも、繋がります。火を燃やすことを、止められたのではなく。火そのものを——奪われ、灰だけが、ここに残された」
全員が、しばらく、何も、言わなかった。
「……だとしたら」とノアが、静かに言った。「下にいるあいつは——灰、なのか。それとも——奪われた、火の方なのか」
「それを——確かめに行きましょう」とカインが言った。
―――
「……一つだけ」とセレクが言った。「昨日より、深く踏み込みます。困っているにおいが——今日は、一点に集まっている。それは——存在が、より強く、私たちを意識している、ということかもしれません。無理はしないでください」
「わかってる」とジンが言った。
全員が、頷いた。
―――
境界を——越えた。
今日は——昨日より、深く、進んだ。
足元の灰が——少しずつ、深くなっていった。最初は、踝の高さ。やがて——膝のあたりまで。
「……重い」とジンが、低く、言った。「歩くたびに——重さが、強くなってる。一点に、近づいてる証拠だ」
ルルが、しばらく進んで——足を止めた。
「……ここ」とルルが言った。「においが——一番、濃い」
そこは——わずかに、地面が、窪んでいた。
すり鉢のように、ゆるやかに、低くなっている。直径は——馬車二台分ほど。灰の色が——周りより、少しだけ、濃かった。
「……窪んでる」とエリナが言った。手帳から、目を上げて。「自然に、こうなったんでしょうか」
「わかりません」とカインが言った。「でも——記録には、なかった形です」
―――
ジンが、窪みの中央に、近づいた。
片膝を、ついた。
両手を、地面に当てた。
目を、閉じた。
しばらく——何も、言わなかった。
それから——息を、止めた。
「……ここだ」とジンが、低く、言った。「重さが——真下から、真っ直ぐ、来てる。昨日までは——広がってた。今は——一本の、太い、柱みたいな重さが——ここに、集まってる」
ノアが、ジンの隣に、片手を当てた。
しばらく——何も、言わなかった。
「……俺にも——わかる」とノアが言った。「ここだ。すごく——近い。アルトの時より——もっと、近い気がする」
ルルが、窪みの縁に、両手をついた。
「……ここ」とルルが言った。「においの全部が——ここに、集まってる。困ってるにおいが——一番、強い場所」
―――
シアが、窪みの中央に、手を、伸ばした。
触れる、というより——空気を、探るように。
しばらく——何も、言わなかった。
それから——少し、目を見開いた。
「……ある」とシアが言った。「ここに——何かが、見える。魔力的に。色は——ない。動かない。でも——形がある」
「形、というのは」とカインが、聞いた。
シアが、少し、考えた。
「……火の形」とシアが言った。「揺れない、火。色のない——でも、確かに、火の形をした、何か。透明な——舌のような形。地面から、わずかに、立ち上がってる。揺れることを、止められた、火」
全員が——窪みの中央を、見た。
何も、見えなかった。
でも——そこに、確かに、何かが、あった。
―――
ジンが、もう一度、地面に、両手を、当てた。
「……聞いていいか」とジンが言った。「お前が——欲しかったものは、何だ。何に——なりたかった」
地面の——奥の方で。
何かが——強く、動いた。
ジンが、少し、顔をしかめた。
「……来た」とジンが、低く、言った。「今までで——一番、強い。重さが——『燃えたい』って、言ってる。ずっと——燃えたかった。燃えて——何かを、終わらせたかった、のかもしれない」
ルルが、頷いた。
「……においも——同じこと、言ってる」とルルが言った。「燃えたい。燃えて——終わりたい。でも——奪われた。火を——奪われたまま、ここにある」
ノアが、少し、目を細めた。
「……俺の感じも——同じだ」とノアが言った。「燃えたかった。終わらせたかった。でも——できなかった。それが——ずっと、ここにある」
―――
「……これは」とカインが言った。「アル・ヴェリアが——『燃える』という流れを、止めた場所、ということになります。世界の流れの一つが——『燃え、変わり、終わる』ことだったとすれば。ここは——その流れが、奪われた場所」
「終わらせる、流れ」とセレクが、静かに言った。「火は——壊すだけのものでは、ありません。古いものを——終わらせ、次のものに、道を譲る。それが——止められたなら」
セレクが、少し、間を置いた。
「……何かが、終われないまま、止まっている、ということかもしれません」
ジンが、地面を、見た。
「……終われない、か」とジンが言った。「それは——きついな」
―――
ルルが、ふと——息を、止めた。
「……五本目の糸」とルルが言った。「今——大きく、震えた。アルトが——ここの話を、聞いてる。すごく——驚いてる、においがする」
「驚いてる」とノアが言った。
「……うん」とルルが言った。「アルトも——知らなかった、と思う。燃えたいのに燃えられない、終わりたいのに終われない——そういうものが、ここにある、ってこと。アルトは——寂しかった。これは——終われない。違う、苦しみ」
ノアが、少し、窪みを見た。
「……アルトと——違う苦しみ、か」とノアが言った。「でも——根っこは、同じ気がする。止められた、っていう」
―――
「……今日は、ここまでにしましょう」とカインが言った。「場所は——わかりました。窪みの中央に——何かがある。シアさんが——その形を、見ました。ジンさんが——『燃えたい』という答えを、受け取りました。これ以上は——掘る、という行為になります。それは——慎重に、計画してから」
「掘るのか」とジンが、聞いた。
「……たぶん、そうなるでしょう」とカインが言った。「でも——今日、いきなり掘るのは、危険です。何が起きるか、わからない。一晩、考えましょう」
ジンが、窪みを、見た。
「……わかった」とジンが言った。
ノアが、窪みの縁に、目印として——小石を、いくつか、並べた。
「……ここだ、って——わかるように」とノアが言った。
ジンが、少し、ノアを見た。
「……お前——よく、場所がわかったな」とジンが言った。
ノアが、少し、笑った。
「……自分でも——驚いてます」とノアが言った。「なんでか、わかった気がして」
「それでいい」とジンが言った。
―――
外に出ると——風が、あった。
ルルが、深く、息を吸った。
「……困ってるにおいが——まだ、ついてきてる」とルルが言った。「燃えたいのに燃えられない、終わりたいのに終われない——そのにおいが、ルルの中に、まだある」
野営の準備をした。
炉に、火がついた。火が、揺れた。
「……面白いな」とジンが、ぽつりと、言った。「俺たちの炉は——燃えて、終わって、灰になる。台地の下のあれは——燃えたいのに、終われない。同じ『燃える』なのに——全然、違う」
「対比、ですね」とエリナが言った。手帳を開きながら。
「……ザルヴァは」とセレクが、静かに言った。「『流れ』を止めることで、世界を、管理していました。時間も、止めました。火も、止めました。流れというのは——始まりがあって、終わりがある、ということです。終わりを——奪われたものは——始まりにも、戻れません。ずっと、その場所に——留まる」
「終われないことの——苦しさ」とジンが言った。「それは——わかる気がする」
「……俺も」とノアが言った。「俺は——10年、忘れたまま、止まってた。終われなかった。アルトに会うまで——ずっと」
全員が、しばらく、何も、言わなかった。
―――
エリナは、ランプの光で、手帳を書いた。
今日のこと——朝、ジンとルルとノアが、それぞれの感覚で、同じ一点を指したこと、台地の中で窪みを見つけたこと、シアが「揺れない火の形」を魔力的に見たこと、ジンが地面から「燃えたい」という答えを受け取ったこと、アル・ヴェリアの一行の意味が「火がない」から「火を奪われた」に変わったかもしれないこと、五本目の糸を通してアルトが驚いていたこと。すべてを、書いた。
書き終えて、ペンを止めた。
それから——もう一行、追加した。
『今日、灰の台地の中で、窪みを見つけました。そこに——燃えることを止められた何かが、眠っています。燃えたいのに、燃えられない。終わりたいのに、終われない。アルトの寂しさとは——違う苦しみだと、私は思います。アルトは、誰かを待っていました。この存在は——終わることを、待っているのかもしれません。それが正しいのか、まだわかりません。明日、もっと深く知りたいと思います。怖いか、と聞かれたら——少し、あります。でも——書けることが、まだ嬉しいです。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』
ランプの炎が、静かに揺れた。
―――
ルルは、台地の方角を見ていた。
においの先に——燃えたいのに燃えられない、何かの気配が、あった。
今日——一点が、わかった。
今日——窪みを、見つけた。
今日——「燃えたい」という答えを、聞いた。
ルルは、少し、目を細めた。
「……燃える前のにおい」とルルが、小さく、呟いた。「奪われてた。でも——消えてない。終わりたいのに——終われないまま、ずっと、そこにいる。明日——もっと、近くへ行く」
地面の奥から——返事は、なかった。
でも——窪みの方角から、ごく小さく——うん、と——においが、震えた、ような気がした。
ルルは、それを確かめて、眠った。
―――
夜が、深くなった。
炉の火が、揺れていた。
台地の窪みの中では——火が、なかった。
でも——灰の、もっと深く。
何かが——あった。
長い間——燃えたいまま。
長い間——終われないまま。
それでも——消えずに、あった。
今日——「燃えたいのか」と、聞かれた。
重さで——答えた。
伝わった、ということが——わかった。
でも——それだけでは——足りない、と——初めて、思った。
重さだけでは——伝えられないことが、ある、と。
言葉が——欲しい、と。
四百年以上——言葉を、持たないまま。
でも——今夜。
灰の——もっと深く。
乾いた——もっと奥。
何かが——震えた。
音には——まだ、ならなかった。
声にも——まだ、ならなかった。
でも——それは、確かに——音になろうとする、何かだった。
初めて——「言いたいこと」が、生まれた。
まだ、言葉には、ならない。
親しい——いつか。
灰の下で——何かが、静かに、その「いつか」を、待ち始めていた。
―――
― 第55話・了 ―
―――
次話予告:翌朝、一行は窪みを、慎重に掘り始める。ジンが灰をわずかに払うと——その下から、黒い、小さな何かが、覗いた。「……これは」とカインが、声を低くした。ルルが、息を止めた。「……においが——一気に、強くなった。すぐそこにある」。シアが、空間を見つめる。「魔力が——震えてる。さっきより、ずっと」。ノアが、地面に手を当てたまま、静かに言う。「……何か、聞こえる気がする。声じゃない。でも——声になろうとしてる、何か」。エリナが、ペンを止めて、窪みの中央を見つめた。今日——記録に、新しい言葉が、加わろうとしていた。




