第54話「台地に踏み込んだ、という朝と、下から来た、という声と、動き始めた何かの音」
夜が、明けた。
草原の側で焚いた炉の火が——もう、ほとんど、灰になっていた。
白い、細かい、軽い灰が——残っていた。
ジンが、起きた。
灰を見た。
しばらく——何も、言わなかった。
「……灰、か」とジンが、ぽつりと、言った。「燃えた後の灰が——ここにある。台地の向こうには——燃える前の灰が、ある」
「対比、ですね」とエリナが言った。手帳を開いていた。「私たちの炉が燃えて——残ったもの。台地は——まだ燃えていないもの。どちらも——灰」
「同じ形で——全然、違う」とジンが言った。「それが——面白いな」
―――
ルルが、起きた。
すぐに——台地の方角を、見た。
「……においが——また、変わった」とルルが言った。「昨日より——もっと、はっきりしてる。乾いてる。でも——今日は、何かが違う」
「違う、というのは」とカインが、地図を出しながら聞いた。
ルルが、少し、首を傾けた。
「……昨日は——においが、向こうから来てた。今日は——においが、こっちに来ようとしてる。台地の中の何かが——今朝は、こっちを向いてる。昨日の夜より、もっと」
ジンが、台地の方角を見た。
「……来ようとしてる——か」とジンが言った。「向こうが——こっちを知ってるってことか」
「……うん」とルルが言った。「昨日の夜——俺たちが到着した時に、台地の下の何かが『上を向いた』って書いたでしょ。今朝は——もっと、向いてる。俺たちに向かって——もっと、真っ直ぐ」
―――
ノアが、静かに、台地の縁に近づいた。
足を止めた。
しばらく——台地の灰色の地面を、見ていた。
「……なんか」とノアが言った。「昨日と——全然、違う気がする」
「昨日と違う」とジンが言った。
「……昨日は——静かすぎた。今日は——静かなんだけど、その静かさが、違う。昨日は——ただ、止まってた感じ。今日は——止まってるのに、その中に、何かが、動いてる」
ルルが、ノアを見た。
「……ノアのにおい——今日は、また違う」とルルが言った。「アルトのところに初めて行った時のにおいと——少し、似てる。でも——あの時より、怖さが、ない。気になる、の方が、ずっと多い」
「そうか」とノアが言った。「そういうにおい、か」
「うん」とルルが言った。「いいにおい。前を向いてるにおい」
―――
「……入りましょう」とカインが言った。「今日の目的は——一つです。台地の中に踏み込み、台地の性質を確かめること。ジンさんが地面から何かを感じ取れるかどうか——それを、今日は、確かめます」
「どこまで入る」とジンが聞いた。
「……状況次第です」とカインが言った。「静止の祠の時と同じように——無理はしない。感じたことを、持ち帰る。それだけが、今日の目的です」
「……入る前に」とセレクが言った。「一つ、確認を。静止の祠では——記憶を失う危険がありました。ここは——性質が違う。ただし——初めて踏み込む場所です。何が起きるかは、まだ、わかっていない」
「そうだな」とジンが言った。「気をつける。何かあったら——すぐ、戻る」
全員が、頷いた。
―――
境界を——越えた。
一歩、踏み込んだ瞬間——空気が、変わった。
湿りが——消えた。音が——小さくなった。風が——なかった。
地面が——足元で、違った。草原側の、土の感触とは——全然、違う。細かい。軽い。でも——何層にも、積み重なっている感じがした。
「……入った」とジンが、低く、言った。「空気が——全然、違う」
「乾いてる」とシアが言った。腕を組みながら。「魔力的にも——こっちは、静かすぎる。でも——静かすぎる中に、何かが、ある。昨日よりも——ずっと、はっきりわかる」
ルルが、地面に、片手を当てた。
目を、閉じた。
「……においが——全然、違う。台地の外とは、全然。燃える前のにおいが——ここでは、すごく、濃い。でも——怖いにおいじゃない。困ってる、においが——すごく、強い。ここ全体が——困ってる」
―――
ジンが、地面に、片膝をついた。
両手を、地面に、当てた。
目を、閉じた。
しばらく——何も、言わなかった。
「……来た」とジンが、低く、言った。「下から——来てる。重さが——こっちに、向かってる」
「どんな重さですか」とエリナが、ペンを持ちながら聞いた。
ジンが、少し、眉を寄せた。
「……静止の祠の床の下と——似てる。でも——違う。祠の下は——深かった。すごく、深いところから、来てた。こっちは——もっと、薄い。何層にも積み重なって、圧縮されてる感じ。その層の一番下から——重さが、来てる。でも——その重さが——こっちに、向かってきてる。向かってきてる、というか——」
ジンが、少し、言葉を探した。
「……聞こうとしてる感じ。俺たちが、来たのを——知っていて——こっちに、聞こうとしてる」
―――
ルルが、息を、止めた。
「……においが——動いた」とルルが言った。「さっきまで、静かだった。今——動いてる。上に、向かってる。台地の全部のにおいが——今、上に向かって——動いてる」
「上に向かって——というのは」とカインが言った。
「……俺たちに向かって」とルルが言った。「台地の中の何かが——俺たちに、来ようとしてる。でも——来られない。だから——においだけが、来てる」
シアが、台地の空気を、もう一度、手で探った。
「……魔力的に——今、少し、動いた」とシアが言った。「ここの空気が——少し、揺れた。揺れ方が——昨日と全然、違う。昨日は——何もなかった。今日は——内側から、揺れてる」
―――
ノアが、静かに、ジンの隣で——地面に、片手を当てた。
しばらく——何も、言わなかった。
それから——ゆっくりと、顔を上げた。
「……来てる」とノアが言った。声が、静かだった。「アルトの時と——違う感触。アルトは——胸の中から来てた。これは——手の平から来てる。でも——来てる感じは——同じ。こっちが来たことを——知ってる感じ」
「アルトの時と似てる——か」とジンが言った。
「似てるけど——違う」とノアが言った。「アルトは——ずっと、寂しかった。これは——寂しい、じゃない。なんていうか——ずっと、困ってた感じ。ずっと困ったまま——止まってた感じ」
ルルが、頷いた。
「……ノアの言葉——においと、一致してる」とルルが言った。「寂しいにおい、じゃない。困ってるにおい。止められたまま——ずっと、困ってる」
―――
「……聞いていいか」とジンが言った。地面に手を当てたまま。「お前が——困ってるのは——わかる。止まってるから、困ってるのか。それとも——止められたから、困ってるのか」
地面の——奥の方で。
何かが——動いた。
ジンが、目を、見開いた。
「……来た」とジンが、低く、言った。「返事——来た。答えてる。でも——言葉じゃない。重さで——答えてる」
「どちらの答えでしたか」とカインが、地図を手に持ちながら聞いた。
ジンが、少し、考えた。
「……止められた——の方。自分から止まったんじゃない。止められた。そういう重さだった。止めたくなかったのに——止められた。そういう感触だった」
全員が、しばらく、何も、言わなかった。
―――
「……ザルヴァが——止めた」とセレクが、静かに言った。「静止の祠は——時間が止められた。灰の台地は——火が止められた。どちらも——ザルヴァによって止められた流れの痕跡。ここの存在も——ザルヴァに——止められた、ということかもしれません」
「止められたまま——ずっと、困ってた」とジンが言った。「四百年以上——止められたまま」
「記録がほとんどない、ということは——」とカインが言った。「誰も、ここに来なかった。あるいは——来ても、ここに何があるかを、記録できなかった。この存在は——ここに来る者すら、いなかった、ということかもしれません」
ルルが、地面に、もう一度、両手を押し当てた。
「……困ってるにおいの中に——別のにおいが、今、混じってきた」とルルが言った。「なんていうか——聞いてもらえた、みたいなにおい。さっきジンが聞いたから——聞いてもらえた、って——においがした」
―――
「……五本目の糸」とルルが続けた。「今——動いた。アルトが——今、一緒にここにいる。糸の先が——台地の中まで、来てる。アルトの気配が——ここに、ある」
ノアが、少し、顔を上げた。
「……アルトが——来てるか」とノアが言った。
「……うん」とルルが言った。「一緒に来てる。糸が——ここまで来てる。アルトが——ここを、見てる」
ジンが、少し、笑った。
「……あいつが指した場所だからな」とジンが言った。「一緒に見たいよな」
「うん」とルルが言った。「アルトのにおいが——ここで、少し、変わった。何かを——初めて見てる感じ。台地を——初めて、見てる感じ」
―――
「……今日は、ここまでにしましょう」とカインが言った。「台地に踏み込んだ。地面から——止められた存在の重さが、こちらを向いてくることを確認しました。ジンさんが『止められた』という答えを受け取りました。ルルさんが——聞いてもらえたにおいを感じ取った。五本目の糸が——ここまで来ている。これが——今日、わかったことです」
全員が、頷いた。
「……今日——何かに、会えた気がする」とノアが言った。「まだ、形はない。でも——何かが、ここにいて——俺たちが来たことを——知ってる。それが——わかった」
「それで、十分だ」とジンが言った。
―――
外に出ると——風が、あった。
草原側の、湿った風が。
ルルが、深く、息を吸った。
「……外の空気——全然、違う」とルルが言った。「台地の中は——乾いてた。ここは——生きてる。でも——台地の中のにおいが、まだ、ちょっと残ってる。燃える前のにおいが——俺の中に、まだある」
「それは——消えましたか」とエリナが聞いた。
「……消えない」とルルが言った。「消えてほしくない。覚えておきたい。あのにおいを——明日も、持って入りたい」
―――
野営の準備をした。
炉に、火がついた。火が、揺れた。
「……止められた、か」とジンが、ぽつりと、言った。「アルトも——止められてた。台地のこれも——止められてた。どちらも——自分から止まったんじゃない」
「止めたのが——ザルヴァ」とシアが言った。「そういうことだな」
「うん」とジンが言った。「で——俺たちが、動かしに来てる。アルトは——動き始めた。灰の台地のこれは——まだ、動き始めてない。でも——今日——俺たちが来たことを、知った。それが——最初の一歩、だったのかもしれない」
「最初の一歩——か」とノアが言った。「アルトの時の——俺が来た時と、似てるな」
「そうだな」とジンが言った。「誰かが来た。それが——最初だった」
―――
エリナは、ランプの光で、手帳を書いた。
今日のこと——朝、ルルが「においがこっちに来ようとしてる」と言ったこと、台地に踏み込んだこと、空気が乾いて風がなかったこと、ジンが地面から「止められた存在の重さがこちらを向いている」と感じたこと、ジンが「止められた」という答えを受け取ったこと、ルルが「聞いてもらえたにおい」を感じたこと、五本目の糸がここまで来ていてアルトの気配があったこと。すべてを、書いた。
書き終えて、ペンを止めた。
それから——もう一行、追加した。
『今日、灰の台地に踏み込みました。中に入った最初の感触は——乾いていて、軽くて、でも何かが積み重なっている感触でした。ジンさんが地面に手を当てると、返事が来ました。「止められた」という重さの答えでした。自分から止まったのではなく、止められた。それが——ここに何かを閉じ込めているということなのかもしれません。アルトは寂しかった。ここのものは——困っていた。どちらも、止められていた。私はその違いを、書いておきたいと思います。明日も、入ります。今日より——もっと、深く。それが楽しみです。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』
ランプの炎が、静かに揺れた。
―――
ルルは、台地の方角を見ていた。
においの先に——燃える前の何かの気配が、あった。
今日——台地の中に入った。
今日——においが、動いた。
今日——台地の下の何かが、こちらに向いた。
ルルは、少し、目を細めた。
「……燃える前のにおい」とルルが、小さく、呟いた。「止められてた。でも——消えてない。火になりたいのに——なれないまま、ずっと、困ってた。今日——初めて、誰かが、来た。初めて——誰かが、聞いた」
地面の奥から——返事は、なかった。
でも——台地の方角から、ごく小さく——うん、と——においが、震えた、ような気がした。
ルルは、それを確かめて、眠った。
―――
夜が、深くなった。
炉の火が、揺れていた。
台地の中では——火が、なかった。
でも——灰の下に。
何かが——あった。
長い間——火になれないまま。
長い間——止められたまま。
それでも——消えずに、あった。
「来た」という感触を——まだ、よくわからないまま。
「聞いてくれた」という感触を——初めて、知りながら。
止められた、ということを——ずっと、知っていた。
でも——それを、誰かに言えた、ということが——こんなことだとは——知らなかった。
重さで——答えた。
言葉には、なれなかった。
でも——伝わった、ということが——わかった。
そして——灰の下で。
長い間——止まっていた何かが。
ほんの少しだけ——温かくなった。
―――
― 第54話・了 ―
―――
次話予告:翌朝、一行は再び灰の台地へ踏み込む。ジンが、昨日より深く、地面に手を当てた。「……下から——また、来てる。昨日より——ずっと、強い。重さが——上に向かって、来てる」。ルルが、台地の中を見渡した。「……においが——今日は、形になってる。昨日はただ動いてただけだった。今日は——向きがある。上に向かって——一点に。どこかに、向いてる」。カインが、静かに地図を広げる。灰の台地の記録は少ない。しかし——今日、その記録に、新しいページが加わろうとしていた。ノアが、地面に手を当てながら言う。「……何かが——近い。昨日より——ずっと、近い。そっちに——何かがある」。エリナが、手帳の新しいページを開いた。今日は——待たなかった。すぐに、書き始めた。




