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無詠唱の魔王  作者: Dちゃん
第四章「西へ続く道の話」

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第53話「乾いた空気が変わった、という夕暮れと、においの先が近くなった、という話と、平原の終わりの音」

挿絵(By みてみん)

馬車が、揺れていた。


 南東へ——向かっていた。


 二日目の朝が来て、午後が来て——空が、少し、変わった。


 カルネア平原の草が——緑から、黄に、変わり始めていた。


 風が——まだ、あった。でも——どこか、乾いていた。


―――


 ルルが、馬車の窓から——南東の方角を、見ていた。


 しばらく——何も、言わなかった。


 それから——ゆっくりと、鼻を、動かした。


 「……においが——変わった」とルルが、静かに言った。「乾いてる。昨日より——ずっと、はっきりしてる。空気が——薄くなってきてる」


 ジンが、窓の外を見た。


 地平の先に——草の色が、変わり始めていた。緑から、灰色に近い、黄へ。


 「……草の色も、違う」とジンが言った。「あっちの方——緑じゃなくなってきてる」


―――


 カインが、静かに、地図を広げた。


 馬車の中で——地図を、傾けた。


 「……カルネア平原の、南東の端です」とカインが言った。「ここから先が——灰の台地に向かう道です。平原を抜けると——地形が、変わります。記録には——台地状の地形が続く、と。それ以上は、詳しくわかっていない」


 「台地状、というのは」とエリナが聞いた。ペンを持ったまま。


 「……平らで、高い。風が通りにくい地形です」とカインが言った。「風が止まる場所、というのは——そういうことかもしれません。台地そのものが——風を受け止めてしまう」


 「それとも」とセレクが、静かに言った。「止められた、のかもしれません。ザルヴァが——風の流れそのものを、そこで止めた」


 「どちらかは——行かなければ、わからない」とカインが言った。


―――


 「……においで言うと」とルルが、続けて言った。「静止の祠のにおいと——全然、違う。静止の祠は——じっとして、動かないにおいだった。灰の台地は——じっとしてるけど——中に、動きたいものが、ある感じ」


 「動きたいものが、ある」とジンが言った。「それは——危ない感じか」


 ルルが、少し、首を傾けた。


 「……危ない、じゃない。なんていうか——困ってる感じ。火になりたいのに——なれない。そういうにおい」


 「困ってる——か」とジンが言った。「静止の祠は——寂しかった。灰の台地は——困ってる。どっちも——止まってるけど、止まり方が、違う」


 「そうだと思う」とルルが言った。「アルトは——長い間、寂しかった。灰の台地のものは——長い間、困ってる。でも——消えてない」


―――


 ノアが、静かに、窓の外を見ていた。


 「……何かが、近くなってきてる気がします」とノアが言った。「においじゃない。でも——何か」


 「重さ、ですか」とエリナが聞いた。


 ノアが、少し、考えた。


 「……重さとも、違う。なんていうか——胸のあたりが——少し、ざわざわする。アルトに初めて会いに行った時と——似た感じ。でも——あの時と少し違う。アルトの時は——怖さが、あった。今は——怖さより先に、気になる、がある」


 ジンが、ノアを見た。


 「……気になる——か」とジンが言った。「それ、いいな」


 「いいですか」とノアが言った。


 「うん」とジンが言った。「怖いより先に気になる方が——向き合いやすい」


―――


 夕暮れが、来た。


 馬車が——止まった。


 ルルが、窓から顔を出した。


 「……止まった」とルルが言った。「草が——ここで終わってる」


 全員が——馬車から、降りた。


 そこは——平原の果てだった。


 草が、ある。でも——草の先が、急に、変わっていた。


 灰色に近い、乾いた地面が——地平まで、続いていた。


 草は、一本も、なかった。


 木も、なかった。


 ただ——灰色の、平らな、乾いた地面が——南東に向かって、どこまでも。


―――


 「……ここが」とエリナが言った。「灰の台地の——入り口、ですか」


 「……そうだと思います」とカインが言った。「記録には——草原と台地の境界は、ほぼ直線状に変わる、とありました。これが、その境界です」


 シアが、台地の空気を、手で触れるように——前に、腕を出した。


 「……空気が、違う」とシアが言った。「草原側と——向こう側で、全然、違う。こっちは湿ってる。向こうは——乾いてる。完全に、乾いてる。魔力的な感知でも——向こうは——こっちより、ずっと静かだ。でも——何もない、じゃない。静かすぎる、感じ」


 「静かすぎる、というのは」とジンが聞いた。


 「……音もないし、魔力的な揺れもない。でも——こっちが聞いてると——何かが向こうにあるのは、わかる。見えない何かが——向こうにある。それが——静かにしてるだけ」


―――


 ルルが、台地の縁に、近づいた。


 足を——台地側に、一歩、踏み出した。


 立ち止まった。


 「……においが——全然、違う」とルルが言った。「草原側は——生きてるにおいがする。向こうは——生きてるにおいが、ない。でも——においがない、じゃない。何かが——ある。乾いた、古い、燃える前のにおい。それが——すごく、はっきりしてる。強くなった」


 「強くなった——ということは、近い」とジンが言った。


 「……うん」とルルが言った。「近い。でも——どこにあるのか、まだ、わからない。においは——どこからも来てる。台地全体が——そのにおいで、満ちてる」


―――


 ジンが、台地の地面に——片膝をついた。


 手を、地面に当てた。


 目を、閉じた。


 しばらく——何も、言わなかった。


 それから——ゆっくりと、目を開けた。


 「……重さが、違う」とジンが言った。「草原側は——土の重さがある。こっちは——土の重さじゃない。なんていうか——もっと、細かい。積み重なってる感じ。すごく、薄い層が——何層も。それが——圧縮されて、下にある」


 「それが——灰、ということでしょうか」とカインが言った。


 「……かもしれない」とジンが言った。「灰の重さって——軽い。でも——何層も積み重なったら、重くなる。この地面の下は——ずっと、灰が積み重なってる感じがする。でも——火の感触は、ない。重さに——熱が、ない」


 「燃えた後の灰じゃない——燃える前の」とルルが言った。「においと——一致してる」


―――


 「……今日は、ここまでにしましょう」とカインが言った。「境界の外で野営します。台地の中は——明日、入ります。今日は——ここから、台地の様子を確かめる。それで、十分です」


 「入らなくていいのか」とジンが聞いた。


 「……今日は、遅い」とカインが言った。「台地の中が——どんな性質なのか、まだ、わかっていない。静止の祠の時も——境界の外で一晩、確かめました。同じようにします」


 ジンが、台地を見た。


 乾いた、灰色の地面が——夕暮れの中で——静かに、あった。


 「……わかった」とジンが言った。「明日、入る」


―――


 野営の準備をした。


 草原の側で——炉に、火がついた。


 火が、揺れた。


 「……面白いな」とジンが、ぽつりと、言った。「台地の向こうに、火がない。こっちに——火がある」


 「対比、ですね」とエリナが言った。手帳を開きながら。「燃える前のものが止まっている場所の、手前で——私たちは火をつけている」


 「……それは、意味があることだと思いますか」とセレクが、静かに聞いた。


 エリナが、少し、考えた。


 「……わかりません。でも——書いておきたいです。台地の手前で、私たちが火をつけたこと」


 「記録しておく価値は、あります」とカインが言った。「静止の祠では——火の揺らぎが、時間の流れを示していた。灰の台地では——火はない。でも——私たちがここに来て、火をつけた。それは——新しいことです」


―――


 「……五本目の糸」とルルが言った。「今も——南東を向いたまま、一緒に来てる。アルトと——みんなと——同じ向きで」


 「一緒に来てる——か」とノアが言った。「あいつ、ここまで来てるのか」


 「においが——ある」とルルが言った。「アルトのにおいが——ここに、まだ、ある。糸の先が——ついてきてる」


 ノアが、少し、台地の方角を見た。


 「……一緒に来てるなら——一緒に見れるな。台地を」


 「そうだな」とジンが言った。「あいつが指した場所だ。一緒に見せてやりたい」


 「体は来られないけど」とルルが言った。「気持ちは——来てる。糸が、一緒に動いてる」


―――


 「……静止の祠は——時間が止まってた」とジンが言った。「アルトが——四百年、待ってた。灰の台地は——火が止まってる。誰かが——どのくらい、待ってるんだろうな」


 「記録がない、ということは——長い間、誰も行っていない可能性があります」とカインが言った。「あるいは——行ったとしても、記録が残らなかった」


 「記録が残らなかった——というのは」とエリナが、少し、顔を上げた。


 「……灰の台地に、記録者が行けなかった。あるいは——行ったけど、何かがあって、書けなかった、ということです」


 エリナが、少し、手帳を見た。


 「……私は、書けます」とエリナが言った。「書きます。何があっても」


 「それが——頼もしい」とカインが言った。


―――


 エリナは、ランプの光で、手帳を書いた。


 今日のこと——二日目の夕方にルルが「においが変わった」と言ったこと、カルネア平原の南東の端に到達したこと、草が終わり灰色の台地が始まる境界を見たこと、ジンが地面から「薄い層が何層も積み重なった重さ」を感じたこと、シアが「魔力的に静かすぎる空気」を察知したこと、ルルが「火になりたいのに、なれないでいる困ったにおい」と言ったこと、台地の手前で野営の火をつけたこと。すべてを、書いた。


 書き終えて、ペンを止めた。


 それから——もう一行、追加した。


 『今日、灰の台地の入り口に着きました。草が終わって、乾いた灰色の地面が始まる場所。風がない。火がない。においはある。燃える前の、止まったにおい。ジンさんは地面から「熱のない、薄い層の重さ」を感じたと言いました。静止の祠とは違う。あそこは時間が止まっていた。ここは——火が止まっている。でも消えていない。私はその違いを、書いておきたいと思います。明日、中に入ります。怖いか、と聞かれたら——少し、あります。でも——書けることが、まだ嬉しいです。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』


 ランプの炎が、静かに揺れた。


―――


 ルルは、台地の方角を見ていた。


 においの先が——近かった。


 昨日よりも——ずっと。


 「……燃える前のにおい」とルルが、小さく、呟いた。「止まってる。でも——消えてない。火になりたいのに——なれないまま、待ってる。明日——会いに行く」


 地面の奥から——返事は、なかった。


 でも——五本目の糸が、ごく小さく——うん、と——震えた、ような気がした。


 ルルは、それを確かめて、眠った。


―――


 夜が、深くなった。


 炉の火が、揺れていた。


 台地の向こうでは——火が、なかった。


 でも——灰の下に。


 何かが——あった。


 長い間——火になれないまま。


 それでも——消えずに、あった。


 「来た」という感触を——まだ、よくわからないまま。


 「誰か」が、境界の外に、止まっている。


 それが——わかった。


 音は、なかった。


 火も、なかった。


 でも——この夜、初めて。


 灰の下の何かが——ごく小さく——上を、向いた。


―――


― 第53話・了 ―


―――


 次話予告:翌朝、一行は灰の台地へ踏み込む。足元の感触が——草原とはまったく違う。乾いた、細かい、軽い。ジンが地面に手を当てた瞬間——「これ——下に、何かある。重さが——下から、こっちを、向いてる」。ルルが、息を止めた。「……においが——動いた。さっきまで、静かだった。今——動いてる。上に、向かってる」。カインが、静かに記録を確かめる。アル・ヴェリアの写しにあった一行——『そこには灰がある。でも、火は、ない』。その意味が——今日、変わるかもしれない。エリナが、手帳の新しいページを開いた。台地の中に入った最初の一行を——書き始めた。


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