第52話「灰の台地へ向かう朝と、どこまで一緒に行けますか、という問いと、出発の音」
翌朝、空は——薄い雲に、覆われていた。
風は、戻っていた。境界の向こうは——今も、静かなままだった。
炉の灰は、まだ、わずかに、白い熱を、持っていた。
エリナが、最初に、目を覚ました。
手帳が——膝の上に、開いたままだった。
昨夜書きかけのページが——まだ、そこにあった。
エリナは、目を開けながら、そのページを見た。
それから——新しいページを、開いた。
ペンを、手に取った。
今日は——待たなかった。すぐに、書き始めた。
「……出発の朝に書く言葉は」とエリナが、静かに言った。「いつも——これから起きることへの、期待です。今日は——灰の台地へ向かう朝。だから——期待と、少しの、怖さと」
エリナが、少し、ペンを止めた。
「……それでも——書けます。書けることが——嬉しい」
―――
ルルが、目を覚ました。
すぐに——南東の方角を、見た。
しばらく——何も、言わなかった。
それから——ゆっくりと、鼻を、動かした。
「……燃える前の——においがする」とルルが、ぽつりと、言った。「昨日も——あった。でも、今日は——もっと、はっきりしてる。乾いてる。古い。でも——消えてない」
「消えてない、というのは」とエリナが、ペンを持ったまま、聞いた。
ルルが、少し、考えた。
「……火になれるにおい、がする。でも——なってない。止まってる。火になる前の——そのまま」
―――
ジンが、目を覚ました。
炉の灰を、見た。
しばらく——何も、言わなかった。
「……灰があって、火がない場所、か」とジンが、ぽつりと、言った。「静止の祠は——時間が止まってた。灰の台地は——火が止まってる。何が——止まってるんだろうな」
「燃える前の状態が、止まっている——という可能性を、昨夜も話しました」とカインが、静かに言った。地図を——革の鞄から、取り出していた。「ただ——行ってみなければ、わかりません」
「うん」とジンが言った。「でも——止まってるって、どういうことだろ。静止の祠は——止まったまま、誰かが待ってた。灰の台地は——止まったまま、何が待ってるのか」
「それを——確かめに行くんでしょう」とシアが、腕を組みながら言った。
「そうだな」とジンが言った。「確かめに行く」
―――
ノアが、静かに、カインの隣に、来た。
「……少し、聞いていいですか」とノアが言った。声が、少し、小さかった。
「どうぞ」とカインが言った。地図を、折り畳みながら。
ノアが、少し、間を置いた。
「……俺は——どこまで、一緒に行けますか」
誰も、しばらく、何も、言わなかった。
カインが、折り畳んだ地図を、革の鞄に、しまった。
それから——ノアを、見た。
「……それは——ノア殿が、決めることです」とカインが、静かに言った。「私たちには——決められない」
ノアが、少し、目を細めた。
「……俺が、決めること」
「はい」とカインが言った。「ノア殿は——アルトに、名前を届けた。欠けていたものを、返した。祠での役割は——果たしました。あとは——ノア殿が、どうしたいか。それだけです」
―――
ノアが、少し、南東の方角を見た。
それから——境界の方角を、見た。
「……アルトが、そっちを指した」とノアが言った。「南東を。それは——俺にも、届いてた。昨日——祠の中で」
「届いてた、というのは」とジンが聞いた。
「……重さ、じゃない」とノアが言った。「においでも、ない。でも——なんか、わかった。あいつが——そっちに、何かある、って思ってるのが。俺にも——なんか、そっちに、ある気がした」
ルルが、ノアを見た。
「……ノアの——においが、昨日と違う」とルルが言った。「昨日は——歩き出すにおいだった。今日は——もっと、先を見てるにおい。南東の方——ノアのにおいが、そっちを向いてる」
ノアが、少し、ルルを見た。
「……そうか」とノアが、静かに言った。「俺の——においが、そっちを向いてるか」
―――
しばらく——ノアは、何も、言わなかった。
地面を、見ていた。
それから——ゆっくりと、顔を上げた。
「……行きます」とノアが言った。「一緒に——灰の台地まで。アルトが指した場所を——俺も、見たい。それが——俺の、今の答えです」
ジンが、少し、ノアを見た。
「……いいな」とジンが言った。
「……ノアのにおい——また、変わった」とルルが言った。「歩き出すにおいのまま——今度は、ちゃんと、前を向いてる。さっきより——もっと」
「ありがとう」とノアが言った。ルルに向かって。「そういうの——言ってくれると、なんか、助かる」
ルルが、少し、首を傾けた。
「……ほんとうのことを言っただけ」
―――
出発の前に——カインが、地図を広げた。
封印の七点。南東の一点に——昨日、ペンで印をつけた場所。
「……改めて、確認します」とカインが言った。「カルネア平原を南東に抜けた先——灰の台地。距離は、馬車で四、五日。平原を出た先の地形は、まだ、詳しくわかっていない。ただ——」
カインが、少し、間を置いた。
「……アル・ヴェリアの写しに、一行だけある。『そこには——灰がある。でも、火は、ない』。それが——今、私たちが知っていること、のすべてです」
「少ないな」とジンが言った。
「少ないです」とカインが言った。「でも——静止の祠も、最初はそれくらいしか、わかっていなかった。行けば——わかります。わからないことは、行ってから、考える」
「それで十分だ」とジンが言った。
―――
「……最後に、もう一度、行きますか」とエリナが聞いた。「祠に」
全員が——境界の方角を、見た。
しばらく——誰も、言わなかった。
「……行きましょう」とカインが言った。「出発の挨拶くらいは、すべきかと思います」
「うん」とノアが言った。「行く。アルトに——行ってくる、って言いたい」
―――
境界をまたいだ。
音が、消えた。風が、消えた。
奥へ進むと——光が、揺れていた。台座に座る人の姿——その目が、一行を見た。
それから——ゆっくりと、揺れた。
「……あ」とルルが、小さく言った。「今日——あの方の揺れが、また、違う。昨日は『指してる』だった。今日は——」
ルルが、少し、首を傾けた。
「……『待ってた』揺れ。誰かが来ることを——知ってて、待ってた、みたいな揺れ」
「来ることを——知ってた」とエリナが、静かに言った。
「うん」とルルが言った。「昨日——送り出す色が、あった。今日は——もう一回だけ、会いに来てくれた、みたいな色。嬉しいにおい」
―――
ノアが、ゆっくりと、床に、両手を当てた。
目を、閉じた。
「……アルト」とノアが言った。「俺だ。また、来た」
光が——大きく、揺れた。
「……今日——出発する。南東へ——お前が指した場所へ、行く。お前が——そっちに何かある、って知ってたんだろ。だから——行ってくる」
光が——少し、止まった。
それから——ゆっくりと、揺れ始めた。
それは——「わかった」という揺れだった。それだけでなく——「行っておいで」という、温かく、静かな揺れでもあった。
―――
ジンが、床に、手を当てた。
「……聞いてるか」とジンが言った。「俺たちは——今日、出発する。南東——灰の台地へ。お前が教えてくれた場所だ。行って——また、来る。次に来る時には——向こうで何が止まってたのか、教えてやる」
床の——奥の方で。
何かが——応えた。
音ではなかった。言葉でも、なかった。
でも——それは、確かに——「うん」だった。これまでで——一番、遠くを見送るような「うん」だった。
ジンが、少し、目を見開いた。
「……今——送り出してくれた」とジンが、低く、言った。
「うん」とルルが言った。「送り出した。五本目の糸——今——南東に向かって、一緒に、前を向いた。アルトと——みんなと——同じ向きで」
―――
「……私も」とエリナが言った。「話しても——いいですか」
カインが、頷いた。
エリナが、床に、そっと、片手を添えた。手帳を——もう片方の手に、持っていた。今朝、書き始めたページが——そこにあった。
「……私は——記録しながら、行きます。あなたが教えてくれた場所のことも——全部、書きます。何が止まっていたのか、何が動き始めるのか——ぜんぶ。帰ってきた時に——また、報告します」
光が——やわらかく、揺れた。
「報告を待っている」というような——揺れだった。
―――
「……私も——話す」とルルが言った。
ルルが、地面に、両手を、強く、押し当てた。
「……ルルは——燃える前のにおいがする場所へ行く。何がそこにあるのか——においでわかるかもしれない。わかったら——帰ってきた時に、教える。今日の出発のにおいは——いいにおいがする。南東——においの先が、そっちにある」
光が——揺れた。「それだけで十分だ」というような——揺れだった。
シアが、少し、腕を組んだ。それから——床を、見た。
「……行ってくる。何があっても、全員で帰ってくる。それだけだ」
「……私は」とセレクが、静かに言った。「静止の祠で、多くのことを見ました。あなたが、前を向くことができたように——灰の台地でも、止まっているものが動き始めるかもしれません。そのことを——見届けに行きます」
光が——揺れた。それは——「知っている」というような——揺れだった。
「……最後に」とカインが言った。「私が、話します」
カインが、床に、片手を、当てた。
「……あなたが南東を指してくれたことで——記録に、次のページが、生まれました。灰の台地——記録が、ほとんどない場所です。私が行けば——書けます。書いて——帰ってきます。記録が続く限り、旅は続きます」
光が——長く、ゆっくりと、揺れた。
これまでで——一番、送り出す揺れだった。
―――
その時——
ルルが、息を、止めた。
「……五本目の糸」とルルが言った。「今——動いた。昨日、矢印みたいになったまま——さらに、前に——南東に向かって、引っ張られてる。昨日は『指してた』。今日は——『一緒に行こうとしてる』」
「一緒に——か」とジンが言った。
「うん」とルルが言った。「アルトは——ここから出られない。でも——糸は、一緒に、南東を向いてる。においで言うなら——見送ってるんじゃない。一緒に、行こうとしてる」
「……それは」とノアが、静かに言った。「あいつが——俺たちと、一緒に行きたい、ってことか」
ルルが、少し、頷いた。
「……体は——ここにいる。でも——気持ちは、一緒に行く。そういうにおい」
光が——ゆっくりと、揺れた。
「そうだ」というような——揺れだった。それだけでなく——「初めてそういうことを、思った」という、不思議な色を持った、揺れでもあった。
―――
「……これ以上は、今日は、ここまでにしましょう」とカインが言った。「一行は——今日、出発します。アルトへの挨拶は、終わりました。五本目の糸が——今日、一行と共に南東を向いて動き始めました。アルトは体では来られない。でも——想いは、一緒に来ます。それが——今日、わかったことです」
全員が、頷いた。
ノアが、光に向かって、少し、頭を下げた。
「……行ってくる」とノアが言った。「待ってていい。帰ってくる。約束する」
光が——ゆっくりと、揺れた。
今度の揺れは——穏やかで——どこか、初めて誰かを遠くへ送り出す人のような——揺れだった。
―――
外に出ると——風が、あった。
南東から、来ていた。
「……風が——南東から来てる」とルルが言った。「においの先が——今日は、ずっと、はっきりしてる。乾いた、古い、でも消えてないにおい。燃える前のにおい——そっちから、来てる」
「それが——灰の台地のにおい、ということか」とジンが言った。
「……たぶん」とルルが言った。「でも——静止の祠のにおいと、全然、違う。静止の祠は——動かずにじっとしてる、においだった。灰の台地は——じっとしてるけど——中に、動きたいものが、ある感じ」
「動きたいものが、ある」とジンが言った。
「うん」とルルが言った。「火になりたいのに——なれない。そういうにおい」
―――
「……止められたものを——また、動かす」とジンが言った。「それが——俺たちのやることだったな」
「そういうことだと思います」とカインが言った。「静止の祠では——時間が止まっていた。アルトが——前を向いた。灰の台地では——火になる前の何かが、止まっている。それが——動き始めるかもしれない」
「何かが——動き始める」とエリナが、静かに言った。「それを——書けます。書けることが——楽しみです」
「ジンさん」とノアが言った。「重力魔法で——灰の台地の何かを、感じることが、できますか」
ジンが、少し、考えた。
「……わかんない。でも——静止の祠では、床の下の重さが、ちゃんと感じられた。灰の台地でも——何かあるなら、たぶん、感じる」
「それなら——大丈夫だ」とノアが言った。「お前が感じれば——俺たちも、どこを探せばいいか、わかる」
ジンが、少し、ノアを見た。
「……お前——だいぶ、なじんでるな、俺たちに」
ノアが、少し、笑った。
「……そうですか。なじんでますか」
「なじんでる」とジンが言った。
―――
馬車の準備が、整った。
カインが、地図を、最後にもう一度、広げた。
南東の一点を、指で触れた。
「……灰の台地。カルネア平原を南東に抜けた先。馬車で——四、五日」
それから——地図を、折り畳んだ。革の鞄に、しまった。
「出発しましょう」とカインが言った。
全員が、頷いた。
ルルが、もう一度——境界の方角を、見た。
「……五本目の糸——南東を向いたまま、一緒に動いてる。アルトと——みんなと——同じ向きで」
「行くぞ」とジンが言った。
―――
馬車が、動き始めた。
境界が——遠くなっていった。
「……なんか」とジンが、ぽつりと、言った。「アルトに——見送られてる気がする」
「……そうですね」とエリナが言った。手帳を、膝の上に開いていた。書きながら。「私も——そんな気がします」
「……ルルも」とルルが言った。「五本目の糸——まだ、南東を向いて、一緒に来てる。糸の先が——ずっと、ついてきてる」
「ついてきてる——か」とノアが言った。「あいつらしい」
「あいつらしい——ってどういう意味だ」とジンが聞いた。
「……体は来られないのに——来ようとする、ってことが」とノアが言った。「四百年——ずっとそこにいたくせに、来ようとする。そういうの——アルトっぽい気がする」
「……そうかもな」とジンが言った。「四百年——動けなかったやつが、糸だけ一緒に来てる」
光が——そこにはなかった。
でも——五本目の糸が、南東を向いたまま、馬車と一緒に、動いていた。
―――
エリナは、馬車の中で、手帳を書き続けた。
今日のこと——出発の朝に「期待と少しの怖さがある」と感じたこと、ノアが「どこまで一緒に行けますか」と問うたこと、カインが「ノア殿が決めることです」と答えたこと、ノアが自分の意志で「灰の台地まで行く」と決めたこと、祠に挨拶に行ったこと、アルトが「行っておいで」と揺れたこと、五本目の糸が南東を向いて一行と一緒に動き始めたこと。すべてを、書いた。
書き終えて、ペンを止めた。
それから——もう一行、追加した。
『今日、出発しました。灰の台地へ。アルトが教えてくれた場所へ。祠を出る時、アルトは「行っておいで」という揺れをしました。それは——送り出してくれる揺れでした。ルルによれば、五本目の糸が今も一緒に南東を向いているそうです。体は来られないけど、糸は一緒に来ている。ノアさんが「あいつらしい」と言いました。私も、そう思います。四百年、ここにいた存在が、初めて誰かを遠くへ送り出した。それを、私はここに書いています。書けることが——嬉しいです。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』
馬車が、揺れていた。
南東へ——向かっていた。
―――
ルルは、馬車の窓から——南東の方角を、見ていた。
においの先に——乾いた、古い、でも消えていない何かの気配があった。
昨日は——輪郭が、あった。
今日は——少し、近い。
ルルは、少し、目を細めた。
「……燃える前のにおい」とルルが、小さく、呟いた。「止まってる。でも——消えてない。火になりたいのに——なれないまま、待ってる」
地面の奥から——返事は、なかった。
でも——五本目の糸が、ごく小さく——うん、と——震えた、ような気がした。
ルルは、それを確かめて、南東を見続けた。
―――
夜が、来た。
平原のどこかで、馬車が止まった。炉に、火がついた。
境界の中では——光が、静かに、揺らいでいた。
その揺らぎの中に——今日、初めて感じたものの温度が、まだ、残っていた。
「行っておいで」と——自分が、揺れた、ということを——まだ、よくわからないまま。
誰かを送り出した、ということを——まだ、慣れないまま。
でも——確かに、今夜、何かが——違っていた。
それが何なのか、まだ、言葉にできないまま。
でも——今日初めて——自分が、誰かを、外へ、送り出した。
四百年——自分はここにいた。
でも——今日——糸が、一緒に、行った。
送り出す、ということが——こういうものだとは——知らなかった。
温かかった。
そして——地の底の、四本目の糸の、その先で。
「南東」という方角を感じ取った何かが——初めて、その方角に向かって——ほんの少し——震えていた。
まだ、何も、言えなかった。
でも——確かに、今夜——外の世界を、誰かが向かっていく、ということを——知った。
―――
― 第52話・了 ―
―――
次話予告:馬車は平原を南東へ進む。二日目の夕暮れ、ルルが馬車の窓から声を上げた。「……においが——変わった。乾いてる。空気が——薄くなってきてる」。ジンが窓の外を見ると、地平の先に——草の色が変わり始めていた。カインが、静かに地図を広げる。「……カルネア平原の、南東の端です。ここから先が——灰の台地に向かう道です」。エリナが、手帳に書く。平原の終わりの空気は——乾いていた。ノアが、静かに言う。「……何かが、近くなってきてる気がします。においじゃない。でも——何か」。ルルが、南東を向いて、息を吸い込んだ。「……燃える前のにおい——もっと、強くなってきた。何かが——待って




