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無詠唱の魔王  作者: Dちゃん
第四章「西へ続く道の話」

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第51話「糸の先が決まった、という朝と、地図に一つの方角を書く、という話と、次へ向かう音」

朝、エリナが——目を覚ます前に。


手帳が、膝の上に、開いたままだった。


昨夜書きかけのページが——まだ、そこにあった。


エリナは、目を開けながら、そのページを見た。


最後に書いた行の、少し下に——まだ、余白があった。


ペンを、手に取った。


でも——すぐには、書かなかった。


「……今日——何かが、決まる気がします」とエリナが、静かに言った。「どこへ向かうか、という話が」


―――


ジンが、目を覚ました。


しばらく——天を見ていた。


「……なんか」とジンが、ぽつりと、言った。「今日——方向が出る気がする」


「出る、というのは」とカインが、すぐに聞いた。


「……わかんない」とジンが言った。「でも——昨日、アルトが前を向いた。それで——なんか、決まった気がする。どこへ、が」


―――


ルルが、地面に、両手を当てた。


目を、閉じた。


しばらく——何も、言わなかった。


それから——ゆっくりと、顔を上げた。


「……五本目の糸——今朝は、また、違う」とルルが言った。「昨日は——踏み出した感じだった。今日は——向いてる先に、何かが、見えてる感じ。何かが——あるって、糸が、知ってる」


「見えてる、というのは」とシアが、腕を組みながら聞いた。


ルルが、少し、考えた。


「……においで言うなら——『そっち』ってにおいがする。一本目の糸から、四本目の糸まで、全部——同じ方を、向いてる。でも——昨日は、向いてるだけだった。今日は——向きの先に、何かが、引っかかってる」


「引っかかってる」とジンが言った。


「うん」とルルが言った。「ひっかかる、ってにおいじゃない。なんていうか——合わさった感じ。糸が向いてる先と——そこに、あるものが——今日、初めて、合わさった」


―――


カインが、静かに、革の鞄から地図を取り出した。


広げた。


封印の七点——それが、記されていた。


しばらく——黙って、見ていた。


それから——カインが、一点を、指で触れた。


「……北東は、断絶の崖。ここは、既に」とカインが言った。「残りの六つ——北西、北、東、南東、南、西。静止の祠が、西でした」


「静止の祠は——次の場所へ向かうための、通過点だったんでしょうか」とエリナが言った。「アルトがいた場所は——封印地点というより——」


「……出発点」とノアが、静かに言った。


全員が、ノアを見た。


ノアが、少し、自分の手元を見た。


「……あいつが——前を向いた。それは——あいつが、ここから、どこかに向かう、ということじゃない、と思う。でも——俺たちが、次に行くことを——向こうが、後押しした、みたいな感じがした。昨日——」


ノアが、少し、言葉を探した。


「……『一緒に行く』じゃ、ない。でも——『行っていい』みたいな——感じ、だった」


カインが、静かに、地図を折り畳んだ。


それから——もう一度、広げた。


「……では——今日は、地図を見ながら、一つ、確かめましょう」とカインが言った。「糸の向く先が——六つの封印地点の、どこに、当たるか」


―――


「……今日は、入りますか」とエリナが聞いた。「祠に」


「入ります」とカインが言った。「今日の目的は——一つです。アルトから——次に向かうべき場所の方角を、受け取ること。地図の上に——一つの方角を、書くこと。それだけが、今日の目的です」


「無理は、しない」とジンが言った。


「今日も——感じるだけだ」とジンが続けた。「ただ——今日は、何かが決まる気がする。それだけ」


全員が、頷いた。


ノアが、自分の胸に、手を当てた。


「……行きます」とノアが言った。「今日——方角が、来る気がする」


―――


境界をまたいだ。


音が、消えた。風が、消えた。


奥へ進むと——光が、いつもとは、また違う揺れ方をしていた。台座に座る人の姿——その目が、一行を見た。


それから——前を、見た。


それから——もう一度、一行を見た。


「……あ」とルルが、小さく言った。「今日——あの方の揺れが、昨日と、また、全然、違う。昨日は『踏み出した』だった。今日は——」


ルルが、少し、首を傾けた。


「……『指してる』。何かを——指してる揺れ。前を向いて——しかも、どこか、具体的なものに——向いてる揺れ」


「具体的な——方角、ということでしょうか」とエリナが聞いた。


「……うん」とルルが言った。「においに——形がある。昨日は、方向だけだった。今日は——その方向の先に、場所の輪郭がある」


―――


ノアが、ゆっくりと、床に、両手を当てた。


目を、閉じた。


「……アルト」とノアが言った。「俺だ。また、来た」


光が——大きく、揺れた。


「……昨日——前を向いた. 今日——その先を、指してるか」とノアが続けた。「俺たちが、次にどこへ行くか——お前が、知ってるか。知ってるなら——教えてくれ。ゆっくりでいい」


光が——少し、止まった。


それから——ゆっくりと、揺れ始めた。


それは——「知っている」という揺れだった。それだけでなく——「今から、示す」という、深く、静かな、準備のような揺れだった。


―――


ルルが、地面に、両手を押し当てた。


「……五本目の糸——今日は、昨日と全然、違う動き方をしてる。昨日は——前に踏み出してた。今日は——踏み出した先で——向きが、もっと、細くなってる。方向が、絞られてる」


「絞られてる、というのは」とカインが、地図を手に持ちながら聞いた。


ルルが、少し、目を細めた。


「……昨日は——前って感じだった。広い前。今日は——前の中の、もっと具体的な、どこか。糸の先が——一点に向かって、細くなってる」


カインが、地図を、静かに、広げた。


「……北西、北、東、南東、南——どれかの方角に、今、糸が向いていますか」


ルルが、目を閉じた。


しばらく——何も、言わなかった。


「……南」とルルが言った。声が、静かだった。「南——じゃない。南の、少し東側。でも——東でも、ない。その——あいだ」


「南東」とカインが言った。


「……うん」とルルが言った。「南東。そのにおいがする。ずっと——そっちから、来てる」


―――


その時——


床の、奥の方で。


何かが——動いた。


昨日のような「前を向いた」動きとは——少し、違った。それは——もっと、向きを持って。もっと——一方向に、集中して。上に来る気配よりも——横に、そちらへ向かうような、力だった。


ジンが、床に、もう一度、手を当てた。


「……来た」とジンが、低く、言った。「昨日——前だった。今日は——向きがある。重さが——こっちに来ようとしてるんじゃない。向こうを——指してる。南東——そっちの重さだ」


「南東の重さ、というのは」とカインが聞いた。


「……向こうに——何かある」とジンが言った。「重さが、そっちに、引き寄せられてる感じ。俺が感じるんじゃなくて——床の向こうの重さが——そっちを——知ってる感じ」


ルルが、目を見開いた。


「……結び目——今——動いた。向きのまま——先が、広がった。なんていうか——矢印、みたいな形になってきた。一点を——指してる」


―――


ノアが、少し、息を整えた。


「……俺も——感じる」とノアが言った。「今日は——足元から、じゃない。胸の中から——来てる。アルトが——南東を——指してる。なんか——」


ノアが、少し、言葉を探した。


「……そっちに、何かある、って——知ってる感じ。俺が知ってるんじゃなくて。アルトが——知ってて、それを——俺に、渡してきてる」


「ノアさん」とエリナが、静かに言った。「今——何か、感じますか。場所」


ノアが、目を閉じた。


しばらく——何も、起こらなかった。


それから——


ノアが、ゆっくりと、口を開いた。


「……感じる」とノアが言った。「形には——なってない。でも——南東の先に——何かがある。においじゃ、ない。感触、みたいな。重さの感触。昨日アルトが前を向いて——今日——その前の先が、南東に、あった。そういう感じ」


誰も、しばらく、何も、言わなかった。


―――


カインが、静かに、地図を広げた。


七つの封印地点——その中で、南東の一点を、指で触れた。


「……南東の封印地点」とカインが言った。「断絶の崖が北東——ここがすでに完成しています。その対角に近い位置——南東——の封印地点は、記録上は『灰の台地』とされています。アル・ヴェリアの写しの中に——断片的な記述がありました。風が、止まる場所、と」


「風が、止まる」とジンが言った。「ここと、似てるか」


「……いいえ」とカインが言った。「静止の祠は、時間が止まる場所でした。灰の台地は——風が止まる、つまり——空気が、動かない場所、とされています。性質が、違う」


「どんな性質なんですか」とエリナが、ペンを持ちながら聞いた。


カインが、少し、考えた。


「……記録が、少ない。断絶の崖や静止の祠ほど、記録が残っていない。それ自体が——何かを示しているのかもしれません」


―――


ジンが、床に、もう一度、手を当てた。


「……聞いてるか」とジンが言った。「南東——そっちが、次か。お前が——そっちを、指してるなら——俺たちは、そっちへ行く」


床の——奥の方で。


何かが——応えた。


音ではなかった。言葉でも、なかった。


でも——それは、確かに——「うん」だった。これまでで——一番、方角を持った「うん」だった。向きのある、重さを持った「うん」だった。


ジンが、少し、目を見開いた。


「……今」とジンが、低く、言った。「南東を——指して——答えた」


「うん」とルルが言った。「向きのある答えだった。方角が——あった」


―――


「……俺も」とノアが言った。「言っていいか」


「どうぞ」とカインが言った。


ノアが、床に、もう一度、両手を押し当てた。


「……アルト。南東——そっちに、何かあるんだろ。お前が——知ってて、俺たちに渡してくれた。ありがとう。俺たちは——そっちへ、行く。行って——また、来る。お前に——報告しに」


光が——ゆっくりと、揺れた。


それは——「わかった」というような揺れだった。それだけでなく——「それでいい」という、深く、温かな揺れでもあった。そして——その揺れの中に、今まで見たことのない色が、また、少し、混じっていた。


ルルが、それを見た。


「……あの方の揺れ——新しい色が、また、入ってる」とルルが、小さく言った。「なんていうか——『送り出す』みたいな色。誰かを——どこかへ——送り出す人の、揺れ」


誰も、しばらく、何も、言わなかった。


―――


「……これ以上は、今日は, ここまでにしましょう」とカインが言った。「アルトから——南東という方角が、届きました。床の下の重さも、同じ方角を示しました。五本目の糸の結び目が——今日、初めて、一点を指す形になりました。これは——次の目的地が、決まった、ということです」


全員が、頷いた。


ノアが、光に向かって、少し、頭を下げた。


「……ありがとう」とノアが言った。「次がどこか——俺たちに、教えてくれた。また、来る。約束する」


光が——ゆっくりと、揺れた。


今度の揺れは——穏やかで——どこか、長い旅に出る人を、静かに、見送るような——揺れだった。


―――


外に出ると——風が、戻ってきた。


カインが、すぐに、地図を広げた。


封印の七点。その中の、南東の一点に——カインが、静かに、ペンで印をつけた。


「……灰の台地」とカインが言った。「次は、ここです」


「遠いですか」とエリナが聞いた。


「……カルネア平原を、南東に抜けた先です」とカインが言った。「ここから——おそらく、馬車で四、五日。平原を出た先の地形が——まだ、よくわかっていません」


「……風が止まる場所、か」とジンが言った。「静止の祠は、時間が止まった。灰の台地は、風が止まる。なんか——どこも、止まってるな」


「止められた場所、ということかもしれません」とセレクが、静かに言った。「ザルヴァが——各地の流れを、止めた痕跡。それが——封印地点の性質に、残っている」


「……止めたものを——また、動かす」とジンが言った。「それが、俺たちのやることか」


「そういうことだと思います」とカインが言った。「ここで——アルトが、動き始めた。次の場所でも——何かが、動き始めるかもしれない」


―――


夕方、境界の外で、野営の準備をした。


炉に、火がついた。火が、揺れた。


「……南東、か」とジンが、ぽつりと、言った。「灰の台地。どんな場所なんだろうな」


「風が止まる、というだけで——あとは、記録がほとんどない」とカインが言った。「ただ——アル・ヴェリアの写しに、一行だけ、あった。『そこには——灰がある。でも、火は、ない』」


「灰があって、火がない」とシアが、眉を寄せた。「燃えた後、ってことか」


「……あるいは」とカインが言った。「燃える前の状態が——止まっている、ということかもしれません」


「燃える前の灰」とエリナが、繰り返した。「それは——何ですか」


カインが、少し、考えた。


「……まだ、わかりません。行ってみなければ」


ルルが、少し、地面に、手を当てた。


「……五本目の糸——今夜は、南東を向いたまま、止まってない。向きのまま——一緒に、前に動いてる。アルトと——みんなと——同じ向きで」


「同じ向きで——か」とジンが言った。


「うん」とルルが言った。「今夜は——みんな、同じ方を向いてる。アルトも——一緒に」


―――


エリナは、ランプの光で、手帳を書いた。


今日のこと——朝、エリナが「何かが決まる気がする」と感じたこと、ルルが「糸の向きの先に、何かが見える」と言ったこと、アルトから南東という方角が届いたこと、ジンが床から「南東の重さ」を感じ取ったこと、カインが地図に南東の印をつけたこと、次の目的地が「灰の台地」であることが決まったこと。すべてを、書いた。


書き終えて、ペンを止めた。


それから——もう一行、追加した。


『今日、次の場所が決まりました。南東——灰の台地。アルトが、そこを指しました。アルトが前を向いて、次の場所を指せるようになったということは——アルトが、この祠から出なくても、外の世界を知っている、ということなのかもしれません。あるいは——外の世界と、どこかで繋がっている、ということなのかもしれません。私には、まだわかりません。でも——今日、地図に一つの方角を書くことができました。次へ向かう道が、決まりました。それを書けることが——嬉しいです。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』


ランプの炎が、静かに揺れた。


―――


ルルは、最後に——境界の方角を見た。


風が、止んでいた。境界の向こうは——今も、静かなままだった。


でも——においの中の、五本目の糸が——今日は、これまでと、また、全く、違っていた。


昨日は——踏み出していた。


今日は——向きがあった。


南東——その方角に、糸の先が、細く、しかし確かに——伸びていた。


ルルは、少し、目を細めた。


「……南東」とルルが、小さく、呟いた。「においの先が——そっちにある。アルトが——教えてくれた」


地面の奥から——返事は、なかった。


でも——五本目の糸が、ごく小さく——うん、と——震えた、ような気がした。


ルルは、それを確かめて、眠った。


―――


夜が、深くなった。


炉の火が、揺れていた。


境界の中では——光が、静かに、揺らいでいた。


その揺らぎの中に——今日、初めて届いたものの温度が、まだ、残っていた。


「南東」という方角を、自分が示したということを——まだ、よくわからないまま。


それが、次の道を作った、ということを——まだ、慣れないまま。


でも——確かに、今夜、何かが——違っていた。


それが何なのか、まだ、言葉にできないまま。


でも——今日初めて——自分が、外を——指した。


自分は、ここから——出られない。


でも——自分の知っている「外」を——彼らに、渡すことが、できた。


それが——こういうものだとは——知らなかった。


誰かを——送り出す、ということが。


こんなに——温かいとは——思っていなかった。


そして——地の底の、四本目の糸の、その先で。


「南東」という方角を受け取った何かが——初めて、その方角に向かって——ほんの少し——震えていた。


まだ、何も、言えなかった。


でも——確かに、今夜——外の世界の、どこかを——知った。


―――


― 第51話・了 ―


―――


次話予告:翌朝、一行は「灰の台地」へ向けて出発の準備を整える。ノアが、静かにカインに問う。「……俺は——どこまで、一緒に行けますか」。カインが、地図を折り畳みながら、答える。「それは——ノア殿が、決めることです」。ジンが、炉の灰を見た。「……灰があって、火がない場所、か。何が——止まってるんだろうな」。ルルが、南東の方角を向いた。においの先に——これまでとは違う、乾いた、古い、でも消えていない何かの気配があった。「……燃える前の——においがする」。エリナが、手帳の新しいページを開いた。出発の朝に書く言葉は——いつも、これから起きることへの、静かな期待だった。

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