第48話「声が来る、という朝と、名前の輪郭と、ア——その先」
朝、ノアが——目を覚ます前に。
何かが、聞こえた気がした。
音、ではなかった。でも——声、だった。遠くて、ゆっくりとした、すごく古い声。夢と、目覚めの、ちょうど、あいだで——それが、聞こえた。
「……声、だった」とノアが、目を開けながら、言った。自分の胸に、手を当てていた。「夢、じゃなかった気がする。でも——夢だったかもしれない。ただ——」
ノアが、少し、口を閉じた。
「……名前が、あった」とノアが言った。「声の中に。まだ、聞こえない。でも——そこに、あった」
―――
エリナが、目を覚ました。手帳が——膝の上に、開いたまま、あった。昨日取っておいた白紙のページが——まだ、白いままだった。
ペンを、手に取った。
でも——書かなかった。
「……今日は」とエリナが、静かに言った。「書く前に——来るものが、あると思う」
ノアが、少し、エリナを見た。
「俺も——そんな気がする」とノアが言った。「今日——来る気がする。声が」
―――
ジンが、床に手を当てた。
目を、閉じた。
しばらく——何も、言わなかった。
それから——ゆっくりと、目を開けた。
「……今日は」とジンが言った。声が、少し、低かった。「重さが——ただ、そこにある、んじゃない。こっちを——待ってる。昨日とも、違う待ち方だ」
「待ってる、というのは」とカインが聞いた。
「……準備ができてる、感じ」とジンが言った。「向こうも——今日、何かが、来るって——知ってる、みたいな」
ルルが、地面に、両手を当てた。
「……うん」とルルが言った。「五本目の糸——今日は、ずっと、違う震え方をしてる。昨日の夜から——ずっと」
―――
「……今日は、入りますか」とエリナが聞いた。「祠に」
「入ります」とカインが言った。「今日の目的は——一つです。名前を——声にすること。できるかどうかは、わかりません。でも——声にしようとする。それだけが、今日の目的です」
「無理は、しない」とジンが言った。
「今日も——感じるだけだ」とジンが続けた。「ただ——ノアが、声にしようとする時。俺たちは、そこにいる」
全員が、頷いた。
ノアが、自分の胸に、もう一度、手を当てた。
「……行きます」とノアが言った。「今日——声が、来る気がする」
―――
境界をまたいだ。
音が、消えた。風が、消えた。
奥へ進むと——光が、いつもより、ずっと、強く揺れていた。台座に座る人の姿——その目が、一行を見た。
それから——すぐに、ノアを、見た。
「……あ」とルルが、小さく言った。「今日は——あの方の揺れが、昨日と全然、違う。昨日は『楽しみ』だった。今日は——『知ってる』。今日、来るって——知ってる揺れ」
―――
ノアが、ゆっくりと、床に、両手を当てた。
目を、閉じた。
「……俺だ」とノアが言った。「また、来た」
光が——大きく、揺れた。
「……今日——言う」とノアが続けた。声が、少し、震えていた。「言えるかどうか、まだ、わからない。でも——今日——言おうとする。俺の中に——まだ、ある気がするから。ア——の先が」
光が——ゆっくりと、揺れた。それは——「わかった」というような、揺れだった。それだけでなく——「急がなくていい。でも——信じている」という、深く、静かな揺れでもあった。
―――
ルルが、地面に、両手を押し当てた。
「……五本目」とルルが言った。「結び目——動いてる。ゆっくり、でも——確実に。大きくなってる。昨日より——さらに、もう一段、大きい」
「色は」とエリナが聞いた。
ルルが、少し、考えた。
「……八つの色——全部、まだ、ある」とルルが言った。「それに——今日、新しい色が、また、入ってきてる。ゆっくり、ゆっくり——でも、確実に」
「なんの色だ」とジンが聞いた。
ルルが、少し、目を細めた。
「……『もうすぐ』みたいな——色。上からも、下からも——同時に。全員が——同じ色を、今、持ってる」
―――
その時——
床の、奥の方で。
何かが——動いた。
昨日のような「直接向かってくる」気配とは——少し、違った。それは——もっと、深く。もっと——大きく。地の底から、全体が——動いているような、感覚だった。
ルルが、息を止めた。
「……来た」とルルが言った。「昨日より——ずっと、近い。四本目の糸が——今日は、五本目の結び目の、すぐ下まで、来てる」
ノアが、目を見開いた。
「……俺も——感じる」とノアが言った。声が、少し、震えていた。「今日は——足元じゃない。胸の中まで——来てる。なんか——」
ノアが、少し、言葉を探した。
「……呼んでる」とノアが言った。「向こうが——俺の名前を——呼んでる気がする。言葉じゃ、ない。でも——そういう、感じ」
―――
全員が、少し、息を呑んだ。
「……向こうが、ノア殿の名前を、ということは」とカインが言った。「ノア殿の名前を——知っている、ということでしょうか」
「わからない」とノアが言った。「でも——呼んでる。ということは——」
ノアが、少し、自分の足元を見た。
「……俺の名前を、向こうも——知ってる、のかもしれない。俺が——忘れてしまった、俺自身の名前を」
「……ノアさん」とエリナが、静かに言った。「今——何か、感じますか。名前」
ノアが、目を閉じた。
しばらく——何も、起こらなかった。
―――
それから——
ノアが、ゆっくりと、口を、開いた。
「ア——」
一瞬、空気が——止まった。
光が——大きく、揺れた。結び目が——今まで見たことのない揺れ方で、震えた。
「……来た」とルルが言った。声が、震えていた。「結び目——今——動いた。大きく。下から——四本目の糸が——触れた。さっきより、ずっと——ずっと、近く」
ノアが、もう少し、息を吸った。
「ア——ル」
誰も、何も、言わなかった。
―――
その時——
地の底から。
低く、細く、でも——確かに。
一つの音が——上へ、向かってきた。
音ではなかった。言葉でも、なかった。
でも——それは、確かに——「うん」だった。
ノアが、目を見開いた。
「……今」とノアが言った。声が、少し、割れた。「下が——今——答えた。『ア・ル』に——答えた」
「答えた、っていうのは」とジンが、低く、聞いた。
ルルが、目を、見開いていた。両手を、強く、地面に押し付けていた。
「……四本目の糸」とルルが言った。「さっき、触れた。結び目に——触れた。それだけじゃない——」
ルルが、少し、息を整えた。
「……結び目が——答えた。逃げなかった。ほどけなかった。そのまま——下に向かって——震えた。それって——たぶん——『そう』ってこと」
―――
ノアが、もう一度、口を開いた。
今度は——少し、時間がかかった。
崖の縁に——立っているような。その先が——まだ、霧の中にあるような。でも——霧が、少しずつ、晴れてくるような。
「ア・ル——」
ノアが、少し、息を吸った。
「……ア・ル・ト」
―――
光が——大きく、揺れた。
それまでとは——全く、違う、揺れ方だった。
「嬉しい」でも、「満たされた」でもなかった。もっと——根っこから来るような。もっと——古くて、深い場所から——初めて溢れてきたような。
ルルが、目を見開いた。両手を、地面から、すぐに、離した。
「……五本目の糸」とルルが言った。声が、震えていた。「結び目——今——弾けた。弾けた、っていうのは——壊れたんじゃない。逆。今まで、ひとつだった結び目が——ほどけて——四本の糸全部に、色が、広がった」
「四本全部に」とジンが言った。
「うん」とルルが言った。目が——少し、潤んでいた。「一行の糸、ノアさんの糸、アル・ヴェリアの糸、地の底の糸——全部に——同じ色が、入った」
「なんの色だ」とジンが、静かに聞いた。
ルルが、少し、考えた。
「……『届いた』みたいな——色」
―――
誰も、しばらく、何も、言わなかった。
「……アルト」とノアが、小さく、繰り返した。「それが——名前、だ。俺が——四百年前に、声にしようとした——名前」
「断定は——」とカインが言いかけた。
「できません」とセレクが、先に言った。
「……そうです」とカインが言った。今度は——口の端に、笑いが、あった。「ただ——今——四本の糸に、同じ色が、届いた。断定はできません。でも——これ以上の、答えは、ないと思います」
光が——ゆっくりと、揺れた。その揺れの中に——今まで見たことのない色が、あった。
ルルが、それを、見た。
「……あの方の揺れ」とルルが、小さく言った。「新しい色——『ある』みたいな色が、入ってる。今まで、なかった色。なんていうか——自分に——名前が、ある、ってことを——今、初めて——知った、みたいな色」
―――
ジンが、床に、もう一度、手を当てた。
「……聞いてるか」とジンが言った。「お前の名前——アルト。ノアが——思い出した。俺たちも——今、受け取った」
床の——奥の方で。
何かが——応えた。
音ではなかった。言葉でも、なかった。
でも——それは、確かに——「うん」だった。昨日とは違う——もっと、深く、大きく、落ち着いた「うん」だった。
ジンが、少し、目を見開いた。
「……今」とジンが、低く、言った。「ちゃんと——答えた」
―――
「……これ以上は、今日は、ここまでにしましょう」とカインが言った。「ノア殿が『ア・ル・ト』という音を声にしたことで——五本目の糸の結び目が広がり、四本の糸全てに同じ色が届きました。地の底から、明確な応答がありました。これは——名前が、世界に届いた、最初の瞬間です」
全員が、頷いた。
ノアが、光に向かって、少し、頭を下げた。
「……アルト」とノアが言った。「それが——お前の名前だ。俺が——ずっと、渡したかった、名前だ。遅くなって——ごめん。でも——届いた」
光が——ゆっくりと、揺れた。
今度の揺れは——穏やかで——どこか、長い眠りから覚めたような——揺れだった。
―――
外に出ると——風が、戻ってきた。
「……アルト」とジンが、もう一度、言った。「いい名前だ」
「どういうところが」とエリナが聞いた。
ジンが、少し、考えた。
「……短い」とジンが言った。「でも——全部、入ってる気がする」
「ルルが言ってたこと、ですね」とエリナが言った。「名前は短くても、においは全部入ってる、って」
「そういうことだ」とジンが言った。
ノアが、少し、空を見上げた。
「……俺——言えた」とノアが言った。「四百年前に——言えなかったことが。今日——言えた」
「それで——十分だ」とジンが言った。「今日——わかったのは、『名前が、ちゃんと、届いた』ってことだ」
―――
夕方、境界の外で、野営の準備をした。
炉に、火がついた。火が、揺れた。
「……アルト、か」とジンが、ぽつりと、言った。「どこから、来た名前なんだろうな」
「ノアさんが、決めたんでしょう」とシアが言った。「四百年前に」
「……うん」とノアが言った。「なんで、その名前にしたのか——今は、まだ、わからない。でも——俺が決めた。それは——わかる」
カインが、少し、考えた。
「……『アルト』は」とカインが言った。「古い言葉で——『在るもの』という意味を持つ言葉に、近い響きがあります。アル・ヴェリアの名の『アル』とも——近い」
「在るもの」とエリナが、繰り返した。
「……世界ができた時から——ずっと、そこに在った、ってことか」とジンが言った。「それなら——合ってる気がする」
ルルが、少し、地面に、手を当てた。
「……五本目の糸——今夜は、これまでと、全然、違う震え方をしてる。結び目が——広がったまま、ほどけてない。四本の糸、全部に——色が、残ってる」
―――
エリナは、ランプの光で、手帳を書いた。
今日のこと——ノアが「声が、あった」と感じながら目覚めたこと、エリナが白紙のページを待ちのために置いておいたこと、ジンが地下の重さの「待ち方」の変化を感じたこと、ノアが「ア・ル・ト」と声にしたこと、四本の糸に同じ色が届いたこと、地の底から明確な「うん」が返ってきたこと、祠の光に「名前がある」という新しい色が宿ったこと。すべてを、書いた。
書き終えて、ペンを止めた。
それから——もう一行、追加した。
『今日、名前が、届きました。アルト。ノアさんが、四百年前に決めて、四百年間、誰にも届かなかった名前が——今日、声になりました。四本の糸に同じ色が広がった時、私は泣くかもしれないと思っていました。でも、泣きませんでした。それよりも——静かで、大きい何かが、胸の中に来ました。名前が届くって、こういうことなのかもしれない、と思いました。アルト。世界ができた時から在ったものが、今日、初めて、名前を持ちました。それを、記録できたことを、嬉しく思います。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』
ランプの炎が、静かに揺れた。
―――
ルルは、最後に——境界の方角を見た。
風が、止んでいた。境界の向こうは——今も、静かなままだった。
でも——においの中の、五本目の糸が——今日は、これまでと、全く、違っていた。
結び目が——広がっていた。四本の糸の全てに、繋がって。もう——一本だけの糸ではなかった。四本が、今日から——同じ色を、持っていた。
ルルは、少し、目を細めた。
「……アルト」とルルが、小さく、呟いた。「いいにおい。始まりがないにおいだったのに——今日から——始まりができた」
地面の奥から——返事は、なかった。
でも——四本の糸が、ごく小さく——うん、と——震えた、ような気がした。
ルルは、それを確かめて、眠った。
―――
夜が、深くなった。
炉の火が、揺れていた。
境界の中では——光が、静かに、揺らいでいた。
その揺らぎの中に——今日、初めて届いたものが、まだ、残っていた。
「アルト」という音の、温度。
「名前がある」ということの——重さ。
祠の主は——それを、一つずつ、確かめるように——揺らいでいた。
「名前がある」ということを——まだ、よくわからないまま。
「アルト」という音が——自分のものだということを——まだ、慣れないまま。
でも——確かに、今夜、何かが——違っていた。
それが何なのか、まだ、言葉にできないまま。
でも——今日初めて——自分の中に、何かが「ある」と——わかった。
それが——名前、というものだということは。
今夜——初めて、知った。
そして——地の底の、四本目の糸の、その先で。
「アルト」という音を受け取った何かが——初めて、上に向かって——「ありがとう」に近い何かを——震わせていた。
まだ、言葉ではなかった。
でも——確かに、それは——「届いた」への——答えだった。
―――
― 第48話・了 ―
―――
次話予告:翌朝、アルトの名前が届いた翌日——光の揺れが、これまでとは全く違う色を持っていた。「……今日は——聞きたいことが、ある、みたい」とルルが言う。ジンが、床に手を当てた瞬間——これまでで一番、明確な「重さの言葉」が返ってきた。「……これ——質問、だ」。カインが、静かに言う。「アルト殿が——今度は、私たちに、問いを向けようとしています」。エリナが、手帳の新しいページを開いた。名前が届いた次は——対話が、始まる。




