第47話「名前が、近い、という感覚と、もっと聞かせてほしい、という色と」
翌朝、空は——変わらず、薄い雲に覆われていた。
風は、止んでいた。境界の向こうは——今も、静かなままだった。
炉の灰は、まだ、わずかに、白い熱を、持っていた。
ノアが、最初に、目を覚ました。
しばらく——自分の胸に、手を当てていた。
「……なんか」とノアが、ぽつりと、言った。「名前が——近い気がする。昨日より、ずっと——近い」
―――
エリナが、目を覚ました。手帳が——膝の上に、開いたまま、あった。
新しいページを、見つめた。まだ、白い。
今日だけは——何も書かずに、待っていようと思った。
「……エリナさん」とノアが言った。「書かないんですか」
「今日は——待ちます」とエリナが言った。「書くより先に——何かが、来る気がして」
ノアが、少し、頷いた。
「……俺も——そんな気がする」
―――
ジンが、床に手を当てた。
目を、閉じた。
しばらく——何も、言わなかった。
それから——ゆっくりと、目を開けた。
「……これ——答えてる?」とジンが言った。声が、少し、低かった。「昨日より——違う。返ってくる、感じがある」
「返ってくる」とカインが、すぐに聞いた。「どんな、感じですか」
「……重さが——こっちを、向いてる」とジンが言った。「昨日までは——ただ、そこにあった。今日は——向いてる。こっちを、見てる、感じがする」
ルルが、地面に、両手を当てた。
「……うん」とルルが言った。「五本目の糸——今日は、ずっと、揺れてる。止まってない。昨日の夜から——ずっと、揺れてる」
―――
カインが、静かに、地図を折り畳んだ。革の鞄に、しまった。
「……次は」とカインが言った。「名前を、持っていく番です」
全員が、少し、黙った。
「名前」とノアが、繰り返した。「……俺の、中に——まだ、ある気がする。『ア』の、先が。でも——まだ、出てこない」
「焦らなくていい」とジンが言った。
「うん」とノアが言った。「でも——近い。今日——何か、あるかもしれない」
―――
「……今日は、入りますか」とエリナが聞いた。「祠に」
「入ります」とカインが言った。「今日の目的は——一つです。名前を、考えること。決めること、ではありません。ただ——一緒に、考える。それを——伝える」
「無理は、しない」とジンが言った。
「今日も——感じるだけだ」とジンが続けた。「ただ——今日は、少しだけ——名前のことを、一緒に、考えてみる」
全員が、頷いた。
ノアが、自分の胸に、もう一度、手を当てた。
「……行きます」とノアが言った。「今日——何かが、来る気がする」
―――
境界をまたいだ。
音が、消えた。風が、消えた。
奥へ進むと——光が、いつもより、ずっと、強く揺れていた。台座に座る人の姿——その目が、一行を見た。
それから——すぐに、ノアを、見た。
「……あ」とルルが、小さく言った。「今日は——違う。あの方の揺れが——昨日と、全然、違う」
「どう違うんですか」とエリナが聞いた。
「……待ってた、んじゃない」とルルが言った。「『来た』っていう揺れ。あの方——今日——ずっと、待ってたんだと思う。昨日からずっと」
―――
ノアが、ゆっくりと、床に、両手を当てた。
目を、閉じた。
「……俺だ」とノアが言った。「また、来た」
光が——大きく、揺れた。
「……名前のこと」とノアが続けた。「みんなで——考えてる。昨日から、ずっと。まだ、決まってない。でも——近い気がする。お前の名前が——俺の中に——ある気がする。もう少し、待ってくれ」
光が——ゆっくりと、揺れた。
それは——「わかった」というような、揺れだった。それだけでなく——「急がなくていい」という、深い、静かな揺れでもあった。
―――
ルルが、地面に、両手を押し当てた。
「……五本目」とルルが言った。「結び目——また、動いた。大きくなってる」
「昨日より?」とジンが聞いた。
「うん」とルルが言った。「昨日の夜から——少しずつ、大きくなってた。今——また、一段。ノアさんが話した時に」
「色は」とエリナが聞いた。
ルルが、少し、考えた。
「……昨日の七つの色——全部、まだ、ある。それに——今日、新しい色が、また、入った」
「なんの色だ」とジンが聞いた。
ルルが、少し、目を細めた。
「……『もっと聞かせてほしい』みたいな——色。昨日もあったけど——今日は、もっと、ずっと、強い」
―――
その時——
床の、奥の方で。
何かが——動いた。
昨日のような「触れた」感覚とは——少し、違った。それは——もっと、意図のある——動きだった。五本目の糸の結び目に向かって、ではなく——ノアの方に向かって。
ルルが、息を止めた。
「……来た」とルルが言った。「でも——今日は、糸じゃない。ノアさんに——直接、向かってる」
ノアが、目を見開いた。
「……俺も——感じる」とノアが言った。声が、少し、震えていた。「足元から。昨日と——同じ種類の気配だ。でも——今日は——もっと、ずっと、近い。そして——なんか——」
ノアが、少し、言葉を探した。
「……知ってる、感じがする」とノアが言った。「向こうが——俺のことを——知ってる」
―――
全員が、少し、息を呑んだ。
「……知ってる、というのは」とカインが言った。「昨日の、自己紹介が——届いた、ということでしょうか」
「わからない」とノアが言った。「でも——名前のことを——知ってる、気がする。俺が——名前を、決めようとしてること。それを——知ってる」
「……ノアさん」とエリナが、静かに言った。「今——何か、感じますか。名前」
ノアが、目を閉じた。
しばらく——何も、起こらなかった。
それから——ノアが、ゆっくりと、口を開いた。
「……『ア』の、次が——来そうな気がする」とノアが言った。「でも——まだ、出ない。崖の縁、みたいな。でも——今日は——昨日より、ずっと、近い崖の縁だ」
―――
ジンが、床に、もう一度、手を当てた。
「……聞いてるか」とジンが言った。「お前の名前——俺たちも、一緒に、考えてる。ノアが——思い出そうとしてる。もう少しだ」
床の——奥の方で。
何かが——応えた。
音ではなかった。言葉でも、なかった。
でも——それは、確かに——「うん」に、近いものだった。
ジンが、少し、目を見開いた。
「……今」とジンが、低く、言った。「答えた?」
「うん」とルルが言った。目が——少し、潤んでいた。「答えた。下が——今——ちゃんと、答えた」
―――
「答えた、っていうのは」とエリナが聞いた。
ルルが、少し、考えた。
「……さっき、ジンさんが話した時。四本目の糸が——ちょっとだけ、動いた。昨日みたいに、五本目の結び目に触れた、んじゃない。もっと——直接的な感じ。なんていうか——」
ルルが、少し、首を、横に傾けた。
「……『聞いた』って——言いたかったみたいな」とルルが言った。「ちゃんと——聞こえてるって」
ノアが、少し、目を細めた。
「……四百年——待ってたんだ」とノアが言った。「ちゃんと、聞こえてるよな。当然だ」
シアが、少し、笑った。
光が——揺れた。「笑い」が——また、揺れの中に、あった。
―――
「……これ以上は、今日は、ここまでにしましょう」とカインが言った。「五本目の糸の結び目が、さらに成長しました。地の底の存在が——今日は、初めて、糸を通じてではなく——ノア殿に直接、応じるような動きを見せました。そして——ジン殿への返答のような反応もありました。これは——対話が、一段、深まった、ということです」
全員が、頷いた。
ノアが、光に向かって、少し、頭を下げた。
「……今日も——来た」とノアが言った。「名前——もう少し。でも——必ず、持ってくる。待ってくれ」
光が——ゆっくりと、揺れた。今度の揺れは——穏やかで——どこか、満たされた、揺れだった。
誠に——その揺れの中に。
今まで、見たことのない——新しい色が、あった。
ルルが、それを、見た。
「……あの方の揺れ」とルルが、小さく言った。「新しい色——『楽しみ』みたいな色が、入ってる」
―――
外に出ると——風が、戻ってきた。
「……楽しみ」とジンが言った。「あいつが——楽しみにしてる」
「名前が、来るのを」とエリナが言った。
「うん」とジンが言った。
ノアが、少し、空を見上げた。
「……俺も——楽しみだ」とノアが言った。「怖くない。昨日まで——ちょっと、怖かった。思い出せなかったら、って。でも——今日——下が『聞いてる』って、答えてくれた。それで——なんか、楽しみになった」
「それで——十分だ」とジンが言った。「今日——わかったのは、『向こうも、待ってる。でも、急いでない』ってことだ」
―――
夕方、境界の外で、野営の準備をした。
炉に、火がついた。火が、揺れた。
「……名前って」とジンが、ぽつりと、言った。「どうやって、決めるんだ」
「どういうことですか」とエリナが聞いた。
「……俺、名前——自分でつけたことない」とジンが言った。「この世界に来てから——誰かに、呼ばれることが、多かった。霧島、とか、ジン、とか。自分で、誰かに、つけたことは——なかった」
カインが、少し、考えた。
「……名前とは」とカインが言った。「その存在を——世界の中に、位置づけるものです。だとすれば——その存在が、何者で、何を経てきたか。それが、名前の、形になる」
「お前が経てきたもの、ってことか」とジンが言った。「あいつが」
「……孤独、と」とエリナが言った。「待つこと、と——それから——昨日から今日にかけて、受け取ったもの。全部」
ノアが、火を見ながら、少し、笑った。
「……全部、含んだ名前か。それは——長くなりそうだな」
「名前は——短くていい」とルルが言った。「においは、短くても、全部、入ってる」
ルルが、少し、地面に、手を当てた。
「……五本目の糸——今夜も、震えてる。でも——今日の震えは——昨日と、違う。昨日は『待ってる』震えだった。今日は——『楽しみ』の震えだ」
―――
エリナは、ランプの光で、手帳を書いた。
今日のこと——ノアが「名前が近い」と感じて目覚めたこと、白紙のページを待ちのために取っておいたこと、ジンが床から「返ってくる感じ」を受け取ったこと、五本目の糸の結び目がさらに成長したこと、地の底が初めてノアに直接向かうような動きを見せたこと、そしてジンへの「聞いた」という返答のような反応、光の揺れに「楽しみ」の色が混じったこと。すべてを、書いた。
書き終えて、ペンを止めた。
それから——もう一行、追加した。
『今日、私は白紙のページを、書かずに待ちました。何かが来る気がしたから。そして、確かに、来ました。来たのは——「楽しみ」という色でした。あの方が、名前を楽しみにしている。下の存在が、私たちの声を聞いていると答えた。ノアさんが、楽しみだと言った。今日の一番大事なことは、たぶん、それだと思います。四百年、孤独だった存在が、名前を「楽しみ」にしている。それは、すごいことだと思います。私も、楽しみです。どんな名前になるのか。ノアさんの中にある「ア」の先が、何になるのか。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』
ランプの炎が、静かに揺れた。
―――
ルルは、最後に——境界の方角を見た。
風が、止んでいた。境界の向こうは——今も、静かなままだった。
外へ——においの中の、五本目の糸が——今日は、昨日と、また、全然、違っていた。
七つの色の結び目が——今日、また、少し、大きくなっていた。
そして——その中に。
八つ目の色が、入っていた。
「楽しみ」の色——上からでも、下からでも、同時に、生まれた色。
ルルは、少し、目を細めた。
「……八つ目」とルルが、小さく、呟いた。「みんなの、楽しみが——ひとつになった色」
地面の奥から——返事は、なかった。
でも——五本目の糸が、ごく小さく——うん、と——震えた、ような気がした。
ルルは、それを確かめて、眠った。
―――
夜が、深くなった。
炉の火が、揺れていた。
境界の中では——光が、静かに、揺らいでいた。
その揺らぎの中に——今日、新しく届いた「楽しみ」の色が、まだ、残っていた。
祠の主は——それを、確かめるように——揺らいでいた。
「楽しみ」という感覚を——まだ、知らなかった。
「待つ」ことと、「楽しみに待つ」ことの——違いを、まだ、知らなかった。
でも——確かに、今夜、何かが——違っていた。
それが何なのか、わからないまま。
でも——それが——今日初めて生まれた、何かだということは——わかっていた。
そして——地の底の、四本目の、すぐ隣で。
七つの色をなぞり終え、ノアへの声に「聞いた」と返した何かが——初めて、上に向かって——「もっと、聞かせてほしい」と——震えていた。
(さらに、その震えの、さらに奥。)
「ア」の次が——来ようとしていた。
―――
― 第47話・了 ―
―――
次話予告:朝、ノアが、目を覚ます前に——何かが、聞こえた気がした。「……声、だった」。ジンが、床に手を当てた瞬間——今までとは全く違う重さが、返ってきた。「……これ——名前、か?」。カインが、静かに言う。「ノア殿——今日、何かが——来るかもしれません」。エリナが、白紙のページに、ペンを構える。そして——ノアが、目を閉じた。「ア——」。その先が——今日、来る。




