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無詠唱の魔王  作者: Dちゃん
第四章「西へ続く道の話」

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第44話「まだ、いるか、という問いと、五本目の糸」

翌朝、空は——変わらず、薄い雲に覆われていた。


風は、止んでいた。境界の向こうは——今も、静かなままだった。


炉の灰は、まだ、わずかに、白い熱を、持っていた。


ノアが、目を覚ました。今日は——すぐに、上半身を起こした。顔色は——昨日より、ずっと、落ち着いていた。


「……今日は」とエリナが、そっと、聞いた。「顔色が——いいですね」


「うん」とノアが言った。「今度は——ちゃんと、覚えてる」


―――


「夢、ですか」とカインが、静かに聞いた。


「うん」とノアが言った。「同じ、声だった。遠くて——低くて——古い、声。でも——今度は、少し、わかった」


「何が、わかったんですか」とジンが聞いた。


ノアが、少し、目を閉じた。


「……聞かれたのは——『名前』のことじゃない」とノアが言った。「もっと——別のことだ」


全員が、ノアを見た。


―――


「では——何を、聞かれたんですか」とエリナが聞いた。


ノアが、少し、考えた。


「……『まだ、いるか』」とノアが言った。「そう、聞かれてる気がした。何度も。同じ言葉で」


「『まだ、いるか』」とエリナが、繰り返した。「——誰に対して、ですか」


「わからない」とノアが言った。「俺に、なのか。それとも——別の、誰かに、なのか。両方、なのか。とにかく——その問いは、ずっと、繰り返されてた。何度も、何度も。すごく——古い、繰り返しだった」


ジンが、少し、自分の手を見た。


「……それで——お前は、答えたのか」とジンが聞いた。


「うん」とノアが言った。「答えた。でも——言葉じゃなかった。なんか——胸の中で、『うん』って——そういう感じ」


「向こうは——どうなった?」


「……ちょっと、安心したような——感じがした」とノアが言った。「それで——目が覚めた」


―――


「……『名前』を、聞く」とカインが、ゆっくりと、言った。「それは——『自分が、何であるか』を、知りたい、という問いです。でも——『まだ、いるか』は——それより、もっと——根本的な問いです」


「根本的、というのは」とエリナが聞いた。


「『存在するかどうか』、そのものを——確かめる問いです」とカインが言った。「名前を持つ、ということの——さらに、手前にある、問い」


セレクが、少し、目を閉じた。


「……もし、層が——下に行くほど、古いなら」とセレクが言った。「問いも——下に行くほど、古い、形をしているのかもしれません。『名前』は——比較的、新しい形の、問いです。『まだ、いるか』は——それより、もっと、原初的な——問いの、形」


ジンが、少し、考えながら、言った。


「……俺の、問いも」とジンが言った。「『世界が、流れ続けることを、望むか』。それも——元は——『まだ、いるか』、だったのかもしれない」


シアが、少し、声を、和らげて言った。


「……ジン」とシアが言った。「お前、たまに——すごいこと、言うよな」


「シアに、似てきたんだ」とジンが言った。


「それ、もう、聞いた」とシアが、すぐに、言った。声には——笑いが、混じっていた。


―――


カインが、地図を広げた。「名を持たぬ場所」の印を——指で、なぞった。


「……もし」とカインが言った。「下にいるものたちが——それぞれ、違う問いを、持っているなら。私たちは——一つずつ、答えていく必要があります。『名前』、『まだ、いるか』——その先に、また、別の問いが——あるかもしれません」


「全部、答えられるのか」とジンが言った。


「わかりません」とカインが言った。「ただ——もし、層が、いくつもあるなら——一つずつ、確実に、進む以外に、方法はないと思います」


セレクが、少し、考えた。


「……記録を——もう一度、見せていただけますか」とセレクが言った。


―――


セレクが、教会の記録の写しを——もう一度、開いた。古い、革表紙の、写し。ページを、ゆっくりと、めくった。


しばらく——静かな、時間が、続いた。


「……あの」とセレクが、ふいに、言った。声が、少し、震えていた。


全員が、セレクを見た。


「……今まで、見落としていた、一文があります」とセレクが言った。「『名を持たぬ場所』、『さらに、その下にも——同じものがある』。その、後に——もう一行」


「なんて——書いてあるんですか」とエリナが、急いで聞いた。


セレクが、少し、目を伏せた。


「……『問いは、ひとつではない』」とセレクが、ゆっくりと、読み上げた。「『されど——応える声は、ひとつでよい』」


―――


炉の灰が、少し、崩れた。


「……『応える声は、ひとつでよい』」とエリナが、繰り返した。「それは——一人が、答えれば——いい、ということですか」


「あるいは」とカインが言った。「——『同じ、声』であれば、いい、ということかもしれません。問いの、形が、違っても——応える側の、想いが——同じなら」


ノアが、少し、自分の胸に、手を当てた。


「……俺の、『うん』」とノアが、小さく、言った。「あれで——よかったのか、な」


「よかったんだと思う」とジンが言った。「向こうが——安心したんだろ」


「焦らなくていい」とジンが、続けて言った。「今日——確かめよう。同じことを——もう一度、伝えられるか」


―――


「……今日は、入りますか」とエリナが聞いた。「祠に」


「入ります」とカインが言った。「ただ——今日は、何かを、確かめに行くわけではありません。ノア殿が——夢の中で、『うん』と、答えたこと。それを——今度は、起きている状態で、もう一度——伝える。それだけです」


「無理は、しない」とジンが言った。「今日も——重さを、感じるだけだ」


全員が、頷いた。


―――


境界をまたいだ。


音が、消えた。風が、消えた。


奥へ進むと——光が、いつもより、わずかに——深く、揺れていた。台座に座る人の姿——その目が、すでに、開いていた。


目が——一行を見た。それから——ノアを、見た。揺らぎが——いつもより、少し、複雑だった。「待っていた」というのと——もう一つ、何かを、気にしているような——揺れだった。


「……今日も、来た」とノアが、小さく、言った。「今日は——お前にじゃなくて——もっと、下に、伝えたいことがある。いいか」


光が——少し、揺れた。応えるような、揺れだった。


―――


ノアが、ゆっくりと、しゃがみこんだ。床に、両手を、当てた。


目を、閉じた。


しばらく——何も、起こらなかった。


それから——ノアが、静かに、口を、開いた。


「……まだ、いるよ」とノアが言った。「俺たちは——まだ、ここにいる」


―――


その瞬間——


床の——奥の方で。


何かが、応えた。


今までの、低く、重い——響きとは、違った。それは——もっと、柔らかかった。まるで——長く、止めていた息を、ゆっくりと、吐くような——感覚だった。


ジンが、すぐに、床に——手を当てた。


目を、閉じた。


「……軽くなった」とジンが、低く、言った。「さっきまでより——少しだけ。重さが——緩んだ、感じがする」


「緩んだ、というのは」とカインが聞いた。


「……全部じゃない」とジンが言った。「ほんの、少しだけ。でも——確かに。なんか——『よかった』、みたいな——重さの、変化だ」


―――


光が——揺れた。


それは——これまでに、見たことのない——揺れ方だった。


ルルが、少し、目を見開いた。


「……あの方も——感じてる」とルルが言った。「下が——少し、柔らかくなったの、わかってる。あの方の——においに——あったかい色が、増えた」


「あったかい色」とエリナが聞いた。


「うん」とルルが言った。「『下を、思う』色——あれが、もっと——強くなった。なんていうか——『一緒に、安心してる』、みたいな」


―――


その時——ルルが、少し、目を見開いた。鼻を、大きく、動かした。


「……あ」とルルが言った。


「どうした?」とジンが、すぐに聞いた。


ルルが、しばらく、黙っていた。それから——少し、戸惑ったような顔をした。


「……もう一本——糸が、増えた」とルルが言った。


「もう一本」とエリナが、繰り返した。「四本目の——先に、ですか」


「ううん」とルルが言った。「違う。今までの——どの糸とも、違う」


―――


「違う、というのは」とカインが聞いた。


ルルが、少し、考えた。


「……古くない」とルルが言った。「むしろ——すごく、新しい。今——できた、ばかりの、糸」


「今、できた」とジンが、繰り返した。


「うん」とルルが言った。「ノアさんが、『まだ、いるよ』って——言った時。床から——四本目の糸が、応えた時。その——間に。新しい糸が——一本、できた」


「どこに、繋がってるんですか」とエリナが聞いた。


ルルが、少し、地面を見た。それから——首を、横に、振った。


「……わからない」とルルが言った。「下じゃない。上でもない。なんか——横、っていうか——」


ルルが、少し、考えた。


「……『今』、っていう、方向」とルルが言った。


―――


誰も、すぐには——言葉が、出なかった。


「……時間方向の、糸、ということでしょうか」とセレクが、静かに聞いた。


「断定はできません」とセレクが言った。「ですが——もし、そうなら。私たちが——今、ここで、行ったこと、そのものが——新しい糸を、生み出した、ということになります」


「……それって」とジンが言った。「俺たちが——何か、作った、ってことか」


「あるいは」とカインが言った。「——『結び目』が、また、一つ、増えた、ということかもしれません。断絶の崖で、ジン殿が——新しい結び目になった、というのと——同じ、種類のこと」


―――


「……これ以上は、今日は、ここまでにしましょう」とカインが言った。「四本目が——応えました。そして——新しい、五本目の糸が、生まれました。これは——これまでとは、種類の違う、進展です」


全員が、頷いた。


ノアが、光に向かって、少し、頭を下げた。


「……今日は、ありがとう」とノアが言った。「また、来る」


光が——ゆっくりと、揺れた。今度の揺れは——穏やかで——どこか、あたたかかった。


―――


外に出ると——風が、戻ってきた。


「……新しい、結び目」とシアが、ぽつりと、言った。「また、できたのかもしれない。あたしたちが——ここにいることで」


「俺たちが、ここにいるから——できた糸、ってことか」とジンが言った。


「断定はできません」とセレクが言った。「ただ——可能性としては、否定できません」


エリナが、少し、考えた。


「……もし、そうなら」とエリナが言った。「私たちが——これから、何をするかで——その糸も——変わっていく、ということですよね」


「うん」とルルが言った。「まだ——細い。でも——確かに、ある」


―――


夕方、境界の外で、野営の準備をした。


炉に、火がついた。火が、揺れた。


ノアは、火を見ながら——少し、自分の手のひらを、見ていた。


「……『まだ、いるか』」とノアが、ぽつりと、言った。「あの問い——なんか、俺だけのものじゃない、気がする」


「どういうことだ」とジンが聞いた。


「……みんなにも——聞かれてる気がする」とノアが言った。「いや——みんな、っていうか。世界中の——色んなものに。ずっと、昔から。何度も」


「俺にも,、聞かれてる、ってことか」とジンが言った。


「うん」とノアが言った。「で——お前は、もう、答えてるじゃないか。観測地で。『世界が、流れ続けることを、望む』って」


ジンが、少し、考えた。


「……そうかもな」とジンが言った。


「焦らなくていい」とジンが、続けて言った。「今日、わかったのは——『応える声は、ひとつでよい』、ってことだ。それで——十分だ」


ノアが、少し、笑った。「……お前、本当に——シアに似てきたな」


「もう、いいって」とシアが、すぐに、言った。だが——声には、笑いが、混じっていた。


―――


エリナは、ランプの光で、手帳を書いた。


今日のこと——ノアが夢の中で聞いた問いが「名前」ではなく「まだ、いるか」だったこと、セレクが見つけた記録の続き「問いはひとつではない、されど応える声はひとつでよい」、ノアが床に向かって「まだ、いるよ」と伝えたこと、四本目の糸が初めて穏やかに応えたこと、そして——新しく生まれた、五本目の糸。すべてを、書いた。


書き終えて、ペンを止めた。


それから——もう一行、追加した。


『今日、私たちは、初めて——「答える」ということをしました。問いの形は、わかりません。微、セレクさんが見つけた言葉のおかげで、答え方は、わかりました。「ひとつでよい」。それは、たぶん、私たちみんなのことだと思います。一人が答えるんじゃなくて、みんなの想いが、ひとつの「うん」になる。それで、いいんだと思います。そして、今日、新しい糸が生まれました。古い糸とは違う、「今」という方向に伸びる糸。それが何なのか、まだ、わかりません。でも、もし、それが私たちの行いから生まれたものなら——これからの私たちの一歩一歩が、その糸を、育てていくのだと思います。怖さより、楽しみのほうが、少しだけ、大きいです。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』


ランプの炎が、静かに揺れた。


―――


ルルは、最後に——境界の方角を見た。


風が、止んでいた。境界の向こうは——今も、静かなままだった。


でも——においの中に、五本の糸が、感じられた。


西から伸びる、二本の糸。地の底から伸びる、三本目の糸。さらに深いところから伸びる、四本目の糸。そして——「今」という方向に伸びる、五本目の、まだ細い糸。


五本とも——今は、少しだけ、震えていた。それぞれの、震え方で。


ルルは、少し、地面に、両手を当てた。それから——自分の、胸に、手を当てた。


「……あ」とルルが、小さく言った。


五本目の糸——その、片方の先が、見えた。


地面の中じゃ、なかった。


すぐ、そこに——ルルたち自身の、足元に。


「……繋がってる」とルルが、呟いた。「五本目——もう片方の先は——私たちだ」


ルルは、それを確かめて、眠った。


―――


夜が、深くなった。


炉の火が、揺れていた。


境界の中では——光が、静かに、揺らいでいた。


その揺らぎの中の——「下を思う」色が、今夜は、少しだけ、明るかった。


そして——その揺らぎの、ずっと、奥の方——四本目の、向こう側で。


何かが——初めて、目を閉じて、休んでいた。


眠り、ではなかった。


でも——それは、確かに——「休息」だった。


「休息」だった。


そして——その、さらに奥。まだ、誰も、見たことのない、深さで。


五本目の糸の、もう片方の端が——静かに、波紋を、広げていた。


―――


― 第44話・了 ―


―――


次話予告:翌朝、カインが、五本目の糸について——新たな仮説を語る。「……もし、これが、私たち自身から伸びる糸なら」。セレクが、もう一度、記録の、その先を、確かめようとする。「……まだ、何か、書かれているかもしれません」。ルルが、地面に当てた手を、ふと、止める。「……糸が——揺れた。五本目が——揺れた」。ノアが、自分の足元と、自分の胸を、両方、見る。「……俺たちが、聞かれてるのかもしれない」。地の底の、四本目の、すぐ隣で——何かが、初めて、五本目の糸に——触れた。

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