第43話「夢で聞いた声と、続きの記述と、地の底の最初の声」
いつも『無詠唱の魔王』をお読みいただき、本当にありがとうございます!
おかげさまで、本作の総ページビュー(PV)が1000PVを突破いたしました!
日頃から読んでくださる皆様、そして最近見つけて一気に読み進めてくださった皆様のおかげです。本当に励みになります。
これからも魔王たちの物語をじっくり描いていきますので、引き続きお付き合いいただけると嬉しいです。それでは、最新話をお楽しみください!
翌朝、空は——変わらず、薄い雲に覆われていた。
風は、止んでいた。境界の向こうは——今も、静かなままだった。
炉の火は、もう、燃え尽きかけていた。灰が、白く、積もっていた。
ノアが、目を覚ました。すぐには——起き上がらなかった。仰向けのまま、しばらく、空を見ていた。
「……ノアさん?」とエリナが、そっと、聞いた。「顔色が——少し」
ノアが、ゆっくりと、上半身を起こした。額に、手を当てた。
「……夢を、見た」とノアが言った。
―――
「夢、というのは」とカインが、静かに聞いた。
ノアが、少し、目を閉じた。それから——開いた。
「……誰かが、俺に——同じことを、聞いてた」とノアが言った。「四百年前と——同じ、声で」
「同じ、声」とジンが、繰り返した。
「うん」とノアが言った。「夢の中で——俺は、どこかにいた。暗い。すごく——暗い。でも——怖くなかった。その中で——誰かが、聞いてきた」
「何を、聞かれたんですか」とエリナが聞いた。
ノアが、少し、首を振った。
「……それが——わからない」とノアが言った。「言葉は——覚えてない。でも——声は、覚えてる。低くて——ゆっくりで——すごく、古い声だった。それで——俺は、答えようとした。でも——目が覚めた」
「四百年前と——同じ声、というのは」とセレクが聞いた。「以前——ノア殿が思い出した、『楽しみにしていた』時の記憶。そこに出てきた、『低く落ち着いた年上の男の声』のことでしょうか」
ノアが、少し、考えた。
「……違う」とノアが言った。「あの声は——もっと、近かった。隣にいる感じ、だった。今日の——夢の声は——遠い。すごく、遠い。でも——確かに、聞いたことがある」
ルルが、少し、目を細めた。鼻を、動かした。
「……足元と、同じにおいがする」とルルが言った。「昨日、ノアさんが、地面に手を当てた時。あの時の——においと、同じ」
―――
全員が、少し、黙った。
ジンが、最初に、口を開いた。
「……四百年前、ノアが——名前を、決めようとしてた時」とジンが言った。「その時、すでに——下のやつが、ノアに、何か、聞いてたのか」
「断定はできません」とセレクが言った。「ただ——もし、そうなら。四百年前のノア殿は——名前を決める前に、すでに——『下』からの問いに、答えようとしていた、ということになります」
「答えようとして——でも、答えられなかった」とエリナが言った。「それが——名前のことと、同じように、止まったまま、ということですか」
「あるいは」とカインが、ゆっくりと言った。「名前のことと——『下』への返答は、もともと、一つのこと、だったのかもしれません」
ノアが、少し、額を押さえた。
「……わからない」とノアが言った。「でも——夢の中で、答えようとした時。胸の——奥が、すごく、温かかった。怖くなかった。それだけは——覚えてる」
―――
カインが、地図を広げた。
「……今までは」とカインが言った。「七つの封印地点と、中継点である観測地。すべて——平面上の、配置でした。北東、北西、北、東、南東、南、西」
カインが、地図の上に、新しい点を、書き加えた。祠の場所——その、真下に。
「ですが——この点は、平面上には、存在しません」とカインが言った。「七つの封印とも——観測地とも、別の——軸です。『深さ』という、軸」
「名前は——どうするんだ」とジンが聞いた。
カインが、少し、考えた。
「……仮に」とカインが言った。「セレク殿が見た記録の言葉を、そのまま、使わせていただきます。『名を持たぬ場所』」
地図の上の、その点には——名前のない、小さな印が、書き加えられた。
―――
セレクが、その印を、しばらく、見ていた。
「……あの」とセレクが、ふいに、言った。声が、少し、硬かった。
全員が、セレクを見た。
「……今、思い出しました」とセレクが言った。「あの記録には——続きが、あったかもしれません」
「続き」とエリナが、繰り返した。
「『名を持たぬ場所、名を持たぬものの下に』」とセレクが言った。「以前、お話ししたのは——そこまでです。でも——その後に、もう一行、あったような——気がします。当時の私は——それを、重要だとは思わず——読み飛ばしました。だから——記憶も、薄い。ただ——今、地図の、この印を見て——急に」
「なんて——書いてあったか、覚えていますか」とカインが、静かに聞いた。
セレクが、少し、目を伏せた。長い、沈黙だった。
「……『さらに、その下にも——同じものが、ある』」とセレクが言った。
―――
炉の灰が、少し、崩れた。
誰も、しばらく、何も、言わなかった。
「……同じもの、というのは」とエリナが、ようやく、聞いた。「『名を持たぬもの』が——さらに、もう一つ、ある、ということですか」
「断定はできません」とセレクが言った。「ただ——もし、そのままの意味なら。祠の主の下に——名を持たぬものが、いる。その、さらに下にも——名を持たぬものが、いる、ということになります」
「……どこまで?」とシアが言った。声が、少し、震えていた。「それ——どこまで、続くんだ」
「わかりません」とセレクが言った。「記録は——そこで、終わっていました。少なくとも——私が、読んだ範囲では」
ジンが、少し、自分の手を見た。
「……名前が、ない、ってのは」とジンが言った。「待ってる、ってことだろ。祠のあいつが——そうだった」
「……だとしたら」とルルが、小さく言った。「下に——いくつも、待ってる」
―――
「……今日は、入りますか」とエリナが聞いた。「祠に」
カインが、少し、考えた。
「入ります」とカインが言った。「ただ——今日は、踏み込みすぎないことを、第一に、考えます。『下』に——いくつ、いるのか。それを——確かめに行くわけではありません。ただ——ノア殿の夢と、足元の感覚。それが——今、どうなっているか。それだけを——確認します」
「無理は——しない」とジンが言った。「重さを、感じるだけだ。今日は」
全員が、頷いた。
―――
境界をまたいだ。
音が、消えた。風が、消えた。
奥へ進むと——光が、いつもより、わずかに、強く、揺れていた。台座に座る人の姿——その目が、すでに、開いていた。
目が——一行を見た。それから——ノアを、見た。揺らぎが——少し、強くなった。「待っていた」というような、揺れだった。
「……今日も、来た」とノアが、小さく、言った。「悪いけど——今日は、少しだけ、聞きたいことがある」
光が——少し、揺れた。応えるような、揺れだった。
―――
ノアが、ゆっくりと、しゃがみこんだ。床に、手を当てた。
しばらく、目を閉じていた。
「……ある」とノアが、小さく言った。「昨日と、同じ。でも——今日は、少し、強い」
「強い、というのは」とカインが聞いた。
「……夢で、聞いた声と——近い」とノアが言った。「同じ、では、ない。でも——同じ、種類の——声」
光が——揺れた。それまでとは、違う、揺れ方だった。
ルルが、すぐに、目を見開いた。
「……あ」とルルが言った。「糸——四本、全部、近づいた」
「全部?」とエリナが言った。
「うん」とルルが言った。「私たちの糸。ノアさんと、あの方の糸。三本目——アル・ヴェリアさんの糸。そして——四本目。今——全部、一番、近い。今までで——一番」
―――
その時——
誰も、何も、言わなかった。
でも——全員が、それを、聞いた。
音、ではなかった。耳から——聞こえたのではなかった。
それは——胸の、奥の方で——響いた。
低い。低くて——長い。何かが、まだ、形になる前の、声のような——響き。
「……今」とエリナが、小さく、言った。手が——震えていた。「聞こえました——よね?今——」
「聞こえた」とジンが言った。声が、少し、低くなっていた。「これ——下からだ」
ルルが、地面に、両手を、当てた。目を、見開いていた。
「……初めて」とルルが言った。「四本目の糸が——初めて、震えた。今までは——糸が、ただ、そこに、あるだけだった。でも——今——」
ルルが、少し、声を、落とした。
「——『声を出そうとしている』、糸になった」
―――
光が——大きく、揺れた。
それは——驚きでも、不安でもなかった。
「……知っている」というような——揺れだった。「来た」というのとは、また、違う。「ようやく」というような——重さのある、揺れだった。
ノアが、床に当てた手を、強く、握った。
「……俺、また——聞こえた」とノアが言った。「夢の中の——あの声。今の——響きと、同じ——種類だ」
「ノア殿」とカインが、すぐに言った。「今、何か——感じますか。問いかけ、のような——」
ノアが、少し、目を閉じた。それから——首を、横に振った。
「……まだ」とノアが言った。「まだ、何も——問いかけては、こない。ただ——『気づいた』、って感じだ。向こうも——『気づいた』、と思う」
―――
「……これ以上は」とカインが、すぐに、言った。「今日は——ここまでにしましょう。四本目の糸が、初めて、声に——近いものを、発しました。これは——大きな進展です。ですが——同時に、最大の警戒が、必要です」
全員が、頷いた。
ノアが、光に向かって、少し、頭を下げた。
「……今日は、ここまでだ」とノアが言った。「また、来る。約束する」
光が——ゆっくりと、揺れた。今度の揺れは——穏やかだった。けれど——その奥に、まだ、何か、別のものへの——意識が、残っているような、揺れだった。
―――
外に出ると——風が、戻ってきた。
「……あれは——なんだったんだ」とジンが言った。「声、っていうか——なんか、もっと——」
「『最初の音』、だと思います」とカインが言った。「ノア殿が——名前の最初の音、『ア』を、取り戻した時と——同じです。あれは——四本目の糸の主が——初めて発した、声の——一番、最初の——震えです」
「言葉、じゃない」とシアが言った。「まだ——音にも、なってない。でも——『出そう』としてる」
「……セレクさん」とエリナが言った。「『さらに、その下にも——同じものが、ある』。その『同じもの』が——もし、今、私たちが聞いたものなら——」
「待っているのは——一つだけじゃない、ということになります」とセレクが言った。声が、少し、低かった。「そして——今、目を覚ましかけているのも——一つだけとは限りません」
誰も、それに、すぐには——答えられなかった。
―――
夕方、境界の外で、野営の準備をした。
炉に、火がついた。火が、揺れた。
ノアは、火を見ながら——何度も、自分の胸に、手を当てていた。
「……あの響き」とノアが、ぽつりと、言った。「怖くは——なかった。でも——なんか、知ってる気がした。すごく——昔。俺が、まだ——ここに来る前。もっと、前」
「もっと前、っていうのは」とジンが聞いた。
「わからない」とノアが言った。「ただ——『久しぶり』、みたいな——感じがした」
「ノアさんも——糸の、どこかに、繋がってるのかもしれません」とエリナが言った。「私たちが思っている以上に——古いところまで」
「焦らなくていい」とジンが言った。「今日、わかったのは——『向こうも、気づいた』ってことだけだ。それで——十分だ」
ノアが、少し、笑った。「……お前、本当に、いいやつだな」
「知ってる」とジンが言った。
「自分で言うんじゃない」とシアが、すぐに、言った。
―――
エリナは、ランプの光で、手帳を書いた。
今日のこと——ノアが見た夢の中の「同じ声」、カインが地図に書き加えた「名を持たぬ場所」という名のない印、セレクが思い出した記録の続き「さらに、その下にも、同じものがある」、そして祠の中で全員が聞いた、四本目の糸からの初めての響き。すべてを、書いた。
書き終えて、ペンを止めた。
それから——もう一行、追加した。
『今日、私たちは、四本目の——いいえ、まだ「四本目」とも呼べないものの、最初の声を聞きました。言葉ではありませんでした。でも、確かに、それは「声を出そうとしている」響きでした。セレクさんが思い出した一文によれば、同じものが、その下にも、まだ、あるかもしれません。どこまで続くのか、私たちは、まだ、わかりません。でも——もし、その一つ一つが、祠の主のように、ずっと、名前を待っていたのなら。私たちにできることは、きっと、一つずつ、続けることだけです。怖いという気持ちはあります。それでも——今日聞いた響きは、悲しい音ではありませんでした。それだけは、書いておきたいと思います。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』
ランプの炎が、静かに揺れた。
―――
ルルは、最後に——境界の方角を見た。
風が、吹いていた。境界の向こうは——今も、静かなままだった。
でも——においの中で、四本の糸が——今までで一番、はっきりと、感じられた。
西から伸びる、二本の糸。地の底から伸びる、三本目の糸。そして——その先、もっと深いところから伸びる、四本目の糸。
四本とも——今は、震えていた。小さく。ゆっくりと。まるで——呼吸を、ようやく、合わせ始めたみたいに。
ルルは、少し、地面に、両手を当てた。
「……ねえ」とルルが、小さく、地面に向かって、言った。「もう少し、待ってて。今度は——ちゃんと、聞きに来るから」
地面の奥から——返事は、なかった。
でも——震えが、少しだけ、和らいだ、ような気がした。
ルルは、それを確かめて、眠った。
―――
夜が、深くなった。
炉の火が、揺れていた。
境界の中では——光が、静かに、揺らいでいた。
その揺らぎの中に——新しい色が、もう一つ、増えていた。
それは——「下を、思う」揺らぎだった。
祠の主自身も——自分の下に、何があるのか、まだ、知らないのかもしれない。
それでも——その揺らぎは、孤独ではなかった。
なぜなら——その揺らぎの、ずっと奥の方で。
同じ形をした、小さな揺らぎが——もう一つ、生まれ始めていたから。
―――
― 第43話・了 ―
―――
次話予告:翌朝、ノアが、もう一度、夢の話をした。「……今度は、少し、わかった。聞かれたのは——『名前』のことじゃない。もっと——別のことだ」。カインが、地図の、名を持たぬ場所の印を、指でなぞった。「もし——下にいるものたちが、それぞれ違う問いを持っているなら」。セレクが、教会の記録を、もう一度、開いた。「……ありました。一文だけ。これまで、誰も、気づいていなかった——一文が」。ルルが、はっと、地面から、両手を、離した。「……五本目」。地の底の、さらに奥で——何かが、もう一つ、目を、開けた。




