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無詠唱の魔王  作者: Dちゃん
第四章「西へ続く道の話」

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第42話「名前のない場所と、ノアの足元と、開きかけた目」

翌朝、空は——変わらず、薄い雲に覆われていた。


風は、ほとんど、止んでいた。


ルルが、目を覚ました。すぐに——両手を、地面に当てた。


しばらく、黙っていた。


「……ルル?」とジンが聞いた。


ルルが、ゆっくりと、顔を上げた。少し、戸惑ったような表情だった。


「……夜中、感じた」とルルが言った。「下からの糸。昨日、光ってた時とは——違う。もっと——ゆっくり。すごく、ゆっくり」


「ゆっくり、というのは」とエリナが聞いた。


ルルが、少し、考えた。


「……呼吸みたいだった」とルルが言った。「祠の中の——『動くにおい』。あれと、似てる。でも——もっと、大きい。もっと——深い」


「呼吸」とカインが、繰り返した。声が、少し、硬くなっていた。「……何かが、生きている、ということですか」


「わからない」とルルが言った。「でも——『止まってる』においじゃない。『動き出す前の』においだ」


―――


カインが、地図を広げた。


「祠の——位置は、わかっています」とカインが言った。「ただ——その『真下』に、何があるかは、誰も、調べたことが、ありません」


「真下、って」とジンが言った。「地下室とか、そういう、ことか?」


「もっと、根本的な話です」とカインが言った。「祠そのものが——何か、大きなものの、『上に』、建てられている可能性が、あります。配置図では——観測地が中継点で、七つの封印が、周辺に伸びている、という構造でした。もし——祠の下に、それとは別の、もっと古い構造があったら」


「世界創生期の——層」とセレクが、静かに言った。「ルル殿が、以前——祠のにおいの一番深いところに、それがある、と言いました。それが——地理的にも、『下』にある、ということかもしれません」


―――


セレクが、少し、目を閉じた。


「……教会の、最古の記録に」とセレクが言った。「一つだけ——名前のない場所が、記されていました」


「名前のない、場所」とエリナが、繰り返した。


「『静止の祠』という名前は——アル・ヴェリアの時代より、古い、という記録は、以前、お話ししました」とセレクが言った。「ですが——その記録よりも、さらに古い記述の中に。たった一行だけ——『そこ』について、書かれた箇所がありました」


「なんて、書いてあったんですか」とジンが聞いた。


セレクが、少し、言葉を、選んだ。


「——『名を持たぬ場所、名を持たぬものの下に』」とセレクが言った。「それだけです。場所の名前も——わかりません。ただ——『名を持たぬものの、下』」


全員が、少し、黙った。


「……『名を持たぬもの』」とカインが、ゆっくりと、言った。「それは——祠の、あの方の、ことでしょうか」


「断定はできません」とセレクが言った。「ただ——もし、そうなら。この記述は——『静止の祠』という名前そのものより、古い時代に書かれた——あの方についての、最初の記録、ということになります」


「つまり」とシアが言った。「あの方の、下に——何かが、ある。それが——その記録に書かれた、『名前のない場所』」


―――


ノアが、ふと、自分の足元を見た。


「……ここ」とノアが言った。「ここ、底があるのか」


全員が、ノアを見た。


「ノアさん?」とエリナが聞いた。


ノアが、少し、しゃがみこんだ。地面に、手を当てた。


「……変な感じがする」とノアが言った。「足の裏から——何か、伝わってくる。すごく、小さい。すごく——遠い。でも——確かに、ある」


ルルが、すぐに、ノアの隣に、しゃがみこんだ。鼻を、動かした。


目を、見開いた。


「……応えてる」とルルが、小さく言った。


―――


「応えてる、というのは」とカインが聞いた。


「ノアさんの——足から。何か、伝わった」とルルが言った。「それで——下から、何か、応えた。すごく——小さい。一瞬だけ」


「ノアが——『ア』を、思い出したから、か」とジンが言った。「それで——下のやつが、気づいた、ってことか」


「わかりません」とセレクが言った。「ただ——もし、そうなら。ノア殿の中にある『名前』そのものが——下の存在にとって、何か、意味を持つ、可能性があります」


「……行ってみるしかない、か」とジンが言った。「祠の——中。今日は——床を、見る」


「慎重に」とカインが言った。「昨日以上に——慎重に、お願いします」


―――


境界をまたいだ。


音が、消えた。風が、消えた。


奥へ進むと——光は、いつもと同じように、静かに、揺れていた。


目が——一行を見た。それから——ノアを見た。揺らぎが、少し、和らいだ。「今日も、来た」というような、揺れだった。


ジンが、台座に——近づいた。今日は、表面ではなく、その足元、床に。


しゃがみこんで、床に——両手を、当てた。


しばらく、黙っていた。


「……重い」とジンが、低く言った。「台座の——下。すごく——重い。今までの——どれとも、違う」


「動かせますか」とカインが聞いた。


「動かす——とかじゃない」とジンが言った。「これは——『ある』。それだけだ。すごく——深いところに、何か、大きいものが——ある。それが——ずっと、そこに、ある。ずっと、昔から」


―――


その時——光が、揺れた。


いつもの、穏やかな揺れではなかった。小さく——震えるような、揺れだった。


「……あ」とルルが言った。「今——糸が、強くなった。私たちの糸と、あの方の糸——それと、下からの糸。三本——全部、近づいた」


「あの方——気づいてる」とルルが言った。「私たちが——『下』のことを、話してる。それに——気づいてる」


光の中の目が——わずかに、揺れた。それは——不安、というのとも、少し、違った。


「……怖い、ような——揺れだ」とルルが言った。「でも——それだけじゃない。なんていうか——『また』、っていう感じ」


「『また』?」とエリナが聞いた。


「うん」とルルが言った。「前にも——同じことが、あった、みたいな。『下』のことを——前にも、誰かが、聞いた」


全員が、少し、息を呑んだ。


「……前にも」とカインが、繰り返した。「四百年前、ということですか。それより——もっと前、ということですか」


「わからない」とルルが言った。「でも——その揺れには、覚えがある、みたいな——重さがあった」


―――


ノアが、少し、額を押さえた。


「……俺」とノアが言った。「今——なんとなく、わかる気がする。あの時——あの人の声が、俺に、聞いてたこと。質問——みたいなもの。それ——もしかして——」


ノアが、少し、首を振った。


「……いや。まだ——わからない。でも——『下』って言葉が——なんか、引っかかる。胸の——奥が、ざわつく」


「無理に、思い出さなくていい」とジンが言った。「今日は——『ある』ってことが、わかった。それで——十分だ」


光が——ゆっくりと、揺れた。さっきまでの震えは——少し、収まっていた。


「……今日は、ここまでにしましょう」とカインが言った。「『下に、何かがある』、ということと——あの方が、それに対して、何らかの——感情を、持っている、ということ。両方、確認できました。これ以上は——一度、外で、考える必要があります」


全員が、頷いた。


ノアが、光に向かって、少し、頭を下げた。


「……また、来る」とノアが言った。「今度は——『下』のことも、一緒に、考える」


光が——揺れた。短く、応えるように。


―――


外に出ると——風が、戻ってきた。


「……三本目の糸の、先に」とジンが言った。「もう一つ——なんか、いる、ってことか」


「『いる』のか——『あった』のか」とシアが言った。「それすら——わからない」


「セレクさん」とエリナが言った。「『名を持たぬ場所、名を持たぬものの下に』——あの記述には——他に、何か、書かれていましたか」


「いえ」とセレクが言った。「ただ——一行だけです。ですが——その記述があった文書そのものは——教会でも、最も古い、保管庫にありました。普通は——閲覧できない場所です」


「なんで、セレクさんは——それを、知ってたんですか」とジンが聞いた。


セレクが、少し、目を伏せた。


「……特別教令部にいた頃」とセレクが言った。「一度だけ——見たことがあります。理由は——覚えていません。ただ——なぜか、その一文だけ——ずっと、覚えていました」


「覚えてた、んじゃなくて」とルルが、ふと、言った。「『覚えさせられた』、んじゃないか」


セレクが、少し、目を見開いた。


「……それは——」


言葉が、そこで、止まった。


―――


夕方、境界の外で、野営の準備をした。


炉に、火がついた。火が、揺れた。


「……四百年前」とカインが言った。「アル・ヴェリアは、各地に封印を施した、術師でした。でも——その糸が、地の底から伸びている、ということは——彼自身も、『誰か』に、何かを——託されていた、可能性があります」


「アル・ヴェリアにとっての——『重さを知る者』が、いた、ってことか」とジンが言った。


「断定はできません」とセレクが言った。「ただ——可能性としては、否定できません」


ノアが、火を見ながら、少し、自分の手のひらを見た。


「……俺が、忘れたのは——名前の、最初の一音だけだった」とノアが言った。「でも——もし、四百年前の俺が、『下』のことも——何か、知ってたなら。それも——一緒に、忘れてるのかもしれない」


「焦らなくていい」とジンが言った。「『下』のことは——今日、初めて、わかったばかりだ。一つずつ、でいい」


ノアが、少し、笑った。「……お前、本当に——シアに似てきたな」


「言ったじゃない」とシアが言った。


―――


エリナは、ランプの光で、手帳を書いた。


今日のこと——ルルが夜の間に「呼吸のような」三本目の糸の動きを感じたこと、教会最古の記録にあった「名を持たぬ場所、名を持たぬものの下に」という一文、ノアが足元から「応える」気配を感じたこと、ジンが祠の床の下に巨大な何かが「ある」ことを確かめたこと、そして光が「また」というような揺れを見せたこと。すべてを、書いた。


書き終えて、ペンを止めた。


それから——もう一行、追加した。


『今日、私たちは、初めて——「下」のことを知りました。祠の主は、その言葉に、揺れました。それは、怖いような、でも、それだけではない揺れでした。「また」という感じ、とルルは言いました。前にも、同じことがあったのかもしれません。もし、そうなら——その時、何があったのでしょうか。ノアさんは、何か、引っかかる、と言いました。私も——同じです。足元に、何かがある。それは、今までの旅で、一番、大きなことかもしれません。でも——怖いだけではありません。知りたい、という気持ちのほうが——少しだけ、大きいです。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』


ランプの炎が、静かに揺れた。


―――


ルルは、最後に——境界の方角を見た。


風が、止んでいた。境界の向こうは——今も、静かなままだった。


でも——においの中に、今までと、違うものが、混じっていた。


西から伸びる、二本の糸。下から伸びる、三本目の糸。


三本とも——今は、同じ場所に——向かっている。祠の、その先。床の——もっと下。


ルルは、少し、地面に、手を当てた。


目を、細めた。


「……あ」とルルが、小さく言った。


三本目の糸の、その先——もっと、深いところに。


もう一本、糸があった。


すごく、細い。すごく——古い。今まで——どの糸とも、違う、古さだった。


「……四本目」とルルが、呟いた。


地面の——奥深く。


その揺らぎの中で——何かが——ゆっくりと、目を、開けようとしていた。


それは——まだ、「目覚め」ではなかった。


底でも——確かに、それは——始まっていた。


―――


― 第42話・了 ―


―――


次話予告:翌朝、ノアが、夜の間に見た夢について語る。「……誰かが、俺に——同じことを、聞いてた。四百年前と——同じ、声で」。カインが、地図に——新しい点を、書き加えた。「もし、四本目の糸が——本当に存在するなら」。セレクが、静かに、言った。「『名を持たぬ場所』に——もう一つ、続きが、ありました。今——思い出しました」。ルルが、はっと、顔を上げた。「……においが——増えた。四本——全部、繋がってる」。地の底で——何かが、初めて、声を、上げた。

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