第41話「上書きされた声と、三本目の糸と、地の底のにおい」
翌朝、空は——変わらず、薄い雲に覆われていた。
風は、ほとんど、止んでいた。境界の向こうは——静かなままだった。
焚き火の前で、ノアは——一晩、起きていたような顔をしていた。目の下に、薄く、影があった。それでも——その目は、はっきりしていた。
「……聞いてほしいことがある」とノアが言った。
全員が、ノアを見た。
「……あの音」とノアが言った。「もしかしたら——音じゃなくて、声だったんじゃないか」
―――
「声、というのは」とカインが、静かに聞いた。
ノアが、少し、目を閉じた。
「……アル・ヴェリアの声だ」とノアが言った。「最後の、最後に——あいつが、何か、言った。俺たちの名前を——上書きするみたいに」
「上書き」とエリナが、繰り返した。
「うん」とノアが言った。「俺が——名前を、声にしようとした。その、すぐ後で。誰かが——別の言葉を、被せた。重ねた、っていうか。俺の声と——その声が、ぶつかって。両方、消えた」
ノアが、少し、自分の喉に、手を当てた。
「……ずっと、『大きな音』だと思ってた」とノアが言った。「でも——違う。音じゃない。誰かが——必死に、何か、叫んだ。その叫び声が——俺の声と、重なって。それで——両方、聞こえなくなった」
―――
「……なぜ、そんなことを」とジンが言った。「アル・ヴェリアは——あんたたちの、邪魔をしたのか」
「わからない」とノアが言った。「邪魔、っていうより——もっと、必死だった気がする。何かを——止めようとした。それが——たまま、俺たちの声と、ぶつかった。そんな感じだ」
セレクが、少し、考えた。
「……一つ、可能性があります」とセレクが言った。「アル・ヴェリアが、何かを——叫んで、止めようとした。その対象は、ノア殿たちではなく——別の何か、だったのではないでしょうか」
「別の何か」とシアが言った。
「ザルヴァです」とセレクが言った。「『静止の祠』は——アル・ヴェリアが唯一、完成させられなかった場所でした。なぜ、完成させられなかったのか。もし——その瞬間に、ザルヴァが、この場所に——気づいていたとしたら」
部屋の空気が、少し、変わった。
「……ノアたちが、名前を、声にする」とカインが、ゆっくりと、言った。「それは——おそらく、世界に対して、強い『反応』を生む行為です。糸が、新しく、結ばれる。その瞬間——ザルヴァが、それに、気づいてしまう」
「だから、止めた」とジンが言った。「アル・ヴェリアが——名前が、世界に届く前に。叫んで——上書きした」
「断定はできません」とセレクが言った。「ただ——もし、そうなら。アル・ヴェリアは——ノア殿たちを、妨害したのではない。守ろうとした、ということになります」
―――
「……守った」とノアが、小さく、繰り返した。「俺たちを——守るために。俺たちの——一番、大事な瞬間を——壊した」
ノアが、少し、額を押さえた。
「……それは——きっと、あいつにとっても、辛かったんだろうな」
誰も、それに、答えなかった。火が、小さく、揺れていた。
―――
ルルが、少し、目を細めた。鼻を、動かした。
「……あ」とルルが、小さく言った。
「どうした?」とジンが聞いた。
ルルが、しばらく、黙っていた。それから——少し、戸惑ったような顔をした。
「……糸が——もう一本、ある」とルルが言った。
「もう一本」とエリナが言った。「ノアさんと——あの人の、糸とは——別に?」
「うん」とルルが言った。「すごく——薄い。ほとんど、わからないくらい。でも——確かに、ある。さっき、ノアさんが——『上書き』って言った時。その瞬間に——見えた」
「アル・ヴェリアさんの——糸ですか」とエリナが、そっと聞いた。
「たぶん」とルルが言った。「……でも、何か、違う」
「違う、というのは」とカインが聞いた。
ルルが、少し、考えた。
「……ノアさんと、あの人の糸は——西から、ここに、伸びてる」とルルが言った。「でも——この、三本目の糸は——違う方向から、来てる」
「どっちから?」
ルルが、少し、地面を見た。それから——指で、下を、示した。
「……下から」とルルが言った。
―――
「下、というのは——地面の下、ということですか」とカインが、少し、声を硬くして言った。
「うん」とルルが言った。「西からじゃない。下から——上に、伸びてる。すごく、長い糸。すごく、古い。今までの——どの糸より、古い」
セレクが、少し、目を見開いた。
「……世界創生期の欠落」とセレクが、静かに言った。「以前、ルル殿が——祠のにおいの、一番、深いところに——『世界ができた時くらい古い』隙間がある、と言いました。それと——同じものでしょうか」
「わからない」とルルが言った。「でも——同じ、種類の、古さがする」
「……つまり」とジンが言った。「アル・ヴェリアの糸は——西から来てるんじゃない。もっと——下から、来てる、ってことか」
「断定はできません」とカインが言った。声が、少し、震えていた。「ただ——もし、そうなら。アル・ヴェリアという存在自体が——私たちが思っていたよりも、ずっと——古く、深い場所に——根を持っている、可能性があります」
―――
「……今日は、入りますか」とエリナが聞いた。「祠に」
「入ります」とカインが言った。「ただ——昨日とは、目的が、少し変わります。名前を、思い出そうとするだけでなく——『その瞬間、何が起きたか』を——確かめる必要があります」
ジンが、少し、自分の手を見た。
「……俺の、重さの感覚で——わかるかもしれない」とジンが言った。「名前が、止まった瞬間。それは——きっと、何かが——すごく、重く、固まった瞬間だ。固まったものは——少しなら、動かせる」
「危険じゃないですか」とエリナが言った。「動かした瞬間——また、何かが、起きるかもしれません」
「少しだけだ」とジンが言った。「全部、動かすんじゃない。……ちょっとだけ、隙間を、作る。それで——何が、見えるか」
「慎重に、お願いします」とカインが言った。「ルル殿は——糸の様子を、常に、報告してください。少しでも——異変があれば、すぐに、外へ出ます」
全員が、頷いた。
―――
境界をまたいだ。
音が、消えた。風が、消えた。
奥へ進むと——光が、いつもより、静かに、揺れていた。台座に座る人の姿——その目が、すでに、開いていた。
目が——一行を見た。それから——ノアを見た。揺らぎが、わずかに、強くなった。「来た」というような、安堵の揺れだった。
「……今日も、来た」とノアが、小さく、言った。「悪いが——今日は、ちょっと、変なことをする。怒らないでくれ」
光が——少し、揺れた。
―――
ジンが、ゆっくりと、前に出た。台座に——手を伸ばした。
手のひらが、台座の表面に、触れた。
いつもの——重みのある光が、染み込んでくる感覚があった。それと——もう一つ。
奥の方に——何か、固まったものがあった。とても、硬い。とても、重い。それは——「音」ではなかった。それは——「叫び」が、そのまま、止まった形だった。
ジンが、目を、閉じた。
「……ある」とジンが、低く言った。「ここに——止まってる。すごく——硬い」
「動かせますか」とカインが聞いた。
「ちょっとだけ」とジンが言った。「……いくぞ」
―――
ジンが、軽く、力を込めた。
全部を動かすのではない。固まったものの——表面に、ほんの少し、隙間を作るように。重さを——ほんの少しだけ、ずらすように。
その瞬間——
光が、大きく、揺れた。
ノアの足が——震えた。
「……今」とノアが、声を上げた。「今——聞こえた」
「何が?」とエリナが、すぐに聞いた。
ノアが、両手で——自分の頭を、押さえた。
「……声」とノアが言った。「俺の声だ。俺が——言おうとした、最初の音。それが——ほんの一瞬、聞こえた」
「どんな音でしたか」とカインが、急いで聞いた。
ノアが、少し、口を、開いた。それから——閉じた。もう一度、開いた。
「……『ア』」とノアが、小さく、言った。「最初の音は——『ア』、だった気がする」
―――
光が、激しく、揺れた。
それは——焦りでも、怒りでもなかった。それは——「思い出した」という、揺れだった。
ルルが、少し、目を見開いた。
「……糸」とルルが言った。「下からの糸が——光ってる」
「光ってる?」
「うん」とルルが言った。「今——一瞬。すごく、はっきり、見えた。下から、上に向かって——糸が、光った。それで——すぐ、消えた」
「アル・ヴェリアさんの糸が——反応した、ということですか」とエリナが言った。
「たぶん」とルルが言った。少し、表情が、硬くなっていた。「……向こうも——聞いた、んだと思う。今の——『ア』の音」
―――
「……これ以上は、危険です」とカインが、すぐに言った。「ジン殿、手を、離してください」
ジンが、ゆっくりと、手を、台座から離した。
固まったものの——隙間が、ゆっくりと、また、閉じていく感覚があった。完全には——閉じなかった。少しだけ——開いたままだった。
光が——ゆっくりと、落ち着いていった。それでも——いつもより、わずかに、強い光が、残っていた。
「……『ア』」とノアが、もう一度、呟いた。「これが——最初の、音」
「思い出せそうですか?」とエリナが聞いた。
ノアが、少し、首を振った。
「……『ア』の——後が、続かない」とノアが言った。「でも——確かに、『ア』だった。それは——間違いない」
―――
「……今日は、ここまでにしましょう」とカインが言った。「大きな——進展です。名前の、最初の音。そして——『下からの糸』の存在。両方、確認できました。これ以上、深く触れるのは——リスクが、大きすぎます」
全員が、頷いた。
ノアが、光に向かって、少し、頭を下げた。
「……『ア』、だった」とノアが言った。「思い出した。続きは——また、思い出す。約束する」
光が——揺れた。今度の揺れは——穏やかだった。「待つ」という、安心した揺れだった。
―――
外に出ると——風が、戻ってきた。
「……『下からの糸』」とジンが言った。「あれは——なんだったんだ」
「わかりません」とカインが言った。「ただ——一つ、気になることがあります。アル・ヴェリアは——400年前、各地に封印を施した、術師です。その術師の糸が——西からではなく、下から伸びている。それは——アル・ヴェリアという存在の『起点』が——私たちが思っていた場所と、違う、ということかもしれません」
「起点が、違う」とシアが、繰り返した。「……つまり、アル・ヴェリアは——どこかから、来た、ってことか。私たちが知ってる、『封印の術師アル・ヴェリア』の——前に」
「断定はできません」とセレクが言った。「ただ——もし、そうなら。私たちは——アル・ヴェリアという存在の、本当の始まりに——まだ、辿り着いていない、ということになります」
―――
夕方、境界の外で、野営の準備をした。
炉に、火がついた。火が、揺れた。
ノアは、火を見ながら——何度も、小さく、口を動かしていた。「ア」、「ア」、と——確かめるように。
「……焦らなくていい」とジンが言った。「『ア』が、わかった。それだけで——今日は、十分だ」
「うん」とノアが言った。「……でも、変な感じだ。最初の音だけ、わかって——その先が、見えない。なんか——崖の、縁に、立ってるみたいだ」
「縁に立てたなら——次は、踏み出せる」とジンが言った。
ノアが、少し、笑った。「……お前、そういうこと、たまに——うまいこと言うな」
「シアに、似てきたんだ」とジンが言った。
「誰のせいだ」とシアが、すぐに、言った。
―――
エリナは、ランプの光で、手帳を書いた。
今日のこと——ノアが「上書きされた声」の正体に気づいたこと、アル・ヴェリアがノアたちを止めたのではなく守ろうとした可能性、ルルが見た「三本目の糸」が下から伸びていたこと、ジンが固まった「叫び」にわずかな隙間を作ったこと、そして——ノアが最初の音「ア」を思い出したこと。すべてを、書いた。
書き終えて、ペンを止めた。
それから——もう一行、追加した。
『今日、ノアさんは、名前の「最初の音」を思い出しました。「ア」。たった一つの音です。でも、それは、四百年間、誰も聞くことのできなかった音でした。アル・ヴェリアさんは、その名前が世界に届く前に、自分の声で、それを覆ってしまいました。それは、ノアさんたちを止めるためではなく、守るためだったのかもしれません。だとしたら——アル・ヴェリアさんも、ずっと、何かを抱えていたのだと思います。三本目の糸は、西からではなく、地面の下から伸びていました。私たちは、まだ、アル・ヴェリアさんの本当の始まりを知りません。それでも——「ア」という音は、今、確かに、ここにあります。続きは、きっと、見つかります。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』
ランプの炎が、静かに揺れた。
―――
ルルは、最後に——境界の方角を見た。
風が、吹いていた。境界の向こうは——今も、静かなままだった。
でも——においの中に、新しいものが、混じっていた。
西から伸びる、二本の糸。それは——今日、わずかに、太くなっていた。「ア」という音が、その糸の中に、小さく、織り込まれたようだった。
配置と——下から伸びる、三本目の糸。
それは——昼間のように、光ってはいなかった。でも——消えてもいなかった。むしろ——さっきよりも、少しだけ、はっきりと、感じられた。
「……三本目の糸」とルルが、小さく言った。「まだ、繋がってない。でも——気づかれた」
ルルは、少し、地面に、手を当てた。
「……下に、何かが、ある」とルルが言った。「もっと——奥。もっと——深く」
ルルは、それを確かめて、眠った。
―――
夜が、深くなった。
炉の火が、揺れていた。
境界の中では——光が、静かに、揺らいでいた。
その揺らぎの中に——小さな、新しい色が、混じり始めていた。
それは——「ア」という音の、形だった。
まだ、名前ではなかった。まだ、言葉でもなかった。
それは——長い言葉の、最初の、一音だけが——ゆっくりと、芽吹こうとしている、揺らぎだった。
そして——その揺らぎの、ずっと、奥の方——地の底の、さらに、深いところで。
何かが——初めて、目を、開けようとしていた。
―――
― 第41話・了 ―
―――
次話予告:翌朝、ルルが、夜の間に感じた「地の底のにおい」について話す。「……下の糸、辿れるかもしれない」。カインが、地図を広げた。「祠の、真下……ということですか」。セレクが、静かに言った。「教会の最古の記録に——一つだけ、名前のない場所が、記されていました。『静止の祠』よりも、さらに、古い記述の中に」。ノアが、ふと、自分の足元を見た。「……ここ、底があるのか」。地面の下から、かすかに——何かが、応える気配がした。




