表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無詠唱の魔王  作者: Dちゃん
第四章「西へ続く道の話」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
40/134

第40話「最初に呼ばれた名と、ノアの涙と、まだ結ばれない糸」

翌朝、空は——変わらず、薄い雲に覆われていた。


風が、止みかけていた。草が、ゆっくりと、揺れを止めていく。


境界の前で、全員が、足を止めた。


ノアが、一度、深く、息を吸った。


「……行こう」とノアが言った。


誰も、何も、言わなかった。


一歩、踏み出した。


―――


境界をまたいだ瞬間——いつもとは、違った。


音が、消える前に——ノアが、声を上げた。


「……これ」


短い、声だった。驚き、というよりも——何かを、思い出したような声だった。


ノアの足が——止まらなかった。


むしろ——引かれるように、奥へと進んでいく。


「ノアさん!」とエリナが言った。


「待って」とジンが言った。「一人で——行くな」


ジンが、ノアの腕を、掴んだ。それでも——ノアの足は、止まらなかった。引かれる力は、強くなかった。むしろ——ノア自身が、自分の足で、進んでいた。


「……大丈夫だ」とノアが言った。声が、少し、震えていた。「俺は——ここを、知ってる」


―――


一行は、ノアに、合わせるように、奥へ進んだ。


蔓に覆われた柱の間を抜け、文字の刻まれた床を歩いた。


奥の光が——見えた。


光は、いつもより——強かった。淡い白の光が、波のように、揺れていた。


台座に座る人の姿——その目が、開いていた。


その目が——一行を、見た。


いつものように、一人ずつ、順番に。ジンから、エリナへ。エリナから、シアへ。シアから、カインへ。カインから、セレクへ。


そして——ルルへ。


そこで——目が、止まった。


いや——止まったのではなかった。ルルの、後ろを——見ていた。


―――


ノアが、一歩、前に出た。


光の中の目が——大きく、見開かれた。


揺らぎが——大きく、強く、波のように、動いた。


それまでとは、まったく違う揺れ方だった。これまでの、穏やかな、ゆっくりとした揺らぎではなかった。何かを——堰き止めていたものが、一気に、溢れ出すような揺れだった。


「……来た」


声が、聞こえた。


これまでの——震えるような、かすれた声ではなかった。はっきりとした、声だった。


「やっと、来た」


―――


誰も、動けなかった。


ノアが——その場に、立ったまま、震えていた。


ノアの目から——何かが、こぼれた。


一筋。それから——もう一筋。


「……俺は」とノアが言った。「俺は——お前を、知ってる」


ノアが、両手で、自分の顔を——触れた。涙が、止まらなかった。


「……なんで、泣いてるんだ、俺」とノアが言った。「わからない。理由が——わからない。でも——涙が、止まらない」


光が——揺れた。


その揺れ方は——応えるようだった。「お前も、そうなのか」というように。


―――


光の中の目が——ノアを、まっすぐに、見続けていた。


声が、もう一度、聞こえた。


「……ずっと」


今度の声は——少し、低く、ゆっくりだった。何かを、確かめるような、声だった。


「ずっと——いた。お前が——いなくなってから。ずっと——ここに」


ノアが、何か、言おうとした。けれど——言葉にならなかった。口を開いて、また、閉じた。


「……すまない」とノアが、ようやく、言った。「俺は——お前との、約束を——忘れた。何を、約束したのかも——わからない。それでも——お前は——ずっと、待ってた」


光が——ゆっくりと、揺れた。


「……うん」


今度の「うん」は——ルルの言葉のように、短かった。けれど——確かに、その存在自身の声だった。


―――


ルルが、少し、目を見開いた。


「……今」とルルが、小さく言った。「『うん』って——言った。それ——私の言い方、じゃない。あの人の——言い方」


「言葉を、覚えた、ということですか」とカインが言った。声が、少し、震えていた。


「たぶん」とセレクが言った。「……あるいは——もともと、その言葉を、持っていた。私たちが——それを、引き出した、だけかもしれません」


ジンが、少し、前に出た。ノアの隣に、立った。


「……あんたが、ノアと、一緒にいた」とジンが、光に向かって、言った。「四百年前。あんたに——名前を、つけようとしてた。そうんだな」


光の中の目が——ジンを、見た。それから——もう一度、ノアを見た。


揺らぎが——わずかに、変わった。


「……決めた」


その言葉に——全員が、息を呑んだ。


「決めた、というのは」とエリナが、そっと、聞いた。「名前を——決めた、ということですか」


光が——揺れた。今度の揺れは——複雑だった。肯定でも、否定でもないような、揺らぎだった。


「……決めた。でも——」


言葉が、そこで——途切れた。


光の揺らぎが、小さく、震えた。何かを、探しているような、揺れだった。


―――


「……届かない、んだと思う」とノアが、ふいに、言った。


声が、少し、落ち着いていた。涙は、まだ、止まっていなかったが——目は、まっすぐ、光を見ていた。


「……俺、わかる気がする」とノアが言った。「決めた。心の中で、決めた。でも——それを、声にする前に——何かが、起きた。決めたことは——消えてない。ただ——声に、なってない。形に——なってない」


「決めたのに——言わなかった、ということですか」とカインが言った。


「言おうとした」とノアが言った。「言おうとした、瞬間——あの、大きな音がした。光みたいな、音。たぶん——それで、全部、止まった」


ルルが、少し、鼻を動かした。目を、細めた。


「……あ」とルルが、小さく言った。


「どうした?」とジンが聞いた。


ルルが、ノアと、光を、交互に見た。


「……二本の糸」とルルが言った。「ノアさんの糸と——あの人の糸。今——触れてる。すごく、近い。でも——」


ルルが、少し、考えた。


「——結ばれてない」とルルが言った。「触れてるだけ。まだ——結び目に、なってない」


―――


「……名前は、決まっていた」とセレクが、静かに、言った。「ただ——それが、世界に——届く前に、止まった。声にならなかった言葉は——糸には、ならない。だから——ノア殿が忘れたのは——『名前』そのものではなく——」


「『名前を、声にしようとした、その瞬間』」とカインが、後を、続けた。「……その記憶こそが、抜け落ちている、ということですね」


「もし、そうなら」とエリナが言った。「ノアさんの中に——名前が、ある、ということですか。声になる、一歩、手前のところに」


「あるんだと思う」とノアが言った。「……今、すごく——近い。さっき、お前が——『うん』って言った時。何か——口の中まで、来た。形が——あった。でも——」


ノアが、少し、首を振った。


「……また、消えた」とノアが言った。「悔しい。すごく——悔しい」


―――


光が——揺れた。


今度の揺れ方は——焦りではなかった。むしろ——なだめるような、揺らぎだった。


「……いい」


その一言だった。


ルルが、少し、笑った。


「……『いい』って」とルルが言った。「『急がなくて、いい』——そういう、においだ」


ジンが、少し、息を吐いた。


「……四百年、待ったんだ」とジンが言った。「あと少し——なんだろ。だったら——もう少しだけ、待たせてくれ。今度は——一人で、待たせない。みんなで——一緒に、考える」


光の中の目が——ゆっくりと、揺れた。


その揺らぎは——これまでで、一番、穏やかだった。


―――


「……今日は——ここまでにしましょう」とカインが言った。「大きな、進展が——ありました。『名前は、すでに決まっていた』。これは——おそらく、これまでの中で、最も重要な事実です。一度、外で——整理が、必要です」


全員が、頷いた。


ノアが、少し、ためらった。それから——光に、向かって、頭を下げた。


「……また、来る」とノアが言った。「今度は——ちゃんと、思い出す。約束する」


光が——揺れた。


「……うん」


短い、その言葉には——確かに、安堵が、混じっていた。


一行は、ゆっくりと、入り口の方へ戻った。


境界を出ると——風が、戻ってきた。草が、揺れた。


―――


「……整理しましょう」とエリナが言った。手帳を開いた。手が、まだ、少し、震えていた。


「一。境界をまたいだ瞬間——ノアさんが、声を上げた。『……これ』。音が消える前のことでした」


「二。あの人の目が——ノアさんを見た瞬間、揺らぎが、これまでにない大きさで、動いた」


「三。声が——はっきりと、聞こえた。『……来た』『やっと、来た』」


「四。ノアさんの目から——涙が、こぼれた。理由は、わからないまま」


「五。あの人が——『ずっと、いた』『お前が——いなくなってから』と言った」


「六。あの人が——『うん』と言った。ルルによれば——それは、あの人自身の言葉の言い方だった」


「七。あの人が——『決めた』と言った。名前は、すでに、決まっていた可能性がある」


「八。ノアさんによれば——名前を声にする直前、大きな音がして、何かが止まった」


「九。ルルが——ノアさんの糸と、あの人の糸が、触れているが、まだ結ばれていない、と確認した」


エリナが、ペンを止めた。


「……十」とエリナが、少し、声を落として、言った。「あの人は——『いい』と言った。急がなくていい、という意味だと、ルルは感じた」


―――


「……つまり」とジンが言った。「名前は——もう、ある。ノアの中に。あとは——それを、声にするだけ。なのに——それが、一番、難しい」


「四百年前、何が起きたのか」とシアが言った。「それが——わからないと、また、同じことが起きるかもしれない。声にしようとした瞬間に——また、何かが、止める」


「断定はできません」とセレクが言った。「ただ——一つ、気になることがあります。『決めた瞬間——大きな音がした。光みたいな、音』。それは——もしかすると」


セレクが、少し、言葉を、選んだ。


「——封印が、起きた瞬間、なのではないでしょうか」


全員が、セレクを見た。


「アル・ヴェリアが——この祠で、何か、しようとした」とカインが、ゆっくりと、言った。「ノア殿たちが、名前を決めた——その、まさに同じ瞬間に。アル・ヴェリアの方でも——何かが、起きた」


「二つのことが——同時に起きた、ということですか」とエリナが聞いた。


「あるいは」とカインが言った。「一つのことが——二つに、見えていた、のかもしれません」


―――


夕方、境界の外で、野営の準備をした。


炉に、火がついた。火が、揺れた。


ノアは、火を見ながら——何度も、自分の手のひらを、見ていた。


「……ここまで、来た」とノアが、小さく言った。「四百年前——あの人と、一緒にいた。それは——もう、確かなんだな」


「うん」とルルが言った。「確かだ」


「……名前のことは——悔しい」とノアが言った。「でも——それより。あいつが——俺を見て、泣くくらい——待ってた。それを、知れたことが——大きい」


「泣いたのは——ノアさんも、だよ」とルルが言った。


ノアが、少し、笑った。「……そうだったな」


―――


エリナは、ランプの光で、手帳を書いた。


今日のこと——境界をまたいだ瞬間のノアの反応、あの人が初めてはっきりとした声で語ったこと、ノアの涙、名前が「すでに決まっていた」可能性、糸が「触れている」が「結ばれていない」という状態。すべてを、書いた。


書き終えて、ペンを置いた。


それから——もう一行、追加した。


『今日、あの人は——「やっと、来た」と言いました。四百年。それは、私には、想像もできない長さです。でも——その長さの分だけ、あの人は、ノアさんを、待っていたのだと思います。名前は、もう、決まっている。でも、まだ、声になっていない。それは——きっと、誰のせいでもありません。それでも——届かなかったものを、今度は、届けたい。私たちは、その手伝いができる。そう思うと——少しだけ、嬉しくなりました。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』


ランプの炎が、静かに揺れた。


―――


ルルは、最後に——境界の方角を見た。


風が、吹いていた。境界の向こうは——今も、静かなままだった。


でも——においが、今までと、まったく違っていた。


二本の糸は——もう、別々の糸ではなかった。重なり合って——一つの、太い糸のように、感じられた。ただ——その糸の真ん中に、まだ——小さな、結ばれていない部分があった。


「……もう少し」とルルが、小さく言った。「もう少しで——結ばれる。でも——まだ、何か、足りない」


ルルは、それを確かめて、眠った。


―――


夜が、深くなった。


炉の火が、揺れていた。


ノアは、まだ、起きていた。手のひらを、見ていた。何かを——確かめるように、何度も、何度も。


境界の中では——光が、静かに、揺らいでいた。


その揺らぎの中に——これまでにない、何かが、生まれ始めていた。


それは——「待つ」揺らぎでも、「問う」揺らぎでもなかった。


それは——何かを、思い出そうとする、人の顔のような——揺らぎだった。


―――


― 第40話・了 ―


―――


次話予告:翌朝、ノアは、夜通し考えていたことを、一行に話した。「……あの音。もしかしたら——音じゃなくて、声だったんじゃないか」。カインが、ノアを見た。「声、というのは」。ノアが、ゆっくりと言った。「——アル・ヴェリアの声だ。最後の、最後に——あいつが、何か、言った。俺たちの名前を、上書きするみたいに」。ルルが、はっと、顔を上げた。「……アル・ヴェリアさんの、糸も——ここに、繋がってる、かもしれない」。三本目の糸が、静かに、姿を現し始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ