第40話「最初に呼ばれた名と、ノアの涙と、まだ結ばれない糸」
翌朝、空は——変わらず、薄い雲に覆われていた。
風が、止みかけていた。草が、ゆっくりと、揺れを止めていく。
境界の前で、全員が、足を止めた。
ノアが、一度、深く、息を吸った。
「……行こう」とノアが言った。
誰も、何も、言わなかった。
一歩、踏み出した。
―――
境界をまたいだ瞬間——いつもとは、違った。
音が、消える前に——ノアが、声を上げた。
「……これ」
短い、声だった。驚き、というよりも——何かを、思い出したような声だった。
ノアの足が——止まらなかった。
むしろ——引かれるように、奥へと進んでいく。
「ノアさん!」とエリナが言った。
「待って」とジンが言った。「一人で——行くな」
ジンが、ノアの腕を、掴んだ。それでも——ノアの足は、止まらなかった。引かれる力は、強くなかった。むしろ——ノア自身が、自分の足で、進んでいた。
「……大丈夫だ」とノアが言った。声が、少し、震えていた。「俺は——ここを、知ってる」
―――
一行は、ノアに、合わせるように、奥へ進んだ。
蔓に覆われた柱の間を抜け、文字の刻まれた床を歩いた。
奥の光が——見えた。
光は、いつもより——強かった。淡い白の光が、波のように、揺れていた。
台座に座る人の姿——その目が、開いていた。
その目が——一行を、見た。
いつものように、一人ずつ、順番に。ジンから、エリナへ。エリナから、シアへ。シアから、カインへ。カインから、セレクへ。
そして——ルルへ。
そこで——目が、止まった。
いや——止まったのではなかった。ルルの、後ろを——見ていた。
―――
ノアが、一歩、前に出た。
光の中の目が——大きく、見開かれた。
揺らぎが——大きく、強く、波のように、動いた。
それまでとは、まったく違う揺れ方だった。これまでの、穏やかな、ゆっくりとした揺らぎではなかった。何かを——堰き止めていたものが、一気に、溢れ出すような揺れだった。
「……来た」
声が、聞こえた。
これまでの——震えるような、かすれた声ではなかった。はっきりとした、声だった。
「やっと、来た」
―――
誰も、動けなかった。
ノアが——その場に、立ったまま、震えていた。
ノアの目から——何かが、こぼれた。
一筋。それから——もう一筋。
「……俺は」とノアが言った。「俺は——お前を、知ってる」
ノアが、両手で、自分の顔を——触れた。涙が、止まらなかった。
「……なんで、泣いてるんだ、俺」とノアが言った。「わからない。理由が——わからない。でも——涙が、止まらない」
光が——揺れた。
その揺れ方は——応えるようだった。「お前も、そうなのか」というように。
―――
光の中の目が——ノアを、まっすぐに、見続けていた。
声が、もう一度、聞こえた。
「……ずっと」
今度の声は——少し、低く、ゆっくりだった。何かを、確かめるような、声だった。
「ずっと——いた。お前が——いなくなってから。ずっと——ここに」
ノアが、何か、言おうとした。けれど——言葉にならなかった。口を開いて、また、閉じた。
「……すまない」とノアが、ようやく、言った。「俺は——お前との、約束を——忘れた。何を、約束したのかも——わからない。それでも——お前は——ずっと、待ってた」
光が——ゆっくりと、揺れた。
「……うん」
今度の「うん」は——ルルの言葉のように、短かった。けれど——確かに、その存在自身の声だった。
―――
ルルが、少し、目を見開いた。
「……今」とルルが、小さく言った。「『うん』って——言った。それ——私の言い方、じゃない。あの人の——言い方」
「言葉を、覚えた、ということですか」とカインが言った。声が、少し、震えていた。
「たぶん」とセレクが言った。「……あるいは——もともと、その言葉を、持っていた。私たちが——それを、引き出した、だけかもしれません」
ジンが、少し、前に出た。ノアの隣に、立った。
「……あんたが、ノアと、一緒にいた」とジンが、光に向かって、言った。「四百年前。あんたに——名前を、つけようとしてた。そうんだな」
光の中の目が——ジンを、見た。それから——もう一度、ノアを見た。
揺らぎが——わずかに、変わった。
「……決めた」
その言葉に——全員が、息を呑んだ。
「決めた、というのは」とエリナが、そっと、聞いた。「名前を——決めた、ということですか」
光が——揺れた。今度の揺れは——複雑だった。肯定でも、否定でもないような、揺らぎだった。
「……決めた。でも——」
言葉が、そこで——途切れた。
光の揺らぎが、小さく、震えた。何かを、探しているような、揺れだった。
―――
「……届かない、んだと思う」とノアが、ふいに、言った。
声が、少し、落ち着いていた。涙は、まだ、止まっていなかったが——目は、まっすぐ、光を見ていた。
「……俺、わかる気がする」とノアが言った。「決めた。心の中で、決めた。でも——それを、声にする前に——何かが、起きた。決めたことは——消えてない。ただ——声に、なってない。形に——なってない」
「決めたのに——言わなかった、ということですか」とカインが言った。
「言おうとした」とノアが言った。「言おうとした、瞬間——あの、大きな音がした。光みたいな、音。たぶん——それで、全部、止まった」
ルルが、少し、鼻を動かした。目を、細めた。
「……あ」とルルが、小さく言った。
「どうした?」とジンが聞いた。
ルルが、ノアと、光を、交互に見た。
「……二本の糸」とルルが言った。「ノアさんの糸と——あの人の糸。今——触れてる。すごく、近い。でも——」
ルルが、少し、考えた。
「——結ばれてない」とルルが言った。「触れてるだけ。まだ——結び目に、なってない」
―――
「……名前は、決まっていた」とセレクが、静かに、言った。「ただ——それが、世界に——届く前に、止まった。声にならなかった言葉は——糸には、ならない。だから——ノア殿が忘れたのは——『名前』そのものではなく——」
「『名前を、声にしようとした、その瞬間』」とカインが、後を、続けた。「……その記憶こそが、抜け落ちている、ということですね」
「もし、そうなら」とエリナが言った。「ノアさんの中に——名前が、ある、ということですか。声になる、一歩、手前のところに」
「あるんだと思う」とノアが言った。「……今、すごく——近い。さっき、お前が——『うん』って言った時。何か——口の中まで、来た。形が——あった。でも——」
ノアが、少し、首を振った。
「……また、消えた」とノアが言った。「悔しい。すごく——悔しい」
―――
光が——揺れた。
今度の揺れ方は——焦りではなかった。むしろ——なだめるような、揺らぎだった。
「……いい」
その一言だった。
ルルが、少し、笑った。
「……『いい』って」とルルが言った。「『急がなくて、いい』——そういう、においだ」
ジンが、少し、息を吐いた。
「……四百年、待ったんだ」とジンが言った。「あと少し——なんだろ。だったら——もう少しだけ、待たせてくれ。今度は——一人で、待たせない。みんなで——一緒に、考える」
光の中の目が——ゆっくりと、揺れた。
その揺らぎは——これまでで、一番、穏やかだった。
―――
「……今日は——ここまでにしましょう」とカインが言った。「大きな、進展が——ありました。『名前は、すでに決まっていた』。これは——おそらく、これまでの中で、最も重要な事実です。一度、外で——整理が、必要です」
全員が、頷いた。
ノアが、少し、ためらった。それから——光に、向かって、頭を下げた。
「……また、来る」とノアが言った。「今度は——ちゃんと、思い出す。約束する」
光が——揺れた。
「……うん」
短い、その言葉には——確かに、安堵が、混じっていた。
一行は、ゆっくりと、入り口の方へ戻った。
境界を出ると——風が、戻ってきた。草が、揺れた。
―――
「……整理しましょう」とエリナが言った。手帳を開いた。手が、まだ、少し、震えていた。
「一。境界をまたいだ瞬間——ノアさんが、声を上げた。『……これ』。音が消える前のことでした」
「二。あの人の目が——ノアさんを見た瞬間、揺らぎが、これまでにない大きさで、動いた」
「三。声が——はっきりと、聞こえた。『……来た』『やっと、来た』」
「四。ノアさんの目から——涙が、こぼれた。理由は、わからないまま」
「五。あの人が——『ずっと、いた』『お前が——いなくなってから』と言った」
「六。あの人が——『うん』と言った。ルルによれば——それは、あの人自身の言葉の言い方だった」
「七。あの人が——『決めた』と言った。名前は、すでに、決まっていた可能性がある」
「八。ノアさんによれば——名前を声にする直前、大きな音がして、何かが止まった」
「九。ルルが——ノアさんの糸と、あの人の糸が、触れているが、まだ結ばれていない、と確認した」
エリナが、ペンを止めた。
「……十」とエリナが、少し、声を落として、言った。「あの人は——『いい』と言った。急がなくていい、という意味だと、ルルは感じた」
―――
「……つまり」とジンが言った。「名前は——もう、ある。ノアの中に。あとは——それを、声にするだけ。なのに——それが、一番、難しい」
「四百年前、何が起きたのか」とシアが言った。「それが——わからないと、また、同じことが起きるかもしれない。声にしようとした瞬間に——また、何かが、止める」
「断定はできません」とセレクが言った。「ただ——一つ、気になることがあります。『決めた瞬間——大きな音がした。光みたいな、音』。それは——もしかすると」
セレクが、少し、言葉を、選んだ。
「——封印が、起きた瞬間、なのではないでしょうか」
全員が、セレクを見た。
「アル・ヴェリアが——この祠で、何か、しようとした」とカインが、ゆっくりと、言った。「ノア殿たちが、名前を決めた——その、まさに同じ瞬間に。アル・ヴェリアの方でも——何かが、起きた」
「二つのことが——同時に起きた、ということですか」とエリナが聞いた。
「あるいは」とカインが言った。「一つのことが——二つに、見えていた、のかもしれません」
―――
夕方、境界の外で、野営の準備をした。
炉に、火がついた。火が、揺れた。
ノアは、火を見ながら——何度も、自分の手のひらを、見ていた。
「……ここまで、来た」とノアが、小さく言った。「四百年前——あの人と、一緒にいた。それは——もう、確かなんだな」
「うん」とルルが言った。「確かだ」
「……名前のことは——悔しい」とノアが言った。「でも——それより。あいつが——俺を見て、泣くくらい——待ってた。それを、知れたことが——大きい」
「泣いたのは——ノアさんも、だよ」とルルが言った。
ノアが、少し、笑った。「……そうだったな」
―――
エリナは、ランプの光で、手帳を書いた。
今日のこと——境界をまたいだ瞬間のノアの反応、あの人が初めてはっきりとした声で語ったこと、ノアの涙、名前が「すでに決まっていた」可能性、糸が「触れている」が「結ばれていない」という状態。すべてを、書いた。
書き終えて、ペンを置いた。
それから——もう一行、追加した。
『今日、あの人は——「やっと、来た」と言いました。四百年。それは、私には、想像もできない長さです。でも——その長さの分だけ、あの人は、ノアさんを、待っていたのだと思います。名前は、もう、決まっている。でも、まだ、声になっていない。それは——きっと、誰のせいでもありません。それでも——届かなかったものを、今度は、届けたい。私たちは、その手伝いができる。そう思うと——少しだけ、嬉しくなりました。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』
ランプの炎が、静かに揺れた。
―――
ルルは、最後に——境界の方角を見た。
風が、吹いていた。境界の向こうは——今も、静かなままだった。
でも——においが、今までと、まったく違っていた。
二本の糸は——もう、別々の糸ではなかった。重なり合って——一つの、太い糸のように、感じられた。ただ——その糸の真ん中に、まだ——小さな、結ばれていない部分があった。
「……もう少し」とルルが、小さく言った。「もう少しで——結ばれる。でも——まだ、何か、足りない」
ルルは、それを確かめて、眠った。
―――
夜が、深くなった。
炉の火が、揺れていた。
ノアは、まだ、起きていた。手のひらを、見ていた。何かを——確かめるように、何度も、何度も。
境界の中では——光が、静かに、揺らいでいた。
その揺らぎの中に——これまでにない、何かが、生まれ始めていた。
それは——「待つ」揺らぎでも、「問う」揺らぎでもなかった。
それは——何かを、思い出そうとする、人の顔のような——揺らぎだった。
―――
― 第40話・了 ―
―――
次話予告:翌朝、ノアは、夜通し考えていたことを、一行に話した。「……あの音。もしかしたら——音じゃなくて、声だったんじゃないか」。カインが、ノアを見た。「声、というのは」。ノアが、ゆっくりと言った。「——アル・ヴェリアの声だ。最後の、最後に——あいつが、何か、言った。俺たちの名前を、上書きするみたいに」。ルルが、はっと、顔を上げた。「……アル・ヴェリアさんの、糸も——ここに、繋がってる、かもしれない」。三本目の糸が、静かに、姿を現し始めていた。




