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無詠唱の魔王  作者: Dちゃん
第四章「西へ続く道の話」

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第39話「草原に残る声と、ノアの記憶のかけらと、近づく祠」

翌朝、カノエ村を出発した。


空は、薄い雲に覆われていた。風が、草を揺らしていた。


いつもの六人に——ノアが加わって、七人になった。


ノアは、村を出る前に、もう一度、家を見た。畑を見た。それから——小さく、頷いた。


「……行こう」とノアが言った。


誰も、何も言わなかった。ただ——歩き出した。


―――


平原を、西へ。


来た道を、もう一度、戻る形になる。半日の道のりだった。


歩きながら、ジンは——ノアの様子を、時々、見た。


ノアは、いつもと、変わらない歩き方だった。鍬を持っていないだけで——畑を歩く時と、同じ歩幅だった。それでも——その目は、ずっと、西を見ていた。今までの「夕方に、無意識に」見るのとは、違った。今は——はっきりと、見ていた。


「……変な感じだ」とノアが、ふと、言った。


「どんな感じ?」とジンが聞いた。


「歩いてる方向が——いつもと、同じだ」とノアが言った。「夕方、畑から見てた方向と——同じ。なのに——今は、その方向に、近づいてる。それが——変な感じだ」


「近づいたこと、なかったのか」


「なかった」とノアが言った。「十年間——一度も。見るだけだった」


ルルが、少し、ノアを見た。


「……においが、変わってる」とルルが言った。「歩く前と——今と。少しずつ、変わってきてる」


「どう変わってる?」


「近づいてる」とルルが言った。「ノアさんの——においが。西の——においに。少しずつ、重なってきてる」


―――


昼前、平原の真ん中で、それは起きた。


何もない場所だった。草が、どこまでも、続いていた。目印になるようなものは——何もなかった。


ノアの足が——突然、止まった。


「……ここ」とノアが、小さく言った。


全員が、足を止めた。


「ノアさん?」とエリナが聞いた。


ノアは、答えなかった。ただ——その場に、立ったまま、周りを見ていた。何もない草原を——まるで、何かが、見えているような目で。


「……ここ、覚えてる」とノアが言った。


―――


「覚えてる、というのは」とカインが、慎重に聞いた。「この——場所を、ですか?」


「わからない」とノアが言った。「景色は——覚えてない。ここに、何があるわけじゃない。でも——」


ノアが、少し、額を押さえた。


「——足が、止まった。理由は、わからない。でも——ここを、通り過ぎたら、いけない気がした。今、止まらないと——何か、忘れる気がした」


ルルが、少し、鼻を動かした。それから——ゆっくりと、ノアの隣に立った。


目を、細めた。


「……あ」とルルが、小さく言った。


「どうした?」とジンが聞いた。


「ここにも——隙間がある」とルルが言った。


―――


全員が、ルルを見た。


「隙間って——祠のじゃなくて?」とジンが聞いた。


「うん」とルルが言った。「祠の隙間とは——違う。すごく、小さい。微か。でも——種類は、似てる。ノアさんの——隙間と、同じ種類」


ルルが、少し、考えた。


「……糸の上に——結び目が、ある」とルルが言った。「断絶の崖が——大きい結び目だった、って、カインさんが言ってた。それと——同じ。でも、ここのは——もっと、小さい。糸が、ちょっとだけ——固くなってる、くらいの」


カインが、少し、目を見開いた。


「……小さな結び目」とカインが、繰り返した。「祠と、カノエ村を繋ぐ、糸の——途中に。それが、あった、ということですか」


「うん」とルルが言った。「たぶん——歩いた跡。誰かが、ここで——立ち止まった。その跡が——糸に、残ってる」


―――


ノアが、ゆっくりと、しゃがみこんだ。


草に、両手で——触れた。それから——その下の、土に。


「……ここで」とノアが言った。声が、少し、低くなっていた。「——誰かと、話した」


「誰かと」とジンが、繰り返した。


「うん」とノアが言った。「あの人と——ここで」


ノアの手が、少し、震えた。


「……景色は、見えない」とノアが言った。「でも——感覚だけ、ある。ここに——立っていた。誰かと、並んで。前を見てた。前には——何も、なかった。ただ——西に、何かがあるって、わかってた。これから、そこに行く、ってわかってた」


「行く前——だったのか」とジンが聞いた。


「うん」とノアが言った。「行く——前。歩きながら——話してた」


―――


「……何を、話していたか——覚えていますか」とエリナが、そっと聞いた。


ノアが、目を閉じた。


長い、時間だった。


風が、草を揺らしていた。誰も、急かさなかった。


「……声が」とノアが、ようやく言った。「聞こえる、気がする。誰かの——声」


「どんな声?」


「低い」とノアが言った。「落ち着いてる。年上の——男の声、だと思う。何を、言ってたかは——わからない。ただ——その声が、何か、聞いてた」


「聞いてた?」


「うん」とノアが言った。「俺に——何か、聞いてた。質問——みたいな。それで——俺が、答えた。何を答えたかは——わからない。でも——答えた時、その声が——少し、笑った気がする」


ノアが、少し、目を開けた。


「……笑った、っていうのは——馬鹿にした笑いじゃない。なんていうか——『そうか』っていう、笑い方だった。納得した時の」


―――


「アル・ヴェリア」とカインが、静かに言った。「……でしょうか」


「断定はできません」とセレクが言った。「ただ——『年上の、落ち着いた男の声』というのは。アル・ヴェリアの記録に残る、人物像と——矛盾しません」


「もし——そうなら」とジンが言った。「ノアは——その時、何かを、聞かれてたんだな。アル・ヴェリアに」


「質問の——内容は」とエリナが聞いた。「何か、思い出せそうですか」


ノアが、もう一度、目を閉じた。


しばらくして——小さく、首を振った。


「……出てこない」とノアが言った。「でも——一つだけ。質問じゃなくて——その時、俺が、持ってた『感じ』。それは——覚えてる」


「どんな感じ?」


「楽しみ」とノアが言った。


全員が、少し、ノアを見た。


「……楽しみ?」とルルが、確かめるように言った。


「うん」とノアが言った。「怖くなかった。緊張も——あったと思う。でも——それより、楽しみが、大きかった。これから——何かをする。それが——楽しみだった。何をするかは——わからない。でも——その『感じ』だけは、すごく、はっきり、残ってる」


―――


ルルが、少し、目を細めた。


「……それ」とルルが言った。「いいにおいだ」


「いいにおい?」


「うん」とルルが言った。「ノアさんの——今の隙間。さっきまでは——『苦しい』においが、強かった。でも——今、思い出した『楽しみ』。それが——隙間の中に、ちょっと、入った」


ルルが、少し、笑った。


「埋まったわけじゃない」とルルが言った。「でも——隙間の中に、何か、温かいものが——一つ、置かれた、感じ」


ノアが、ゆっくりと、立ち上がった。


草についた土を、軽く払った。


「……ありがとう」とノアが、ルルに言った。


「なんで、お礼?」


「わからない」とノアが言った。「でも——言いたかった」


―――


「カインさん」とエリナが言った。「これは——記録した方がいいですよね」


「もちろんです」とカインが言った。「ただ——この場所には、目印が、ありません。位置を——どうやって、記録するか」


「においで——わかる」とルルが言った。「私が——覚えてる。この場所の——糸の固さ。帰り道でも——わかる」


「頼りになりますね」とカインが言った。少し、笑った。


一行は、もう一度、その場所を——確認するように、ゆっくりと、見回した。それから——西へ、歩き出した。


―――


歩きながら、ジンは、ノアに——少し、近づいた。


「……さっきの、『楽しみ』」とジンが言った。「それ——なんとなく、わかる」


「わかる?」


「うん」とジンが言った。「俺も——最初、こっちの世界に来た時。怖かった。でも——その奥に、ちょっと、楽しみもあった。知らない世界で——これから、何が起きるんだろう、っていう」


ノアが、少し、ジンを見た。


「……お前も、そうだったのか」


「うん」とジンが言った。「だから——もし、四百年前の、お前が——同じ気持ちだったなら。あんたとアル・ヴェリアは——もしかしたら、似てたのかもしれない。誰かを——西に連れて行く時の、感じが」


ノアが、少し、考えた。それから——小さく、笑った。


「……それは——いいな」とノアが言った。


―――


午後、空に——薄く、雲の切れ間ができた。


光が、平原に、差し込んだ。久しぶりの、はっきりした日差しだった。


「……天気が、変わりましたね」とエリナが言った。


「西の方は——まだ、雲が厚い」とシアが言った。「祠の上だけ、変わらない、ってことか」


「祠の上の空は——たぶん、外の天気と、関係ない」とカインが言った。「時間が、外と違う場所ですから。雲も、止まっている、と」


ルルが、少し、西の方を見た。


「……においが、強くなってきた」とルルが言った。「祠の——におい。今までより——はっきり、感じる」


「向こうも——気づいてるのか」とジンが聞いた。


「うん」とルルが言った。「二本の糸が——近づいてる。それに——向こうが、応えてる。揺れてる」


―――


夕方、平原の先に——見覚えのある、緑の輪郭が見えてきた。


祠の境界だった。


昨日まで、何度も見た光景だった。それでも——今日は、何かが、違っていた。


ノアが、足を止めた。


全員が、ノアを見た。


ノアは、しばらく、その場に立っていた。境界の方を、見ていた。


「……ここまで、来たのか」とノアが、小さく言った。「俺が——」


ジンが、ノアの隣に立った。


「無理しなくていい」とジンが言った。「今日は——ここで、野営する。中に入るのは——明日だ」


ノアが、少し、息を吐いた。


「……ありがとう」とノアが言った。


―――


境界の外で、野営の準備をした。


炉に、火がついた。火が、揺れた。


ノアは、火を見ながら——ずっと、境界の方を、見ていた。


「……怖いか?」とジンが聞いた。


「怖くない、とは——言えない」とノアが言った。「十年前——ここで、何かを、忘れた。もう一度、入ったら——また、何かを、忘れるかもしれない」


「もし、忘れたら」とジンが言った。「俺たちが——覚えてる。さっきの、平原の場所のことも。お前の——『楽しみ』のことも」


ノアが、少し、ジンを見た。


「……それ、シア?」とノアが、ふと、聞いた。


「ジンだ」とシアが、すぐに、答えた。少し、呆れたような声だった。


「悪い、悪い」とノアが、笑った。少し、肩の力が、抜けたようだった。


―――


ルルが、少し、ノアに近づいた。


「……ノアさんの——におい」とルルが言った。「『歩き出す』においから——もう一つ、増えた」


「どんな?」


「『戻ってきた』におい」とルルが言った。「ノアさんは——十年前、ここから——外に、出た。その時の、続き——みたいな。あの時、止まったところから——また、歩き始めてる」


ノアが、少し、目を細めた。


「……そうかもしれない」とノアが言った。「十年間——止まってた、気がする。畑を耕してても——どこか、止まってた。でも——今は」


ノアが、境界の方を見た。


「——動いてる、気がする」


―――


エリナは、ランプの光で、手帳を書いた。


今日のこと——ノアと共に祠へ向かったこと、平原の途中で見つかった「小さな隙間」、ノアが思い出した四百年前の声と「楽しみ」という感覚、戦して、再び境界の前に立ったこと。すべてを、書いた。


書き終えて、ペンを止めた。


それから——もう一行、追加した。


『今日、ノアさんは——何もない草原の真ん中で、足を止めました。そこには、何もありませんでした。でも——確かに、何かが、ありました。それは、四百年前、ノアさんが「これから何かが始まる」という気持ちで、誰かと並んで歩いていた跡でした。私は、それを聞いて——少し、嬉しくなりました。十年間、ノアさんの中にあった「苦しい」という気持ちの隙間に、今日、「楽しみ」という気持ちが、一つ、入りました。明日、私たちは、もう一度、祠に入ります。今度は、ノアさんも一緒です。糸は、二本になりました。二本の糸が、同じ場所に向かっています。それは、きっと、とても大きな意味を持つのだと思います。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』


ランプの炎が、静かに揺れた。


―――


ルルは、最後に——境界の方角を見た。


風が、止まりかけていた。境界の向こうは——今も、静かなままだった。


微か。でも——においが、はっきりと、変わっていた。


今までは——西から、二本の糸が、伸びていくのを感じていた。今は——違った。


二本の糸の先で——何かが、近づいてくる糸に——気づいていた。揺れていた。応えるように、ゆっくりと、揺れていた。


「……向こうも——待ってる」とルルが、小さく言った。「ノアさんが——来るのを」


ルルは、少し、ノアの方を見た。ノアは、まだ、火の前で、境界の方を見ていた。


「……明日」とルルが言った。「ノアさんと——あの人が、会う」


ルルは、それを確かめて、眠った。


―――


夜が、深くなった。


炉の火が、揺れていた。


ノアは、まだ、起きていた。火を見ながら——時々、自分の両手を見ていた。何かを、確かめるように。


境界の中では——光が、静かに、揺らいでいた。


その揺らぎは——昨日よりも、さらに、はっきりとした輪郭を持ち始めていた。


まだ、「問い」でも、「待つ」だけの揺らぎでもなかった。


それは——もっと、近いものだった。


誰かが——もうすぐ来る、ということを、知っている者の——揺らぎだった。


―――


― 第39話・了 ―


―――


次話予告:翌朝、一行とノアは、境界をまたいだ。瞬間——いつもとは違う何かが起きた。音が消える前に——ノアが、声を上げた。「……これ」。ノアの足が、止まらなかった。むしろ——引かれるように、奥へと進んでいく。光が、ノアを、映していた。揺らぎが——大きく、強く、波のように動いた。「……来た」と、光が、初めて、はっきりとした声で言った。「やっと、来た」。ノアの目から——何かが、こぼれた。

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