第38話「鍬が落ちた音と、ノアの隙間と、ふたつの『問い』」
翌朝、一行はカノエ村への帰路についた。
半日の道のりは——来た時よりも、短く感じられた。
誰も、多くを話さなかった。それでも——重さは、変わらなかった。むしろ——増えていた。祠に置いてきたものの分だけ、何かが、増えていた。
「……変な感じだ」とジンが言った。「行きは——わからないことに向かってた。今は——わかったことを、持って帰ってる。なのに——軽くない」
「軽くなる必要はないと思います」とエリナが言った。「わかったことが——増えたんですから。むしろ、それは——ちゃんと、重いままでいいことなんだと思います」
ルルが、少し、鼻を動かした。
「西からのにおいが——薄くなってきた」とルルが言った。「祠が——遠くなってる。でも——切れてない。糸みたいに、伸びてる」
「伸びてる、けど——切れない」とカインが言った。「……それは、いいことだと思います」
―――
昼を過ぎた頃、平原の向こうに——カノエ村の屋根が見えてきた。
畑が、見えた。
その畑の一角に——人影があった。鍬を持って、土を起こしている。
「……ノアさんだ」とルルが、小さく言った。
ノアは、しばらく、こちらに気づかなかった。鍬を、何度も、土に打ち込んでいた。一定の間隔だった。リズムというより——習慣のような、繰り返しだった。
やがて——顔を上げた。
一行を見て——ノアの手が、止まった。
「……早いな」とノアが言った。
声は、いつもと、変わらなかった。穏やかで——少し、間延びした声だった。
それから——ノアは、一行の顔を、一人ずつ、見た。
ジン。エリナ。ルル。シア。カイン。セレク。
その視線が、一周したところで——ノアの表情が、わずかに、変わった。
「……何か、あったのか」とノアが言った。
声の調子は、ほとんど変わっていなかった。でも——その奥に、何か、別のものが、混じっていた。
―――
誰も、すぐには、答えなかった。
どこから、話すべきか。何を、最初に伝えるべきか。誰もが——その重さを、測っているようだった。
ルルが、一歩、前に出た。
「ノアさん」とルルが言った。
「聞きたいことがある——『名前』について」
―――
ノアの手から、鍬が、滑り落ちた。
乾いた音が、畑に響いた。
誰も、それを、拾おうとしなかった。
ノアは——しばらく、その場に、立ち尽くしていた。
「……名前」とノアが、繰り返した。
その言葉を——口の中で、何度も、確かめているようだった。
「……俺の、名前か」とノアが言った。「それなら——お前たちに、教えてもらわなきゃいけないのは——こっちの方だ。俺は——自分の名前を、知らない」
「違う」とルルが言った。「ノアさんの名前——じゃない」
ルルが、少し、言葉を探した。
「……ノアさんが——祠で、つけようとした名前。それについて」
―――
風が、止まった気がした。
実際には、止まっていなかった。草は、揺れていた。鳥の声も、聞こえていた。それでも——その一瞬だけ、ノアの周りの空気だけが、止まったように見えた。
ノアの顔から——表情が、消えた。
いつもの、穏やかな表情でもなかった。困惑でもなかった。それは——何かを、必死に、思い出そうとしている顔だった。
「……つけようとした、名前」とノアが、小さく言った。「俺が——?」
ノアが、自分の両手を見た。それから——西の方角を、見た。
「……西を見ると」とノアが言った。「いつも——何か、思い出せそうになる。でも——思い出せない。手を伸ばしたら、何か、握れそうな気がする。でも——握った瞬間に、消える」
ノアが、少し、額を押さえた。
「……今も——そうだ。今、お前が——『名前』って言った瞬間。何か——すごく、近くまで来た。でも——やっぱり、届かない」
―――
「……立ち話で、できる話じゃないと思います」とカインが言った。「座れる場所が——どこかにありますか」
ノアが、少し、頷いた。
「……家に来てくれ」とノアが言った。「広くはないが——座る場所はある」
―――
ノアの家は、村の外れにあった。小さな、石造りの家だった。中は、片付いていたが——どこか、生活の匂いが、薄かった。必要なものだけが、必要な場所に、置かれている——そんな部屋だった。
全員が、座った。
「……順番に、話します」とカインが言った。「ノア殿には——少し、長い話になります」
カインが、ゆっくりと、語った。
境界をまたいだこと。音が消えたこと。蔓に覆われた人影。壁から消えた名前。ジンが触れたこと。光が応えたこと。「待っていた」という感覚。蔓がほどけたこと。「世界が流れ続けることを望む」というジンの答え。そして——目が開き、声が、「名前」と言ったこと。
ノアは、黙って、聞いていた。
時々——目を、閉じた。何かを、追いかけるような顔だった。
―――
「……それと」とルルが言った。「もう一つ。あの人の——一番、古い隙間。それと——ノアさんの隙間。同じ何かに——繋がってる」
ノアが、ルルを見た。
「……繋がってる、っていうのは」
「うん」とルルが言った。「ノアさんが——祠で忘れたもの。それは——きっと、あの人に——名前をつけようとした時の、何か。記憶——っていうか。その時、ノアさんが——何を思って、どんな言葉を、選ぼうとしたか。それが——抜けてる」
ノアが、両手で、顔を覆った。
しばらく、そのままだった。
「……そうか」とノアが、手の隙間から、言った。声が、少し、震えていた。「……だから、か」
「だから?」とジンが聞いた。
ノアが、ゆっくりと、顔を上げた。
「……俺は——10年間、ずっと——何かを、忘れてる気がしてた」とノアが言った。「それが——何かは、わからなかった。でも——それが、自分の名前だと思ってた。だから——名前を聞かれても、答えられないことが——一番、苦しかった」
ノアが、少し、息を吐いた。
「……でも、今——わかった。違う。俺が忘れたのは——自分の名前じゃない。誰か——他の誰かの、名前だ。俺は——それを、考えてた。10年前——あそこで」
―――
「……何か、覚えていることは——ありますか」とエリナが、そっと聞いた。「どんな、小さなことでも」
ノアが、少し、目を閉じた。
長い、時間だった。
「……光」とノアが、ようやく言った。「青白い光。それと——蔓。それは——覚えてる。今、お前たちの話を聞いて——もっと、はっきりした」
ノアが、少し、眉を寄せた。
「……俺は——その光の前に、立っていた。誰かと——一緒に」
「誰かと」とジンが、繰り返した。
「……誰だったか」とノアが言った。「思い出せない。でも——一人じゃなかった。それは——確かだ」
全員が、少し、視線を交わした。
「……それと」とノアが言った。「言葉を——考えていた。名前のための、言葉。いくつか——候補があった。でも——どれも、違う気がして。最後の、最後に——一つ、決めた気がする。決めた瞬間——」
ノアの手が、少し、震えた。
「……決めた瞬間——何か、すごく、大きな音がした。光みたいな、音だった。それで——俺は、外に立っていた。祠の入り口に。何も、覚えていない状態で」
―――
部屋の中が、しばらく、静かになった。
「……『一緒だった誰か』」とセレクが、静かに言った。「それは——もしかすると」
「ああ」とジンが言った。「俺たちも——そう思った」
「アル・ヴェリア」とカインが言った。「400年前——アル・ヴェリアが、ここに来た時。その時、誰か——一緒にいた可能性が——あります。そして——その『誰か』が——ノア殿、なのかもしれません」
「待って」とエリナが言った。「でも——ノアさんは、10年前に、祠から戻ってきたんですよね。アル・ヴェリアは——400年前の人です。時間が——合いません」
「合わない、というのが——おかしいんです」とセレクが言った。「『静止の祠』は——時間の流れから、切り離された場所です。中にいる時間と——外の時間は、同じではない、可能性があります」
「つまり」とジンが言った。「ノアは——もしかしたら、もっと——昔から、あそこに、いたかもしれない、ってことか」
「断定はできません」とカインが言った。「ただ——可能性としては」
―――
ノアが、少し、笑った。それは——どこか、自分を、笑うような笑い方だった。
「……俺は——何百年前の、人間なのかもしれない、ってことか」とノアが言った。「自分で言っても——実感がない。10年前の、村に来た日のことは——覚えてる。それより前は——本当に、何もない」
「……怖くないですか」とエリナが聞いた。
ノアが、少し、考えた。
「……怖いと言えば——怖い」とノアが言った。「でも——それより。今、わかったことの方が——大きい」
「わかったこと?」
「俺が——一人で、名前を決めようとした、ってことだ」とノアが言った。「それで——何かが、決まった。何かが、起きた。誰かと——一緒に。誰か、と一緒に。それは——『一人で待ってた』んじゃない、ってことだろ」
ノアが、西の方を見た。
「……ずっと、自分のことだと思ってた」とノアが言った。「自分の何かが、欠けてる。自分の名前が、わからない。それが——苦しい、と思ってた。でも——違った。俺が——欠けさせたものは、俺のものじゃなかった。誰かに——渡すはずだったものだ」
―――
「……あの人に」とジンが言った。「あんたが——名前を、つけようとしてたのかもしれない」
ノアが、ジンを見た。
「……そうらしいな」とノアが言った。
しばらく、誰も、何も言わなかった。
それから——ノアが、ゆっくりと、立ち上がった。
「……俺も、行く」とノアが言った。
「行く?」
「祠に」とノアが言った。「お前たちが——あの人に、名前を贈るなら。俺の中にある、その時の——何かが、必要なんだろ。だったら——俺も、見ておきたい。10年間——西を見て、何を待ってたのか。それを——見ておきたい」
「危険かもしれません」とカインが言った。「再び——何かを、忘れる可能性もあります」
「もう一度、忘れても」とノアが言った。「お前たちが——覚えてるんだろ。だったら——大丈夫だ」
ノアが、少し、笑った。
「……それに——お前らが、最初に、約束してくれた。『欠けたものが、何かわかったら、必ず伝える』って。あれは——ただの、報告のための約束じゃなかったんだろ。一緒に——確かめに行く、っていう意味だったんじゃないか」
ルルが、少し、目を見開いた。それから——少し、嬉しそうな顔をした。
「……うん」とルルが言った。「ノアさんの——においが、変わった」
「どう変わった?」
「待ってる、においじゃなくなった」とルルが言った。「歩き出す——においだ」
―――
夕方、ノアの家の前で、全員が——出発の準備を、整えた。
「明日、出発します」とカインが言った。「祠までは——半日です。今日は——休んで、体力を整えましょう」
ノアが、少し、家の中を見た。畑の方を見た。それから——小さく、頷いた。
「……長く、留守にするかもしれない」とノアが、誰にともなく、言った。「でも——畑は、戻ってきたら、また——始めればいい」
炉に、火がついた。火が、揺れた。
ジンは、火を見ながら——ノアを見た。
「……不安か?」とジンが聞いた。
「不安じゃない、とは——言えない」とノアが言った。「でも——10年間、不安だった。何が不安なのかも、わからずに——不安だった。それなら——わかってる不安の方が——まだ、楽だ」
「そういうもんか」
「そういうもんだ」とノアが言った。
―――
エリナは、ランプの光で、手帳を書いた。
今日のこと——ノアと再会したこと、ノアが思い出した断片、もう一人の「誰か」の可能性、アル・ヴェリアとノアの繋がりの可能性、精度——ノアが、自分から「行く」と言ったこと。すべてを、書いた。
書き終えて、ペンを置いた。
それから——もう一行、追加した。
『今日、ノアさんは、鍬を落としました。その音が——私には、何かが「始まる音」のように聞こえました。10年間、ノアさんは一人で西を見ていました。でも——明日からは、一人ではありません。私たちが、一緒に見ます。誰のための名前なのか、まだわかりません。でも——その名前を考える人が、一人増えました。それは、きっと、いいことだと思います。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』
ランプの炎が、静かに揺れた。
―――
ルルは、最後に——西の方角を見た。
風が、吹いていた。祠の方から——細い、糸のようなにおいが、届いていた。
そのにおいの中に——今日まではなかった、もう一つの糸が、混じっていた。
ノアの——においだった。
「……二本になった」とルルが、小さく言った。「糸が——二本、西に伸びてる」
ルルは、それを確かめて、眠った。
―――
夜が、深くなった。
炉の火が、揺れていた。
ノアの家の灯りは——いつもより、少しだけ、長く、ついていた。
西の方角——祠の中では——光が、静かに、揺らいでいた。
その揺らぎの中に——今までになかった、小さな、もう一つの輪郭が——ゆっくりと、形を、持ち始めていた。
それは——「問い」ではなかった。
それは——「待っている」という、ただ、それだけの——揺らぎだった。
―――
―第38話・了 ―
―――
次話予告:翌朝、一行とノアは、再び平原を西へ向かった。半日の道のりの途中、ノアが、急に足を止めた。「……ここ、覚えてる」。何もない、草原の真ん中だった。ルルが、ノアの隣に立った。「……においがある。ここにも——隙間が」。ノアが、しゃがみこんだ。土に、手を当てた。「……ここで——誰かと、話した。あの人と——ここで」。光が、まだ、見えない場所で——祠は、すでに、二人を、待っていた。




