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無詠唱の魔王  作者: Dちゃん
第四章「西へ続く道の話」

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第38話「鍬が落ちた音と、ノアの隙間と、ふたつの『問い』」

翌朝、一行はカノエ村への帰路についた。


半日の道のりは——来た時よりも、短く感じられた。


誰も、多くを話さなかった。それでも——重さは、変わらなかった。むしろ——増えていた。祠に置いてきたものの分だけ、何かが、増えていた。


「……変な感じだ」とジンが言った。「行きは——わからないことに向かってた。今は——わかったことを、持って帰ってる。なのに——軽くない」


「軽くなる必要はないと思います」とエリナが言った。「わかったことが——増えたんですから。むしろ、それは——ちゃんと、重いままでいいことなんだと思います」


ルルが、少し、鼻を動かした。


「西からのにおいが——薄くなってきた」とルルが言った。「祠が——遠くなってる。でも——切れてない。糸みたいに、伸びてる」


「伸びてる、けど——切れない」とカインが言った。「……それは、いいことだと思います」


―――


昼を過ぎた頃、平原の向こうに——カノエ村の屋根が見えてきた。


畑が、見えた。


その畑の一角に——人影があった。鍬を持って、土を起こしている。


「……ノアさんだ」とルルが、小さく言った。


ノアは、しばらく、こちらに気づかなかった。鍬を、何度も、土に打ち込んでいた。一定の間隔だった。リズムというより——習慣のような、繰り返しだった。


やがて——顔を上げた。


一行を見て——ノアの手が、止まった。


「……早いな」とノアが言った。


声は、いつもと、変わらなかった。穏やかで——少し、間延びした声だった。


それから——ノアは、一行の顔を、一人ずつ、見た。


ジン。エリナ。ルル。シア。カイン。セレク。


その視線が、一周したところで——ノアの表情が、わずかに、変わった。


「……何か、あったのか」とノアが言った。


声の調子は、ほとんど変わっていなかった。でも——その奥に、何か、別のものが、混じっていた。


―――


誰も、すぐには、答えなかった。


どこから、話すべきか。何を、最初に伝えるべきか。誰もが——その重さを、測っているようだった。


ルルが、一歩、前に出た。


「ノアさん」とルルが言った。


「聞きたいことがある——『名前』について」


―――


ノアの手から、鍬が、滑り落ちた。


乾いた音が、畑に響いた。


誰も、それを、拾おうとしなかった。


ノアは——しばらく、その場に、立ち尽くしていた。


「……名前」とノアが、繰り返した。


その言葉を——口の中で、何度も、確かめているようだった。


「……俺の、名前か」とノアが言った。「それなら——お前たちに、教えてもらわなきゃいけないのは——こっちの方だ。俺は——自分の名前を、知らない」


「違う」とルルが言った。「ノアさんの名前——じゃない」


ルルが、少し、言葉を探した。


「……ノアさんが——祠で、つけようとした名前。それについて」


―――


風が、止まった気がした。


実際には、止まっていなかった。草は、揺れていた。鳥の声も、聞こえていた。それでも——その一瞬だけ、ノアの周りの空気だけが、止まったように見えた。


ノアの顔から——表情が、消えた。


いつもの、穏やかな表情でもなかった。困惑でもなかった。それは——何かを、必死に、思い出そうとしている顔だった。


「……つけようとした、名前」とノアが、小さく言った。「俺が——?」


ノアが、自分の両手を見た。それから——西の方角を、見た。


「……西を見ると」とノアが言った。「いつも——何か、思い出せそうになる。でも——思い出せない。手を伸ばしたら、何か、握れそうな気がする。でも——握った瞬間に、消える」


ノアが、少し、額を押さえた。


「……今も——そうだ。今、お前が——『名前』って言った瞬間。何か——すごく、近くまで来た。でも——やっぱり、届かない」


―――


「……立ち話で、できる話じゃないと思います」とカインが言った。「座れる場所が——どこかにありますか」


ノアが、少し、頷いた。


「……家に来てくれ」とノアが言った。「広くはないが——座る場所はある」


―――


ノアの家は、村の外れにあった。小さな、石造りの家だった。中は、片付いていたが——どこか、生活の匂いが、薄かった。必要なものだけが、必要な場所に、置かれている——そんな部屋だった。


全員が、座った。


「……順番に、話します」とカインが言った。「ノア殿には——少し、長い話になります」


カインが、ゆっくりと、語った。


境界をまたいだこと。音が消えたこと。蔓に覆われた人影。壁から消えた名前。ジンが触れたこと。光が応えたこと。「待っていた」という感覚。蔓がほどけたこと。「世界が流れ続けることを望む」というジンの答え。そして——目が開き、声が、「名前」と言ったこと。


ノアは、黙って、聞いていた。


時々——目を、閉じた。何かを、追いかけるような顔だった。


―――


「……それと」とルルが言った。「もう一つ。あの人の——一番、古い隙間。それと——ノアさんの隙間。同じ何かに——繋がってる」


ノアが、ルルを見た。


「……繋がってる、っていうのは」


「うん」とルルが言った。「ノアさんが——祠で忘れたもの。それは——きっと、あの人に——名前をつけようとした時の、何か。記憶——っていうか。その時、ノアさんが——何を思って、どんな言葉を、選ぼうとしたか。それが——抜けてる」


ノアが、両手で、顔を覆った。


しばらく、そのままだった。


「……そうか」とノアが、手の隙間から、言った。声が、少し、震えていた。「……だから、か」


「だから?」とジンが聞いた。


ノアが、ゆっくりと、顔を上げた。


「……俺は——10年間、ずっと——何かを、忘れてる気がしてた」とノアが言った。「それが——何かは、わからなかった。でも——それが、自分の名前だと思ってた。だから——名前を聞かれても、答えられないことが——一番、苦しかった」


ノアが、少し、息を吐いた。


「……でも、今——わかった。違う。俺が忘れたのは——自分の名前じゃない。誰か——他の誰かの、名前だ。俺は——それを、考えてた。10年前——あそこで」


―――


「……何か、覚えていることは——ありますか」とエリナが、そっと聞いた。「どんな、小さなことでも」


ノアが、少し、目を閉じた。


長い、時間だった。


「……光」とノアが、ようやく言った。「青白い光。それと——蔓。それは——覚えてる。今、お前たちの話を聞いて——もっと、はっきりした」


ノアが、少し、眉を寄せた。


「……俺は——その光の前に、立っていた。誰かと——一緒に」


「誰かと」とジンが、繰り返した。


「……誰だったか」とノアが言った。「思い出せない。でも——一人じゃなかった。それは——確かだ」


全員が、少し、視線を交わした。


「……それと」とノアが言った。「言葉を——考えていた。名前のための、言葉。いくつか——候補があった。でも——どれも、違う気がして。最後の、最後に——一つ、決めた気がする。決めた瞬間——」


ノアの手が、少し、震えた。


「……決めた瞬間——何か、すごく、大きな音がした。光みたいな、音だった。それで——俺は、外に立っていた。祠の入り口に。何も、覚えていない状態で」


―――


部屋の中が、しばらく、静かになった。


「……『一緒だった誰か』」とセレクが、静かに言った。「それは——もしかすると」


「ああ」とジンが言った。「俺たちも——そう思った」


「アル・ヴェリア」とカインが言った。「400年前——アル・ヴェリアが、ここに来た時。その時、誰か——一緒にいた可能性が——あります。そして——その『誰か』が——ノア殿、なのかもしれません」


「待って」とエリナが言った。「でも——ノアさんは、10年前に、祠から戻ってきたんですよね。アル・ヴェリアは——400年前の人です。時間が——合いません」


「合わない、というのが——おかしいんです」とセレクが言った。「『静止の祠』は——時間の流れから、切り離された場所です。中にいる時間と——外の時間は、同じではない、可能性があります」


「つまり」とジンが言った。「ノアは——もしかしたら、もっと——昔から、あそこに、いたかもしれない、ってことか」


「断定はできません」とカインが言った。「ただ——可能性としては」


―――


ノアが、少し、笑った。それは——どこか、自分を、笑うような笑い方だった。


「……俺は——何百年前の、人間なのかもしれない、ってことか」とノアが言った。「自分で言っても——実感がない。10年前の、村に来た日のことは——覚えてる。それより前は——本当に、何もない」


「……怖くないですか」とエリナが聞いた。


ノアが、少し、考えた。


「……怖いと言えば——怖い」とノアが言った。「でも——それより。今、わかったことの方が——大きい」


「わかったこと?」


「俺が——一人で、名前を決めようとした、ってことだ」とノアが言った。「それで——何かが、決まった。何かが、起きた。誰かと——一緒に。誰か、と一緒に。それは——『一人で待ってた』んじゃない、ってことだろ」


ノアが、西の方を見た。


「……ずっと、自分のことだと思ってた」とノアが言った。「自分の何かが、欠けてる。自分の名前が、わからない。それが——苦しい、と思ってた。でも——違った。俺が——欠けさせたものは、俺のものじゃなかった。誰かに——渡すはずだったものだ」


―――


「……あの人に」とジンが言った。「あんたが——名前を、つけようとしてたのかもしれない」


ノアが、ジンを見た。


「……そうらしいな」とノアが言った。


しばらく、誰も、何も言わなかった。


それから——ノアが、ゆっくりと、立ち上がった。


「……俺も、行く」とノアが言った。


「行く?」


「祠に」とノアが言った。「お前たちが——あの人に、名前を贈るなら。俺の中にある、その時の——何かが、必要なんだろ。だったら——俺も、見ておきたい。10年間——西を見て、何を待ってたのか。それを——見ておきたい」


「危険かもしれません」とカインが言った。「再び——何かを、忘れる可能性もあります」


「もう一度、忘れても」とノアが言った。「お前たちが——覚えてるんだろ。だったら——大丈夫だ」


ノアが、少し、笑った。


「……それに——お前らが、最初に、約束してくれた。『欠けたものが、何かわかったら、必ず伝える』って。あれは——ただの、報告のための約束じゃなかったんだろ。一緒に——確かめに行く、っていう意味だったんじゃないか」


ルルが、少し、目を見開いた。それから——少し、嬉しそうな顔をした。


「……うん」とルルが言った。「ノアさんの——においが、変わった」


「どう変わった?」


「待ってる、においじゃなくなった」とルルが言った。「歩き出す——においだ」


―――


夕方、ノアの家の前で、全員が——出発の準備を、整えた。


「明日、出発します」とカインが言った。「祠までは——半日です。今日は——休んで、体力を整えましょう」


ノアが、少し、家の中を見た。畑の方を見た。それから——小さく、頷いた。


「……長く、留守にするかもしれない」とノアが、誰にともなく、言った。「でも——畑は、戻ってきたら、また——始めればいい」


炉に、火がついた。火が、揺れた。


ジンは、火を見ながら——ノアを見た。


「……不安か?」とジンが聞いた。


「不安じゃない、とは——言えない」とノアが言った。「でも——10年間、不安だった。何が不安なのかも、わからずに——不安だった。それなら——わかってる不安の方が——まだ、楽だ」


「そういうもんか」


「そういうもんだ」とノアが言った。


―――


エリナは、ランプの光で、手帳を書いた。


今日のこと——ノアと再会したこと、ノアが思い出した断片、もう一人の「誰か」の可能性、アル・ヴェリアとノアの繋がりの可能性、精度——ノアが、自分から「行く」と言ったこと。すべてを、書いた。


書き終えて、ペンを置いた。


それから——もう一行、追加した。


『今日、ノアさんは、鍬を落としました。その音が——私には、何かが「始まる音」のように聞こえました。10年間、ノアさんは一人で西を見ていました。でも——明日からは、一人ではありません。私たちが、一緒に見ます。誰のための名前なのか、まだわかりません。でも——その名前を考える人が、一人増えました。それは、きっと、いいことだと思います。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』


ランプの炎が、静かに揺れた。


―――


ルルは、最後に——西の方角を見た。


風が、吹いていた。祠の方から——細い、糸のようなにおいが、届いていた。


そのにおいの中に——今日まではなかった、もう一つの糸が、混じっていた。


ノアの——においだった。


「……二本になった」とルルが、小さく言った。「糸が——二本、西に伸びてる」


ルルは、それを確かめて、眠った。


―――


夜が、深くなった。


炉の火が、揺れていた。


ノアの家の灯りは——いつもより、少しだけ、長く、ついていた。


西の方角——祠の中では——光が、静かに、揺らいでいた。


その揺らぎの中に——今までになかった、小さな、もう一つの輪郭が——ゆっくりと、形を、持ち始めていた。


それは——「問い」ではなかった。


それは——「待っている」という、ただ、それだけの——揺らぎだった。


―――


―第38話・了 ―


―――


次話予告:翌朝、一行とノアは、再び平原を西へ向かった。半日の道のりの途中、ノアが、急に足を止めた。「……ここ、覚えてる」。何もない、草原の真ん中だった。ルルが、ノアの隣に立った。「……においがある。ここにも——隙間が」。ノアが、しゃがみこんだ。土に、手を当てた。「……ここで——誰かと、話した。あの人と——ここで」。光が、まだ、見えない場所で——祠は、すでに、二人を、待っていた。

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