第37話「光が見た顔と、はじめての言葉と、ノアへ続く糸」
翌朝、空はやはり、薄い雲に覆われていた。
風が、わずかに、戻っていた。草が、揺れていた。
昨日と、同じだった。違うのは——誰の足にも、迷いがなかったことだった。
「行きましょう」とカインが言った。
全員が、頷いた。
一歩、踏み出した。
境界をまたいだ瞬間——音が消えた。風も,消えた。世界が、また、息を止めた。
今度も、誰も、声を上げなかった。
―――
一行は、ゆっくりと、奥へ進んだ。蔓に覆われた柱の間を抜け、文字の刻まれた床を歩いた。
奥の光が——見えた。
「……明るい」とエリナが、小さく言った。
昨日よりも、さらに明るかった。淡い白の光は——もう、揺らぎというよりも、輪郭そのものを、照らしているように見えた。
ルルが、足を止めた。
「……ほとんど」とルルが言った。
「ほとんど?」
「蔓が——ほとんど、ない」とルルが言った。
―――
全員が、台座の方を見た。
昨日まで——全身を覆っていた緑の蔓は、今は、台座の周りに、静かに積もっているだけだった。蔓に覆われていた人影は——もう、人影ではなかった。
そこに、いたのは——人だった。
白い肌。穏やかな輪郭の顔。長さも、性別も、年齢も——やはり、わからなかった。ただ——それは、もう、像でも、塊でもなかった。
座った姿勢のまま、その人は——目を、開けていた。
光は、その目の中で、ゆっくりと、揺れていた。ランプの炎のような、暖かい揺らぎだった。
And——その目が、ジンを、見た。
―――
ジンの足が、止まった。
それまでとは——何かが、違った。
昨日までは——気配だった。重さだった。問いの輪郭だった。でも——今は。
「……見られてる」とジンが、小さく言った。
声が、少し、震えていた。
「見られている、というのは」とカインが聞いた。
「うまく言えない」とジンが言った。「ただ——わかる。あの目が——俺を、見てる。物じゃない。何かを——見てる。誰かが、誰かを見る時の——あの感じだ」
ルルが、少し、目を細めた。
「……うん」とルルが言った。「みんなのことも——見てる。一人ずつ。順番に」
光の中の目が——ゆっくりと、動いた。ジンから、エリナへ。エリナから、ルルへ。ルルから、シアへ。シアから、カインへ。カインから、セレクへ。
そして——もう一度、ジンに戻った。
―――
全員が、息を呑んだまま、待った。
その時——音が、聞こえた。
音、ではなかった。震動でもなかった。でも——昨日までの「においのような何か」とも、違った。
それは——確かに、声だった。
小さく、低く、ゆっくりと。まるで——長い間、使われていなかった声帯が、ようやく、震えたような。
「……名前」
その一言だけだった。
―――
誰も、動かなかった。
しばらくして——エリナが、口を開いた。手帳を、強く握っていた。
「……私たちに——決めてほしい、ということですか」
光が——わずかに、揺れた。
その揺れ方は——昨日までの、不規則な揺らぎとは、違った。
ゆっくりと、一度。確かに、頷くように。
「……うなずいた」とルルが、小さく言った。「今——はっきり、うなずいた」
―――
誰も、すぐには、言葉が出なかった。
「……名前を」とジンが、ようやく言った。「俺たちに、決めてほしい——ってことか」
「そう、見えます」とセレクが言った。声が、かすれていた。
カインが、少し、額に手をやった。
「……これは」とカインが言った。「想像していたよりも——ずっと、大きなことです。名前を贈る、ということは——その存在を、これから、世界の中に——位置づける、ということです。一度、決めたら——簡単には、変えられません」
「重い」とジンが言った。「すごく——重い」
「ええ」とカインが言った。「でも——逆に言えば。今まで、誰も——その重さを、引き受けようとしなかった、ということです。アル・ヴェリアも。それより前の、誰も」
―――
光の中の目が——もう一度、ジンを見た。
今度は——わずかに、何かを、求めるような、揺らぎだった。
ジンが、少し、考えた。それから——ゆっくりと、口を開いた。
「今すぐには——決められない」とジンが言った。「噓は、言いたくない。だから——正直に言う。今すぐには——決められない。でも」
ジンが、少し、息を吸った。
「——決める。必ず、決める。あんたに——ふさわしい名前を。時間が、欲しい」
光が——揺れた。
今度の揺れ方は——焦りでも、不満でもなかった。むしろ——どこか、安堵したような、揺らぎだった。
「……いいって」とルルが言った。「『時間』——それも、悪くないにおいだ、って」
―――
その時——ルルが、急に、目を見開いた。
「……あ」とルルが言った。
「どうした?」とジンが聞いた。
ルルが、少し、鼻を動かした。光の方を見た。それから——西の方角を、見た。
「……今、見た目が——ノアさんを、見た時の目と——同じだった」とルルが言った。
「ノアさんを、見た時の目?」とエリナが聞いた。
「うん」とルルが言った。「ノアさんが——夕方、西を見る時。あの目。『何か、待ってる』けど『何を待ってるか、わからない』——あの目。今の、この人の目も——同じだった」
全員が、少し、黙った。
「……繋がっている、ということですか」とカインが言った。「やはり——ノア殿と」
「うん」とルルが言った。「一番、古い隙間——それと、ノアさんの隙間。同じものに、繋がってる。それは——前から、わかってた。でも——今、わかったのは——それだけじゃない」
―――
ルルが、少し、言葉を探した。
「……『名前』を——求める目。それを——ノアさんも、持ってた」とルルが言った。「ノアさんは——自分の名前を、忘れた。でも——それだけじゃない、気がする。ノアさんの目——西を見る目は、『自分の名前』を、探してるんじゃなくて——」
ルルが、光の方を、見た。
「——『誰かの名前』を、探してる目だった、のかもしれない」
「誰かの——名前」とジンが、繰り返した。
誰も、すぐには、何も、言わなかった。
光の中の目が——わずかに、揺れた。それは——肯定のようにも、ただの呼吸のようにも、見えた。
―――
「……今日は——ここまでにしましょう」とカインが、静かに言った。「『名前』という、はっきりした言葉が——出ました。これは——大きな変化です。一度、外で、整理する時間が——必要です」
全員が、頷いた。
ジンが、少し、光の方を見た。
「……また、明日も来る」とジンが言った。「約束する」
光が——ゆっくりと、揺れた。
その揺らぎは——昨日よりも、さらに、穏やかだった。
一行は、ゆっくりと、入り口の方へ戻った。
境界を出ると——風が、戻ってきた。草が、揺れた。鳥の声が、遠くで、聞こえた。
―――
「……整理しましょう」とエリナが言った。手帳を開いた。手が、まだ、少し震えていた。
「一。蔓は——ほとんど、なくなっていた。あの存在は——人の姿を、はっきりと、見せた」
「二。目が——一人ずつ、私たちを見た。最後に、ジンを見た」
「三。声が——聞こえた。『……名前』。それだけだった」
「四。私が——『私たちに決めてほしい、ということですか』と聞くと、光が——頷くように、揺れた」
「五。ジンが——『時間が欲しい。必ず決める』と答えると、光は——安堵するように揺れた」
「六。ルルが——あの存在の目と、ノアさんが西を見る時の目が——同じだったと指摘した」
エリナが、ペンを止めた。
「……七」とエリナが、少し、声を落として言った。「ルルによれば——ノアさんの目は、『自分の名前』ではなく、『誰かの名前』を、探していた可能性がある」
―――
「……つまり」とジンが言った。「ノアは——10年前、この祠で——この人に——名前を、つけようとした。あるいは——つけかけた。そういうこと、か?」
「断定はできません」とセレクが言った。「ただ——可能性としては、十分に、考えられます。ノア殿は、『戻ってきた者は、何も覚えていない』という伝承の——例外的な存在です。何かを——忘れただけでなく、何かを——『していた』可能性がある」
「もし、そうなら」とエリナが言った。「ノアさんが——10年前に、欠けたもの。それは——『名前』そのもの、かもしれない、ということですか」
「あるいは」とカインが言った。「『名前を、つけようとした』という——その行為の記憶、かもしれません。名前そのものではなく——その時、ノア殿が、何を思って、どんな言葉を、選ぼうとしたか——その記憶」
「どっちにしても」とジンが言った。「ノアと——あの人は、繋がってる。それは——確かだ」
―――
「……ノアさんを——ここに、連れてくる、ということですか」とエリナが聞いた。
「それは——簡単なことではありません」とセレクが言った。「ノア殿は、一度——この場所で、大切なものを失っています。再び、この場所に——足を踏み入れることが、彼にとって、どういう意味を持つのか。私たちには——わかりません」
「でも」とジンが言った。「あいつは——『何か見つけたら、教えてくれ』って言った。それと——『名前を、忘れたんじゃなくて、抜けてる場所がある』って——言ってた」
ジンが、少し、考えた。
「もし——あの人に贈る名前が、ノアの中にある『何か』と、関係してるなら。ノアに、聞かない限り——本当の名前には、たどり着けない、かもしれない」
「危険を、承知の上で——ノア殿に、聞きに行く、ということですね」とカインが言った。
「ただし」とシアが言った。「無理に、連れてくるわけじゃない。まず——聞く。ノアが、何を覚えてるか。何を、知ってるか。それから——決める」
「それなら」とエリナが、少し、ほっとしたように言った。「……ノアさんにも、選ぶ権利が、ある、ということですね」
「うん」とルルが言った。「ノアさんも——糸の、一本だ。一人で——決めることじゃない」
―――
夕方、境界の外で、野営の準備をした。
炉に、火がついた。火が、揺れた。
ジンは、火を見ながら——少し、考えていた。
「……名前か」とジンが、小さく言った。
「難しい?」とルルが聞いた。
「難しい、っていうか」とジンが言った。「俺、こっちの世界に来てから——いろんな名前を、聞いてきた。ラングレイ、アル・ヴェリア、ザルヴァ、断絶の崖、観測地、静止の祠……。でも——名前を、誰かに『つける』のは——初めてだ」
「向こうの世界では?」とエリナが聞いた。
「……ペットに名前をつけたことくらいかな」とジンが言った。「あの時も——けっこう、悩んだ。でも——あれとは、違う気がする」
「どう、違う?」
ジンが、少し、考えた。
「あの人は——もう、ずっと、そこにいた」とジンが言った。「名前がないまま、世界ができた時から。だから——名前をつけるっていうのは——『これから』のための名前じゃなくて、『今まで』を——全部、引き受けるための名前、なんだと思う」
―――
ルルが、少し、ジンを見た。
「……それ、いいにおいだ」とルルが言った。
「いいにおい?」
「うん」とルルが言った。「ジンが——ちゃんと、重く考えてる。重いけど——逃げてない。そのにおいが——いい」
ジンが、少し、笑った。「……そうか」
カインが、少し、火を見た。
「明日——カノエ村への、道を考えましょう」とカインが言った。「祠から、村までは——半日ほどです。一度、戻って——ノア殿に、話を聞く。それから——また、ここへ戻ってくる」
「往復で——一日以上か」とシアが言った。「その間——あの人は、待ってる、ってことになる」
「うん」とルルが言った。「でも——今日の揺れ方を見た。『時間が欲しい』——それを、受け入れてくれた。だから——大丈夫だと思う」
―――
エリナは、ランプの光で、手帳を書いた。
今日のこと——蔓がほとんどなくなったこと、目がそれぞれを見たこと、「名前」という言葉、光が頷いたこと、ジンの答え、ルルが見抜いたノアとの繋がり。すべてを、書いた。
書き終えて、ペンを置いた。
それから——もう一行、追加した。
『今日、あの人は——初めて、言葉を話しました。「名前」。たった一言でしたが、その一言のために——きっと、とても長い時間が、必要だったのだと思います。私たちは、まだ、その名前を、知りません。でも——いつか、決める時が来たら。それは、私たちだけのものじゃなくて、ノアさんの分も、一緒に持って——決めたいと思います。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』
ランプの炎が、静かに揺れた。
―――
ルルは、最後に——祠の方を見た。
風が、吹いていた。境界の向こうは——今も、静かなままだった。
でも——においが、また、変わっていた。
昨日の「満たされた」感じよりも——もっと、別のもの。何かを——待っている、においだった。でも——それは、さっきまでの「孤独に待つ」においとは、違っていた。
「……一緒に、待ってる」とルルが、小さく言った。「『一人で待つ』んじゃなくて——『一緒に』。そのにおいに——変わってる」
ルルは、それを確かめて、眠った。
―――
夜が、深くなった。
炉の火が、揺れていた。
境界の中では——光が、静かに、揺らいでいた。
目は——閉じられていなかった。ただ——その揺らぎは、ゆっくりと、穏やかだった。
西の方角——カノエ村の方から、わずかに、風が吹いていた。
その風の中に——ルルだけが、知っているにおいが、混じっていた。
夕方になると、無意識に、西を見つめる——一人の男の、においだった。
―――
― 第37話・了 ―
―――
次話予告:翌朝、一行はカノエ村への帰路についた。半日の道のりは——来た時よりも、短く感じられた。村の畑で、ノアが、鍬を止めた。「……早いな」とノアが言った。それから——一行の顔を見て、少し、表情を変えた。「……何か、あったのか」。ルルが、一歩、前に出た。「ノアさん。聞きたいことがある——『名前』について」。ノアの手から、鍬が、滑り落ちた。




