表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無詠唱の魔王  作者: Dちゃん
第四章「西へ続く道の話」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
37/37

第37話「光が見た顔と、はじめての言葉と、ノアへ続く糸」

翌朝、空はやはり、薄い雲に覆われていた。


風が、わずかに、戻っていた。草が、揺れていた。


昨日と、同じだった。違うのは——誰の足にも、迷いがなかったことだった。


「行きましょう」とカインが言った。


全員が、頷いた。


一歩、踏み出した。


境界をまたいだ瞬間——音が消えた。風も,消えた。世界が、また、息を止めた。


今度も、誰も、声を上げなかった。


―――


一行は、ゆっくりと、奥へ進んだ。蔓に覆われた柱の間を抜け、文字の刻まれた床を歩いた。


奥の光が——見えた。


「……明るい」とエリナが、小さく言った。


昨日よりも、さらに明るかった。淡い白の光は——もう、揺らぎというよりも、輪郭そのものを、照らしているように見えた。


ルルが、足を止めた。


「……ほとんど」とルルが言った。


「ほとんど?」


「蔓が——ほとんど、ない」とルルが言った。


―――


全員が、台座の方を見た。


昨日まで——全身を覆っていた緑の蔓は、今は、台座の周りに、静かに積もっているだけだった。蔓に覆われていた人影は——もう、人影ではなかった。


そこに、いたのは——人だった。


白い肌。穏やかな輪郭の顔。長さも、性別も、年齢も——やはり、わからなかった。ただ——それは、もう、像でも、塊でもなかった。


座った姿勢のまま、その人は——目を、開けていた。


光は、その目の中で、ゆっくりと、揺れていた。ランプの炎のような、暖かい揺らぎだった。


And——その目が、ジンを、見た。


―――


ジンの足が、止まった。


それまでとは——何かが、違った。


昨日までは——気配だった。重さだった。問いの輪郭だった。でも——今は。


「……見られてる」とジンが、小さく言った。


声が、少し、震えていた。


「見られている、というのは」とカインが聞いた。


「うまく言えない」とジンが言った。「ただ——わかる。あの目が——俺を、見てる。物じゃない。何かを——見てる。誰かが、誰かを見る時の——あの感じだ」


ルルが、少し、目を細めた。


「……うん」とルルが言った。「みんなのことも——見てる。一人ずつ。順番に」


光の中の目が——ゆっくりと、動いた。ジンから、エリナへ。エリナから、ルルへ。ルルから、シアへ。シアから、カインへ。カインから、セレクへ。


そして——もう一度、ジンに戻った。


―――


全員が、息を呑んだまま、待った。


その時——音が、聞こえた。


音、ではなかった。震動でもなかった。でも——昨日までの「においのような何か」とも、違った。


それは——確かに、声だった。


小さく、低く、ゆっくりと。まるで——長い間、使われていなかった声帯が、ようやく、震えたような。


「……名前」


その一言だけだった。


―――


誰も、動かなかった。


しばらくして——エリナが、口を開いた。手帳を、強く握っていた。


「……私たちに——決めてほしい、ということですか」


光が——わずかに、揺れた。


その揺れ方は——昨日までの、不規則な揺らぎとは、違った。


ゆっくりと、一度。確かに、頷くように。


「……うなずいた」とルルが、小さく言った。「今——はっきり、うなずいた」


―――


誰も、すぐには、言葉が出なかった。


「……名前を」とジンが、ようやく言った。「俺たちに、決めてほしい——ってことか」


「そう、見えます」とセレクが言った。声が、かすれていた。


カインが、少し、額に手をやった。


「……これは」とカインが言った。「想像していたよりも——ずっと、大きなことです。名前を贈る、ということは——その存在を、これから、世界の中に——位置づける、ということです。一度、決めたら——簡単には、変えられません」


「重い」とジンが言った。「すごく——重い」


「ええ」とカインが言った。「でも——逆に言えば。今まで、誰も——その重さを、引き受けようとしなかった、ということです。アル・ヴェリアも。それより前の、誰も」


―――


光の中の目が——もう一度、ジンを見た。


今度は——わずかに、何かを、求めるような、揺らぎだった。


ジンが、少し、考えた。それから——ゆっくりと、口を開いた。


「今すぐには——決められない」とジンが言った。「噓は、言いたくない。だから——正直に言う。今すぐには——決められない。でも」


ジンが、少し、息を吸った。


「——決める。必ず、決める。あんたに——ふさわしい名前を。時間が、欲しい」


光が——揺れた。


今度の揺れ方は——焦りでも、不満でもなかった。むしろ——どこか、安堵したような、揺らぎだった。


「……いいって」とルルが言った。「『時間』——それも、悪くないにおいだ、って」


―――


その時——ルルが、急に、目を見開いた。


「……あ」とルルが言った。


「どうした?」とジンが聞いた。


ルルが、少し、鼻を動かした。光の方を見た。それから——西の方角を、見た。


「……今、見た目が——ノアさんを、見た時の目と——同じだった」とルルが言った。


「ノアさんを、見た時の目?」とエリナが聞いた。


「うん」とルルが言った。「ノアさんが——夕方、西を見る時。あの目。『何か、待ってる』けど『何を待ってるか、わからない』——あの目。今の、この人の目も——同じだった」


全員が、少し、黙った。


「……繋がっている、ということですか」とカインが言った。「やはり——ノア殿と」


「うん」とルルが言った。「一番、古い隙間——それと、ノアさんの隙間。同じものに、繋がってる。それは——前から、わかってた。でも——今、わかったのは——それだけじゃない」


―――


ルルが、少し、言葉を探した。


「……『名前』を——求める目。それを——ノアさんも、持ってた」とルルが言った。「ノアさんは——自分の名前を、忘れた。でも——それだけじゃない、気がする。ノアさんの目——西を見る目は、『自分の名前』を、探してるんじゃなくて——」


ルルが、光の方を、見た。


「——『誰かの名前』を、探してる目だった、のかもしれない」


「誰かの——名前」とジンが、繰り返した。


誰も、すぐには、何も、言わなかった。


光の中の目が——わずかに、揺れた。それは——肯定のようにも、ただの呼吸のようにも、見えた。


―――


「……今日は——ここまでにしましょう」とカインが、静かに言った。「『名前』という、はっきりした言葉が——出ました。これは——大きな変化です。一度、外で、整理する時間が——必要です」


全員が、頷いた。


ジンが、少し、光の方を見た。


「……また、明日も来る」とジンが言った。「約束する」


光が——ゆっくりと、揺れた。


その揺らぎは——昨日よりも、さらに、穏やかだった。


一行は、ゆっくりと、入り口の方へ戻った。


境界を出ると——風が、戻ってきた。草が、揺れた。鳥の声が、遠くで、聞こえた。


―――


「……整理しましょう」とエリナが言った。手帳を開いた。手が、まだ、少し震えていた。


「一。蔓は——ほとんど、なくなっていた。あの存在は——人の姿を、はっきりと、見せた」


「二。目が——一人ずつ、私たちを見た。最後に、ジンを見た」


「三。声が——聞こえた。『……名前』。それだけだった」


「四。私が——『私たちに決めてほしい、ということですか』と聞くと、光が——頷くように、揺れた」


「五。ジンが——『時間が欲しい。必ず決める』と答えると、光は——安堵するように揺れた」


「六。ルルが——あの存在の目と、ノアさんが西を見る時の目が——同じだったと指摘した」


エリナが、ペンを止めた。


「……七」とエリナが、少し、声を落として言った。「ルルによれば——ノアさんの目は、『自分の名前』ではなく、『誰かの名前』を、探していた可能性がある」


―――


「……つまり」とジンが言った。「ノアは——10年前、この祠で——この人に——名前を、つけようとした。あるいは——つけかけた。そういうこと、か?」


「断定はできません」とセレクが言った。「ただ——可能性としては、十分に、考えられます。ノア殿は、『戻ってきた者は、何も覚えていない』という伝承の——例外的な存在です。何かを——忘れただけでなく、何かを——『していた』可能性がある」


「もし、そうなら」とエリナが言った。「ノアさんが——10年前に、欠けたもの。それは——『名前』そのもの、かもしれない、ということですか」


「あるいは」とカインが言った。「『名前を、つけようとした』という——その行為の記憶、かもしれません。名前そのものではなく——その時、ノア殿が、何を思って、どんな言葉を、選ぼうとしたか——その記憶」


「どっちにしても」とジンが言った。「ノアと——あの人は、繋がってる。それは——確かだ」


―――


「……ノアさんを——ここに、連れてくる、ということですか」とエリナが聞いた。


「それは——簡単なことではありません」とセレクが言った。「ノア殿は、一度——この場所で、大切なものを失っています。再び、この場所に——足を踏み入れることが、彼にとって、どういう意味を持つのか。私たちには——わかりません」


「でも」とジンが言った。「あいつは——『何か見つけたら、教えてくれ』って言った。それと——『名前を、忘れたんじゃなくて、抜けてる場所がある』って——言ってた」


ジンが、少し、考えた。


「もし——あの人に贈る名前が、ノアの中にある『何か』と、関係してるなら。ノアに、聞かない限り——本当の名前には、たどり着けない、かもしれない」


「危険を、承知の上で——ノア殿に、聞きに行く、ということですね」とカインが言った。


「ただし」とシアが言った。「無理に、連れてくるわけじゃない。まず——聞く。ノアが、何を覚えてるか。何を、知ってるか。それから——決める」


「それなら」とエリナが、少し、ほっとしたように言った。「……ノアさんにも、選ぶ権利が、ある、ということですね」


「うん」とルルが言った。「ノアさんも——糸の、一本だ。一人で——決めることじゃない」


―――


夕方、境界の外で、野営の準備をした。


炉に、火がついた。火が、揺れた。


ジンは、火を見ながら——少し、考えていた。


「……名前か」とジンが、小さく言った。


「難しい?」とルルが聞いた。


「難しい、っていうか」とジンが言った。「俺、こっちの世界に来てから——いろんな名前を、聞いてきた。ラングレイ、アル・ヴェリア、ザルヴァ、断絶の崖、観測地、静止の祠……。でも——名前を、誰かに『つける』のは——初めてだ」


「向こうの世界では?」とエリナが聞いた。


「……ペットに名前をつけたことくらいかな」とジンが言った。「あの時も——けっこう、悩んだ。でも——あれとは、違う気がする」


「どう、違う?」


ジンが、少し、考えた。


「あの人は——もう、ずっと、そこにいた」とジンが言った。「名前がないまま、世界ができた時から。だから——名前をつけるっていうのは——『これから』のための名前じゃなくて、『今まで』を——全部、引き受けるための名前、なんだと思う」


―――


ルルが、少し、ジンを見た。


「……それ、いいにおいだ」とルルが言った。


「いいにおい?」


「うん」とルルが言った。「ジンが——ちゃんと、重く考えてる。重いけど——逃げてない。そのにおいが——いい」


ジンが、少し、笑った。「……そうか」


カインが、少し、火を見た。


「明日——カノエ村への、道を考えましょう」とカインが言った。「祠から、村までは——半日ほどです。一度、戻って——ノア殿に、話を聞く。それから——また、ここへ戻ってくる」


「往復で——一日以上か」とシアが言った。「その間——あの人は、待ってる、ってことになる」


「うん」とルルが言った。「でも——今日の揺れ方を見た。『時間が欲しい』——それを、受け入れてくれた。だから——大丈夫だと思う」


―――


エリナは、ランプの光で、手帳を書いた。


今日のこと——蔓がほとんどなくなったこと、目がそれぞれを見たこと、「名前」という言葉、光が頷いたこと、ジンの答え、ルルが見抜いたノアとの繋がり。すべてを、書いた。


書き終えて、ペンを置いた。


それから——もう一行、追加した。


『今日、あの人は——初めて、言葉を話しました。「名前」。たった一言でしたが、その一言のために——きっと、とても長い時間が、必要だったのだと思います。私たちは、まだ、その名前を、知りません。でも——いつか、決める時が来たら。それは、私たちだけのものじゃなくて、ノアさんの分も、一緒に持って——決めたいと思います。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』


ランプの炎が、静かに揺れた。


―――


ルルは、最後に——祠の方を見た。


風が、吹いていた。境界の向こうは——今も、静かなままだった。


でも——においが、また、変わっていた。


昨日の「満たされた」感じよりも——もっと、別のもの。何かを——待っている、においだった。でも——それは、さっきまでの「孤独に待つ」においとは、違っていた。


「……一緒に、待ってる」とルルが、小さく言った。「『一人で待つ』んじゃなくて——『一緒に』。そのにおいに——変わってる」


ルルは、それを確かめて、眠った。


―――


夜が、深くなった。


炉の火が、揺れていた。


境界の中では——光が、静かに、揺らいでいた。


目は——閉じられていなかった。ただ——その揺らぎは、ゆっくりと、穏やかだった。


西の方角——カノエ村の方から、わずかに、風が吹いていた。


その風の中に——ルルだけが、知っているにおいが、混じっていた。


夕方になると、無意識に、西を見つめる——一人の男の、においだった。


―――


― 第37話・了 ―


―――


次話予告:翌朝、一行はカノエ村への帰路についた。半日の道のりは——来た時よりも、短く感じられた。村の畑で、ノアが、鍬を止めた。「……早いな」とノアが言った。それから——一行の顔を見て、少し、表情を変えた。「……何か、あったのか」。ルルが、一歩、前に出た。「ノアさん。聞きたいことがある——『名前』について」。ノアの手から、鍬が、滑り落ちた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ