第36話「ほどける蔓と、同じ問いと、ジンの答え」
翌朝、空はやはり、薄い雲に覆われていた。
風が、わずかに、戻っていた。草が、揺れていた。
「……行きましょう」とカインが言った。
全員が、頷いた。
一歩、踏み出した。
境界をまたいだ瞬間——昨日と同じように、音が消えた。風も、消えた。世界が、また、息を止めた。
今度は、誰も、声を上げなかった。覚悟していたからだった。
一行は、ゆっくりと、奥へ進んだ。蔓に覆われた柱の間を抜け、文字の刻まれた床を歩いた。
奥の光が——見えた。
「……明るい」とエリナが、小さく言った。
昨日の、青白い光ではなかった。今日の光は——わずかに、温度を持っているように見えた。淡い、白に近い色だった。
ルルが、足を止めた。
「……起きてる」とルルが言った。
―――
蔓が——動いていた。
わずかに。でも——確かに。
昨日までは、蔓は、人影を包み込むように、全身を覆っていた。今は——その蔓の一部が、ゆっくりと、ほどけていた。緩んだ蔓が、台座の上に、静かに、落ちていった。
音は、しなかった。それでも——全員に、それが見えた。
「……ゆっくり、ですね」とエリナが言った。声が、震えていた。
「ゆっくりすぎる」とシアが言った。「いや——ここでは、これが、普通の速さなのか」
蔓が、さらに、ほどけた。白い、滑らかな肌が——昨日より、広く、見えるようになっていた。
そして——閉じていた目が。
今度は——はっきりと、開いた。
―――
全員が、息を呑んだ。
目には——色が、なかった。瞳孔も、白目も、ない。ただ——薄い光が、そこに、満ちていた。ランプの炎のような、揺らぎのある光だった。
声には、ならなかった。
それでも——全員が、同時に、同じものを、受け取った。
言葉ではなかった。でも——「問い」だということだけは、はっきりと、わかった。形になる前の、輪郭だけの——問い。重さがあった。とても、重かった。世界中の何かが、その一点に、集まっているような重さだった。
「……これは」とカインが言った。声が、かすれていた。「……問いかけられている、ということですか」
「……うん」とルルが、小さく言った。「みんな——今、同じにおいを、受け取ってる。においじゃない、けど——においみたいに、感じる」
「俺にも——わかった」とジンが言った。
ジンが、一歩、前に出た。
「答える」
―――
誰も、止めなかった。
「……ジン」とエリナが言った。それだけだった。
ジンが、ゆっくりと、人影の前まで進んだ。蔓のほどけた隙間から——白い手のようなものが、見えた。指は、五本あった。人の手と、変わらなかった。
ジンが、その手に——自分の手を、重ねた。
その瞬間——光が、強く、揺れた。
昨日とは、違った。昨日は、ジンの中に、何かが「流れ込んできた」だけだった。今日は——流れ込んでくると同時に、何かが、ジンの方からも——流れていった。
ジンの中で——アル・ヴェリアの言葉が、響いた。
(世界が流れ続けることを、お前が望むかどうか)
それは——アル・ヴェリアが、ジンに残した、問いだった。400年前から、ジンを待っていた、問い。
でも——今、目の前のこの存在から伝わってくる「問い」は——それと、同じ形をしていた。
いや——違う。
同じ形ではなかった。これは——もっと、古い。アル・ヴェリアの問いの、さらに、その奥にある——問い。
ジンには、わかった。アル・ヴェリアの問いは——もしかしたら、ここから、始まっていたのかもしれない。
―――
ジンは、目を閉じた。
手のひらの中に——光が、満ちていく感覚がした。重さと、寂しさと、長い、長い時間。それから——もう一つ。
「待っていた」のは——ジンのことではなかった。
もっと、誰でもいい——誰か。「世界が、まだ、続いているか」を、確かめに来てくれる、誰か。それを、ずっと——待っていた。
ジンは、ゆっくりと、口を開いた。
「……まだ、続いてる」とジンが言った。
声は、小さかった。でも——確かに、響いた。
「世界は——まだ, 流れてる。止まってない。俺も——みんなも、ここにいる。歩いてきた。これからも——歩く」
ジンが、少し、息を吸った。
「だから——あんたが、待ってた『誰か』は、来た。遅くなったけど——来た」
「それと——もう一つ」とジンが続けた。
ジンの中に——アル・ヴェリアの問いが、もう一度、響いた。今度は——それに、答えるように。
「世界が流れ続けることを——俺は、望む」とジンが言った。「理由は——うまく言えない。でも——みんなと、一緒に歩いてる時間が——ちゃんと、流れてる時間だから。それが——止まったら、嫌だ。それだけだ」
―――
光が——大きく、揺れた。
今までで、一番、強く。
蔓が——さらに、ほどけた。一気に、ではなかった。それでも——確かに、何本も、何本も、滑り落ちていった。台座の周りに、緑の蔓が——静かに、積もっていった。
白い肌が——肩のあたりまで、見えるようになった。顔の輪郭が——はっきりと、見えた。性別も、年齢も、わからない。ただ——穏やかな、輪郭だった。
目は——開いたままだった。でも——その光の揺らぎが、さっきより、ゆっくりになっていた。
「……変わった」とルルが言った。少し、目を見開いていた。
「どう変わった?」とジンが聞いた。
「においが——」とルルが言った。「さっきまでは、隙間ばっかりだった。でも——今は。隙間の、縁のところに——何か、染み込んできてる」
「染み込んできてる、というのは」とカインが聞いた。
「うん」とルルが言った。「埋まってる、わけじゃない。でも——隙間の周りが——温かくなってる。さっきの、ジンの言葉。それが——染み込んでる、感じ」
―――
ルルが、少し、目を細めた。
何かに、気づいたような顔だった。
「……あ」とルルが、小さく言った。
「どうした?」
「ノアさんの——隙間と」とルルが言った。「ここの——隙間。さっきから——少し、似てるにおいがする、って思ってた。でも——今、わかった」
ルルが、人影を見た。
「同じ——種類の、隙間」とルルが言った。「ノアさんの隙間は——一つだけ。ここの隙間は——すごく、たくさん。重なってる。でも——一番、奥にある——一番、古い隙間。それと、ノアさんの隙間——似てる。同じ、何かに——繋がってる、気がする」
全員が、少し、黙った。
「……どういうことでしょうか」とエリナが、震える声で言った。
「わかりません」とセレクが言った。「ただ——もし、二つの隙間が——同じものに繋がっているとすれば。ノア殿が祠で忘れたものは——この場所、あるいは——この存在と、関係している可能性が、あります」
「ノアさんが——忘れたもの」とジンが言った。「それが——ここに、あるかもしれない、ってことか」
「断定はできません」とカインが言った。「ただ——調べる価値は、十分にあります」
―――
光が、さらに、落ち着いていった。
目の中の、揺らぎが——だんだん、ゆっくりになっていった。それでも——閉じることはなかった。
ジンは——まだ、手を、重ねたままだった。
「……眠った、わけじゃない」とジンが言った。「ただ——休んでる、みたいな感じがする」
「休んでる」とエリナが、繰り返した。
「うん」とジンが言った。「答えを——受け取った、感じがする。それで——少し、安心した。でも——まだ、全部じゃない。これから——もっと、聞きたいことが、ある気がする」
「もっと、聞きたいこと」とカインが言った。「……つまり——今日の問いは、最初の問いだった、ということですか」
「たぶん」とジンが言った。
ジンが、ゆっくりと、手を離した。
光は——変わらず、そこにあった。でも——その揺らぎは、穏やかだった。さっきまでの——重さと、寂しさが詰まったような揺らぎとは、違っていた。
―――
「今日は——ここまでにしましょう」とカインが言った。「変化が、大きすぎます。一度、外で——整理する時間が、必要です」
全員が、頷いた。
一行は、ゆっくりと、入り口の方へ戻った。
境界を出ると——風が、戻ってきた。草が、揺れた。
「……整理しましょう」とエリナが言った。手帳を開いた。手が、まだ、少し震えていた。
「一。光は——前日より、明るくなっていた。蔓が、ゆっくりとほどけ始めた」
「二。目が開き、全員が同時に——『問い』のようなものを受け取った」
「三。ジンが触れ、答えた。『世界は、まだ流れている』『世界が流れ続けることを望む』」
「四。蔓が、さらにほどけ、光の揺らぎが穏やかになった」
「五。ルルによれば——この存在の最も古い『隙間』と、ノアさんの『隙間』は——同じ何かに繋がっている可能性がある」
エリナが、ペンを止めた。
「……これは」とエリナが言った。「もし、本当に——繋がっているなら。私たちは——ノアさんに、何かを、返せるかもしれない、ということですよね」
「かもしれません」とセレクが言った。「ただ——簡単なことではないと思います。ノア殿が忘れたものを、取り戻すということは——もう一度、十年前のことに——触れる、ということです」
「それでも——」とジンが言った。「あいつは、待ってる。西を見て、待ってる。だったら——できることは、やりたい」
誰も、それに、反対しなかった。
―――
夕方、境界の外で野営の準備をした。
炉に、火がついた。火が、揺れた。
ジンは、火を見ながら——自分の手を、もう一度、見た。
「……まだ、何か、残ってる」とジンが、小さく言った。
「何が?」とルルが聞いた。
「あの存在の——問い」とジンが言った。「今日、答えたのは——たぶん、最初の一つだけだ。でも——その奥に、もっと、別の問いが——あるような感じがする」
「どんな問い?」
「わからない」とジンが言った。「ただ——形になりかけてる。輪郭が——少しずつ、はっきりしてきてる」
ルルが、少し、考えた。
「……名前、かもしれない」とルルが言った。
「名前?」
「うん」とルルが言った。「あの人——名前を、もらったことが、ない。エリナが——『いつか、名前を考える』って、書いてた。もし——その『問い』が——『自分には、名前があるのか』っていう問いだったら」
全員が、少し、黙った。
「……それは——重い問いですね」とエリナが、静かに言った。
「重いけど」とジンが言った。「答えられる問いだと思う。少なくとも——『わからない』とは、答えない」
―――
エリナは、ランプの光で、手帳を書いた。
今日のこと——蔓がほどけたこと、目が開いたこと、ジンが答えたこと、ノアさんとの繋がりの可能性。すべてを、書いた。
書き終えて、ペンを置いた。
それから——もう一行、追加した。
『今日、ジンは、世界に向けて、答えました。私は、それを、すぐ隣で聞きました。あの人が、いつか名前を持つ日が来るなら——私たちは、ノアさんのことも、一緒に、思い出してあげたいと思います。二つの隙間が、もし同じものなら——二つとも、満たしてあげたい。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』
ランプの炎が、静かに揺れた。
―――
ルルは、最後に——祠の方を見た。
風が、吹いていた。境界の向こうは——今も、静かなままだった。
でも——においが、変わっていた。
昨日より、もう少し——温かい。隙間の周りが、ほんの少し、満たされている。
「……明日も」とルルが、小さく言った。「答え、聞きに行く」
ルルは、それを確かめて、眠った。
―――
夜が、深くなった。
炉の火が、揺れていた。
境界の中では——光が、静かに、揺らいでいた。
昨日より——明るく。
そして——その奥で。
まだ、輪郭にならない、もう一つの「問い」が——ゆっくりと、形を、作り始めていた。
―――
― 第36話・了 ―
―――
次話予告:翌朝、一行が境界をまたぐと——光は、人の形を、はっきりと映し出していた。蔓は、ほとんど、なくなっていた。目が——ジンを、見た。初めて、「見られている」とジンは感じた。声が、聞こえた。言葉として。「……名前」。それだけだった。エリナが、手帳を、強く握った。「私たちに——決めてほしい、ということですか」。光が、わずかに、頷くように——揺れた。




