表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無詠唱の魔王  作者: Dちゃん
第四章「西へ続く道の話」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
35/38

第35話「動くにおいと、蔓の奥の人影と、消えていた名前」

翌朝、空はやはり、薄い雲に覆われていた。


 雲は——昨日と、同じ位置にあるように見えた。


 「……変わってませんね」とエリナが、空を見上げて言った。


 「ここからは——わからない」とカインが言った。「境界の中の時間は、外からは——観測できない。だから、雲が動いているのか、止まっているのか——外側からは、判断できません」


 全員が、荷物を整えた。火を消した。炉の跡だけが、黒く残った。


 「準備は——いいですか」とカインが、一人ずつ、確認するように見た。


 「いい」とシアが言った。


 「いつでも」とセレクが言った。


 ルルが、小さく頷いた。


 ジンが、皆を見た。それから——祠の方を見た。


 「行こう」とジンが言った。


―――


 一歩、踏み出した。


 境界をまたいだ瞬間——音が、完全に消えた。


 風も、消えた。


 それまで、遠くで聞こえていた草の音。足音の余韻。呼吸の音すら——すべてが、ぴたりと止まった。まるで、世界そのものが、息を止めたようだった。


 「……っ」とエリナが、小さく声を漏らした。自分の声が、自分の耳に届くまで、わずかに——遅れた気がした。


 代わりに——何か、別のものが、聞こえた気がした。


 音、ではなかった。震動でもなかった。それでも——確かに、何かが「ある」と、感じられた。


 ルルが、足を止めた。


 「……これ」とルルが言った。


 全員が、ルルを見た。


 「においが——動いてる」とルルが言った。


 「動いてる、というのは」とジンが聞いた。


 ルルが、少し、目を閉じた。長い時間、そのままだった。


 「ここまでは——止まってるにおいだった」とルルが言った。「祠全体が——一つの、止まった塊。でも——その中に、一つだけ。動いてるものがある」


 「動いてるもの」とカインが、繰り返した。


 「うん」とルルが言った。「すごく——遅い。でも——確かに、動いてる。呼吸みたいな……でも、呼吸より、もっと——長い間隔で」


 「呼吸」とシアが言った。少し、緊張した声だった。


 「……生きている、ということですか」とエリナが聞いた。


 ルルが、少し考えた。


 「……わからない」とルルが言った。「生きてる、とは——違う気がする。でも——死んでる、とも違う。どっちでもない、何か」


―――


 一行は、ゆっくりと、祠の中へ進んだ。


 崩れた壁の隙間を抜けると、内部は——外から見るより、広かった。太い柱が、何本も立っていた。柱には、蔓が絡みついていた。蔓は、緑色だったが——どこか、色が薄かった。生きているのか、死んでいるのか、わからない緑だった。


 床には、文字が刻まれていた。原始魔法言語だった。


 「この文字——」とカインが、しゃがんで見た。「断絶の崖や、観測地で見たものと——似ています。でも——もっと、古い」


 セレクが、壁の一部を、見上げた。


 「……教会の文書に近いです」とセレクが言った。「ただ——一部が、欠けています」


 「欠けている、というのは」


 セレクが、壁の、ある一点を指した。


 文字が刻まれた壁の中で——一箇所だけ、文字がなかった。文字を刻んだ跡——彫られた窪みは、確かにあった。でも——その窪みの中には、何も、残っていなかった。すり減ったのではない。最初から——そこに何も刻まれなかったように、滑らかだった。


 「……ここに——何か、書かれていたはずです」とセレクが言った。「文脈から見て——おそらく、名前です。誰か、あるいは何かの、名前」


 「名前が——消えてる」とジンが言った。


 「消えた、のか——最初からなかったのか」とセレクが言った。「私には、判別できません」


 ルルが、その窪みに——少し、鼻を近づけた。


 「……これも」とルルが言った。「隙間。ノアさんと、同じ。何かが、あったはずなのに——抜けてる」


 「祠そのものに——名前の隙間がある、ということですか」とエリナが、震える手で書いた。


―――


 奥へ進むと——薄い光が見えた。


 崩れた壁の向こうに——青白い、ぼんやりとした光だった。揺らいでいなかった。一定の光量で、ただ、そこにあった。


 「……あれ」とエリナが言った。


 光の下に——何か、あった。


 最初は、像のように見えた。台座の上に、人の形をしたものが——座っているように見えた。蔓が、その全身を、覆っていた。緑色の蔓が、まるで——その姿を、包み込むように。


 近づくにつれて——それが、像ではないことが、わかった。


 石ではなかった。質感が——違った。蔓の隙間から見える肌のようなものは——白く、滑らかだった。人の形をしていた。性別も、年齢も——わからなかった。ただ——人の形を、していた。


 目は、閉じていた。


 「……これが」とカインが、声を落とした。「……人、ですか」


 「わかりません」とセレクが言った。「ただ——形は、人です」


 ジンが、少し——その姿に、近づいた。


 その瞬間——ジンの中で、何かが、変わった。


 「……重い」とジンが、小さく言った。


 「重い?」とシアが聞いた。


 「あの石板と——同じ感覚だ」とジンが言った。「断絶の崖の。重みのある光。あれと——似てる。でも——もっと、大きい。もっと——深い」


 ジンが、少し、額に手をやった。


 「まるで——世界中の、重さが、ここに——集まってるみたいだ」


―――


 「全員——離れないでください」とカインが、念を押した。「一人にならない。距離は——一メートル以内」


 全員が、肩を寄せ合うように、近づいた。


 ルルが、少し——その人影を見た。鼻を、動かした。


 「……このにおい」とルルが言った。「観測地で感じてた、源のにおい。それと——『始まりがない』におい。両方——ここから、来てる」


 「両方、ここから」とエリナが、繰り返した。


 「うん」とルルが言った。「この人——ずっと、ここにいる。世界が、できた時から。それは——わかる」


 「世界が、できた時から」とカインが言った。「……アル・ヴェリアより、さらに前。それより、さらに前」


 「『静止の祠』が——アル・ヴェリアの時代より、古い名前だった理由」とセレクが言った。「……ここに、すでに——この人が、いたから。アル・ヴェリアは、ここに何かを封印したのではなく——」


 「ここに、すでにあった、何かを——見つけた」とエリナが言った。


 全員が、少し、黙った。


―――


 「……触れて、みますか」とカインが、ジンに聞いた。声が、少し、緊張していた。


 ジンが、少し、考えた。


 「シア」とジンが言った。「もし——何か、おかしくなったら」


 「すぐ言う」とシアが言った。「お前を——引き戻す」


 「ルル」


 「ここにいる」とルルが言った。「絶対、離れない」


 ジンが、少し、頷いた。


 それから——ゆっくりと、手を伸ばした。


 蔓に——指先が、触れた。


 蔓は——冷たくも、温かくも、なかった。ただ——そこに、あった。


 その瞬間——光が、揺れた。


 わずかに。でも——確かに。


 「……動いた」とエリナが言った。


 光が、もう一度——揺れた。今度は、さっきより、はっきりと。


 ジンの中に——何か、流れ込んできた。重さの感覚。でも——それだけではなかった。もっと、別の——感情のようなもの。


 「これは……」とジンが、小さく言った。「……寂しい」


 「寂しい?」


 「ずっと——一人だった、感じがする」とジンが言った。「すごく、長い間。誰も、来なかった。誰も——名前を、呼ばなかった」


 ルルが、少し、目を見開いた。


 「……名前」とルルが言った。「この人——名前を、忘れたんじゃない。最初から——」


 ルルが、少し、言葉を探した。


 「——名前を、もらったことが——なかった、んだと思う」


―――


 光が——さらに、強く、揺れた。


 蔓の下で——閉じていた目が、わずかに、動いた。


 全員が、息を呑んだ。


 「……カイン殿」とセレクが、静かに言った。「下がりましょう、と——言うべきかもしれません。でも」


 「でも——」とカインが言った。声が、震えていた。「……今、離れたら——二度目の機会が、あるかどうか、わかりません」


 ジンは——手を、離さなかった。


 光が、ジンの手のひらに——伝わってきた。重さのある光。でも——その奥に、もう一つ。小さな、震えのようなもの。


 まるで——誰かが、何かを、伝えようとしているような。


 ジンが、目を閉じた。


 (聞こえる——気がする)


 言葉ではなかった。それでも——確かに、何か、伝わってくるものがあった。


 長い、長い——時間の感覚。


 誰もいない場所で、ずっと、待っていた——感覚。


 そして——最後に、一つだけ。


 まだ、輪郭にならない——「問い」のようなもの。


 ジンが、ゆっくりと、目を開けた。


 「……何か、聞こえた」とジンが言った。「言葉じゃない。でも——『待ってた』っていうのは——わかった気がする」


 「待ってた」とエリナが、書きながら、繰り返した。


 「うん」とジンが言った。「それと——もう一つ。何か、聞きたいことがある——みたいな、感じ」


 「聞きたいこと?」


 「わからない」とジンが言った。「まだ——はっきりしない。でも——たぶん、これから——わかる」


―――


 光が、少しずつ、落ち着いていった。


 閉じていた目は——再び、閉じたままになった。けれど——わずかに、表情が、変わったように見えた。さっきまでは——何もない、無の表情だった。今は——どこか、安堵したような。


 「……今は——これで、いいみたいだ」とジンが、手を離した。


 光は——変わらず、そこにあった。


 ルルが、少し、目を細めた。


 「……ありがとう、って——言ってる気がする」とルルが言った。「においが——少し、変わった。さっきまでは——隙間ばっかりだった。今は——少しだけ、満たされてる」


 「満たされた」とカインが言った。「……ということは——ジン殿が触れたことで、何か、変化が——起きた、ということですか」


 「わかりません」とジンが言った。「ただ——悪いことじゃない、と思う。たぶん」


 全員が、少し、息をついた。


 「……今日は——ここまで、にしましょう」とカインが言った。「これ以上、進むのは——情報が、足りません。一度——境界の外に戻って、整理します」


 「戻る、ということですか」とエリナが聞いた。


 「いえ」とカインが言った。「祠の——外までは戻りません。でも——この場所からは、少し、離れます。あの人影——あの存在の、すぐ近くに、長くいるのは——避けたいです。今日、わかったことを——一度、まとめましょう」


―――


 一行は、祠の入り口近くまで戻った。


 完全に境界の外ではなかったが——奥の光は、見えない場所だった。


 「整理しましょう」とエリナが言った。手帳を開いた。手が、まだ、少し震えていた。


 「一。祠の中心に——人の形をした、何かがいる。蔓に覆われ、目を閉じている。生きているとも、死んでいるとも、言い切れない」


 「二。ルルによれば——そのにおいは、観測地で感じた『源』と、『始まりがない』においの、両方の正体である」


 「三。壁の文字には——名前が刻まれているはずの場所に、何も刻まれていない。最初から、なかった可能性がある」


 「四。ジンが触れると——光が反応し、『待っていた』という感覚と、『何か問いたいことがある』という感覚が——伝わってきた」


 「五。触れた後——においが、わずかに『満たされた』」


 エリナが、ペンを止めた。


 「……これは」とエリナが言った。「アル・ヴェリアが封印を施す前から、ここにいた——ということは。封印というより——」


 「最初から——ここで、待っていた」とカインが言った。「誰かが、来るのを」


 「誰か、というのは」とジンが聞いた。


 「わかりません」とカインが言った。「ただ——名前がない、ということは。誰も——この存在のことを、知らなかった、ということです。アル・ヴェリアも。それより前の誰も」


 「……名前のない、誰か」とセレクが言った。「ノア殿と——同じです。名前を、持たない」


 「ノアさんは——忘れた」とルルが言った。「この人は——最初から、なかった」


 「同じ——『名前がない』でも、意味が違う、ということですね」とエリナが言った。


―――


 夕方、境界の外に戻り、野営の準備をした。


 風が——少しずつ、戻ってきた。草が、揺れた。鳥の声が——遠くで、聞こえた。


 「……ほっとしますね」とエリナが、空を見上げて言った。


 「ああ」とシアが言った。「あそこは——長くいる場所じゃない」


 炉に火がついた。火が、揺れた。


 ジンは、火を見ながら——手のひらを、見た。


 「……まだ、感じる」とジンが、小さく言った。


 「何を?」とルルが聞いた。


 「重さ」とジンが言った。「あの人の——重さ。すごく、長い時間の重さ。でも——それだけじゃない。何か——温かさみたいなものも、少し、あった気がする」


 「温かさ」とルルが、繰り返した。少し、嬉しそうな顔をした。「……それは、いいにおいの方だ」


 「いいにおいの方?」


 「うん」とルルが言った。「悪い重さじゃない。誰かを——待ってた重さ。それは——悪いものじゃない」


 ジンが、少し、考えた。それから——少し、笑った。


 「……そうか」


―――


 エリナは、ランプの光で、手帳を書いた。


 今日のことを、すべて書いた。境界を越えた瞬間のこと。音が消えたこと。ルルが感じた「動いているにおい」。蔓に覆われた人影。壁から消えた名前。ジンが触れた時の光と、伝わってきた感覚。「待っていた」という言葉。


 書き終えて、ペンを置いた。


 それから——もう一行、追加した。


 『今日、私たちは——名前を持たない誰かに会いました。その人は、ずっと一人で待っていました。もし、これから、その人に名前が必要になる時が来たら——私たちが、考えたいと思います。誰かの名前を決めるなんて、簡単なことじゃないけれど。それでも——一人でいるより、名前があった方がいいと思うから。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』


 ランプの炎が、静かに揺れた。


―――


 ルルは、最後に——祠の方を見た。


 風が、吹いていた。境界の向こうは——今も、静かなままだった。


 「……ありがとう、って——もう一回、聞こえた気がする」とルルが、小さく言った。


 においが——西から、来ていた。さっきより——少しだけ、軽い。隙間が、少しだけ——埋まったような、におい。


 「……明日も——会いに、行く」とルルが言った。


 ルルは、それを確かめて、眠った。


―――


 夜が、深くなった。


 炉の火が、揺れていた。


 境界の中では——何も、変わらないはずだった。


 それでも——奥の光は、わずかに——さっきより、明るく見えた気がした。


 風は、変わらず、西から吹いていた。


―――


― 第35話・了 ―


―――


次話予告:翌朝、一行は再び、境界をまたいだ。光は——前日より、確かに明るくなっていた。ルルが、足を止めた。「……起きてる」。蔓が、わずかに、動いていた。ゆっくりと——ほどけるように。閉じていた目が——今度は、はっきりと、開いた。声には、ならなかった。それでも——全員が、同時に、同じ「問い」を、受け取った気がした。「……これは」とカインが言った。「……問いかけられている、ということですか」。ジンが、一歩、前に出た。「答える」。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ