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無詠唱の魔王  作者: Dちゃん
第四章「西へ続く道の話」

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第34話「カノエ村からの旅立ちと、音の消えた平原と、蔓に覆われた祠の輪郭」

翌朝、空は薄い雲に覆われていた。


村の広場に、見送りの人影があった。村長と、数人の村人。それから——少し離れた畑の前に、ノアが立っていた。


「……どうか、お気をつけて」と村長が言った。「西は——あまり、人が立ち入らない場所です。何があっても——おかしくはありません」


「ありがとうございます」とエリナが言った。「お世話になりました」


村長が、少し、頭を下げた。それ以上は、何も言わなかった。


ノアが、畑の縁から、こちらを見ていた。鍬を、地面に立てたまま。


エリナが、ノアの方へ、少し歩いた。


「……行ってきます」とエリナが言った。


ノアが、少し笑った。「ああ。——気をつけてな」


それから——ノアが、少し、言葉を探した。


「……向こうで——何か、見つけたら」とノアが言った。「教えてくれって、言ったよな。俺が言ったこと」


「覚えています」とエリナが言った。


「うん」とノアが言った。「それだけだ。それだけ——覚えててくれたら、いい」


ルルが、少し、ノアを見た。鼻を、動かした。


「……行ってくる」とルルが、ノアに言った。「ノアさんの——抜けてるところ。何か、わかったら——必ず、伝える」


ノアが、少し、目を見開いた。それから——もう一度、頷いた。「……頼む」


馬車は、ここまでだった。村から先は——徒歩になる。


一行は、西へ向かって、歩き始めた。


―――


午前のうちは、いつもの平原だった。


風が吹いていた。草が揺れていた。空が、広かった。


「半日——と聞きました」とエリナが言った。手帳を見ながら。「このペースなら——昼過ぎには、着くと思います」


「着いたら——どうなるんでしょうか」とジンが聞いた。


「わかりません」とカインが言った。「ただ——昨夜決めたことを、徹底するだけです。一人にならない。離れない。それから——もし、何かを感じたら、すぐに共有する」


「共有する」とジンが繰り返した。


「小さなことでも——構いません」とカインが言った。「『なんとなく』でも——構いません。むしろ——『なんとなく』こそ、大事かもしれません」


ルルが、少し、頷いた。


昼が近づくにつれて——風が、少しずつ、弱くなっていった。


最初は、誰も気づかなかった。ただ——草の揺れが、少しずつ、小さくなっていった。


「……風、弱くなってますね」とエリナが言った。


「ああ」とシアが言った。「気づいたのは——お前が、初めてじゃないかもしれない。俺も——さっきから、何か、変だと思っていた」


ルルが、少し、足を止めた。


「におい——薄くなってる」とルルが言った。「風が弱いから——届くにおいも、減ってる」


「悪いにおいですか」とジンが聞いた。


「悪くない」とルルが言った。「ただ——草のにおいも、土のにおいも——少しずつ、消えていってる。代わりに——」


ルルが、少し、言葉を探した。


「——何も、ない。においが、ない場所に——近づいてる気がする」


―――


さらに進むと——音が、消えていった。


最初に気づいたのは、ジンだった。


「……静かだな」とジンが言った。


「静かですね」とエリナが言った。それから——少し、考えた。「……あれ?」


「どうしました」


エリナが、周りを見た。空を、見た。


「鳥の声が——聞こえません」とエリナが言った。「さっきまでは——遠くで、何か、鳴いていたと思います。でも——いつからか、聞こえなくなっています」


全員が、足を止めた。


風の音。草の音。それさえも——どこか、遠かった。


「足音は——聞こえる」とシアが言った。自分の足を、一歩、動かした。土を踏む音が、した。「でも——遠くの音が、ない」


「遠くの音が、届かない」とカインが言った。眼鏡をかけ直した。「視界は——平原と、変わりません。地平線まで、見えます。でも——音は、近くしか、伝わってこない」


セレクが、少し、周囲を見た。


「……これは」とセレクが言った。「教会の文書にあった——『繋がりが、少しずつ失われていく』という記述と——一致するかもしれません。音も——一種の、繋がりです。遠くから、ここまで届く——という繋がりです」


「それが——切れてる」とジンが言った。


「ここから先は——おそらく、その境界の中です」とセレクが言った。


ルルが、西を見た。少し、目を細めた。


「……見える」とルルが、小さく言った。


―――


全員が、ルルの視線を追った。


地平線の向こうに——何かがあった。


最初は、丘か、岩のように見えた。でも——近づくにつれて、輪郭がはっきりしてきた。


石造りの——古い建造物だった。


四角い基壇の上に、いくつかの柱が立っていた。屋根は——半分以上、崩れていた。全体が、太い蔓に覆われていた。緑色の蔓が、石の隙間からベースを這い出し、柱に絡みつき、崩れた屋根の上を、覆っていた。


それでも——建物の輪郭は、はっきりしていた。崩れていながら——崩れきっていない、という感じがした。まるで——崩れる途中で、止まっているように。


「……あれが」とエリナが言った。声が、少し、震えていた。


「『静止の祠』」とカインが言った。


誰も、すぐには、動かなかった。


―――


一行は、ゆっくりと、近づいた。


祠に近づくにつれて——風が、完全に止んだ。


草が——動かなくなった。一本も。


「……風が、止まった」とジンが言った。自分の声が、少し、変に聞こえた。


「光も——」とエリナが、空を見上げた。「……何か、おかしいです。雲が——動いていません」


全員が、空を見た。


薄い雲が、確かに、そこにあった。

でも——その雲は、さっきから、同じ位置にあるように見えた。


「動いている、はずです」とカインが言った。「風がない場所でも——雲は、わずかに動きます。でも——これは」


カインが、少し、足元の小石を拾った。


「……試します」とカインが言った。「投げて——音が聞こえるまでの、時間を見ます」


カインが、小石を、前方に投げた。


小石が、地面に落ちた。


音が——遅れて、聞こえた。


ほんの、わずかな遅れだった。一秒にも満たない。でも——確かに、遅れていた。


「……今、見ました」とエリナが言った。「小石が落ちる動きと——音が、ずれていました」


「光は——同時に見えました」とセレクが言った。「ただ——音だけが、遅れました」


「光は——速すぎて、わからないだけかもしれません」とカインが言った。「ただ——音が遅れる、ということは——この場所の中では、時間の進み方が——わずかに、違うのかもしれません」


「わずかに、違う」とジンが繰り返した。


「外側から見れば——わずかです」とカインが言った。「でも——その中に、長くいたら——その『わずか』が、積み重なっていくのかもしれません」


―――


「ルル」とジンが言った。「におい——どう?」


ルルが、少し、目を閉じた。長い時間、そのままだった。


全員が、待った。


ルルが、目を開けた。


「……ノアさんと、似てる」とルルが言った。


「ノアさんと?」


「うん」とルルが言った。「ノアさんのにおいには——隙間があった。本当は、何かがあるはずなのに——抜けてる場所」


ルルが、祠を見た。


「ここのにおいも——そう。でも——もっと、大きい」


「もっと、大きい」とカインが繰り返した。


「ノアさんの隙間は——一つだった」とルルが言った。「ここは——たくさん。重なってる。何層も。まるで——」


ルルが、少し、言葉を探した。


「——何かが、何回も、ここで——止まってきた、感じ」


「何回も」とエリナが、書きながら言った。「……ノアさんだけじゃない、ということですか」


「うん」とルルが言った。「ここに来た人——みんな、ここに——少しずつ、置いてきてる。隙間を」


「隙間を、置いていく」とジンが言った。


「うん」とルルが言った。「でも——それだけじゃない」


ルルが、少し、考えた。


「……一番下に——もっと、古い隙間がある」とルルが言った。「人のものじゃない、隙間。すごく——古い。世界が、できた時くらい——古い」


「アル・ヴェリアより、古い」とセレクが言った。


「うん」とルルが言った。「もっと——前」


誰も, すぐには、話さなかった。


―――


太陽が——西に、傾き始めていた。


でも——その傾き方は、どこか、ゆっくりに見えた。


「……日が、長く感じます」とエリナが言った。


「実際——長いのかもしれません」とカインが言った。「ここでは——時間が、わずかに、引き延ばされている。だとすれば——同じ『一刻』でも、外より——少し、長いはずです」


「今——入りますか」とジンが聞いた。


全員が、少し、考えた。


「……いえ」とカインが言った。「今は——やめましょう」


「なぜですか」


「準備が——足りません」とカインが言った。「『時間が、わずかに違う』という事実を——今日、初めて知りました。それを踏まえて——もう一度、対策を整理する必要があります。それに——」


カインが、祠を見た。


「——日が暮れてから、入るのは——避けたいです。外の感覚が、わからなくなった状態で——中の感覚も、わからない。それは——危険です」


「明日——朝に、入る」とシアが言った。「今日は——ここで、野営する」


「ここで?」とジンが聞いた。「祠の——近くで?」


「境界の、外側です」とセレクが言った。少し、後ろを示した。「風が——少し、戻っている場所があります。あのあたりまでなら——境界の外だと思います」


全員が、少し、後ろへ戻った。


風が——少しだけ、感じられる場所があった。完全に元通りではなかったが——草が、わずかに揺れていた。


「……ここなら」とエリナが言った。「ここなら——大丈夫、だと思います」


炉の準備が、始まった。


―――


炉に、火がついた。


いつもの火だった。でも——その火の揺らぎを見て、ジンは、少し——安心した。


「ゆらいでる」とジンが、小さく言った。


「何が?」とシアが聞いた。


「火だよ」とジンが言った。「ここまで——ずっと、何も動いてなかった。雲も、草も。だから——火が、揺れてるのを見て——なんか、ほっとした」


シアが、少し、火を見た。「……わかる気がする」


「動いてる、ってだけで——安心するんだな」とジンが言った。


「動いている、ということは——時間が、ちゃんと、流れている、ということです」とカインが言った。「私たちは——それを、当たり前だと思っていました。でも——当たり前じゃない場所が、ある」


「明日——その中に、入るんですね」とジンが言った。


「入ります」とカインが言った。


ジンが、少し、火を見た。


(一人にならない。離れない)


昨夜、決めたことを——もう一度、確かめた。


「ルル」とジンが言った。「明日——一番、頼りになるのは——お前のにおいだと思う」


ルルが、少し、ジンを見た。


「うん」とルルが言った。「わかってる」


「無理しなくていい。少しでも——おかしいと思ったら、すぐ言ってくれ」


「うん」とルルが言った。それから——少し、笑った。「ジンも——同じだよ。ジンの——重さの感覚。それも——大事」


「俺の感覚?」


「うん」とルルが言った。「ジンは——『重さを知る者』。ここは——『止まってる』場所。何か、感じるかもしれない」


ジンが、少し、考えた。


「……そうかもな」


―――


エリナは、手帳を開いたが——いつものようには、書かなかった。


今日のことを、短く、まとめた。


『カノエ村を出発。半日で、祠が見えた。風が止まる。音が遅れる。雲が動かない。ルルが——隙間の重なりを感じた。一番下に、人のものじゃない、古い隙間。明日、入る』


それだけ書いて、ペンを止めた。


いつものように——もう一行、追加しようとした。

でも——今夜は、言葉が、すぐには、出てこなかった。


しばらくして——エリナは、短く書いた。


『明日、何かを忘れても——私たちは、ここにいる。それだけは、忘れない。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』


ランプの炎が、揺れた。揺れているのを見て——エリナも、少し、安心した。


―――


ルルは、最後に——祠の方を見た。


風がない場所。音が遅れる場所。雲が動かない場所。


でも——怖いにおいではなかった。


「……明日」とルルが、小さく言った。


ルルは、目を閉じた。みんなのにおいを——一つずつ、確かめた。ジン。シア。エリナ。カイン。セレク。


全部、ある。


全部、揺れている。


ルルは、それを確かめて、眠った。


―――


夜が、深くなった。


炉の火だけが、揺れていた。


風は——遠くで、吹いていた。境界の外で。


ここでは——何も、動かなかった。


ただ——祠は、そこに、あった。


崩れながら——崩れきらずに。


止まりながら——完全には、止まりきらずに。


明日——一行は、その中に入る。


火が、静かに——揺れていた。


―――


― 第34話・了 ―


―――


次話予告:翌朝、一行は祠の前に立った。「行こう」とジンが言った。一歩、踏み出す。境界をまたいだ瞬間——音が、完全に消えた。風も、消えた。代わりに——何か、別のものが、聞こえた気がした。「……これ」とルルが、足を止めた。「においが——動いてる」。祠の奥、崩れた壁の向こうに——薄い光が見えた。誰かが、そこにいる。動かない、何かが。

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