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無詠唱の魔王  作者: Dちゃん
第四章「西へ続く道の話」

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第33話「カノエ村と、名前を持たない男と、覚えていることの重さ」

翌日の午後、一行はカノエ村に着いた。


 小さな村だった。木の柵に囲まれた、十数戸ほどの集落。家々は、古びてはいたが、手入れはされていた。井戸の周りに、洗濯物が並んでいた。鶏が、数羽、道を歩いていた。


 人影は、少なかった。


 馬車が村に入ると、何人かの村人が、作業の手を止めた。そのまま、一行を見た。何も言わなかった。敵意はなかった。ただ——静かに、見ていた。


 「……見られてますね」とエリナが、小声で言った。


 「珍しい客だからだろう」とシアが言った。「悪い意味じゃなさそうだ」


 ルルが、少し、鼻を動かした。


 「においは——悪くない」とルルが言った。「ただ——少し、緊張してる。よそ者を見る時のにおい」


 「警戒してる、ということ?」とジンが聞いた。


 「警戒っていうより……身構えてる、感じ」とルルが言った。「前にも、似たのを感じたことがある。何かを——心配してるにおい」


 馬車が、村の中央らしき広場で止まった。井戸と、大きな木が一本、立っている場所だった。


 一人の老人が、木の陰から出てきた。腰が、少し曲がっていた。杖をついていた。


 「……ようこそ」と老人が言った。声は、しっかりしていた。「中央本部から、知らせは届いている。お疲れでしょう」


 「ありがとうございます」とエリナが言った。「私たちは——」


 「『静止の祠』に、行かれる方々だ」と老人が言った。エリナの言葉を、遮るのではなく、ただ——先に、確かめるように言った。「違うかね」


 一瞬、誰も答えなかった。


 「……はい」とカインが言った。


 老人が、少し、頷いた。それから——少し、間を置いた。長い間だった。


 「ここから先に行った者は——みな、戻ってきます」と老人が言った。「これまでに、何人も。村の者も、よそから来た者も。誰も——祠の中で、消えたりはしません」


 「それは——良いことですね」とエリナが言った。


 「ただ——」


 「ただ?」とジンが聞いた。


 老人が、ジンを見た。皺の中で、目だけが、はっきりしていた。


 「——何も、覚えていない顔で、戻ってくるのです」


 ルルが、小さく、息を呑んだ。


 風が、広場の木の葉を、揺らした。


―――


 誰も、すぐには話さなかった。


 「……何も覚えていない、というのは」とカインが、ゆっくり聞いた。「どの程度のことでしょうか。祠で見たことを忘れる、ということですか。それとも——」


 「それとも——もっと、根本的なことですか」とエリナが続けた。「自分が誰であるか、とか」


 老人が、少し、首を振った。


 「……それは——人によって、違うようです」と老人が言った。「私が見てきた限りでは——みな、自分の名前は覚えています。歩き方も、話し方も、変わりません。ただ——」


 老人が、また、間を置いた。言葉を選んでいる間だった。


 「——大事な何かが、抜け落ちているのです。本人は、それに気づかないことが多い。気づくのは——周りの者です」


 「大事な何か」とジンが繰り返した。


 「ある者は——自分の子供の名前を、忘れました。子供の顔を見ても——誰だかわからない、という顔をしていました。けれど——その者は、自分に子供がいたこと自体は、覚えていました。『たしか、いたはずだ』と。ただ——名前と、顔が、結びつかなくなっていました」


 「……それは」とエリナが、声を落とした。


 「別の者は——なぜ自分が祠に向かったのか、その理由を忘れていました」と老人が続けた。「探していたものがあったはずなのに——何を探していたのか、思い出せない。今でも——時々、思い出そうとして、考え込んでいます」


 「全員が——そうなる、ということですか」とカインが聞いた。


 「全員、ではありません」と老人が言った。「程度の差は、あります。ごく軽い者もいます。本人も、周りも、しばらく気づかないほど——軽い者も」


 「でも——必ず、何かが、消える」とルルが、静かに言った。


 老人が、ルルを見た。少し、驚いたような顔をした。それから——頷いた。


 「……そうです。必ず——何かが、消えます」


―――


 「一つ、お聞きしたいのですが」とセレクが言った。それまで、黙っていた。


 老人が、セレクを見た。


 「祠に——入った者は、戻ってきます。消えたりはしない、と仰いました。それは——必ず、戻ってくる、という意味でしょうか。それとも——」


 「戻ってこなかった者は——いない、ということです」と老人が言った。「私の知る限り。私の父の時代も。その前も」


 「ずっと、そうなのですね」とセレクが言った。


 「ずっと、そうです」


 「……ありがとうございます」とセレクが言った。それ以上は、聞かなかった。


 ジンが、少し、セレクを見た。何か、考えているような顔だった。


 「セレク殿——何か」


 「いえ」とセレクが言った。「……教会の文書にあった『静止の祠』という名前は——おそらく、この伝承と、無関係ではないと思います。『止まっている』というのは——糸が止まっている、という意味だけでなく」


 セレクが、少し、言葉を探した。


 「——時間そのものが、その場所の中だけ、別の流れ方をしている。そういう可能性も——あるかもしれません」


 「時間が、別の流れ方」とエリナが、手帳を開いた。書き始めた。


―――


 「……あの」とジンが言った。「今、村に——その、戻ってきた人は、いますか」


 老人が、少し、ジンを見た。


 「います」と老人が言った。「一人——います」


 「会えますか」


 老人が、少し考えた。それから——杖で、村の外れの方を、示した。


 「畑にいるはずです。今の時間は、いつも——畑にいます」と老人が言った。「驚かせないでやってください。穏やかな男です。ただ——」


 老人が、少し、目を伏せた。


 「……名前を、持っていません。本人が、自分の名前を忘れてしまったので。村の者が——『ノア』と呼んでいます。十年ほど前、祠の方から、ふらりと歩いてきたのを——村の者が見つけました。それ以来、ここで暮らしています」


 「十年前から」とカインが、小さく言った。


 「ええ。十年——変わりません。穏やかに、畑をやって、暮らしています。本人は——それで、満足しているように見えます」


 「満足している、ように見える」とジンが、繰り返した。


 「本人に聞いても——『何か困っていることはない』と言います」と老人が言った。「ただ——時々、夕方になると——西の方を、見ています。何を見ているのか、聞いても——『わからない』と言います」


 ジンが、少し、西の方を見た。


―――


 畑には、一人の男がいた。


 歳の頃は、四十代だろうか。日に焼けた肌。穏やかな顔。鍬を持って、ゆっくりと、畝を作っていた。動きに、無駄がなかった。長年、繰り返してきた動きだった。


 一行が近づくと、男が、顔を上げた。


 「……お客さんかい」とノアが言った。声は、穏やかだった。「珍しいな。このあたりには、あまり、人が来ない」


 「お邪魔して、すみません」とエリナが言った。「少し——お話を、聞かせていただけますか」


 「俺の話か」とノアが言った。少し、笑った。「俺の話は——あんまり、面白くないと思うけどな」


 「祠に——行かれたことがある、と聞きました」とカインが言った。


 ノアが、鍬を地面に立てた。手を、止めた。


 「……ああ」とノアが言った。「行った。でも——よく、覚えてないんだ」


 「覚えていない、というのは」


 「行ったことは——覚えてる」とノアが言った。「祠の前まで——歩いたのも、覚えてる。でも——その先が、ない。次に覚えてるのは——この村の、畑の前に立ってたことだ。誰かが、声をかけてきた」


 「その間のことは——」


 「ない」とノアが言った。あっさりと。「最初は——気持ち悪かったよ。自分の中に——穴が開いてる感じがした。でも——もう、十年だ。慣れた」


 ルルが、少し、ノアを見た。鼻を、動かした。


 「ルル」とジンが、小声で言った。「ノアさんの——におい、どう?」


 ルルが、少し目を閉じた。それから、開けた。


 「……穏やかなにおい」とルルが言った。「悪いにおいじゃない。ただ——」


 ルルが、少し、言葉を探した。


 「——どこかに、隙間がある。においの中に。本当は、もっと——いろんなにおいが、重なってるはずなのに。一つだけ——抜けてる場所がある」


 「抜けてる場所」


 「うん。何だったかは——わからない。でも——そこに、何かがあったことは、わかる」


 「それは——痛いにおい?」とジンが聞いた。


 ルルが、少し考えた。


 「……痛くは——ないと思う。本人は、痛がってない。ただ——周りの人が見たら、痛そうに見えるかもしれない」


―――


 「一つ、聞いてもいいか」とノアが、逆に聞いた。


 「もちろんです」とエリナが言った。


 「あんたたちも——祠に行くんだろう」とノアが言った。「やめておいた方がいい、とは——言わないよ。俺が言っても、無駄だってことは、わかってる。みんな、聞かない」


 「聞かない、というのは——他の人も、聞かなかったということですか」とジンが聞いた。


 「ああ」とノアが言った。「俺の前にも、何人かいた。みんな——『大丈夫だ』『気をつける』って言って、行った。戻ってきた時には——みんな、何かを、忘れてた」


 ノアが、少し、空を見た。


 「ただ——一つだけ、言えることがある」


 「何ですか」


 「忘れたものは——戻ってこない」とノアが言った。「でも——忘れたことに、気づける人間は、戻ってこられる」


 誰も、すぐには、言葉を返さなかった。


 「俺は——たぶん、気づけなかった方だ」とノアが言った。少し、笑った。寂しそうな笑いではなかった。「だから——今、こうして、畑をやってる。それは——悪いことじゃない、と思ってる。ただ——時々、西を見る。何かを——探してる気がする時がある。でも——何を探してるのかは、わからない」


 「もし——」とエリナが言った。少し、声が震えていた。「もし、私たちが——その、何かを見つけたら。お伝えしても——よろしいですか」


 ノアが、エリナを見た。少し、驚いたような顔をした。それから——頷いた。


 「……ああ」とノアが言った。「それは——嬉しいな」


―――


 その夜、一行は、村の宿——というより、空き家を借りた一室に集まった。


 炉に火を入れた。村長——老人は、自分のことを「村長」とは言わなかったが、村ではそう呼ばれているらしい——が、毛布を貸してくれた。


 「……整理しましょう」とエリナが言った。手帳を開いた。だが——いつもより、ページをめくる手が、遅かった。


 「一。『静止の祠』に入った者は、必ず——何かを忘れて、戻ってくる。二。忘れる内容は、人によって違う。大事な人の記憶、目的の記憶——様々。三。十年前に祠から戻ったノアさんは、自分が何を探していたのかを——今も、忘れたまま。四。ノアさん曰く——『忘れたことに気づける人間は、戻ってこられる』」


 「四番目が——気になります」とカインが言った。眼鏡をかけ直した。「『戻ってこられる』という言い方は——戻ってこられない可能性もある、ということを——示唆しています」


 「完全に——気づけなかったら、どうなるんでしょうか」とジンが聞いた。


 「わかりません」とカインが言った。「ただ——ノア殿の場合、戻ってきています。ですから——最悪の事態ではないはずです。でも——もっと深く、気づけなかったら——」


 カインが、言葉を止めた。


 「想像したくない、ということですね」とシアが言った。


 「……はい」


―――


 「セレク殿」とエリナが言った。「先ほどの——『時間の流れ方が違う』という話、もう少し——詳しく、聞かせてもらえますか」


 セレクが、少し、間を置いた。


 「……仮説です」とセレクが言った。「確かなことではありません。ただ——教会の古い文書の中に、『静止』という言葉が使われている、別の箇所がありました。それは——『祠』とは関係のない、ある種の魔法現象についての記述でした」


 「どんな現象ですか」とカインが聞いた。


 「対象を——時間の流れから、切り離す魔法」とセレクが言った。「対象は、傷つかない。老いない。変化しない。けれど——その代わりに、対象は——『流れている世界』との繋がりを、少しずつ失っていく、と書かれていました」


 「繋がりを失う」とエリナが、書きながら言った。


 「もし——『静止の祠』が、その種の力を——周囲に及ぼしているなら」とセレクが続けた。「そこに足を踏み入れた者の——時間の流れの一部が、ほんの少し——『静止』に、引き込まれる。それが——記憶として、外に出ている部分なのかもしれません」


 「記憶が——時間の流れの中にある、ということですか」とジンが聞いた。


 「記憶とは——本来、流れの中にあるものだと思います」とセレクが言った。「過去から、今へ、続いている。糸のように」


 「結び目の話と——同じですね」とエリナが言った。少し、ペンを止めた。「糸が——止まる場所」


 「ええ」とセレクが言った。「断絶の崖で読んだ言葉が——ここでも、繋がっている気がします」


―――


 「対策は——あるんでしょうか」とジンが聞いた。


 全員が、少し、考えた。


 「完全な対策は——わかりません」とカインが言った。「ただ——一つ、思いついたことがあります」


 「何ですか」


 「ノア殿は——一人で、祠に行きました」とカインが言った。「もし——記憶が、時間の流れから切り離される現象だとすれば——『一人でいる時間』が、長ければ長いほど——切り離される量が、増えるかもしれません」


 「逆に言うと」とエリナが言った。「——誰かと一緒にいる時間が、長ければ」


 「繋がりが——保たれやすいかもしれません」とカインが言った。「断絶の崖の言葉を借りるなら——『一本の糸では結べない』。複数の糸が——絡み合っていれば、一本が、引き込まれそうになっても——他の糸が、引き留めるかもしれない」


 「理論上は、ですが」とカインが付け加えた。


 「理論でも——何もないよりは、いいです」とエリナが言った。


 「祠の中では——絶対に、一人にならない。離れない」とジンが言った。「それは——今までも、そうしてきたけど」


 「今回は——特に、徹底します」とエリナが言った。


―――


 「もう一つ」とエリナが言った。


 手帳を、開いたまま、見つめた。


 「もし——それでも、誰かが——何かを忘れてしまったら」


 エリナが、少し、息を吸った。


 「私が——書きます。今日までのこと、全部。一人一人について。誰が、何を大事にしているか。誰と、どんな約束をしたか。もし——誰かが、何かを忘れてしまったら——それを、読んでもらえるように」


 「エリナ」とジンが言った。


 「記録は——もう、私の仕事じゃないと思っていました」とエリナが言った。少し、笑った。「『記録者』じゃなくて——隣を歩く一人として、ここにいるんだと。でも——今は、両方でいいんじゃないかと思います。隣を歩きながら——書く。それは——矛盾しないはずです」


 「矛盾しない」とルルが言った。「においも——そう。覚えてるにおいと、今のにおい。両方ある」


 エリナが、ルルを見て、少し笑った。「そうですね」


 「俺も——書こうか」とジンが言った。「みんなのことを。忘れないように」


 「いい考えだと思います」とエリナが言った。「全員が——書けば、いいと思います。今夜——少しずつ」


 「今夜——全部書くのは、大変そうだな」とシアが言った。少し、笑った。「でも——やる価値はある」


―――


 その夜、それぞれが、紙に向かった。


 ジンは、短い言葉を、いくつか書いた。


 『ルル——においで世界を見てる。一番最初に出会った。においの話を、いつも聞いてほしいと思ってる』


 『シア——天才魔法使い。よく言うのを忘れるけど——一番、頼りになる』


 『エリナ——記録してくれる人。でも——もう、記録だけの人じゃない』


 『カイン——いつも、順番を大事にする。焦らない方が早い、と言った』


 『セレク——炉の火を、温かいと思えるようになった人』


 書き終えて、ジンは、紙を、鞄の内側に入れた。


 手のひらに——まだ、断絶の崖の、重さのある光の感覚が、少し残っている気がした。


 (一人じゃない)


 ジンは、静かに思った。


 (だから——大丈夫だ。たぶん)


―――


 エリナは、最後まで、ペンを動かしていた。


 今日のすべてを書いた。カノエ村のこと。村長の言葉。ノアさんのこと。十年、西を見続けていること。セレクの仮説。一本の糸では結べない、という言葉が——ここでも、対策になったこと。


 書き終えて、ペンを置いた。


 それから——もう一行、追加した。


 『もし、私が何かを忘れてしまったら——この手帳を読んでください。そして——もう一度、教えてください。何度でも。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』


 ランプの炎が、静かに揺れた。


―――


 ルルは、最後に——窓から、西を見た。


 風が、止んでいた。村は、静かだった。


 「……静止の祠」とルルが、小さく言った。


 「明日——半日歩けば、着くって聞いた」とルルが言った。誰に向けてでもなかった。


 においが——西から、来ていた。静かなにおい。怖くないにおい。でも——その奥に、もう一つ。


 ルルにも、まだ——言葉にできない、何か。


 ノアさんの、抜けているにおい。あれと——似ている、何か。


 ルルは、少し、目を細めた。


 「……忘れない」とルルが、小さく言った。「みんなのにおい——絶対、忘れない」


 ルルは、それを確かめて、眠った。


―――


 村は、静かだった。


 畑では、ノアが、まだ——少しだけ、西を見ていた。


 明日——一行は、祠へ向かう。


 風は、変わらず、西から吹いていた。


―――


― 第33話・了 ―


―――


次話予告:翌朝、一行はカノエ村を出発した。村長が、見送りに出てきた。「……どうか、お気をつけて」。半日ほど歩くと、草原の様子が変わった。風が、止んでいた。音が——何も、しなかった。「静かすぎる」とジンが言った。エリナが「鳥の声が——聞こえません」と言った。ルルが、足を止めた。「……見える」。一行の前に——古い石造りの建造物が、姿を現した。蔓に覆われ、半ば崩れていたが——その輪郭は、はっきりしていた。「これが——『静止の祠』」とカインが言った。建物の前に立つと——時間が、止まっているように感じられた。風も、音も、光も——すべてが、わずかに、遅れているような感覚。ジンが、一歩、踏み出した。「……行こう」。


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