第32話「カルネア平原と、ルルが見つけた『源』のにおいと、止まっている方角への二日間」
翌朝は、晴れていた。
崖を出ると、いつもとは違う方向に、道が伸びていた。
「西へ——初めての道ですね」とエリナが言った。手帳を閉じたまま、空を見上げた。「行きも、帰りも、ここまでは北東でした。ここから先は——どこも、まだ知らない場所です」
「知らない場所」とジンが繰り返した。
「不安ですか」とカインが聞いた。
「いや」とジンが言った。「むしろ——ちょっと、楽しみだ」
シアが少し笑った。「お前は、いつもそうだな」
「悪いことか」
「悪くない」
一行は、崖を下りた。岩盤地帯を抜けると、地面が少しずつ柔らかくなっていった。岩から、土へ。土から——草へ。
―――
草原に出た瞬間、風景が一変した。
どこまでも続く、広い草原だった。風が、強く吹いていた。草が、波のように揺れていた。空が——いつもより、近く感じた。山にいる間は、空は上にあるものだった。ここでは——空は、四方にあるものだった。
「広いな」とジンが言った。
「カルネア平原です」とカインが言った。「王都の西に広がる、大きな平原です。馬車で——ここを横断します」
「馬車、まだ来てないですよね」
「待ち合わせ場所が、少し先にあります。歩いて——半刻ほどです」
全員が、草原に足を踏み出した。
風が、強かった。エリナの髪が、揺れた。シアのローブが、はためいた。セレクが、少し目を細めた。
ルルが——立ち止まった。
「……このにおい」とルルが言った。
全員が、ルルを見た。
「知ってる」とルルが言った。少し、目を閉じた。「前にも——感じたことがある」
「どこで?」とジンが聞いた。
ルルが少し考えた。風が、ルルの髪を揺らしていた。
「……観測地で」とルルが言った。「あの時——遠くから、薄く感じてたにおい。すごく薄くて——何のにおいか、わからなかった。でも——確かに、あった」
「それが——これ?」
「うん」とルルが言った。「これが——その、源」
ジンが少し、風を感じた。草のにおい。土のにおい。それと——何か、もう一つ。うまく言葉にできないが、確かに——他とは違う何かが、混じっている気がした。
「源、というのは」とカインが聞いた。
「あの時——においが、こっちまで伸びてきてた」とルルが言った。「細く、長く。観測地から、ここまで。届くはずのない距離なのに——届いてた。それが、不思議だった」
「届いていた」
「うん。今——ここに立って、わかった。あれは——届いてたんじゃなくて……」
ルルが、少し言葉を探した。
「……繋がってた、んだと思う。観測地と、ここが。糸みたいに。最初から、繋がってた」
誰も、すぐには話さなかった。
「結び目の話と——似てますね」とエリナが、静かに言った。手帳を開いた。「断絶の崖で読んだ言葉。世界は、無数の糸が織り合わさってできている、と」
「そうかもしれません」とカインが言った。「観測地が、七つの封印を束ねる中継点だとすれば——個々の封印地点と、繋がっている糸があるのは——むしろ、当然のことかもしれません」
「ルルは——それを、感じてた」とジンが言った。
「感じてた」とルルが言った。「ずっと、薄く。気づかないくらい——薄く。でも——今は、わかる」
ルルが、西を見た。風が、まっすぐルルに当たっていた。
「西から——においが来てる」とルルが言った。「前より——少し、強い」
「強くなってる、ということは」とカインが聞いた。
「近づいてるから」とルルが言った。あっさりと。「それだけだと思う」
ジンが少し笑った。「それだけ、か」
「うん。それだけ」
―――
半刻ほど歩くと、街道の終点に、馬車が二台、止まっていた。御者が二人、頭を下げた。
「中央本部からの手配です」と御者の一人が言った。「カルネア平原を抜けて——『静止の祠』の最寄りの村まで、二日の行程になります」
「最寄りの村、というのは」とエリナが聞いた。
「カノエ村です。平原の西の外れにある——小さな村です。馬車は、そこまで。村から祠までは——徒歩で、半日程度と聞いています」
「カノエ村について——他に、何か知っていますか」とカインが聞いた。
御者が、少し間を置いた。「……あまり、知られていない村です。祠の近くにあるからか——人の出入りが、少ないと聞いています」
「人の出入りが少ない」とジンが繰り返した。
「治安が悪い、という意味ではありません」と御者が、慌てて言った。「ただ——静かな村だ、と」
「静かな村」とルルが、小さく言った。何か、確かめるように。
全員が、馬車に乗った。
―――
馬車は、平原を進んだ。
草原は、どこまでも続いていた。時々、低い丘があった。時々、木立があった。それ以外は——ただ、草と風だった。
「こんなに広い場所——初めて見ました」とエリナが、窓の外を見ながら言った。「山も、森も、街道も——どこかに、何かがありました。でも——ここは」
「何もない」とジンが言った。
「何もない、というより」とエリナが言った。「……何にも、遮られていない感じです」
「遮られていない」
「視界も、風も、においも——全部、まっすぐ届く感じがします。山では——音やにおいが、岩や木に、当たって、戻ってくる感じがありました。ここでは——当たるものがない」
ルルが、頷いた。「届きやすい。でも——届きすぎる、感じもある」
「届きすぎる、というのは」とカインが聞いた。
「いろんな方向から——いろんなにおいが、同時に来る」とルルが言った。「整理するのに——少し、時間がかかる」
「大丈夫ですか」とジンが聞いた。
「大丈夫」とルルが言った。「ただ——慣れるまで、少し静かにしてる」
ルルが、目を閉じた。馬車の振動だけが、しばらく続いた。
―――
昼過ぎ、馬車が止まった。小さな川のほとりだった。
「ここで、休憩します」と御者が言った。
全員が、馬車を降りた。水を飲んだ。乾燥した果実を食べた。
シアが、川を見た。「水だ」
「水と火の境界とは——また違う水ですね」とカインが言った。
「違うのか」
「観測地の水は——温かかった。あそこは、水が火の性質を持ち始める場所でした。この水は——」カインが、川に手を伸ばした。触れた。「……ただの、冷たい水です」
「ただの水、か」
「それが——いいことだと思います」とカインが言った。「すべての場所が、特別である必要はありません。むしろ——特別な場所は、特別であることに、意味がある」
シアが、少し、カインを見た。「……お前、変わったな」
「変わりましたか」
「以前のお前なら——『ただの水』で済ませなかった。成分を調べたり、温度を測ったり」
カインが、少し間を置いた。眼鏡をかけ直した。「……今でも、調べたい気持ちはあります。でも——今は、調べないでおく方が、いい気がします」
「なぜだ」
「すべてを調べると——すべてが、データになります。データになったものは——『ただの水』ではなくなる。今は——ただの水のままで、見ておきたい」
シアが、少し笑った。「……お前のそういうところは、変わらないと思ったが」
「変わりましたか」
「変わってない。ただ——使い方が、変わった」
カインが、少し、考えるような顔をした。「……そうかもしれません」
―――
午後、馬車が再び進み始めた。
ジンは、窓の外を見ていた。草原が、ずっと続いていた。時々、遠くに、何かの影が見えた。動物だろうか、と思った。確かめるほどの距離ではなかった。
「セレク」とジンが言った。「教会の文書に——『静止の祠』のことが、もっと書いてありましたか」
セレクが、少し、ジンを見た。「……名前以外は、ほとんど書かれていませんでした。ただ——一つ、気になることがあります」
「何ですか」
「その文書は——とても古いものでした。アル・ヴェリアの時代より、さらに古い」
「アル・ヴェリアより、古い」とカインが、少し驚いた様子で言った。「……それは——どういう」
「わかりません」とセレクが言った。「ただ——『静止の祠』という名前が、アル・ヴェリアが封印を施す、さらに前から——存在していた、ということです」
全員が、少し、考えた。
「アル・ヴェリアが——封印できなかった場所」とジンが言った。「それより前から、その名前があった」
「もしかしたら」とエリナが、静かに言った。「アル・ヴェリアが——そこに、何かを封印したわけじゃない、ということですか」
「封印したわけではない」とカインが、繰り返した。「……封印しようとして——できなかった。でも——その場所自体は、アル・ヴェリア以前から、すでに『静止』していた」
「最初から、止まっていた」とジンが言った。
誰も、すぐには答えなかった。
ルルが、少し、目を開けた。
「……止まってる」とルルが言った。「ずっと、最初から。それは——わかる気がする」
「わかる気がする、というのは」
「あのにおいには——『始まり』が、ない」とルルが言った。「他のにおいには——だいたい、始まりがある。新しいにおい、古いにおい、変わったにおい。でも——あれには、それがない」
「始まりがない」
「うん。最初から、そこにあった感じ。世界が、できた時から——もう、そこにあった感じ」
ジンが、少し、窓の外を見た。
(世界が、できた時から)
大きすぎる言葉だった。でも——ルルが言うと、不思議と、すんなり受け入れられた。
―――
夕方、小さな丘の上で、野営をした。
まだカノエ村には届かない。御者が「あと一日」と言った。
炉に火がついた。草原の風が、火を揺らした。
「今日——歩いた感じ、どうでしたか」とエリナが、全員に聞いた。手帳を開いていた。
「広かった」とジンが言った。
「広かったですね」とエリナが言った。少し笑った。「それだけですか」
「いや——もう一つ。空が、近かった」
「空が、近い」
「山にいる時は——空は、見上げるものだった。ここでは——空が、ずっとそこにある感じがする。隠れる場所が、ない分——空も、隠れてない」
エリナが、少し、書いた。「……いい言葉です」
「記録するんですか」
「します」とエリナが言った。「今日は——します」
―――
夜が深くなった。
ジンは、炉の前に座っていた。シアが隣に座った。
「明日——着くんですか」とジンが聞いた。
「正確には——カノエ村に着く。祠は——その先だ」
「祠まで、行くのは——明日じゅうに、いけますか」
「わからない」とシアが言った。「村の様子を見てから、決めることになるだろう」
ジンが、少し、火を見た。
「シア」とジンが言った。「最初に、断絶の崖で——石板に触れた時のこと、覚えてますか」
「覚えている」
「あの時は——何もわからないまま、触れた。今度は——少し、わかってる状態で、行く」
「それが——怖いか」
ジンが、少し考えた。「……怖くは、ない。でも——違う種類の緊張がある気がする」
「違う種類、というのは」
「最初は——『何が起きるかわからない』緊張だった。今度は——『何かが、わかってしまうかもしれない』緊張、かもしれない」
シアが、少し、ジンを見た。「……それは——成長だ」
「成長?」
「知らないことに対する緊張から——知ることに対する緊張に、変わった。それは——前に進んでいる、ということだ」
ジンが、少し笑った。「シアに言われると——なんか、説得力あるな」
「当然だ」とシアが言った。「私は——元勇者パーティーの、天才魔法使いだぞ」
「久しぶりに聞いたな、それ」
「言っておかないと——お前たち、忘れそうだからな」
ジンが、もっと笑った。シアも、少し笑った。
―――
エリナは、最後まで起きていた。
ランプの光で、手帳を書いた。
今日のすべてを書いた。西への、初めての道。カルネア平原の広さ。ルルが見つけた「源」のにおい。観測地と、この場所が——糸で繋がっていたこと。カインの「ただの水のままで見ておきたい」という言葉。セレクが見つけた、アル・ヴェリアより古い「静止の祠」という名前。ルルの「始まりがない」におい。
書き終えて、ペンを置いた。
それから——もう一行、追加した。
『空が近い、とジンは言った。隠れる場所がないと。私は——それを聞いて、少し怖いと思った。でも——怖いのに、嫌じゃなかった。それは——多分、隣に誰かがいるからだと思う。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』
ランプの炎が、静かに揺れた。
―――
ルルは、最後に眠った。
眠る前に——西を見た。
風が、まっすぐ吹いていた。草原の向こうに——何も見えなかった。でも——においは、確かにあった。
「……明日」とルルが、小さく言った。
においが、少しずつ、輪郭を持ち始めていた。「静止」というだけでは、足りない何か。ルルにも——まだ、言葉にできない何か。
でも——怖いにおいではなかった。
ルルは、それを確かめて、眠った。
―――
草原で、風が鳴っていた。
七人が眠った。
空は、近くて、広かった。
星が、いつもより、よく見えた。
明日——カノエ村に着く。
その先に——『静止の祠』がある。
風は、変わらず、西から吹いていた。
―――
― 第32話・了 ―
―――
次話予告:翌日の午後、一行はカノエ村に着いた。小さな村だった。人影は少なく、誰もが、よそ者である一行を、静かに見ていた。村長らしき老人が、カインに向かって言った。「……『静止の祠』に、行かれるのですか」。「はい」とカインが言った。老人が、少し間を置いた。「ここから先に行った者は——みな、戻ってきます。ただ——」。「ただ?」とジンが聞いた。老人が、ジンを見た。「——何も、覚えていない顔で、戻ってくるのです」。ルルが、小さく、息を呑んだ。




