第31話「断絶の崖への再訪と、石板が応えた光と、結び目に刻まれていた言葉」
王都を出発したのは、翌々日の朝だった。
空は晴れていた。馬車に荷物を積み終えると、エリナが手帳を鞄にしまった。「準備、できました」
「行きましょう」とジンが言った。
馬車が、城門を抜けた。北東へ。
窓の外を、王都の街並みが過ぎていった。前に来た時とは、違う見え方だった。出ていく街、ではなく——戻ってくる場所を、出ていく感じだった。
「ルル」とジンが言った。「王都の——においは?」
ルルが少し、目を閉じた。それから、開けた。
「……見送るにおい」とルルが言った。「でも——寂しいにおいじゃない。『また帰ってきてね』っていう、においだと思う」
「そう聞こえるの、においで?」
「うん。トーアさんと、同じにおいだった」
ジンが少し笑った。
―――
馬車は二日かけて、北東へ進んだ。
一日目は、街道を進んだ。宿場の景色は、見覚えのあるものだった。「行きと同じ宿場ですね」とエリナが言った。「でも——今回は、通り過ぎるだけです」
「もったいない気もするか」とシアが言った。
「もったいなくはないです」とエリナが言った。「次の機会に、ちゃんと寄ればいいので」
二日目の午後、街道が途切れた。
馬車が止まった。窓の外に——見覚えのある岩盤地帯が、広がっていた。
「ここから——徒歩です」とカインが言った。
全員が、馬車を降りた。
―――
岩盤地帯を進んだ。
風が、強くなった。冷たい風だった。前に来た時と、同じ風だった。でも——感じ方が、違った。
「覚えてる」とジンが言った。「この風」
「俺もだ」とシアが言った。「あの時は——もっと、緊張していた」
「今は?」
「……今は、緊張していない」シアが少し、間を置いた。「別のものが、ある」
「別のもの、というのは」
「……懐かしさだ。柄にもなく」
ジンが少し笑った。
崖に近づくにつれ、ルルの表情が変わった。
「……においが、強くなってる」とルルが言った。
「前と同じにおい?」とジンが聞いた。
「同じ」とルルが言った。「でも——少し違う」
ルルが少し、立ち止まった。風を、確かめるように。
「前は——『待ってる』だけだった」とルルが言った。「今は——『応えようとしてる』感じがする」
「応えようとしてる」
「うん。前は、ずっと同じ姿勢で待ってる感じだった。今は——少し、起き上がろうとしてる感じ」
全員が、少し足を止めた。
「行きましょう」とジンが言った。
―――
隠し空間の入り口は、変わっていなかった。
岩の隙間。狭い通路。奥に——あの空間があった。
全員が、入った。
石板が、そこにあった。
前に来た時と、同じ場所に。同じ角度で。表面には——あの時に刻まれていた古代語の文字。「重さを知る者が来るまで、眠れ」。その先は——風化していて、読めなかった文字。
カインが、写しを取り出した。眼鏡をかけ直した。石板に近づいた。触れずに、表面をなぞるように見た。
「……変わっていない、ように見えます」とカインが言った。「でも——」
カインが、少し間を置いた。
「観測地の文字も——最初は、全部読めるとは思っていませんでした。読めたのは——あの場所が、応えてくれたからです。ここも——同じかもしれません」
全員が、ジンを見た。
「触れますか」とカインが聞いた。
ジンが少し、間を置いた。
石板を見た。最初に、ここで——意思を込めて触れた時のことを思った。あの時は、何もわからないまま触れた。今は——少しだけ、わかっている。重さを知る者。世界が流れ続けることを、望むかどうか。問いは、まだ育っている途中だった。でも——ここに戻ってきたのは、その問いに、もう一歩近づくためだった。
「……はい」
ジンが、石板に手を伸ばした。
―――
手のひらが、石板に触れた。
最初は——何も起きなかった。
数秒、何も変わらなかった。ジンが、少し息を吐いた。
それから——石板が、淡く光った。
観測地の水が放った光とは、違う光だった。あの時の光は——水面から立ち上がるような、軽い光だった。今の光は——石板の奥から、ゆっくりと沈んでいくような光だった。重さのある光。広がるのではなく——染み込んでいく光。
「……来た」とルルが言った。小さな声だった。「向こうが——応えてる」
石板の表面に、文字が浮かび上がった。
風化して消えていたはずの文字が——光の中で、輪郭を取り戻していた。
「読めます」とカインが言った。声が、少し震えていた。「全部——読めます」
―――
カインが、写しを構えた。
「……始めます」
全員が、静かになった。
「最初の段は——前と同じです。『重さを知る者が来るまで、眠れ』。その後に——続きがあります」
カインが、少し息を整えた。
「『重さを知る者よ。お前が触れたことで、この封印は完成した。だが——封印が守っていたものを、お前はまだ知らない。聞いてほしい』」
誰も、すぐには話さなかった。
「『この場所は——世界の結び目である』」とカインが続けた。「『世界は、無数の糸が織り合わさってできている。観測地で——お前たちは「縫い目」という言葉を読んだだろう。縫い目は、糸と糸が触れ合う場所だ。だが——糸と糸を繋ぎ止めているのは、結び目だ。結び目がなければ——縫い目はほどける。世界は、ばらばらになる』」
「結び目」とエリナが繰り返した。ペンが、走っていた。
「『この崖は——世界の結び目の一つだ。私はここに、楔を打った。結び目がほどけないように。世界が——断絶しないように』」
「断絶」とジンが言った。「この崖の名前——」
「『断絶の崖』」とカインが言った。「……名前の意味が、わかった気がします。この場所は——断絶を起こす場所ではなく、断絶を防ぐ場所だった。でも——名前だけが、逆の意味で伝わっていた」
「逆の意味で」
「『断絶』という言葉だけが——後の時代に、独立して伝わったんだと思います。アル・ヴェリアが何を防いだか、ではなく——『何かが断絶しかけた場所』という記憶だけが、地名として残った」
―――
「続きがあります」とカインが言った。
「『結び目を選ぶ者は——自らも、その結び目の一部になる。お前は、もう一つの世界から来た。一度、お前の世界の糸は、お前のところで切れた。それは——お前のせいではない。だが——お前は今、ここで、新しい結び目になっている。私が見ているのは——その結び目だ』」
ジンが、少し動かなかった。
手のひらに——石板の重さのある光が、染み込んでいる感じがした。
「『お前が世界の流れを望むなら——お前自身が、結び目として在り続けることを、望むということだ。それは——重い。だが——一人で支える重さではない。お前の周りにいる者たちも、それぞれの糸を持っている。結び目は——一本の糸では、結べない』」
誰も、話さなかった。
長い沈黙だった。
―――
「最後の段です」とカインが言った。声が、少し低くなっていた。
「『次に、お前が向かうべき場所について。西に——一つの場所がある。そこは——結び目ではない。糸が、止まっている場所だ。動くことをやめた糸。なぜ止まったのか——それを、私は知らない。私が施した封印の中で——唯一、私が「完成させられなかった」場所だ』」
「完成させられなかった」とセレクが言った。
「『そこにあるものは——おそらく、私の手には負えないものだった。重さを知る者よ。お前なら——わかるかもしれない。止まっている糸に、何が起きたのか。それを知ることが——お前の問いに、答えを与えるかもしれない』」
カインが、写しを下げた。
「……以上です」
―――
長い沈黙があった。
風が、空間の入り口から、低く鳴っていた。
「『静止の祠』」とエリナが、静かに言った。「『止まっている糸』——」
「一致します」とカインが言った。「セレク殿が見つけた名前と——今読んだ内容。両方が——同じ場所を指している」
「アル・ヴェリアが——完成させられなかった場所」とシアが言った。「400年かけて、世界中に封印を施した人間が——一つだけ、手が出せなかった」
「何が——あったんでしょうか」とジンが聞いた。
カインが、少し間を置いた。「……わかりません。でも——『お前なら、わかるかもしれない』という言葉が——気になります」
「俺なら」
「重さを知る者にしか——わからないことが、あるのかもしれません」
―――
「ルル」とジンが言った。「結び目の——におい、どう?」
ルルが、少し目を閉じた。それから、開けた。
「……繋がってる」とルルが言った。「さっきまでは——ジンと、石板が、別々のものだった。今は——繋がってる。同じ結び目の中にいる感じ」
「俺と——石板が」
「うん。あと——みんなも」ルルが、全員を見た。「みんなの——糸も、見える気がする。それぞれ違う色。でも——どこかで、ジンの結び目と、繋がってる」
「それは——良いにおい?」
ルルが少し、笑った。「すごく、良いにおい」
―――
「整理しましょう」とエリナが言った。
手帳を開いた。
「一。断絶の崖の石板の全文が、解読できました。この場所は——世界の『結び目』であり、断絶を防ぐための楔である。二。ジンは——もう一つの世界から来た者として、新しい結び目の一部となっている。三。残る封印のうち、西の地点『静止の祠』は——アル・ヴェリアが唯一、完成させられなかった場所である。四。その場所には『止まっている糸』があり、何が起きたのかをアル・ヴェリア自身も知らない。五。アル・ヴェリアは——重さを知る者であれば、それを理解できるかもしれない、と書き残している」
「次は——『静止の祠』に行く、ということですね」とジンが言った。
カインが頷いた。「王都に戻る必要はありません。ここから——カルネア平原を経由して、西へ向かえます」
「直接、行けるんですね」
「直接、行けます」
「ルル」とジンが言った。「西の——におい、どう?」
ルルが、西の方角を見た。少し、目を細めた。
「……止まってる」とルルが言った。「前に言った通り。じっと、している。でも——」
ルルが、少し言葉を探した。
「……今日、ここに来たから——少し、違うものが見える気がする。止まってるのは——糸そのものじゃない。糸の——周りにある, 何か」
「糸の周りにある、何か」
「うん。よくわからない。でも——糸は、ちゃんとある。止まってるのは——別のもの」
全員が、少し考えた。
「行ってみないと——わからない、ということかもしれません」とカインが言った。
「そうかもしれない」とジンが言った。
―――
その夜、崖の麓で野営した。
炉に火がついた。温かさが、来た。
「ここで——最初に会いましたね」とジンがセレクに言った。
セレクが、少し炉を見た。「……はい。あの時の私は——あなたを管理する対象として、見ていました」
「今は?」
「今は——隣にいる人間として、見ています」セレクが、少し口元を動かした。「結び目の話を聞いて——思いました。私も——いつか、誰かの糸と、結ばれていたのかもしれない。教会にいた時は——それを、感じることができなかった」
「今は感じる?」
「……感じます」セレクが、火を見た。「温かい、ということと、同じくらい——確かなことだと思います」
ルルが小声で「セレクのにおい——また、変わった」と言った。
「どう変わった?」
「結ばれてる感じが——強くなった」
―――
シアとカインは、少し離れた場所で、写しを見ていた。
「結び目、か」とシアが言った。「お前の研究——ようやく、形になったな」
「形になった、というより」カインが言った。「……読めるようになった、という方が正確です。ずっと——そこにあった言葉です。読めなかったのは——私たちの方でした」
「謙遜か」
「事実です」
シアが少し、笑った。「……お前のそういうところは、変わらないな」
「変わらない方がいいことも、あります」
「……そうだな」
―――
エリナは、ランプの光で手帳を書いた。
今日のすべてを書いた。結び目という言葉。断絶の崖の本当の意味。ジンが新しい結び目の一部になっていること。静止の祠が——アル・ヴェリアにも完成させられなかった場所であること。
書き終えて、ペンを置いた。
それから——もう一行、追加した。
『結び目は、一本の糸では結べない。それを聞いた時——なぜか、自分のことを言われている気がした。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』
ランプの炎が、静かに揺れた。
―――
ジンは、毛布の中で、今日のことを整理した。
結び目。新しい糸。静止の祠。止まっているもの。
手のひらに——石板の重さのある光が、まだ残っている気がした。観測地の光とは、違う重さだった。でも——どちらも、悪い重さではなかった。
(望むかどうか)
ジンは、静かに思った。
今日——少しだけ、わかった気がした。望むということは——一人で何かを背負うことじゃない。結び目の一部になるということだ。そして——結び目は、一本では結べない。
(一人じゃない)
それは——最初から知っていたことだった。でも——今日、改めて、形になった気がした。
答えは——まだ、完全な言葉になっていない。でも——少しずつ、近づいている気がした。
外で、風が低く鳴っていた。
七人が眠った。
崖は、静かだった。
―――
― 第31話・了 ―
―――
次話予告:翌朝、一行はカルネア平原へ向けて出発した。崖を下りると、見慣れない方向への道が広がっていた。「西へ——初めての道ですね」とエリナが言った。平原に出ると、風景が一変した。広い草原。風が、強く吹いていた。ルルが「……このにおい」と立ち止まった。「知ってる。前にも——感じたことがある」。「どこで?」とジンが聞いた。ルルが少し考えた。「……観測地で。あの時——遠くから、薄く感じてたにおい。これが——その、源」。カインが地図を広げた。「ここから——馬車で二日。『静止の祠』まで」。一行が、西へ歩き始めた。




