第3話「銀髪の魔法使いは口が悪い」
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ラングレイの宿屋「灰色の鷹亭」には、旅人が立ち寄る小さな酒場が併設されている。
ジンがそこに顔を出したのは、本当にたまたまだった。
飯の時間に合わせて宿に戻ると、一階の酒場が妙に騒がしい。
カウンターの丸椅子の上に立ったルルが、短い指で奥のテーブルを指差していた。
「ジン、あそこの人、さっきから変なことを言ってる」
「変なこと」
「ジンのこと」
ジンは視線を向けた。
奥の席に、一人の女がいた。
年は十九か二十くらい。銀色の長い髪が背に流れ、細い指で酒杯を持っている。冒険者というより魔法使いに見えた。白いローブの胸元には、抹消されたような痕跡がある——どこかの紋章を剥がした跡だろうか。
普段ならフードを目深に被り、気配を薄めて行動しているはずの女が、今夜は何も纏わず素顔を晒している。それほどまでに、ジンの噂は彼女の計算を狂わせていた——らしかった。
その女は、隣のテーブルの男たちと話していた。
「……だからあの力は危険だと言っている」
声は低くて、感情が薄かった。「危険」という言葉に、怒りも恐れもなく、ただ断定だけがある。
「無詠唱で、あれだけの範囲魔法を一瞬で。ランク測定もできない。どこかの国が動く前に、早急に——」
「俺のこと?」
ジンが声をかけた。
女が顔を上げた。
目が合った。灰色がかった紫の瞳だった。
一拍の沈黙。
「……そこで聞いていたのか」
「ルルが教えてくれた」
「……」
女はジンをじっと見た。上から下まで。何かを確認するような目だった。
「あなたが、コボルト十七頭を一瞬で眠らせた、と噂の」
「昨日の話ね」とジンは言った。「誰に聞いたの」
「ギルドにいた冒険者から。詠唱なし、術式なし、発動まで一秒もかからなかった、と」
「そうだったかな」
「記憶がないのか?」
「ちょっとやっただけだから」
女の目が、わずかに細くなった。
「……口をつぐめない馬鹿か、それとも本気でそう思っているのか」
「本気」とジンは答えた。「座っていい?」
「断る」
ジンはその隣の席に座った。
「断るって言った」
「聞こえてた。ご飯を頼もうとしたら、ここが一番空いてたから」
女はしばらく無言でジンを見た。それから、小さく鼻を鳴らした。
「……好きにしろ」
ルルがジンの隣にするりと滑り込んだ。女をじっと見上げる。
「おねえさん、なんか面白いにおいがする」
「……においって何だ」
「ふしぎな感じのにおい。大きくて、古くて、でもちょっと寂しい感じ」
女が眉根を寄せた。
「意味がわからない」
「ルルもよくわかんない」
ジンは肉のシチューを注文した。ルルはパンを二個。女は追加の酒を頼んだが、給仕が来たとき、自分の分を先に払ってしまった。
「割り勘にしなくていいの?」とジンが聞いた。
「お前の飯まで払う義理はない」
「そりゃそうか」
しばらく沈黙があった。隣のテーブルの男たちはいつの間にかいなくなっていた。
「名前は」と女が言った。
「霧島ジン。ジンでいい」
「……変な名前だな」
「外国由来」
「どこの」
「遠いとこ」
女はもう聞かなかった。
「シア・ルーナだ」とだけ言った。「聞かれてもいないが、名乗らないのも礼儀を欠く」
「シアか。よろしく」
「よろしくするつもりはない」
「そうか」
ジンはシチューを食べた。美味かった。
シアはまた酒を飲みながら、ときどきジンの方を見た。見るたびに何か言おうとして、やめる、というのを繰り返した。ジンはそれに気づいていたが、特に何も言わなかった。
「……一つだけ聞いていいか」
しばらくして、シアが口を開いた。
「どうぞ」
「あの魔法、無属性か」
「たぶん」
「たぶん、とは」
「誰かにそう言われた。自分ではよくわかってない」
シアの指が、酒杯の縁をゆっくりなぞった。
「魔法を使う時、何かを意識するか」
「なんか、こうなってほしいな、みたいな感じ?」
「詠唱は?」
「ない」
「術式の構成は?」
「何それ」
シアが黙った。
「……理論が何もない状態で、それだけの規模の魔法を発動しているということか」
「そうなのかな」
「あり得ない」
「でもやってるよ」
シアはジンをまた見た。さっきより長く。
ジンは気にせずシチューの最後のひと口を食べた。
「……お前は」とシアが言った。「自分がどれだけ規格外なことをしているか、わかっているか」
「あんまり」
「そうだろうな」
シアは酒を飲み干した。空になった杯をテーブルに置く。少しだけ、重い音がした。
「私はかつて、勇者パーティにいた」
ジンは何も言わなかった。聞いている、という顔だけしていた。
「その中でも、私は魔法の扱いにおいて一番だったと自負していた。詠唱速度、術式精度、出力——どれも他の追随を許さなかった。少なくとも、私はそう思っていた」
シアは自嘲気味に口元を歪め、言葉を続けた。
「だから、昨日の話を聞いた時は作り話だと思った。誰かが誇張したか、勘違いしたか。でなければ、人を騙そうとしているかのどれかだ、と」
「嘘じゃないけど」
「わかってる。今は」
シアはジンの目を見た。
「お前のやっていることは、魔法の概念を外れている。術式も詠唱も必要とせず、意思だけで世界に干渉している。理論で説明がつかない。それは——」
一拍。
「——正直、気に食わない」
「そっか」とジンは言った。
「それだけか」
「怒ってる?」
「怒ってない。ただ認めたくない」
「正直だね」
「嘘をつく意味がない」
ルルがあくびをして、ジンの腕にもたれかかった。眠くなってきたらしい。
「帰る」とジンが立ち上がった。「シア、話してくれてありがとう」
「お前に礼を言われる筋合いはない。私は一方的に話しただけだ」
「そうでも、ありがとう」
シアは何も言わなかった。
ジンはルルを半ば担ぎ上げるようにして、階段を上がっていった。
シアは空の酒杯をしばらく見ていた。
(……気に食わない)
心の中で、もう一度繰り返した。
でも——勇者パーティを出てから、初めて自分から名乗った。
それに気づいたのは、部屋に戻ってからだった。
―――
翌朝、ギルドに来るとエリナが血相を変えて出てきた。
「ジンさん、昨日の宿屋でシア・ルーナと話したって本当ですか」
「うん」
「……あの人が誰か、知ってますか」
「魔法使い。元勇者パーティ」
「そうです。それも、勇者直属の——大陸最高位の魔法使いです。ランクはSSS、測定値は歴代最高。Aランク以上の冒険者なら誰でも名前を知っている人です」
「へえ」
「『へえ』じゃないです! なんでそんな人と接触してるんですか!」
「席が空いてたから」
エリナがこめかみを押さえた。
「……シア・ルーナは半年前に勇者パーティを抜けています。理由は不明。その後ラングレイ周辺に滞在しているという情報があって、ギルドとしても動向を把握しきれていなくて——普段は姿を隠すように動いているようで、目撃情報がほとんどないんです。それなのに昨夜は——」
「エリナ」
「なんですか」
「俺、今日も依頼受けていい?」
エリナは一瞬言葉を止めた。
「……Fランクの白い紙の依頼ですよね」
「それ以外は受けないよ」
「…………」
エリナはため息をついた。それから掲示板を指差した。
「今日は薬草採取が二枚と、街の水路の詰まりの調査が一枚です」
「水路の詰まり、何が詰まってるかわかってる?」
「調査依頼なのでわかっていません」
「じゃあ行ってくる」
ジンが薬草採取の紙一枚と水路の紙を手に取った瞬間、ギルドの入口の扉が開いた。
朝の光を浴びて、眩いほどの銀髪を揺らす女がそこに立っていた——シアだった。
彼女はジンと目が合った瞬間、わずかに目を見開いた。視線が一瞬だけ泳ぐ。しかしすぐに、いつもの冷徹な表情を取り繕った。
「……お前、なぜここにいる」
「ギルドだから」
「そうか」
シアは視線をエリナに移した。
「一つ依頼を受けたい。報酬は不要だ、条件がある」
「は、はい、どのような……」
「そこのFランクと同行させろ」
沈黙。
エリナがジンを見た。ジンがシアを見た。シアが天井を見た。
「……理由を聞いていいですか」とエリナが恐る恐る聞いた。
「興味がある。ただそれだけだ」
「興味」
「同行して観察する。危険があれば対処する。報酬は求めない。問題があるか」
エリナはもう一度ジンを見た。ジンは特に反対する顔をしていなかった。
「……ジンさんが構わなければ、規則上は問題ないんですが」
「構わないよ」
「本当に?」
「別にいい」
シアがまたジンを見た。今度は少し短く。
「……感情がないのか、お前は」
「ある。ただ今はお腹が空いてる」
「……それで全部解決するな、お前の世界は」
「だいたいね」
ルルがシアの腕をつんと突いた。
「おねえさんもくる?」
「……ついてくるだけだ。仲間ではない」
「ふうん」ルルはにこにこした。「でも来るんだ」
シアは答えなかった。
エリナは報告書の備考欄に何と書くべきか頭を悩ませながら、三人を見送った。
今日も難問だった。
— 第3話・了 —
次話予告:水路の詰まりの調査は、予想外の方向へ転がった。シアが「これは魔獣の痕跡だ」と呟いた瞬間、ジンはもうそこにいなかった。——街の地下に潜む「何か」の正体とは。




