第29話「下山と、ルルが言った帰り道のにおいと、次の場所について」
下山が始まったのは、午前の早い時間だった。
岩屋を出ると、山の空気が冷たかった。でも——三日前と同じ冷たさのはずなのに、少し違う気がした。同じ温度が、体に当たる感じが違う。
(変わったのは、山じゃなくて俺の方だ)
ジンはそう思った。別に大したことではないが——それがわかること自体が、何かを経た証拠のような気がした。
「においが、軽くなってる」とルルが言った。
「行く時と同じ道なのに?」とジンが聞いた。
「同じ道でも、向きが変わると、においが変わる」
「どう変わるの?」
ルルが少し考えた。「……行く時は、前から来るにおいが強かった。今は——後ろから来るにおいが、背中を押してる感じ」
「背中を押してる」
「うん。重さが違う。荷物を下ろした感じではなくて——荷物が中身に変わった感じ」
「昨日も同じことを言ってた」とジンが言った。
「そうだっけ」
「そうだよ。でも——今日の方が、もっとそうかもしれない」
ルルが少し、前を向いたまま笑った。声には出なかったが——肩が、少し軽くなった気がした。
―――
下山の最初は、来た道を戻った。
岩の間を抜けた。木の枝の下をくぐった。下りは——足元に意識が向く。重心が前に出る分、上にある枝に気づきにくい。カインが枝に当たりそうになった。
「下りは重心が前に出る。頭を下げろ」とシアが、今度は早めに言った。
カインが頭を下げた。間に合った。「ありがとうございます」とカインが言った。シアが「……先ほどは言う前に当たったから」と言った。「先ほど言っていなかったことを認めましたか」とカインが言った。シアが「黙れ」と言った。
ジンが後ろで聞いていた。思い切り笑った。
「今日は、ずっとそれですか」とエリナが、前を歩きながら言った。手帳を開いていた。歩きながら書いていた。足元が悪い場所では書くのを止めていたが、今は両方やっていた。
「記録するんですか、それも」とカインが言った。
「しません」とエリナが言った。「でも——隣で起きていることは、全部覚えています」
「覚えている、というのは」
「手帳に書かなくても、ちゃんと持って帰ります。そういうことです」
カインが少し、眼鏡をかけ直した。何も言わなかった。でも——表情が、少し動いた。
セレクが後ろでそれを聞いていた。何も言わなかった。でも——前を向いたまま、口元が少し動いていた。
―――
昼前に、沢の音が戻ってきた。
川の音だ、とジンは思った。三日前に初めて聞いた時と同じ音。でも——今は、違う聞こえ方をしている。ただの水の音ではなく——なじんだ音だ。
「聞こえる?」とジンがルルに言った。
「川」とルルが言った。「帰り道のにおいになった」
「帰り道のにおいって、どんなにおい?」
ルルが少し考えた。「……みんなが、何かを持って帰ってる感じ。行く時は、みんなが何かを探してた。今は——見つけたものを、ちゃんと持ってる」
「見つけたもの」
「うん。全員、違うものを見つけてる。でも——全部、良いもの。そのにおいが、一緒に混ざってる」
「ルルは何を見つけた?」とジンが聞いた。
ルルが少し、立ち止まった。それから——また歩き始めた。「……においが、全部繋がった場所を、知った。それが——嬉しかった」
「嬉しかった」
「うん。あの場所は——ずっとにおいの中にあった。どこにあるか、ずっと感じてたけど、見たことがなかった。今日——見た。においと、場所が、ひとつになった。それが嬉しかった」
ジンが少し、ルルを見た。
(それは——きっと、特別なことだ)
においで世界を感じてきた人間が、においの源に辿り着いた。それがどれだけのことか、ジンには全部はわからない。でも——嬉しかった、という言葉は、そのまま受け取れた。
「良かったね」とジンが言った。
「うん」とルルが言った。「良かった」
―――
昼過ぎに、少し開けた岩場で休憩を取った。
全員が荷物を下ろした。水を飲んだ。乾燥した果実を少し食べた。誰も特別なことは言わなかった。でも——その沈黙が、悪い沈黙ではなかった。疲れた沈黙でもなかった。何かを消化している沈黙だった。
カインが鞄を開けた。写しを取り出した。昨日の壁の文字の写しと、配置図の写し。丁寧に折り畳まれている。
「今日の下山中に——整理したいと思います」とカインが言った。「全員に、改めて共有したい内容があります」
「今ですか」とエリナが聞いた。
「今でも、夜でも。エリナ殿の都合に合わせます」
「今の方がいいです。歩きながらでも聞けます」
「では——歩きながら」
全員が、荷物を背負い直した。
―――
歩きながら、カインが話した。
「七つの封印の配置図について——まず確認します。中心点がヴェルダ温泉郷の観測地。そこから七つの点が伸びている。断絶の崖が一つ目。残りは六つ」
「六つが、どこにあるかは」とジンが聞いた。
「配置図には、方角と距離の概念が刻まれていました。ただし——精密な地図ではない。象徴的な距離感です。縮尺ではなく、遠近の感覚として描かれている」
「つまり、場所は特定できない」
「すぐには。ただ——方角は読めます。七つのうち、断絶の崖は北東。観測地から見て、北東の方向にある」
「それが正しければ、残りの六つも方角がわかる?」
「そうです。断絶の崖を照合の基準にして、他の六つの方角を割り出せます。距離は——地形や地名と照らし合わせながら、絞り込んでいく作業になります」
「時間がかかりますか」とエリナが聞いた。
「かかります。でも——王都の研究院に戻れば、地図の資料があります。古い地名と地形の記録も。そこで照合すれば、候補地は絞れます」
「研究院に、戻りますか」とシアが言った。声が、少し低かった。
カインが少し間を置いた。「……辞めた、とは言っていません。研究院との関係を、どうするかは——まだ決めていない。ただ、資料へのアクセスは必要です」
「資料だけ使って、あとは出ていく?」
「それが——一番効率的かもしれません」
シアが少し間を置いた。「……お前らしい」
「効率を褒めていますか」
「褒めていない」
「……ですよね」
ジンが後ろで聞いていた。笑うのを、少しこらえた。
―――
しばらく歩いてから、セレクが口を開いた。
「カイン殿——一つ、確認させてください」
「どうぞ」
「配置図の七つの点は——それぞれ、世界の異なる性質を守っている、という解釈でしたね」
「そう読みました」
「断絶の崖は——何の性質を守っていると思いますか」
カインが少し間を置いた。眼鏡をかけ直した。「……それが——まだわかっていない最大の問いです。断絶の崖でジン殿が完成させた封印は、世界の何を守っているのか。観測地の壁の文字には、封印の全体の目的は書かれていました。でも——個々の封印が何を守っているかは、その場所の石板に刻まれているはずです」
「断絶の崖の石板には、何が刻まれていましたか」とセレクが言った。
「『重さを知る者が来るまで、眠れ』というのが、ルル殿が読んだ言葉です。それ以外の詳細は——まだ全文が解読できていない」
「つまり——戻る必要がある」
「断絶の崖に、もう一度。石板の全文を読むために」
全員が少し、静かになった。
崖のことを思った。あの高い岩壁。冷たい風。石板に触れた時の暖かさ。最初の封印を完成させた場所。あの場所に——もう一度行く。
「ルルは、崖のにおいを覚えてる?」とジンが聞いた。
「覚えてる」とルルが言った。「あそこのにおいは——一度感じたら、忘れない」
「また行けますか」
「行ける」
「じゃあ、行けるな」
あっさりと言った。でも——それで十分だった、とジンには思えた。
―――
夕方前に、一日目の山小屋が見えた。
「着いた」とジンが言った。
「一日目と同じ場所です」とエリナが言った。「でも——違う気がしますね」
「どう違います?」とカインが聞いた。
「行く時は——これから何があるかわからなかった。今は——あそこで何があったか、知っている」
「それが違いですか」
「私には、そういう違いが大事なんです」
カインが少し間を置いた。「……そうですね。記録者らしい考え方です」
「記録者というより——ただ、ちゃんと覚えていたい、ということです」
トーアが山小屋の扉を開けた。「今夜は、ここで一泊します。明日の朝から山を下りれば、昼前には麓に着ける」
「ありがとうございます」とエリナが言った。
トーアが頷いた。それだけだった。でも——三日前より、少しだけ、その沈黙が温かかった。
―――
山小屋の中に、火がついた。
三日前と同じ炉。同じ煙。でも——集まっている人間が、少し違う。違うというより——少し、整った気がした。三日前は、まだ互いの間に距離があった。今は——その距離が、消えたわけではないが、変わった。距離というより、間隔になった、とジンは思った。近すぎず、遠すぎず、それぞれがちゃんといる間隔。
食事の後、カインが写しを広げた。
「今夜——残りの六つの方角について、確認したいと思います。全員で、一度共有してから王都に戻りたい」
「はい」とエリナが手帳を開いた。
カインが配置図の写しを全員が見える位置に置いた。炉の光が、写しを照らした。中心点から伸びる七本の線。
「中心が観測地。北東が断絶の崖——一つ目の封印。これが基準です。残りの六つを、方角で読むと——」
カインが指で線をなぞった。「……断絶の崖を含めた、七つの封印の方角です。北東——断絶の崖。残り六つが、北西。北。東。南東。南。西」
エリナが手帳に書いた。「(済)北東。未踏——北西、北、東、南東、南、西」と書いたのが、ジンの位置からも見えた。
「七方向に均等ではないんですね」とエリナが言った。書きながら聞いていた。
「均等ではありません。世界の地形に合わせて配置されている可能性があります。重要な地形——山、水源、断層、古い遺跡——そういった場所に、封印は施されている気がします」
「アル・ヴェリアが施した封印だから——彼が400年前に歩ける範囲」とシアが言った。
「そうです。一人の人間が、生涯をかけて歩ける範囲。それが——この配置の外縁になります」
「広いですね」とジンが言った。
「広い」とカインが言った。「でも——可能な範囲です。400年前の人間が、足で歩ける距離。それを、ジン殿たちも歩くことになる」
ジンが少し、写しを見た。中心から伸びる七本の線。
「次は、どこへ行くんですか」と聞いた。
―――
カインが少し間を置いた。
「断絶の崖の石板の全文解読が——まず最初に必要です。次の場所を決めるための手がかりが、石板にある可能性があります。アル・ヴェリアは——各地の封印に、次の場所への手がかりを残していたかもしれない。道標と同じように」
「崖に戻る」
「まず、崖に戻ります。それから——地図と照合して、候補地を絞る。その上で、次に向かう場所を決めます」
「順番が大事なんですね」とエリナが言った。
「順番が大事です。焦って動いても、何も見えない。今日のように——準備と時間をかけて来たから、見えたものがある」
「今日みたいに」
「今日みたいに」カインが、写しを丁寧に畳んだ。「三日かけて来た価値があった場所でした。次も——同じだと思います」
「同じ、というのは」
「かけた時間と手間に、ちゃんと応えてくれる場所だということです。アル・ヴェリアは——来た者を、裏切らない。そういう印象を受けました」
誰も、すぐには話さなかった。
でも——それは、全員が同じことを感じていたからだと、ジンは思った。
―――
「もう一つ、西に——」とカインが言いかけた。
全員がカインを見た。
カインが少し間を置いた。写しを広げた。配置図の西の方向を指した。「……西の点が——六つの中で、距離が最も短い気がします。中心点に近い。距離感の象徴的な描き方を見ると——他の五つより、明らかに近い位置にある」
「それは」とジンが言った。「近くにある、ということ?」
「王都から見て——西。それほど遠くない場所に、封印の一つがある可能性があります。断絶の崖が北東だとすれば——距離感は、崖より近いかもしれない」
「崖よりも近い」
「あくまで——象徴的な読み方です。正確ではない。でも」カインが眼鏡をかけ直した。「断絶の崖の次に向かうべき場所が、西にある可能性は、高いと思っています」
「西に——何があるんですか」
カインが少し考えた。「……水でも火でもない——もう一つの性質を持つ場所だと思います。断絶の崖は——重さを知る者、という言葉がありました。ここは——水と火の境界。それぞれの場所に、それぞれの性質がある。西の場所は——別の何かを持っている」
「別の何か、というのは」
「今は——わかりません」とカインが言った。「でも——王都に戻って、地図と照合すれば、ある程度絞れます。その時に、また話しましょう」
「約束します」とジンが言った。
「約束します」とカインが言った。
ルルが「においが、また少し変わった」と言った。
「どう変わった?」
「さっきまでは、みんなが後ろを向いてた気がした——今日のことを持ってる感じ。今は——少しずつ、前を向き始めた感じ」
「前、というのは」
「次のことを、考え始めてる。でも——焦ってない。今夜は、今夜のにおいがちゃんとある」
「それは——良いことですか」
「良いことだよ」
―――
夜が深くなった。
シアが炉の前に座っていた。ジンが隣に座った。
「今日——大丈夫でしたか」とジンが聞いた。
「何が」
「いろいろ」
シアが少し間を置いた。「……大丈夫だ」
「あの場所——どうでしたか」
「……静かだった」とシアが言った。「静かで——清潔だった。魔法的な意味でも、そうでない意味でも。ああいう場所は——久しぶりだった」
「久しぶり、というのは」
「勇者パーティで動いていた頃——力が全てだった。力で世界を動かす、という感覚で動いていた。あの場所は——違った。力を持って行ったのではなく、力を持ってそこに立っていることを、あの場所が受け取った、という感じがした」
「受け取った」
「ジンが水に触れた時に光が来た。あれは——呼んだのではなく、応えたのだと思った。世界が、ちゃんと気づいた感じ」
ジンが少し、炉の火を見た。
「俺もそう思う。呼んだというより——向こうが気づいてくれた感じ」
シアが少し、前を向いた。「……次の場所も、そういう場所だといいと思う」
「そういう場所だと思う」
「根拠は」
「アル・ヴェリアが作った場所だから」
シアが少し間を置いた。「……それで十分かもしれない」
それだけだった。でも——それで十分だった。
「カインへの返事——来ましたか」とジンが聞いた。
シアが少し、固まった。「……聞くな」
「聞きましたよ。前にも聞いた」
「……来た」とシアが言った。声が、少し低かった。「山を出る前に——ラングレイで来た。出発の朝に」
「なんて?」
「それを聞くな」
「良い内容でしたか」
シアが少し間を置いた。「……良かった。それだけだ」
ジンが少し笑った。シアが前を向いた。炉の光が、シアの横顔に当たっていた。口元が——少し動いていた気がした。
―――
エリナが最後まで起きていた。
ランプの光で手帳を書いた。今日の全部を書いた。帰り道のにおいについてのルルの言葉。カインの配置図の読み方。西に次の場所がある可能性。シアとカインの軽口。セレクが炉の火を「温かい」と感じていること。
全部、書いた。
それから——一つ、追加した。
『帰り道は、行く道より少し速かった。足が重くなったわけではない。むしろ軽くなった。それは——何かを置いてきたからではなく、何かを持ってきたから。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』
ペンを置いた。ランプの炎が、静かに揺れた。
(明日、山を下りる)
麓に着いて、王都に戻る。研究院に行く。地図を調べる。崖に戻る。石板を読む。次の場所を決める。
やることは、たくさんある。でも——今夜は、やることのことを考えなくていい。
今夜は——ここにいる。七人が、この山小屋にいる。みんなが、何かを持っている。
それだけで——続けられる。
―――
ルルは、最初に眠った。
眠る前に——においを確かめた。
山のにおい。木のにおい。炉の煙のにおい。川のにおい。七人のにおい。
全部が、今夜のにおいだった。特別なにおいではなかった。でも——これが、今夜の正しいにおいだった。
そして——遠くから。
まだ見ぬ場所のにおいが、少しだけ、届いていた。
西から来るにおい。水でも火でもない、別の何かのにおい。
まだはっきりとはわからない。でも——あった。ちゃんと、あった。
(また行く)
ルルは思った。そして眠った。
―――
山小屋の外で、川の音がしていた。
三日前と同じ音。でも——三日前とは違う耳で、聞いている。
七人が眠った。
山は、静かだった。
明日、山を下りる。
水は、変わらず流れていた。
―――
― 第29話・了 ―
―――
次話予告:山を下りた翌日、一行は王都に戻った。カインが研究院の地図室に入り、写しと古地図を照合し始めた。断絶の崖への再訪の段取りをしながら、西の封印地への手がかりを探す日々が始まる。エリナが「西の方角と言えば」と言いかけた。全員が静かに聞いた。「……カルネア平原の先に、古い街道が一本あります。王都から馬車で三日。その終点に——廃墟になった古い遺跡があると、中央本部の地誌資料に記録がある」。カインが眼鏡をかけ直した。「水でも火でもない性質」。セレクが「……私が読んだ教会の文書に、その遺跡の名前がありました」と静かに言った。「なんという名前ですか」とジンが聞いた。セレクが少し間を置いた。「——『静止の祠』です」。
第三章『水と火の間の話』、これにて完結です!
本日の怒涛の一挙公開にお付き合いいただき、本当にありがとうございました!
セレクたちの旅も一つの区切りを迎え、物語はいよいよ次の場所へ。
明日6月21日(日)からは、予告通り第四章が開幕します!
明日の日曜日も、本日と同じ【07:50 / 12:50 / 16:50 / 19:50 / 23:50】のスケジュールで5話一挙公開いたしますので、ぜひ週末のノンストップな読書タイムをお楽しみください!




