第28話「壁の文字と、ザルヴァが恐れたものと、問いの始まり」
カインが壁の文字を読み終えたのは、光の角度がさらに変わった頃だった。
昼を過ぎて、少し時間が経っていた。天井の割れ目から差し込む光が、水面から壁へと移り始めていた。水の音が変わらず聞こえている。湯気が薄く漂っている。空間全体が、静かに息をしていた。
「読めました」とカインが言った。
全員が、カインを見た。
カインが眼鏡をかけ直した。手帳を持ったエリナが、ペンを構えた。シアが壁の前から動かず、腕を組んだ。ルルが水の縁から立ち上がった。セレクが、静かにカインの横に立った。
ジンは、水の縁に座ったまま、カインを見た。
「全部、読めますか」とジンが聞いた。
「全部ではありません」とカインが言った。「風化で消えている部分があります。でも——文章の流れは、把握できます。重要な部分は、読めています」
「聞かせてください」とエリナが言った。
カインが少し、間を置いた。
「……読み上げる前に——一つ、確認させてください」
全員が静かになった。
「これは——アル・ヴェリアが最後に書いた文章です。碑文ではない。術式でもない。一人の人間が、次に来る誰かに向けて書いた——記録です。感情が、入っています。それを念頭に置いて、聞いてください」
「わかりました」とエリナが言った。
「わかりました」と、誰かが言った。全員が、そう思っていた。
―――
カインが、写しを手に取った。
「……始めます」
「最初の段——これは、この場所についての説明です。読み下し文に近い形で伝えます」
カインが少し息を整えた。
「『この場所は、水が火を知る場所である。世界が二つの性質を持ち、その境界が最も薄くなる地点。ここに来た者は、世界の縫い目に触れることができる』」
誰も、すぐには話さなかった。
「縫い目」とジンが繰り返した。
「縫い目、です」とカインが言った。「原始魔法言語で、縫い合わせた跡——という意味に近い言葉です。世界が一枚の布ではなく、複数のものを繋ぎ合わせて作られているという考え方です」
「水と火が縫い合わさっている」
「そういう解釈です」
「……続けてください」とセレクが言った。静かな声だった。
―――
「次の段——これが、長い。一番重要な部分です」
カインが写しに視線を落とした。
「『我がここに来たのは、一つの事実を確かめるためであった。世界を管理する者、ザルヴァが——何を恐れているか、を』」
全員が、少し動きを止めた。
「ザルヴァが、恐れている」とジンが言った。
「続きがあります」とカインが言った。
「『長い年月をかけて、私はザルヴァの痕跡を追ってきた。世界各地に施された制限の証拠を見てきた。そして——ここで、初めてわかった。ザルヴァは世界を管理しているのではない。世界に管理されることを、恐れているのだ』」
沈黙があった。
長い沈黙だった。
「……世界に、管理される」とエリナが言った。ペンが、少し止まっていた。「ザルヴァが——恐れている?」
「続きを読みます」とカインが言った。
「『ザルヴァが恐れるものは——世界の声を聞く者、である。世界の流れに従う者。世界を使おうとせず、世界と共に動く者。そのような者が現れた時——ザルヴァの管理は意味を失う。なぜなら——世界そのものが、ザルヴァを必要としなくなるからだ』」
―――
ジンが少し、空間を見た。
湯気が、静かに漂っている。水面が、ゆっくりと揺れている。
(世界の声を聞く者)
(世界と共に動く者)
断絶の崖の石板に触れた時のことを思い出した。あの暖かさ。自分がそこにいていい、という感覚。世界がそれを待っていたような——感触。
「……ジン」
ルルが、静かに言った。
「うん」
「それ——ジンのことだよ」
「……そうかもしれない」
「においが——今、この場所のすべてがそう言ってる。……全部のにおいが、そう言ってる」
ジンが少し、水を見た。底から光が来た時のことを思った。あの光の色。水色と橙色が混ざった、水と火の間の色。
「続きがありますか」とジンがカインに聞いた。
「あります」
「聞かせてください」
―――
カインが写しに目を戻した。
「『ザルヴァは世界の初めから存在する。だが——その存在は、世界を守るためではない。ザルヴァは世界を自分のものにしようとした。世界の流れを止め、管理し、自分だけが扱える形に変えようとした。それが——世界を歪める原因となった』」
「歪める」とシアが言った。低い声だった。「世界が、歪んでいる?」
「続きがあります」とカインが言った。「『世界は本来、水が流れるように動く。火が熱を持つように変わる。それが世界の本性だ。ザルヴァはその本性を止めようとした。止めることで——世界を永遠に自分のものにしようとした』」
「……止めた」とセレクが言った。声が、少し低くなっていた。「世界の流れを——」
「止めようとした、です」とカインが言った。「完全には止まらなかった。だから——封印が必要だった」
「封印は」とジンが言った。「ザルヴァを封じるためじゃなかったんですか」
「続きを読みます」
―――
「『封印は——ザルヴァを消すためではない。世界の流れを守るためのものだ。ザルヴァが止めようとした流れを、再び動かし続けるための——楔だ。各地に施した封印は、それぞれが世界の一部を繋ぎ留めている。そして——ここが、その全てを束ねる場所だ』」
「やはり、中継点だった」とカインが言った。声に、確信があった。
「続きがありますか」とエリナが聞いた。ペンが、再び走っていた。
「あります。これが——おそらく最後の段です」
カインが、少し間を置いた。
「……これは」カインが言った。「先ほども言いましたが——碑文ではありません。個人の言葉です。400年前の一人の人間が、まだ見ぬ誰かに向けて書いた——言葉です」
「読んでください」とジンが言った。
カインが頷いた。
「『重さを知る者よ。私はここで、長い間待った。封印を施した後、世界の声が聞こえる者が来るまで——ここで待ち続けた。私には、その者の顔は見えない。名前もわからない。だが——来ることは、わかっていた。世界が、そういう者を必要としていたから』」
誰も、話さなかった。
カインが続けた。
「『その者に、一つだけ伝えたいことがある。封印を完成させることが、目的ではない。封印は——問いを立てるための、準備に過ぎない。問うべきことは——なぜ世界は流れるのか、ではない。世界が流れ続けることを、お前が望むかどうか、だ』」
―――
長い沈黙があった。
湯気が揺れた。水面が動いた。天井の割れ目から差し込む光が、少し角度を変えた。
「問いを、立てる」とジンが言った。「準備、か」
「封印の完成が——最終目的ではなかった」とカインが言った。「アル・ヴェリアは——封印を通じて、誰かに問いを立てさせようとしていた」
「どんな問いを?」
「読み上げた通りです。世界が流れ続けることを——お前が望むかどうか」
ジンが少し、水を見た。
「……それって、選択、ですか」
「そう読めます」とカインが言った。「世界の流れを守ることを——自分の意志で選ぶかどうか。強制ではなく、誰かに決められたことでもなく——本人が、望むかどうか」
「望まなかったら?」
カインが少し間を置いた。「……文章には、続きがありません。その先は——書かれていなかった」
「書かれていないのは——その答えを、アル・ヴェリア本人が決めなかったから、ということですか」
「そう読めます」とカインが言った。「それを決めるのは——来た者だ、という意味だと思います」
―――
「……教会の記録と、矛盾しない」とセレクが言った。
全員が、セレクを見た。
セレクが、少し間を置いた。壁を見ていた。カインが読み上げた文字の方向を見ていた。
「矛盾しない、というのは」とエリナが言った。
「教会は——ザルヴァを神と定義しています。世界を管理する者、として崇めています。しかし——」セレクが少し止まった。「今読まれた文章によれば、ザルヴァが世界を管理しているのは、世界を守るためではない。自分のものにするためだった」
「それが、矛盾しないというのは」とジンが聞いた。
「教会がザルヴァを神と定義したのは——ザルヴァを崇拝したからではないかもしれません」とセレクが言った。声が、静かだった。でも——確信を持った声だった。「恐れていた。恐れていたが——恐れを隠すために、神と呼んだのかもしれない」
「恐れを隠すために、神と呼んだ」
「恐ろしいものを神と呼ぶことは——人間の、古い習慣です。制御できないものに名前と意味を与えることで——恐怖を、信仰に変える。それが、教会の始まりだったかもしれない」
誰も、すぐには話さなかった。
ルルが「においが、また変わった」と言った。「セレクのにおい——今日の中で、一番落ち着いた感じになった」
セレクが、ルルを見た。
「……落ち着いた、というのは」
「自分のにおいになった感じ。さっきまで——少し、外のものを着てるみたいなにおいがしてた。今は——全部、セレク自身のにおいになってる」
セレクが少し、止まった。それから——前を向いた。
「……そうかもしれません」と、セレクが言った。声が——以前の、計算したような声ではなかった。
―――
「整理しましょう」とエリナが言った。
手帳を開いた。ペンを持った。水の縁の岩の上に立って、書いた。
「一。アル・ヴェリアがこの場所に残した記録によれば、ザルヴァは世界を守るために存在するのではなく、世界を自分のものにしようとした存在である。二。封印は——ザルヴァを消すためではなく、ザルヴァが止めようとした世界の流れを守り続けるための楔である。三。この場所はその封印の全てを束ねる中継点である。四。アル・ヴェリアの本来の目的は——封印の完成ではなく、来た者に『世界の流れを守ることを自分の意志で選ぶかどうか』という問いを立てさせることだった。五。教会がザルヴァを神と定義したのは——崇拝ではなく、恐怖を信仰に変えることで恐れを隠すためだった可能性がある」
「記録する価値のある全てが、そこにあります」とカインが言った。
「そうです」とエリナが言った。「全部、残します」
―――
「ジン」とシアが言った。
ジンがシアを見た。
シアが少し間を置いた。腕を組んだまま、水面を見ていた。それからジンを見た。
「問いは——あるか」
ジンが少し考えた。
「さっきまでは——なかった。でも——今は、少し、ある気がする」
「何だ」
「……俺が、これを望むかどうか、ってこと」
シアが少し、眉を動かした。「……もう少し、言え」
「世界の流れを守ること。封印を続けること。アル・ヴェリアが待っていた役割を引き受けること——それを、俺が望むかどうか。今日まで——流れのまま来てた気がする。崖で封印したのも、王都へ行ったのも、この山を歩いてきたのも——理由はあったけど、自分で問うてたわけじゃなかった気がする」
シアが少し、黙った。
「それが——問いか」
「そうかもしれない」
「答えは」
ジンが水を見た。水の底から、かすかに光がある気がした。さっきの光ではない。でも——何かが、静かにある。
「……まだ、わからない」とジンが言った。「でも——わからないまま、ここにいていい気がする。今は、それで十分だと思う」
シアが少し間を置いた。
「……そうだな」
それだけだった。でも——それだけで、十分だった。
―――
「セレク殿」とカインが言った。
「はい」
「壁の別の部分に、何か見つけた、と言っていましたね」
「はい」とセレクが言った。「こちらです」
セレクが壁の別の面へ向かった。空間の奥、水から少し離れた壁。低い位置に——線が刻まれていた。
カインが近づいた。眼鏡をかけ直した。「……これは」
「文字ではありません」とセレクが言った。「図です。何かの配置を示している。いくつかの点と、それを繋ぐ線」
カインが写しを取り出した。しばらく見た。
「……点の数は——七つ」
「七つ」とエリナが繰り返した。手帳に書いた。
「七つの点が、一つの中心点の周囲に配置されています。中心点から——それぞれの点へ、線が伸びている。これは……」
カインが少し、目を細めた。
「封印の配置図です」とカインが言った。「アル・ヴェリアが施した封印の——全体像」
「七つ」とジンが言った。「今まで、いくつ完成させましたか」
「断絶の崖で——一つ」
「ここは、七つの中には入りませんか」とジンが聞いた。
「入りません」とカインが言った。「この場所は——七つを束ねる中心です。封印を施す場所ではなく、封印の力が全て通過する場所。七つの点とは、別の存在です」
「残りは、六つ」
「……六つ」
「中心点は、ここですか」
カインが少し考えた。「……この場所の役割から考えれば——ここが中心に相当する可能性があります。ただ——中心と周囲の点では、役割が違います。ここは中継点です。通過点です。残りの六つが——それぞれの目的を持っている」
「それぞれの目的、というのは」
「七つの封印は、それぞれが世界の異なる性質を守っている可能性があります。断絶の崖が何を守っていたのか——それが、最初のヒントになります」
「崖は——何を守っていたんですか」
カインが少し間を置いた。「……まだ、わかりません。でも——ここの文字を全部読んだ今、少しずつ、問いが立てられる気がします」
―――
ルルが「においが——また少し変わった」と言った。
「どう変わった?」とジンが聞いた。
「さっきまでは——全部が一つに向かってる感じだった。今は——少し、ほどけた感じ。広がってる感じ」
「ほどけた」
「ひも、みたいな感じ。ぎゅっと束になってたものが——少し、それぞれの方向に伸び始めた感じ」
「それは——良いこと?悪いこと?」
ルルが少し考えた。「……良いと思う。準備ができた感じ。次に動ける感じ」
「次に動ける」
「うん」
エリナが手帳を閉じた。「……今日、ここでできることは——やり終えた気がします」とエリナが言った。
「そうですね」とカインが言った。「壁の配置図の全体の写しと、文字の残りの部分——もう少し確認したいことはありますが、今日のところは十分です」
「帰れますか」とジンがルルに聞いた。
「帰れる」とルルが言った。「においが、ちゃんとある。迷わない」
「トーアさんが待ってる」
「うん」
ジンが、もう一度水を見た。
光は——見えなかった。でも——あの時感じた温かさが、手のひらに残っていた気がした。
(また来る)
心の中で、静かに思った。問いが立てられた時。答えを持って、もう一度来る。
それが——次のことだ、とジンには、なんとなく思えた。
―――
空間を出た。
岩の隙間を抜けた。湯気が、少し薄くなった。外の空気が、冷たく感じた。
トーアが、岩の外で待っていた。荷物の横に立って、腕を組んでいた。全員が出てきたのを確認してから——一つ、頷いた。
「無事でしたか」
「無事です」とエリナが言った。
「何かありましたか」
「たくさん、ありました」とジンが言った。
トーアが少し、目を動かした。「……良かったですか、それとも悪かったですか」
ジンが少し考えた。「……良かったと思います。良いことが、たくさんありました」
トーアが少し間を置いた。「……そうですか」
「代々、入らないことになっていた場所でした」とジンが言った。「入ってしまいましたが——中は、大切な場所でした。守られてきた場所でした」
「……そうですか」とトーアが、また言った。今度は声が、少し変わっていた。「父が——あの場所を、『水が眠っている場所』と言っていました。眠っているものを起こしてはいけない、と。だから入らないことになっていた」
「眠っていたものは——起きましたか?」とジンが聞いた。
トーアが少し、考えた。「……わかりません。でも——あなたたちの顔を見ていると、起こしてはいけないものを起こした顔ではない、とは思います」
「呼ばれていたから来た、という感じが、してたんです」
「……呼ばれていた」
「はい」
トーアが少し間を置いた。それから——ゆっくりと前を向いた。「帰りましょう。日が暮れる前に、沢まで戻れます」
「ありがとうございます」とエリナが言った。
「仕事です」とトーアが言った。でも——その声が、いつもより、少し温かかった気がした。
―――
帰り道は、来た道を戻った。
岩の間を抜けた。木の枝の下をくぐった。カインが枝に当たりそうになった。シアが「頭を下げろ」と言った。今度は間に合った。カインが「ありがとうございます」と言った。シアが「……先ほどは言う前に当たったから」と言った。「先ほど言っていなかったことを認めましたか」とカインが言った。シアが「黙れ」と言った。
ジンが後ろで聞いていた。思い切り笑った。
ルルが「においが——帰り道のにおいになった」と言った。
「帰り道のにおいって、どんなにおい?」とジンが聞いた。
「行く時より、少し軽い感じ。重さが違う。荷物を下ろした感じではなくて——荷物が中身に変わった感じ」
「うまいこと言う」
「うまい?」
「何か持って帰った感じがする、ってことでしょう」
ルルが少し考えた。「……そうかも。みんな、何かを持って帰ってる感じがする」
「それは——良い感じ?」
「良い感じ」
―――
沢に戻った頃、日が傾いていた。
水の音が、また聞こえるようになった。川の音が、戻ってきた。でも——今日の帰り道に聞く川の音は、昨日よりも少し違う気がした。いや、音が変わったのではない。聞いている自分が、少し変わったのかもしれない。
「今夜はどこで野営ですか」とジンがトーアに聞いた。
「昨夜の岩屋まで戻れれば、そこで。難しければ——この先の沢沿いに、乾いた岩場がある」
「昨夜の岩屋まで戻れますか」
「急げば、日暮れ前に着けます」
「急ぎましょう」
トーアが頷いた。一行が、再び歩き始めた。
カインが「……今日の記録を、まとめる必要があります」と歩きながら言った。「写しと、読み下し文と——配置図の分析を、全部整理します」
「できますか、今夜中に」とエリナが聞いた。
「できません」とカインが言った。「でも——始めることはできます」
「じゃあ、始めましょう」
「そのつもりです」
セレクが「配置図の写しは——もう一部、作れますか」とカインに聞いた。「教会の記録と照合したいことがある。旅が終わった後で、ですが」
「作れます」とカインが言った。「セレク殿——旅が終わった後で、一度、話し合いたい」
「何について?」
「教会の記録の中に——アル・ヴェリアに関する情報が、他にもある可能性があります。ヴァリス水源調査記録以外にも。セレク殿が読んできたものの中に——気づかなかっただけで、重要な情報が残っているかもしれない」
セレクが少し間を置いた。「……そうかもしれません。話し合いましょう。旅が終わってから」
「約束します」
「約束します」
ジンが後ろで聞いていた。カインとセレクが「約束します」と言い合っているのを聞いていた。笑うのを、少しこらえた。
―――
昨夜の岩屋には、日暮れ前に着いた。
炉の跡が、そのままあった。前の夜の灰が残っている。全員が荷物を下ろした。トーアが火の準備を始めた。
「今夜も、ここで」とジンが言った。
「今夜も、ここで」とエリナが言った。手帳を開いていた。
「良い場所だ」とシアが言った。
「昨日もそう言った?」とジンが聞いた。
「言っていない。でも——今日は言う」
「なぜ今日は言う?」
シアが少し間を置いた。「……昨日より、ここが良い場所だとわかったから」
「それは——昨日何かが変わったから?今日何かが変わったから?」
「……両方だ」
ジンが少し笑った。シアが前を向いた。口元が少し動いていた気がした。
炉に火がついた。
温かさが来た。昨夜と同じ温かさ。でも——受け取り方が、少し違う気がした。
(明日)
山を下りる。王都へ戻る。その後は——次のことを考える。七つの封印のうちの一つが、断絶の崖にあった。残りは六つ。それぞれが、どこにあって、何を守っているのか。
でも——今夜は、それを全部考えなくていい。
今夜は——ここにいる。七人が、この岩屋にいる。カインが写しを広げている。エリナが手帳に書いている。シアが炉の火を見ている。ルルが目を閉じてにおいを感じている。セレクが——炉の横に座って、静かに火を見ている。
(こういうことだよ)
続けられる理由を、セレクに話した言葉が来た。みんながいるから続けられる。崖の時もそうだったし、今もそうだ。
それは——変わらない。
何が変わっても、これは変わらない気がした。
―――
食事の後、しばらくして。
セレクが炉の前でジンに声をかけた。
「ジン殿」
「どうぞ」
「……一つ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
セレクが少し間を置いた。炉の火を見ながら、言葉を選ぶような時間があった。
「今日、読まれた文章の中に——『世界と共に動く者』という言葉があった」
「ありましたね」
「あなたは——ずっとそうでしたか。最初から、そういう人間でしたか」
ジンが少し考えた。
「……最初から、というのはどういう意味ですか」
「意識して、そうしていたか——ということです」
「意識してたら、そうじゃない気がする」とジンが言った。「ただ——目の前のことをやってただけだと思う。怖い時は怖いと思いながら、でもそれより大事なことがあるから動いた。それだけで、特別なことをしてたつもりはなかった」
セレクが少し、炉を見た。
「……それが」とセレクが言った。「私には——ずっと、できなかった」
「今は?」
「……今は、少しわかる気がします。目の前のことを——目の前のこととして、受け取ることが。以前は全部、何かのための手段として見ていた。今夜の炉の火も——暖かい、と思えます。それだけのことで、良いとわかってきた」
「それで十分だと思う」とジンが言った。
「先日も、そう言いました」
「本当のことだから、また言います」
セレクが少し——止まった。それから口元が動いた。空洞でも模索でもない。ただ、温かい。
「……はい」
ルルが小声でジンに「セレクのにおい——今日の中で一番いいにおいになった」と言った。
ジンが小声で「良かった」と返した。
―――
夜が深くなった。
カインが写しを畳んだ。「今夜の分は、ここまでです」と言って眼鏡を外した。
「どのくらいまとまりましたか」とエリナが聞いた。
「七つの封印の配置と——壁の文字の構造は、整理できました。明日の下山中に、続きを考えます」
「ご苦労様です」
「仕事です」
シアが「珍しい」と言った。
「何がですか」
「カインが、仕事と言った」
「いつも仕事のことを言っています」
「仕事と言い訳して楽しんでいることは、珍しくない。仕事と言って本当に仕事をしているのは、珍しい」
カインが少し間を置いた。「……今日は——仕事と楽しみが、同じでした」
シアが少し、前を向いた。口元が動いていた気がした。
「……そうだな」
―――
ジンは毛布の中で、今日のことを整理した。
ザルヴァが恐れるもの。世界の流れを守ること。封印の全体像。七つの点。問いを立てること。世界の流れを守ることを——自分が望むかどうか。
答えは、まだない。
でも——問いは、今日、初めて立てられた気がした。流れのまま来るのではなく、自分で問う。それが——アル・ヴェリアが待っていたことだったのかもしれない。
(望むかどうか)
ジンは静かに考えた。
怖いかどうか、ではない。できるかどうか、でもない。望むかどうか。
手のひらに——水の温かさが残っていた。光の色が、まだ目の裏にあった。
(望む気がする)
まだ確信ではない。でも——それが、今の正直なところだった。それで十分だ、とジンは思った。答えは、次に水に触れる時まで、ゆっくり育てればいい。
岩屋の外で、川の音がしていた。
深い音で、流れている。
七人が眠った。
山は、静かだった。
―――
― 第28話・了 ―
―――
次話予告:山を下り始めた。帰り道は、来た道より少し速かった。ルルが「においが、軽くなってる」と言った。「行く時と同じ道なのに?」「同じ道でも、向きが変わると、においが変わる」。二日目の夜、沢沿いの岩屋で、カインが整理した内容を全員に共有した。七つの封印の配置図。それぞれの場所に関する仮説。次に向かうべき場所の候補。全員が、静かに聞いた。「次は——どこへ行くんですか」とジンが聞いた。カインが少し間を置いた。「……断絶の崖が、何を守っていたか——それを調べる必要があります。そして——」カインが地図を広げた。「もう一つの点が、西にあります。水でも火でもない——もう一つの性質を持つ場所」。エリナが手帳に書いた。「水と火の間——次は、その先へ」。




