第26話「二日目の沢と、カインが見つけた道標と、セレクが覚えていたもの」
二日目の朝は、霧から始まった。
山小屋の扉を開けると、白い霧が山全体を包んでいた。木の輪郭が、霧の中にぼんやりと浮いている。川の音だけが、変わらずそこにある。
「よく眠れましたか」とエリナが聞いた。
「まあまあ」とジンが言った。
「まあまあ、というのは?」
「山の床は少し硬い。でも——悪くなかった」
「それは、良かった、ということですか?」
「うん」
エリナが手帳に何かを書いた。ジンが横目で見た。「山の床、硬い。ジン・キリシマ談」とでも書いたのかもしれない。どこまでが記録でどこからが日記なのか、エリナの手帳はときどき境界が曖昧になる。でも——ジンはそれが、好きだ。どこか救われるような気持ちになる。
トーアがすでに外にいた。霧の中で、今日の行程を確認している。地形を見る目だった。景色を見るのではなく、道を見る目だった。
「午前は尾根道です」とトーアが言った。「ただ、この霧だ——昼前に沢沿いへ早めに切り替えた方がいい。午後は水の音がずっと隣にある道になります。道は悪い。それだけ、頭に入れておいてください」
「わかりました」とエリナが言った。「出発は何時ごろが良いですか」
「朝食を終えたら、すぐ」
「では、急ぎます」
―――
朝食は簡単なものだった。
持参したパンと、乾燥した果実と、昨夜の炉で沸かした湯で作った茶。それだけだったが——温かかった。
「においが、昨日の夜と少し変わった」とルルが言った。
「どう変わった?」とジンが聞いた。
「深くなった。昨日の夜より、奥のにおいが近い。温泉のにおいが、もうはっきりわかる」
「じゃあ、今日着く?」
「今日中に——もう少し近くなる、という感じ。着くかどうかは、まだわからない」
「明日かな」
「たぶん」
カインが地図を広げていた。昨日の行程と照らし合わせて、今日の位置を確認している。眼鏡がくもらないように、少し顔を離して地図を見ている。
「ルル殿の感覚と地図が合っています」とカインが言った。「今日の午後に沢の上流側に入れば、明日の昼前後にはヴェルダ温泉郷の外縁に届くはずです」
「外縁と中心は、どのくらい違いますか」とエリナが聞いた。
「温泉郷自体は広い。ただ——目指す古代の観測地は、さらに奥です。外縁から観測地まで、半日から一日かかる可能性があります」
「つまり——最短で、明日の夕方頃」
「その程度の見積もりです」
シアが「三日、と言っていたのは、正しかったな」と言った。
「言いました」とカインが言った。「歩いて三日、と」
「ちゃんと三日かかる」
「山道は、正直です」
―――
出発したのは、霧がまだ薄く残っている中だった。
トーアが先頭を歩いた。足音が静かだった。岩の上を選んで踏んでいるのが、後ろからでもわかった。自分の重さを知っている歩き方だ、とジンは思った。
午前は尾根道だった。霧の中に稜線が浮かんで、左右に谷が落ちている。視界は白くかすんでいたが、足元の道は昨日より固かった。風があった。冷たいが、清々しい。
昼前に沢へ下りた。
沢に入ると、川の音が大きくなった。すぐ左に、水が流れている。水は昨日の川より透明だった。底の石の形が見えるくらい、澄んでいた。
「きれいですね」とセレクが言った。
「お、セレクが感想を言った」とジンが言った。
「……変ですか」
「変じゃないよ。良かった」
セレクが少し、止まった。「良かった?」
「普通に感想を言ってくれる方が、歩きやすい気がして」
セレクが少し——困ったような顔をした。以前の、全てを計算したような表情とは違う。本当に困っている顔だった。「……慣れていないのかもしれません」
「慣れればいいんじゃないかな。別に難しいことじゃないと思う」
「そう、でしょうか」
「水が澄んでる、と思ったから言った。それだけでしょう」
セレクが、また少し間を置いた。「……そう、かもしれません」
ルルが「においが、ちょっと丸くなった」と言った。
「誰の?」とジンが聞いた。
「セレクの」
セレクが、ルルを見た。それから——前を向いた。何も言わなかった。でも、その沈黙は悪い沈黙ではなかった。
―――
昼前に、霧が晴れた。
山の稜線が、くっきりと見えた。青い空が出た。沢の水が、光を受けて白く輝いた。
「綺麗だ」とジンが言った。
「また言った」とシアが言った。
「綺麗なんだから仕方ない」
「否定はしない」
「シアも綺麗だと思ってる?」
シアが少し間を置いた。「……見れば、わかる」
「それは?」
「綺麗だということだ」
「言えた」
「黙れ」
エリナが手帳を取り出した。「今日は川沿いで足元が悪いから、歩きながらは書きにくいですが——」と言いながら、それでも一行書いた。「稜線、晴れた」とだけ書いたのかもしれない。昨夜の「山小屋の外、星が多かった」と同じような、短い記録だと思った。
―――
午後に入って、道がさらに悪くなった。
トーアが「ここから先、足元に注意」と言った。沢が岩の間を縫うように流れていて、道と川の境界がはっきりしない。岩の上を歩くところ、細い土の道を歩くところ、水の中を浅瀬伝いに渡るところが混在している。
全員が、黙って歩いた。しゃべる余裕が、少ない。
カインが資料の鞄を胸に抱えて、慎重に石を選んで歩いている。シアがその少し後ろについて、何も言わずにカインの足元を確認している。カインはそれに気づいているかもしれないし、気づいていないかもしれない。どちらでも——見ていてジンには良いと思えた。
ルルが先を歩いていた。ルルの足音は、このメンバーの中で一番静かだ。岩の上でも水の中でも、同じ歩き方で歩く。体が軽い。でも——軽いのは体だけではなくて、何か別のものが軽いのだと、ジンはなんとなく思っていた。
(ルルって、昔は何を感じていたんだろう)
ふと思った。一人で、名前もなく、においだけで世界を感じていた頃のルルは——今と同じ目をしていたのだろうか。
「ジン、止まれ」
ルルが言った。
ジンが止まった。
前を歩くルルが、岩に近づいていた。沢の右岸に、少し大きい岩がある。苔が生えている。その岩の陰に——何かがある。
「においが——水鏡の間と、同じ」
ルルが言った。声が、静かだった。「古いにおい。ジンの魔法に、少し似てる。懐かしい感じのにおい」
全員が、止まった。
―――
カインが前に出た。
岩の陰に、刻まれた紋様があった。
苔の下にある、細い線の刻み。雨と時間でかなり薄くなっているが——消えていない。消えないように、深く刻まれていた。
「……これは」
カインが息を飲んだ。眼鏡をかけ直した。革の鞄から、写しを取り出した。断絶の崖の台座の紋様の写し。水鏡の間の扉の紋様の写し。それを、岩の紋様と見比べた。
しばらく、誰も話さなかった。
「同じ、ですか」とエリナが聞いた。
「同じです」とカインが言った。「完全に一致するわけではない。ただ——筆癖が、同じです。同じ人間が刻んだ。断言できます」
「アル・ヴェリアが、ここに来た」とシアが言った。
「ここに来た。そして——印を残した」
「道標、ですか」とジンが言った。
「道標です」カインが指で紋様をなぞった。触れていない。空中で、形を確かめるように。「次の場所への目印。ここを通った人間に——正しい道を示すための、個人的な印です」
「400年前に刻んで、まだここにある」
「ある」
ジンが岩を見た。苔が生えている。水が近くを流れている。でも——岩は崩れていない。紋様は消えていない。400年間、誰かを待ちながら、ここにあり続けた。
(ちゃんと来たよ)
心の中で、静かに言った。誰に言ったのかは、よくわからなかった。
―――
その時——セレクが、岩に近づいた。
全員がセレクを見た。
セレクが、紋様を見た。その目が——少し、変わった。何かを思い出している目だ、とジンは思った。
「……これ」
セレクが言った。声が、いつもより低かった。
「教会の古い記録の中に——この紋様と、似た図があります」
全員が、また静かになった。
「似た図、というのは」とカインが言った。「どの程度、似ていますか」
「……中央部の渦状の模様と、外周の三本線の配置が、一致します。記録の中では——『水源を示す古代の印』として、参考図として掲載されていたものです」
「水源を示す印」とエリナが繰り返した。手帳にペンが走った。
「教会の記録では——それが何のための印かは、『失われた』とされていました。由来不明の図として、古い文書の添付資料に残っていただけです」
「いつの文書ですか」とカインが聞いた。
セレクが少し考えた。「……教会の暦で言えば、第七時代前期。現在の暦に換算すれば——350年から400年前頃の文書です」
「アル・ヴェリアの時代と重なる」
「重なります」
カインが眼鏡の奥で、目を素早く動かした。「つまり——教会がその図を記録していたということは、教会もこの道を通った可能性がある。あるいは——この場所を知っていた」
「可能性として、そう考えています」とセレクが言った。「ただ——その文書の記録者は、図の由来を知らなかった。知らないまま、『失われた印』として写し取っただけです」
「なぜ知らなかったのか」
セレクが少し間を置いた。「……記録を引き継ぐうちに、意味が失われたのだと思います。形だけが残って、理由が消えた」
「理由を書かなかっただけかもしれない」とジンが言った。
全員がジンを見た。
「王宮の木の話と、水鏡の間の話——先々代の王が理由を書かなかったように、それを記録した人も、あえて書かなかったか、書けなかったか、そういうことじゃないかな、と」
セレクが少し、止まった。「……そうかもしれません。あるいは——書いてはならないと、思ったのかもしれない」
「書いてはならない?」
「教会の内部では——特定の古い情報に、開示制限がかかることがあります。内容を伝えることは許可されても、由来や背景を詳述することは禁じられている情報が、存在します」
「それが、この図にもかかっていた?」
「……確認はできていません。でも——今思えば、その可能性があります」
沢の水音が、変わらず流れていた。
―――
「整理しましょう」とエリナが言った。
手帳を開いた。ペンを持った。足元の石が少し不安定だったが、エリナは構わず立ったまま書いた。
「一。この岩の紋様は、アル・ヴェリアの筆癖と一致する。断絶の崖と水鏡の間と同じ人物が刻んだ、次の場所への道標である。二。教会の記録の中に、この紋様と一致する図が残っていた。350から400年前の文書に、由来不明として添付されていた。三。その図には開示制限がかかっていた可能性がある」
「記録する価値のある情報です」とカインが言った。「セレク殿——教会のどの文書か、文書名はわかりますか?」
セレクが少し考えた。「……『ヴァリス水源調査記録・補遺』という名前の文書だったと思います。ヴァリスというのは、現在の地名に照合すると——」
セレクが、ゆっくりと周囲を見た。沢の流れ。岩の形。遠くの稜線。
「……この山域と、重なります」
誰も、すぐには話さなかった。
「ヴァリス水源調査記録」とカインが繰り返した。「……ヴァリス、という地名は、古い地図にも出てきます。現在のヴェルダ温泉郷の旧称と言われていますが——正確な由来は、私も知らなかった」
「旧称、ということは」とエリナが言った。
「この場所が——教会の調査記録に残されていた。正式な名前で」
「教会は——ここを、知っていた」
沈黙が落ちた。
「ただし」とセレクが言った。静かな声だった。「知っていたのは——昔の教会の人間です。今の教会が、この場所のことを積極的に把握しているかどうかは——わかりません。記録は残っていますが、読んでいる人間がいるかどうか」
「読んでいた人間が、一人いた」とジンが言った。「あなたが読んだんだから」
セレクが少し——止まった。
「……そうです。私が読みました。特別教令部の業務として、古い記録の棚卸しをしたことがあって——その時に、一度だけ目にしました。当時は、意味がわからなかった」
「今は、わかる?」
「……わかりかけています」
ルルが「においが、また変わった」と言った。「さっきより——深い。何かが、近くに来た感じ」
「目的地が、ですか」とカインが聞いた。
「目的地、というより——大事なものが近くに来た感じ」
「その違いは?」
ルルが少し考えた。「場所が近い、というより——何かが動いてる感じ。昨日まではただ近づいてたけど——今日の午後から、向こうが動き始めたみたいなにおいがする」
全員が、少し静かになった。
「向こうが動く、というのは」とシアが言った。声が、少し低くなった。
「わからない」とルルが言った。「悪いにおいじゃない。でも——何かが、起きかけてる感じ」
―――
トーアが、岩の紋様を黙って見ていた。
「……代々、入らないことになっている場所の近くに——こういう印があります」とトーアが言った。「毎回、状態を確認しますが、入らない。それが習慣です。ただ——」
「ただ?」とジンが聞いた。
トーアが少し間を置いた。「……父親から聞いた話です。この道を歩いていると、ある日から——水の音が変わることがある、と言っていました。いつもと同じ川なのに、ある時から、音が深くなる。それが——近いということらしい」
「近い、というのは、何に?」
「わかりません」とトーアが言った。「父も、わからなかった、と言っていました。ただ——変わったと思ったら、その日は早めに宿を取れ、と」
「今日の水音は?」とジンが聞いた。
トーアが沢の水を見た。少し、耳を傾ける仕草をした。
「……変わっています」
「今日、変わりましたか」
「さっきから——少し前から」
ルルが「そう」と言った。「それが、向こうが動き始めた感じ」
全員が、沢の水を見た。
水は、澄んでいた。変わらず、流れている。でも——音が、少し違う気がした。いや、気がするだけかもしれない。でも——断絶の崖の手前で感じたあの感触に、少し似ていた。
(来た)
何かが来ているのではなく——自分たちが、何かに近づいている。その感覚だ。
「今日は——どこまで進みますか」とエリナがトーアに聞いた。
「このまま沢を遡れば、夕方前に岩屋に着きます。天然の岩の庇があって、風雨をしのげる。今夜はそこで野営の予定です」
「岩屋には、屋根がありますか」
「岩が庇になります。小さいが——七人なら入れる」
「わかりました」エリナが手帳を閉じた。「では、行きましょう」
―――
沢沿いの道は、午後になっても険しかった。
岩を越え、浅瀬を渡り、崖の縁を歩いた。カインが一度、足を滑らせた。今度はシアではなくセレクが、無言で腕を支えた。
「……ありがとうございます」とカインが言った。
「軽い仕事です」とセレクが言った。
「軽くなかったと思いますが」
「軽かったです」
カインが少し、眼鏡をかけ直した。「……セレク殿は、身が軽いですね」
「そういう訓練を、長く受けていました」
「役に立ちますね」
「……そうかもしれません」
セレクが少し——本当に少しだけ、前を向いたまま、口元が動いた。何かを思ったのかもしれない。でも何も言わなかった。
ジンが後ろで見ていた。笑うのを、少しこらえた。
―――
夕方前に、岩屋についた。
トーアが言った通り、天然の岩の庇があった。大きな岩が斜めに張り出していて、その下に人が集まれる空間がある。地面は土で、乾いている。奥に行くほど暗いが、入口に炉を作れば、十分な明るさと温かさが確保できる。
「ここで、一夜を明かします」とトーアが言った。
「良い場所ですね」とエリナが言った。
「昔から、この道を通る人間が使ってきた場所です。炉の跡が残っています。父も、ここで泊まったことがあると言っていました」
「代々、使ってきた場所」とジンが言った。
「そういうことです」
「理由は?」
「ここが良い場所だから」とトーアが言った。「それだけです」
「理由がそれだけって、いいですね」
トーアが少し——表情を動かした。笑ったのかもしれない。確認できなかったが。「……まあ、そういうものです」
―――
炉に火がついた。
今夜も、食料を温めた。昨日より山が深い分、外の気温が低かった。火の温かさが、昨日より体に直接来た。
食事が終わって、しばらくして。
セレクが、炉の前でカインに話しかけた。
「カイン殿——今日の紋様の写しを、見せてもらえますか」
カインが「もちろんです」と言って、革の鞄から写しを取り出した。
セレクが写しを受け取った。じっと見た。「……教会の記録の図と、比べてみます。記憶の中にしかありませんが——この線の配置と」セレクが指でなぞった。「この外周の切れ目の位置が——一致します。ここと、ここ」
カインが眼鏡を上げた。「……切れ目の位置まで一致するとなると、偶然の一致ではありません」
「はい」
「セレク殿——その記録の文書、写しを入手することはできますか。旅が終わった後で、でも構いません」
セレクが少し間を置いた。「……難しいですが——できないとは、言えません。個人の立場で動く間に、記録の写しを手元に持つ機会があります」
「それは——教会に対して、リスクになりますか」
「なります」セレクが静かに言った。「ただし——これは、正しい問いを正しい人に届けるために必要なことです。以前、そう言いました。今も——そう思っています」
カインが、セレクを見た。少し長く見た。
「……ありがとうございます」
セレクが「いいえ」と言った。「私が必要なことをしているだけです」
ルルが小声でジンに「セレクのにおい、また丸くなった」と言った。
ジンが小声で「そうだね」と返した。
―――
夜が深くなった。
シアが、炉の前でじっと火を見ていた。ジンが隣に座った。
「今日、いろいろあったね」とジンが言った。
「あった」
「道標が見つかって、セレクが記録のことを話して——」
「それより」とシアが言った。「カインが足を滑らせた時」
「セレクが支えたやつ?」
「そうだ」
「良かったじゃん」
シアが少し間を置いた。「……私が間に合わなかっただけだ」
「えっ、悔しかったの?」
シアが「黙れ」と言った。早かった。
「悔しくていいと思うよ」
「黙れ」
「俺はカインのことを心配してる人が多い方が、安心するけど」
シアが少し——止まった。「……そういうことを、言うな」
「本当のことだよ」
「……わかっている。黙れ」
ジンが少し笑った。シアが炉の火を見た。口元が少し、動いていた気がした。
「カインに——返事は来ましたか」とシアが、少し声を落として聞いた。
「知らないけど——来てると思う。カインはそういう人だと思う」
「根拠は」
「あの夜、出発前の朝に——カインがペンを取ってた。みんなが集合する前に、机の前に座ってた。宿の食堂で見かけた」
シアが少し、固まった。「……なぜ、黙っていた」
「シアが聞かなかったから」
「……聞けば教えてくれたのか」
「聞いてくれれば、もっと早く言ってた」
シアが、ゆっくりと前を向いた。炉の火が、少し揺れた。シアの横顔に、火の色が当たっていた。
「……明日、着いたら」とシアが言った。「封印の件が一段落したら——」
「カインに聞けばいいじゃん」
「そういうことを、すぐ言うな」
「でも、そういうことだよ」
シアが「……そうだな」と言った。声が、少し低かった。でも——悪い低さではなかった。何かを決めた時の、落ち着いた声だった。
―――
ジンは毛布の中で、今日のことを整理した。
道標が見つかった。アル・ヴェリアがここに来た。教会の記録にも、この場所の痕跡があった。セレクが知っていた。
全部が、ゆっくりと繋がっている。
アル・ヴェリアは400年前、一人でこの山を歩いた。次に来る誰かのために、印を残した。その印が教会の記録にも残って、由来不明のまま350年以上が過ぎた。そしてセレクが、それを読んでいた。
ただの、偶然だろうか。ジンにはわからない。精度——それが奇跡であれ何であれ、今この場所に七人が集まっていることは変わらない。それで十分だと思った。
(明日)
ヴェルダ温泉郷の外縁に届く。そして——古代の観測地へ。
怖いか、と自分に聞いた。少し怖い、と思った。でも——水の音が変わった。何かが動き始めた。向こうが近づいてきた感じがする。
それは——怖いだけじゃない。
どちらかと言えば——呼ばれている感じだ。
(続けられる)
岩屋の外で、川の音がしていた。今夜も変わらず、水は流れている。深い音で、流れている。
ジンは目を閉じた。
―――
エリナは最後まで起きていた。
ランプの光で手帳を書いた。今日の全部を書いた。道標のこと。セレクが教会の記録のことを話したこと。「ヴァリス水源調査記録・補遺」という文書の名前。水の音が変わったというトーアの言葉。ルルの「向こうが動き始めた」というにおいの報告。
全部、書いた。
それから——一つ、追加した。
『明日、外縁に着く。怖い。でも、呼ばれている気がする。それで十分』
ペンを置いた。ランプの炎が、静かに揺れた。
(次が、来る)
ラングレイから始まって、王都を経て、山の中に来た。明日、さらに奥へ行く。何があるかは、まだわからない。
環境は——今夜、この岩屋の中に、七人がいる。それぞれが、ちゃんとここにいる。
それだけで——続けられる、とエリナは思った。
―――
ルルは、最初に眠った。
環境は——眠る直前、においを確かめた。
川の音が、深い。その深い音と一緒に——奥から来るにおいが、今夜は昨日よりずっと濃い。温泉のにおい。古い石のにおい。水のにおい。
そして——もう一つ。
今日の夕方から混じり始めた、新しいにおい。
熱いにおいと、静かなにおいが、一緒になっている。
何かが、向こうで待っている。悪いものではない。でも——大事なものだ。
(明日)
ルルは思った。明日、それに近づく。
眠りに落ちた。
―――
岩屋の外で、川の音が続いていた。
七人が眠った。
山は、静かだった。
水は、深い音で、流れ続けていた。
―――
― 第26話・了 ―
―――
次話予告:三日目の朝、沢を離れて山の内側へ入った。道が、ほとんど消えた。トーアが「ここから先は、私も来たことがない」と言った。その言葉に、全員が少し止まった。ルルが「においが——真っすぐある」と言った。「迷わない」。岩を越え、低い木の間を抜けた。昼前に——湯気が見えた。岩の間から、白い湯気が細く立ち上がっている。ルルが「温泉」と言った。カインが地図を見た。「ここです。ヴェルダ温泉郷の源泉域——古代の観測地が、この先にある」。全員が、湯気の先を見た。岩の隙間に、水が流れている。そして——その岩に、文字が刻まれていた。




