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無詠唱の魔王  作者: Dちゃん
第三章「水と火の間の話」

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第26話「二日目の沢と、カインが見つけた道標と、セレクが覚えていたもの」

二日目の朝は、霧から始まった。


山小屋の扉を開けると、白い霧が山全体を包んでいた。木の輪郭が、霧の中にぼんやりと浮いている。川の音だけが、変わらずそこにある。


「よく眠れましたか」とエリナが聞いた。


「まあまあ」とジンが言った。


「まあまあ、というのは?」


「山の床は少し硬い。でも——悪くなかった」


「それは、良かった、ということですか?」


「うん」


エリナが手帳に何かを書いた。ジンが横目で見た。「山の床、硬い。ジン・キリシマ談」とでも書いたのかもしれない。どこまでが記録でどこからが日記なのか、エリナの手帳はときどき境界が曖昧になる。でも——ジンはそれが、好きだ。どこか救われるような気持ちになる。


トーアがすでに外にいた。霧の中で、今日の行程を確認している。地形を見る目だった。景色を見るのではなく、道を見る目だった。


「午前は尾根道です」とトーアが言った。「ただ、この霧だ——昼前に沢沿いへ早めに切り替えた方がいい。午後は水の音がずっと隣にある道になります。道は悪い。それだけ、頭に入れておいてください」


「わかりました」とエリナが言った。「出発は何時ごろが良いですか」


「朝食を終えたら、すぐ」


「では、急ぎます」


―――


朝食は簡単なものだった。


持参したパンと、乾燥した果実と、昨夜の炉で沸かした湯で作った茶。それだけだったが——温かかった。


「においが、昨日の夜と少し変わった」とルルが言った。


「どう変わった?」とジンが聞いた。


「深くなった。昨日の夜より、奥のにおいが近い。温泉のにおいが、もうはっきりわかる」


「じゃあ、今日着く?」


「今日中に——もう少し近くなる、という感じ。着くかどうかは、まだわからない」


「明日かな」


「たぶん」


カインが地図を広げていた。昨日の行程と照らし合わせて、今日の位置を確認している。眼鏡がくもらないように、少し顔を離して地図を見ている。


「ルル殿の感覚と地図が合っています」とカインが言った。「今日の午後に沢の上流側に入れば、明日の昼前後にはヴェルダ温泉郷の外縁に届くはずです」


「外縁と中心は、どのくらい違いますか」とエリナが聞いた。


「温泉郷自体は広い。ただ——目指す古代の観測地は、さらに奥です。外縁から観測地まで、半日から一日かかる可能性があります」


「つまり——最短で、明日の夕方頃」


「その程度の見積もりです」


シアが「三日、と言っていたのは、正しかったな」と言った。


「言いました」とカインが言った。「歩いて三日、と」


「ちゃんと三日かかる」


「山道は、正直です」


―――


出発したのは、霧がまだ薄く残っている中だった。


トーアが先頭を歩いた。足音が静かだった。岩の上を選んで踏んでいるのが、後ろからでもわかった。自分の重さを知っている歩き方だ、とジンは思った。


午前は尾根道だった。霧の中に稜線が浮かんで、左右に谷が落ちている。視界は白くかすんでいたが、足元の道は昨日より固かった。風があった。冷たいが、清々しい。


昼前に沢へ下りた。


沢に入ると、川の音が大きくなった。すぐ左に、水が流れている。水は昨日の川より透明だった。底の石の形が見えるくらい、澄んでいた。


「きれいですね」とセレクが言った。


「お、セレクが感想を言った」とジンが言った。


「……変ですか」


「変じゃないよ。良かった」


セレクが少し、止まった。「良かった?」


「普通に感想を言ってくれる方が、歩きやすい気がして」


セレクが少し——困ったような顔をした。以前の、全てを計算したような表情とは違う。本当に困っている顔だった。「……慣れていないのかもしれません」


「慣れればいいんじゃないかな。別に難しいことじゃないと思う」


「そう、でしょうか」


「水が澄んでる、と思ったから言った。それだけでしょう」


セレクが、また少し間を置いた。「……そう、かもしれません」


ルルが「においが、ちょっと丸くなった」と言った。


「誰の?」とジンが聞いた。


「セレクの」


セレクが、ルルを見た。それから——前を向いた。何も言わなかった。でも、その沈黙は悪い沈黙ではなかった。


―――


昼前に、霧が晴れた。


山の稜線が、くっきりと見えた。青い空が出た。沢の水が、光を受けて白く輝いた。


「綺麗だ」とジンが言った。


「また言った」とシアが言った。


「綺麗なんだから仕方ない」


「否定はしない」


「シアも綺麗だと思ってる?」


シアが少し間を置いた。「……見れば、わかる」


「それは?」


「綺麗だということだ」


「言えた」


「黙れ」


エリナが手帳を取り出した。「今日は川沿いで足元が悪いから、歩きながらは書きにくいですが——」と言いながら、それでも一行書いた。「稜線、晴れた」とだけ書いたのかもしれない。昨夜の「山小屋の外、星が多かった」と同じような、短い記録だと思った。


―――


午後に入って、道がさらに悪くなった。


トーアが「ここから先、足元に注意」と言った。沢が岩の間を縫うように流れていて、道と川の境界がはっきりしない。岩の上を歩くところ、細い土の道を歩くところ、水の中を浅瀬伝いに渡るところが混在している。


全員が、黙って歩いた。しゃべる余裕が、少ない。


カインが資料の鞄を胸に抱えて、慎重に石を選んで歩いている。シアがその少し後ろについて、何も言わずにカインの足元を確認している。カインはそれに気づいているかもしれないし、気づいていないかもしれない。どちらでも——見ていてジンには良いと思えた。


ルルが先を歩いていた。ルルの足音は、このメンバーの中で一番静かだ。岩の上でも水の中でも、同じ歩き方で歩く。体が軽い。でも——軽いのは体だけではなくて、何か別のものが軽いのだと、ジンはなんとなく思っていた。


(ルルって、昔は何を感じていたんだろう)


ふと思った。一人で、名前もなく、においだけで世界を感じていた頃のルルは——今と同じ目をしていたのだろうか。


「ジン、止まれ」


ルルが言った。


ジンが止まった。


前を歩くルルが、岩に近づいていた。沢の右岸に、少し大きい岩がある。苔が生えている。その岩の陰に——何かがある。


「においが——水鏡の間と、同じ」


ルルが言った。声が、静かだった。「古いにおい。ジンの魔法に、少し似てる。懐かしい感じのにおい」


全員が、止まった。


―――


カインが前に出た。


岩の陰に、刻まれた紋様があった。


苔の下にある、細い線の刻み。雨と時間でかなり薄くなっているが——消えていない。消えないように、深く刻まれていた。


「……これは」


カインが息を飲んだ。眼鏡をかけ直した。革の鞄から、写しを取り出した。断絶の崖の台座の紋様の写し。水鏡の間の扉の紋様の写し。それを、岩の紋様と見比べた。


しばらく、誰も話さなかった。


「同じ、ですか」とエリナが聞いた。


「同じです」とカインが言った。「完全に一致するわけではない。ただ——筆癖が、同じです。同じ人間が刻んだ。断言できます」


「アル・ヴェリアが、ここに来た」とシアが言った。


「ここに来た。そして——印を残した」


「道標、ですか」とジンが言った。


「道標です」カインが指で紋様をなぞった。触れていない。空中で、形を確かめるように。「次の場所への目印。ここを通った人間に——正しい道を示すための、個人的な印です」


「400年前に刻んで、まだここにある」


「ある」


ジンが岩を見た。苔が生えている。水が近くを流れている。でも——岩は崩れていない。紋様は消えていない。400年間、誰かを待ちながら、ここにあり続けた。


(ちゃんと来たよ)


心の中で、静かに言った。誰に言ったのかは、よくわからなかった。


―――


その時——セレクが、岩に近づいた。


全員がセレクを見た。


セレクが、紋様を見た。その目が——少し、変わった。何かを思い出している目だ、とジンは思った。


「……これ」


セレクが言った。声が、いつもより低かった。


「教会の古い記録の中に——この紋様と、似た図があります」


全員が、また静かになった。


「似た図、というのは」とカインが言った。「どの程度、似ていますか」


「……中央部の渦状の模様と、外周の三本線の配置が、一致します。記録の中では——『水源を示す古代の印』として、参考図として掲載されていたものです」


「水源を示す印」とエリナが繰り返した。手帳にペンが走った。


「教会の記録では——それが何のための印かは、『失われた』とされていました。由来不明の図として、古い文書の添付資料に残っていただけです」


「いつの文書ですか」とカインが聞いた。


セレクが少し考えた。「……教会の暦で言えば、第七時代前期。現在の暦に換算すれば——350年から400年前頃の文書です」


「アル・ヴェリアの時代と重なる」


「重なります」


カインが眼鏡の奥で、目を素早く動かした。「つまり——教会がその図を記録していたということは、教会もこの道を通った可能性がある。あるいは——この場所を知っていた」


「可能性として、そう考えています」とセレクが言った。「ただ——その文書の記録者は、図の由来を知らなかった。知らないまま、『失われた印』として写し取っただけです」


「なぜ知らなかったのか」


セレクが少し間を置いた。「……記録を引き継ぐうちに、意味が失われたのだと思います。形だけが残って、理由が消えた」


「理由を書かなかっただけかもしれない」とジンが言った。


全員がジンを見た。


「王宮の木の話と、水鏡の間の話——先々代の王が理由を書かなかったように、それを記録した人も、あえて書かなかったか、書けなかったか、そういうことじゃないかな、と」


セレクが少し、止まった。「……そうかもしれません。あるいは——書いてはならないと、思ったのかもしれない」


「書いてはならない?」


「教会の内部では——特定の古い情報に、開示制限がかかることがあります。内容を伝えることは許可されても、由来や背景を詳述することは禁じられている情報が、存在します」


「それが、この図にもかかっていた?」


「……確認はできていません。でも——今思えば、その可能性があります」


沢の水音が、変わらず流れていた。


―――


「整理しましょう」とエリナが言った。


手帳を開いた。ペンを持った。足元の石が少し不安定だったが、エリナは構わず立ったまま書いた。


「一。この岩の紋様は、アル・ヴェリアの筆癖と一致する。断絶の崖と水鏡の間と同じ人物が刻んだ、次の場所への道標である。二。教会の記録の中に、この紋様と一致する図が残っていた。350から400年前の文書に、由来不明として添付されていた。三。その図には開示制限がかかっていた可能性がある」


「記録する価値のある情報です」とカインが言った。「セレク殿——教会のどの文書か、文書名はわかりますか?」


セレクが少し考えた。「……『ヴァリス水源調査記録・補遺』という名前の文書だったと思います。ヴァリスというのは、現在の地名に照合すると——」


セレクが、ゆっくりと周囲を見た。沢の流れ。岩の形。遠くの稜線。


「……この山域と、重なります」


誰も、すぐには話さなかった。


「ヴァリス水源調査記録」とカインが繰り返した。「……ヴァリス、という地名は、古い地図にも出てきます。現在のヴェルダ温泉郷の旧称と言われていますが——正確な由来は、私も知らなかった」


「旧称、ということは」とエリナが言った。


「この場所が——教会の調査記録に残されていた。正式な名前で」


「教会は——ここを、知っていた」


沈黙が落ちた。


「ただし」とセレクが言った。静かな声だった。「知っていたのは——昔の教会の人間です。今の教会が、この場所のことを積極的に把握しているかどうかは——わかりません。記録は残っていますが、読んでいる人間がいるかどうか」


「読んでいた人間が、一人いた」とジンが言った。「あなたが読んだんだから」


セレクが少し——止まった。


「……そうです。私が読みました。特別教令部の業務として、古い記録の棚卸しをしたことがあって——その時に、一度だけ目にしました。当時は、意味がわからなかった」


「今は、わかる?」


「……わかりかけています」


ルルが「においが、また変わった」と言った。「さっきより——深い。何かが、近くに来た感じ」


「目的地が、ですか」とカインが聞いた。


「目的地、というより——大事なものが近くに来た感じ」


「その違いは?」


ルルが少し考えた。「場所が近い、というより——何かが動いてる感じ。昨日まではただ近づいてたけど——今日の午後から、向こうが動き始めたみたいなにおいがする」


全員が、少し静かになった。


「向こうが動く、というのは」とシアが言った。声が、少し低くなった。


「わからない」とルルが言った。「悪いにおいじゃない。でも——何かが、起きかけてる感じ」


―――


トーアが、岩の紋様を黙って見ていた。


「……代々、入らないことになっている場所の近くに——こういう印があります」とトーアが言った。「毎回、状態を確認しますが、入らない。それが習慣です。ただ——」


「ただ?」とジンが聞いた。


トーアが少し間を置いた。「……父親から聞いた話です。この道を歩いていると、ある日から——水の音が変わることがある、と言っていました。いつもと同じ川なのに、ある時から、音が深くなる。それが——近いということらしい」


「近い、というのは、何に?」


「わかりません」とトーアが言った。「父も、わからなかった、と言っていました。ただ——変わったと思ったら、その日は早めに宿を取れ、と」


「今日の水音は?」とジンが聞いた。


トーアが沢の水を見た。少し、耳を傾ける仕草をした。


「……変わっています」


「今日、変わりましたか」


「さっきから——少し前から」


ルルが「そう」と言った。「それが、向こうが動き始めた感じ」


全員が、沢の水を見た。


水は、澄んでいた。変わらず、流れている。でも——音が、少し違う気がした。いや、気がするだけかもしれない。でも——断絶の崖の手前で感じたあの感触に、少し似ていた。


(来た)


何かが来ているのではなく——自分たちが、何かに近づいている。その感覚だ。


「今日は——どこまで進みますか」とエリナがトーアに聞いた。


「このまま沢を遡れば、夕方前に岩屋に着きます。天然の岩の庇があって、風雨をしのげる。今夜はそこで野営の予定です」


「岩屋には、屋根がありますか」


「岩が庇になります。小さいが——七人なら入れる」


「わかりました」エリナが手帳を閉じた。「では、行きましょう」


―――


沢沿いの道は、午後になっても険しかった。


岩を越え、浅瀬を渡り、崖の縁を歩いた。カインが一度、足を滑らせた。今度はシアではなくセレクが、無言で腕を支えた。


「……ありがとうございます」とカインが言った。


「軽い仕事です」とセレクが言った。


「軽くなかったと思いますが」


「軽かったです」


カインが少し、眼鏡をかけ直した。「……セレク殿は、身が軽いですね」


「そういう訓練を、長く受けていました」


「役に立ちますね」


「……そうかもしれません」


セレクが少し——本当に少しだけ、前を向いたまま、口元が動いた。何かを思ったのかもしれない。でも何も言わなかった。


ジンが後ろで見ていた。笑うのを、少しこらえた。


―――


夕方前に、岩屋についた。


トーアが言った通り、天然の岩の庇があった。大きな岩が斜めに張り出していて、その下に人が集まれる空間がある。地面は土で、乾いている。奥に行くほど暗いが、入口に炉を作れば、十分な明るさと温かさが確保できる。


「ここで、一夜を明かします」とトーアが言った。


「良い場所ですね」とエリナが言った。


「昔から、この道を通る人間が使ってきた場所です。炉の跡が残っています。父も、ここで泊まったことがあると言っていました」


「代々、使ってきた場所」とジンが言った。


「そういうことです」


「理由は?」


「ここが良い場所だから」とトーアが言った。「それだけです」


「理由がそれだけって、いいですね」


トーアが少し——表情を動かした。笑ったのかもしれない。確認できなかったが。「……まあ、そういうものです」


―――


炉に火がついた。


今夜も、食料を温めた。昨日より山が深い分、外の気温が低かった。火の温かさが、昨日より体に直接来た。


食事が終わって、しばらくして。


セレクが、炉の前でカインに話しかけた。


「カイン殿——今日の紋様の写しを、見せてもらえますか」


カインが「もちろんです」と言って、革の鞄から写しを取り出した。


セレクが写しを受け取った。じっと見た。「……教会の記録の図と、比べてみます。記憶の中にしかありませんが——この線の配置と」セレクが指でなぞった。「この外周の切れ目の位置が——一致します。ここと、ここ」


カインが眼鏡を上げた。「……切れ目の位置まで一致するとなると、偶然の一致ではありません」


「はい」


「セレク殿——その記録の文書、写しを入手することはできますか。旅が終わった後で、でも構いません」


セレクが少し間を置いた。「……難しいですが——できないとは、言えません。個人の立場で動く間に、記録の写しを手元に持つ機会があります」


「それは——教会に対して、リスクになりますか」


「なります」セレクが静かに言った。「ただし——これは、正しい問いを正しい人に届けるために必要なことです。以前、そう言いました。今も——そう思っています」


カインが、セレクを見た。少し長く見た。


「……ありがとうございます」


セレクが「いいえ」と言った。「私が必要なことをしているだけです」


ルルが小声でジンに「セレクのにおい、また丸くなった」と言った。


ジンが小声で「そうだね」と返した。


―――


夜が深くなった。


シアが、炉の前でじっと火を見ていた。ジンが隣に座った。


「今日、いろいろあったね」とジンが言った。


「あった」


「道標が見つかって、セレクが記録のことを話して——」


「それより」とシアが言った。「カインが足を滑らせた時」


「セレクが支えたやつ?」


「そうだ」


「良かったじゃん」


シアが少し間を置いた。「……私が間に合わなかっただけだ」


「えっ、悔しかったの?」


シアが「黙れ」と言った。早かった。


「悔しくていいと思うよ」


「黙れ」


「俺はカインのことを心配してる人が多い方が、安心するけど」


シアが少し——止まった。「……そういうことを、言うな」


「本当のことだよ」


「……わかっている。黙れ」


ジンが少し笑った。シアが炉の火を見た。口元が少し、動いていた気がした。


「カインに——返事は来ましたか」とシアが、少し声を落として聞いた。


「知らないけど——来てると思う。カインはそういう人だと思う」


「根拠は」


「あの夜、出発前の朝に——カインがペンを取ってた。みんなが集合する前に、机の前に座ってた。宿の食堂で見かけた」


シアが少し、固まった。「……なぜ、黙っていた」


「シアが聞かなかったから」


「……聞けば教えてくれたのか」


「聞いてくれれば、もっと早く言ってた」


シアが、ゆっくりと前を向いた。炉の火が、少し揺れた。シアの横顔に、火の色が当たっていた。


「……明日、着いたら」とシアが言った。「封印の件が一段落したら——」


「カインに聞けばいいじゃん」


「そういうことを、すぐ言うな」


「でも、そういうことだよ」


シアが「……そうだな」と言った。声が、少し低かった。でも——悪い低さではなかった。何かを決めた時の、落ち着いた声だった。


―――


ジンは毛布の中で、今日のことを整理した。


道標が見つかった。アル・ヴェリアがここに来た。教会の記録にも、この場所の痕跡があった。セレクが知っていた。

全部が、ゆっくりと繋がっている。


アル・ヴェリアは400年前、一人でこの山を歩いた。次に来る誰かのために、印を残した。その印が教会の記録にも残って、由来不明のまま350年以上が過ぎた。そしてセレクが、それを読んでいた。


ただの、偶然だろうか。ジンにはわからない。精度——それが奇跡であれ何であれ、今この場所に七人が集まっていることは変わらない。それで十分だと思った。


(明日)


ヴェルダ温泉郷の外縁に届く。そして——古代の観測地へ。

怖いか、と自分に聞いた。少し怖い、と思った。でも——水の音が変わった。何かが動き始めた。向こうが近づいてきた感じがする。

それは——怖いだけじゃない。

どちらかと言えば——呼ばれている感じだ。


(続けられる)


岩屋の外で、川の音がしていた。今夜も変わらず、水は流れている。深い音で、流れている。

ジンは目を閉じた。


―――


エリナは最後まで起きていた。

ランプの光で手帳を書いた。今日の全部を書いた。道標のこと。セレクが教会の記録のことを話したこと。「ヴァリス水源調査記録・補遺」という文書の名前。水の音が変わったというトーアの言葉。ルルの「向こうが動き始めた」というにおいの報告。

全部、書いた。


それから——一つ、追加した。

『明日、外縁に着く。怖い。でも、呼ばれている気がする。それで十分』


ペンを置いた。ランプの炎が、静かに揺れた。


(次が、来る)


ラングレイから始まって、王都を経て、山の中に来た。明日、さらに奥へ行く。何があるかは、まだわからない。

環境は——今夜、この岩屋の中に、七人がいる。それぞれが、ちゃんとここにいる。

それだけで——続けられる、とエリナは思った。


―――


ルルは、最初に眠った。

環境は——眠る直前、においを確かめた。

川の音が、深い。その深い音と一緒に——奥から来るにおいが、今夜は昨日よりずっと濃い。温泉のにおい。古い石のにおい。水のにおい。


そして——もう一つ。

今日の夕方から混じり始めた、新しいにおい。

熱いにおいと、静かなにおいが、一緒になっている。

何かが、向こうで待っている。悪いものではない。でも——大事なものだ。


(明日)


ルルは思った。明日、それに近づく。

眠りに落ちた。


―――


岩屋の外で、川の音が続いていた。

七人が眠った。

山は、静かだった。

水は、深い音で、流れ続けていた。


―――


― 第26話・了 ―


―――


次話予告:三日目の朝、沢を離れて山の内側へ入った。道が、ほとんど消えた。トーアが「ここから先は、私も来たことがない」と言った。その言葉に、全員が少し止まった。ルルが「においが——真っすぐある」と言った。「迷わない」。岩を越え、低い木の間を抜けた。昼前に——湯気が見えた。岩の間から、白い湯気が細く立ち上がっている。ルルが「温泉」と言った。カインが地図を見た。「ここです。ヴェルダ温泉郷の源泉域——古代の観測地が、この先にある」。全員が、湯気の先を見た。岩の隙間に、水が流れている。そして——その岩に、文字が刻まれていた。

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