第25話「一日目の山道と、焚き火の前でセレクが聞いたこと」
一日目の山道は、想像より険しかった。
王都の北門を抜けてしばらくは、整備された石畳の街道が続いた。馬車も通れる幅のある道で、両脇に畑が広がり、遠くに農家の煙が細く上がっていた。ジンは「意外とのどかだな」と思った。
それが変わったのは、昼を過ぎたあたりからだった。
道が、細くなった。石畳が消えて、踏み固められた土の道になった。両側の木が高くなって、空が狭くなった。道の真ん中に、岩が顔を出し始めた。
ライエルが手配してくれた案内人のトーアは、無言で前を歩いた。五十がらみの、体格のいい人物だった。荷物の多いカインを一瞥して何も言わなかったが、歩き方を見て自然とペースを落としてくれた。
「トーアさんて、この道よく来るんですか」とジンが聞いた。
「年に数回」とトーアが言った。「山の状態を見に」
「何かを管理してるんですか」
「王室の山域管理の仕事です。水源と、古い施設の状態確認」
「古い施設、というのは」とカインが聞いた。声が、少し上がった。
「詳しくは知りません」とトーアが言った。「昔からそこにある場所を、崩れてないか確認するだけの仕事です。中には入らない」
カインが眼鏡をかけ直した。「中には入らない、というのは——規則ですか?」
「習慣です。代々、入らないことになっている」
「それは——」
「カイン」とシアが言った。「歩きながら話せる量じゃない。後にしろ」
カインが「……失礼しました」と言った。
ルルがジンの袖を引いた。「においが、また濃くなってきた」
「山のにおい?」
「山のにおいと——古いものののにおいが混ざってる。石が長い間水を含んでたみたいな、そういうにおい」
「どっちのにおい?良い悪い」
ルルが少し考えた。「……良い方が強い。ただ——深い感じのにおい。怖い、というより——知らないものが近い、という感じ」
ジンが頷いた。
―――
夕暮れ前に、岩場を越えた。
川を渡った。幅は狭かったが、流れが速かった。石の上を飛んで渡るところで、カインが荷物の重さで少しよろけた。シアが無言でカインの腕を掴んだ。カインが「ありがとうございます」と言った。シアが「黙れ」と言った。
ジンが後ろで見ていた。笑うのをこらえた。
エリナが手帳を取り出しかけて、川の真ん中で踏みとどまった。「今は書くな、という自分の判断を信じます」とひとり言を言いながら渡り切った。
「書きたかったんですか、今」とジンが聞いた。
「書きたかったです。でも川で落としたら終わりなので」
「それは正しい判断だと思う」
セレクが最後に川を渡った。石の上を、迷わず進んだ。軽い。身が軽い人間だ、とジンは思った。
「慣れてますね」とジンが言った。
「野外での任務が多かったので」とセレクが言った。「特別教令部の仕事は、街の中だけではありませんでした」
「どんなところに行ってたんですか」
セレクが少し間を置いた。「……あまり、良い場所ではなかったと思います。今にして思えば」
その答えを、ジンはどう受け取っていいかわからなかった。だから、ただ「そうか」と言った。
セレクが「はい」と言った。それだけだった。でも——空洞の返事ではなかった。
―――
山小屋は、想像より小さかった。
木造で、中は一部屋と小さな物置だけ。七人で入ると、かなり狭い。でも——雨風はしのげる。炉があって、薪もある。
トーアが炉に火を入れた。手慣れた動作で、火はすぐについた。
「食料は、ここまでが限界です」とトーアが言った。「明日からは、もう少し山が深くなる。荷物の管理に注意してください」
「わかりました」とエリナが言った。「明日の行程は?」
「午前中は尾根道。午後から沢沿いに入ります。二日目は川沿いの道になる。水は豊富ですが、道は悪い」
「悪い、というのはどのくらい」
「今日の終わりの岩場より、難しい」
エリナが手帳に書いた。
夕食は、持参したものを炉で温めた。それほど豪華ではないが——温かかった。外は、もう暗い。山の夜は早い。王都の夜とは、音が違う。虫の声と、遠くで川が流れる音と、木の葉が風に揺れる音だけがある。
「においが、また変わった」とルルが言った。
「どう変わった?」とジンが聞いた。
「王都のにおいが、ぜんぶ消えた。山だけのにおいになった。それと——奥から来てるにおいが、さっきより近い気がする」
「奥のにおい、良い感じのやつ?」
「うん。水のにおいと、古い石のにおいと——あと、少し熱いにおい」
「熱い?」
「温泉のにおいだと思う。行ったことないけど——なんか、そういう感じがする」
カインが「やはり——目的地のヴェルダ温泉郷が、近づいているということですね」と言った。眼鏡の奥で、目が少し動いた。
「ルルの言うことが、信頼できる指標ですから」とエリナが言った。
―――
食事が終わって、しばらくして。
トーアが先に寝た。「明日も早い」と言って、物置に毛布を持ち込んだ。
シアとカインが、炉の前で小声で話していた。地図のことだった。資料のことだった。でも——内容より、その様子が、ジンには良いと思えた。十年前に別れた二人が、地図を並べて話している。それだけのことが、何か温かい。
エリナが手帳を開いていた。今日の記録を書いている。ランプの光の下で、ペンが走っている。川の渡り場で手帳を出しかけた話を、今度は文字にしている。ジンにはそれがわかった。
ルルが炉の近くで、目を閉じていた。眠ってはいない。においを嗅いでいる。その顔が、静かに満ちていた。
「ジン殿」
セレクが、静かに言った。
「どうぞ」
「一つ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
セレクが少し間を置いた。炉の火を見ながら、言葉を選ぶような時間があった。
「断絶の崖で——続けられる理由が、わかった気がすると言いました。あなたは——その理由を、今でも持っていますか」
ジンが少し考えた。
炉の火が揺れている。薪が、時々小さく爆ぜる。
「持ってると思う」と、ジンが言った。
「なぜ、そう思いますか」
ジンが少し、周りを見た。
シアがいる。カインがいる。エリナがいる。ルルがいる。
Lockeそしてセレクも、今日からそこにいる。
「こういうことだよ」と、ジンが言った。
セレクが少し、止まった。それから、ゆっくりと炉に視線を戻した。
「……こういうこと、というのは」
「みんながいるから続けられる、ってこと。理由が特別なんじゃなくて——人がそこにいるから、続けられる気がする。崖の時もそうだったし、今もそうだと思う」
セレクが、また少し間を置いた。
「私は——長い間、一人で動いていました」とセレクが言った。「感情を持つことが、判断の邪魔になると思っていた。他の人間と繋がることが、役割を果たす上での弱点だと思っていた」
「今は?」
「……今は、違うかもしれないと思っています。断絶の崖で——あなたが封印を完成させた後、あなたたちが話しているのを見ていました。大したことを話していたわけではない。でも——その場に、私が感じたことのない何かがあった」
「何だと思いました?」
セレクが少し、考えた。「……温度、かな、と思いました。空気の温度ではなく——人と人の間にある、温度のようなもの。私にはそれが、長い間なかった」
炉の火が、少し大きく揺れた。薪が一本、崩れた。
「今夜は——ありますか?」とジンが聞いた。
セレクが、静かに炉を見た。
「……少し、ある気がします」
「それで十分だと思う」とジンが言った。
セレクが、ジンを見た。それから——口元が、ほんの少しだけ、動いた。空洞でも、模索でもない。ただ、温かい。
「……はい」
―――
それから、しばらくしてルルが小声でジンを呼んだ。
「ジン、少し外に出てみて」
「何かある?」
「においが——すごくきれいな感じになってる。見てほしい」
ジンが外に出た。ルルも続いた。セレクも、静かについてきた。
山小屋の外は、暗かった。木々が高く、空は細い。でも——木の隙間から、星が見えた。
王都では見えなかった数の星が、そこにあった。
「……多いな」とジンが言った。
「ここは灯りが少ないから」とルルが言った。「王都では消えてたにおいが、ここでは全部ある。空気が、きれい」
セレクが空を見ていた。無言だった。でも——その顔が、ジンにはわかった。考えているのではなく、ただ見ている顔だ。何かを感じている顔だ。
「セレクって、こういう場所に来ることはあったんですか?任務で」
「ありました」とセレクが言った。「でも——夜空を見たことは、なかったと思います。任務の時は、空を見ない。見ても、意味がないから」
「今は意味がある?」
セレクが少し間を置いた。「……意味があるかどうかは、まだわかりません。でも——見たいと思った。それは初めてのことです」
ルルが「においが、一番良い感じになった」と言った。「みんなが同じ方向を向いてる感じ。星の方向」
「星の方向って、どっち?」とジンが聞いた。
「上」とルルが言った。
ジンが少し笑った。「確かに」
―――
山小屋に戻った時、シアとカインの話し声が止んでいた。
エリナが手帳を閉じて、ランプを小さくしていた。
「星が見えた」とジンが言った。
「多かったですか」とエリナが聞いた。
「すごく多かった」
エリナがランプの明かりをもう一度少し大きくして、手帳をまた開いた。一行、書いた。それからランプを消した。
「書いた?」
「書きました。『山小屋の外、星が多かった』と」
「それだけ?」
「今夜は、それだけで十分です」
ジンが頷いた。
―――
眠る前、ジンは毛布の中で、今日のことを整理した。
トーアの「代々、入らないことになっている」という言葉が、頭の隅に残っていた。理由がない習慣には、いつか忘れられた理由があることが多い——カインが言っていたように。断絶の崖がそうだった。廃教会がそうだった。水鏡の間もそうだった。
次の場所にも——きっと、誰かが残した何かがある。カインならもう、それが何かを考え始めているだろうと思った。
セレクの言葉が来た。(長い間、一人で動いていました)。その言葉を思い返すと、断絶の崖でセレクを初めて見た時のことを思い出した。あの時のセレクは——本当に、一人だった。世界に何かをしているのに、世界から切り離されているような人だった。今夜の焚き火の前のセレクは、違った。まだ遠い距離にいるけれど——でも、その距離が、縮まっていた。
(温度、か)
セレクが言っていた言葉を、ジンは静かに繰り返した。人と人の間にある温度。それが、長い間なかった、とセレクは言った。ジンにはその感覚が想像できなかった。ジンには、ずっとそれがあった。あって当然だと思っていた。でも——あって当然ではない人間が、確かにいる。
だとしたら——それが戻ることは、大事なことだと思った。封印がどうとか、ザルヴァがどうとか、そういう話と並んで——それも、大事なことだと思った。
(続けられる)
まだ二日ある。山はまだ深くなる。次の場所で何があるかは、まだわからない。
でも——今夜の焚き火の温度が、まだ手の記憶にある。
それで十分だと、ジンにはわかっていた。
―――
山の夜が、深くなっていった。
川の音が聞こえる。木の葉が揺れる音が聞こえる。炉の火が、静かに落ちていく音がする。
七人が眠った。
山は、静かだった。
―――
― 第25話・了 ―
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次話予告:
二日目の山道は、沢沿いだった。水音が絶えず隣にある。昼過ぎ、岩陰に刻まれた古い紋様をカインが発見した。「これは——道標です」とカインが言った。「アル・ヴェリアが残した、次の場所への目印」。ルルが岩に近づいた。においを嗅いだ。「水鏡の間と、同じにおい」と言った。「近い?」とジンが聞いた。「もう一日かな」とルルが言った。セレクが岩の紋様を見た。その目が、少し変わった。「……教会の古い記録の中に、この紋様と似た図が、あります」。全員がセレクを見た。「ここが——最初の定義が書かれた場所と、関係がある可能性があります」。山の奥から、水の音がした。




