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無詠唱の魔王  作者: Dちゃん
第二章「王都に響く歯車の話」

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第23話「王宮の謁見室と、セレクが個人として語ったことと、水鏡の間への扉」

王宮の謁見室は、ジンが想像していたものと、少し違った。


大きい、とは思っていた。金と赤の絨毯があって、高い天井があって、左右に騎士が整列していて——そういう場所だと、なんとなく思っていた。


でも、実際に通された部屋は——もっと小さかった。


謁見室、とライエルは言ったが、正式な謁見の間ではなく、王宮の奥にある「協議のための小謁見室」だった。白い石の壁。天井は高いが、圧迫感はない。窓が一つ、中庭に向いている。中庭には、木が一本。


テーブルが一つ、部屋の中央にある。


マルスが、すでに席についていた。今日も背筋がまっすぐだ。眼鏡の奥の目が、一同を静かに見た。「おはようございます」と言った。声が変わらない。


アルドが、テーブルの上座に座っていた。灰色の外套——でも、今日は少しだけ、背筋が違う。外套の下に、少し改まった衣を着ているのが見えた。それでも、護衛はいない。護衛は扉の外だった。


ライエルが、壁際に立った。白い外套ではなく、灰色の上着。審問会の時と同じく、今日も王室として『記録する側』に徹するという、彼の明確な意思表示だった。


ジンたちが席についた。


エリナが手帳を取り出した。ライエルが頷いた。開いていい、という意味だ。


「揃いましたね」とアルドが言った。「始めましょう」


その時——扉が、もう一度、静かに開いた。


―――


灰色の外套だった。


白い法衣ではない。廊下の灯りを背に、静かに立っている。笑顔がある。でも——その笑顔は、もう空洞ではなかった。何かが、ちゃんと入っている。


セレク・ヴァインだった。


「遅れました」とセレクが言った。「入っても構いませんか」


アルドが少し、笑った。「どうぞ」


「個人の立場で、発言することは許されますか」


「この場は——正式な協議の場です」アルドが言った。「ただし——個人の立場での発言を妨げる規則はない。あなたが何者として発言するかを、この場の全員に示してくれれば」


セレクが少し、頷いた。席に座った。教会側、ではなく——テーブルの端の、どちらでもない場所に。


ルルがジンの袖を少し引いた。


「においが——落ち着いてる」と小声で言った。「昨日より、もっと。探してた感じが——少し、見つかりかけてる感じになってる」


ジンが小声で「そっか」と返した。


―――


「正式な協議を始めます」とアルドが言った。「ただし——今日の場は、決定を下す場ではありません。確認をする場です。ギルドが審問で明らかにしたこと、その上に何があるのかを——正直に話し合う場にしたい」


「確認というのは、具体的に何を」とエリナが聞いた。


「三つあります」アルドが言った。「一つ目——アル・ヴェリアが守ろうとしていたもの。二つ目——王立水鏡の間との関係。三つ目——これからジンたちがどう動くか、王室としてどう支援するか」


マルスが「ギルドの立場からも、一つだけ確認したいことがあります」と言った。


「どうぞ」


「今回の審問で確認されたことは、ギルドの記録として残ります。それが王室との協議の足場になることは、ギルドとして異存ありません。ただし——王室が動く際には、ギルドの独立性を尊重していただきたい。ギルドが王室の手足になるのではなく、並んで動く形を」


「それが、今日の場の前提です」アルドが言った。「私がこの場を設けたのは——命令をするためではない。同じ地図を持つためです」


マルスが少し、頷いた。「わかりました」


―――


カインが書冊を開いた。


「アル・ヴェリアの術式について——現時点でわかっていることを、改めて整理します」カインが言った。「断絶の崖の封印は、完成しました。これは確かなことです。そして——アル・ヴェリアの術式には、段階がある」


「段階?」とアルドが聞いた。


「封印は、一つではありません。アル・ヴェリアは複数の場所に、それぞれ役割の異なる術式を施した。断絶の崖のものは——おそらく、『時間を守る』ための術式でした。場所の時間を固定し、何かが崩れるのを遅らせる」


「その『何か』が——ザルヴァですか」とエリナが聞いた。


カインが少し間を置いた。「ザルヴァ、という名が何を指すのか——まだ正確にはわかりません。教会は、世界の敵として警戒している。しかし——アル・ヴェリアの術式が残していた言葉には、ザルヴァへの『敵意』だけでなく、何か別の感情も混じっていた。怒り、と言うよりは——悲しみに近い何か」


「悲しみ?」とジンが聞いた。


「断絶の崖の石板に触れた時——暖かかったと言いましたね。ありがとうと言われた気がした、とも」カインがジンを見た。「それが、アル・ヴェリアの感情の核心だと、私は考えています。彼は、ザルヴァを憎んでいたのではなく——何かを失うことを、ひどく悲しんでいた」


部屋が、少し静かになった。


「失うものが、何だったのか」とシアが言った。「それが、水鏡の間に繋がっている?」


「可能性として、そう考えています」


―――


アルドが少し、テーブルの上で手を組んだ。


「王立水鏡の間について——私が知っていることを話します」アルドが言った。「あの場所は、私が子供の頃から王宮にあります。今は儀礼用——特定の祭事の際に使う、格式だけが残った古い部屋として使われています。でも——図面には、別の記述がある」


「別の記述とは」とカインが身を乗り出した。


「水鏡の間の設計図には、建築目的として『観測と接触のための場』と書かれています。観測は、わかる。光と水と鏡を使って、何かを見るための場所だ。ただ——接触、という言葉の意味が、ずっとわからなかった」


「接触する対象が、あるということですか」とエリナが言った。


「建設されたのは——400年以上前です」


カインが眼鏡の奥で、目を細めた。「……アル・ヴェリアの時代と、重なる」


「重なります」アルドが言った。「詳しく調べたのは、最近のことです。ジンたちが王都に来てから——改めて図面を確認した。建設を命じた人物の記録は、残っていません。ただ——用いられた術式の記録が少しだけ残っていて、その中に、アル・ヴェリアの署名に似た紋様がありました」


「アル・ヴェリアが、作った場所だということですか」とジンが聞いた。


「断言はできません。ただ——可能性は、高い」


ジンが少し、遠くを見る顔をした。


(水の中の光)


断絶の崖で一瞬見た、あの感覚がまた、胸の奥に浮かんだ。水の中を光が通るみたいな感じ。暖かくて、透明で——何かを待っているような。


「見てみたい」とジンが言った。


「今日、案内します」とアルドが言った。


―――


その時——セレクが、静かに口を開いた。


「よろしいですか」


全員が、セレクを見た。


「個人の立場で——一つだけ、言わせてください」


アルドが「どうぞ」と言った。声が、さっきと変わらなかった。待っていた、という感じがあった。


セレクが、少し間を置いた。


「教会は——ザルヴァを、世界の敵と定義しています。長い歴史の中で、そういう記録が積み重ねられてきた。私も,そう教わりました。でも——」


セレクが、少し——ジンを見た。


「断絶の崖で、あなたの言葉を聞きました。続けられる理由が、わかった気がすると言いました。そこから——私は、教会が積み重ねてきた記録を、もう一度、最初から読み直しました」


「何かが変わりましたか?」とカインが聞いた。


「変わりました」セレクが言った。「教会の記録の中に——ザルヴァを『敵』と定義した最初の文書があります。その文書の書かれた時代は——アル・ヴェリアの封印が施されたより後のことです」


「順序が逆だ」とシアが言った。「封印が先で、定義が後?」


「そうです。つまり——封印が施された理由と、教会がザルヴァを敵とした理由は、同じではない可能性がある」


静寂が落ちた。


「……それは」エリナが言った。声が低かった。「教会の根拠そのものが、揺らぐ話です」


「私もそう思います」セレクが言った。「だから——個人の立場で言いました。教会の公式見解として言えることではない。ただ——この場にいる人たちには、知っておいてほしかった」


「なぜ、この場で」とライエルが言った。壁際から、静かな声で。


セレクが少し間を置いた。「……正しい問いを、正しい人たちに届ける、と——審問の前夜に言いました。それを、今日もしたかっただけです」


ライエルが少し、止まった。


エリナが、セレクを見た。何かが、エリナの胸の奥で動いた。以前の——ラングレイで初めてセレクを見た時の、底の知れない恐怖とは、全く違う感触だった。


(この人は——変わった)


いや。変わった、というより——戻ってきた、と言う方が正しい気がした。何かがあって、失くしていたものを、少しずつ、取り戻している。そういう感じだった。


―――


「整理しましょう」とマルスが言った。静かな声が、部屋に落ちた。「今日確認したことを、ギルドの記録として残す前に、この場で共有します」


マルスが書類を一枚、手元に置いた。


「一。アル・ヴェリアの封印は、断絶の崖で完成した。これは記録済みです。二。封印には段階がある可能性があり、次の手がかりが王立水鏡の間にある可能性をカイン・セルフォード殿が提示した。三。教会の記録に関して、セレク・ヴァイン殿が個人の立場で重要な証言をした。この三点を、今日の協議の内容として記録します」


「記録することに、異論はありますか」とアルドが聞いた。


全員が、黙って頷いた。


セレクも、頷いた。


マルスが「では——私は、ここで失礼します」と言いて立ち上がった。「水鏡の間については——王室の判断に委ねます。ギルドとして知っておべきことがあれば、教えてください」


「もちろんです」とアルドが言った。「マルス殿——今日も、ありがとう」


マルスが少し、口元を動かした。「仕事です」と言った。それから——エリナを見た。


「フォルス殿。良い記録を」


エリナが「はい」と言った。声がちゃんとしていた。


マルスが、扉から出ていった。背中が、小さいが——やはり、ぶれない。


―――


「では——行きましょうか」とアルドが言った。


「水鏡の間に、ですか」とジンが言った。


「今日、案内すると言いました。順番は守る——と言ったのも私ですが、協議は終わりました。次に動く理由があります」


「セレクも来ますか?」とルルが聞いた。


全員がセレクを見た。


セレクが少し、考えるような顔をした。以前は、考える、という仕草そのものがなかった。全て即答だった。でも——今は、少し時間をかける。


「……来てもいいですか」


「来てくれた方がいい気がする」とジンが言った。


「なぜですか」


「なんとなく」


シアが「根拠がない」と言った。


「うん」とジンが言った。「でも——なんとなく、そういう気がする」


ルルが「においが——一緒に来た方がいい感じ」と言った。「補足」


カインが「それは研究者として、賛成します」と言った。「セレクが見た教会の記録と、アル・ヴェリアの痕跡が重なる可能性があります。現場で比較できる情報を持つ人間が多い方がいい」


セレクが少し——本当に少しだけ、笑った。空洞でも、模索でもない笑い方。ただ、温かい。


「では」と言った。「お供します」


―――


王宮の廊下は、長かった。


アルドが先頭を歩いた。護衛が後ろについている。廊下の左右に、深い赤と金の壁掛けが続いている。窓から見える中庭に、また木が一本。王宮の中には、至るところに木が植えてあった。


「王宮って、木が多いですね」とジンが言った。


「先々代の王が植えさせた、という記録があります」とライエルが言った。「理由は、記録されていません」


「理由がないのに植えたんですか」


「理由を書かなかっただけかもしれません」


「なんか、好きだったんじゃないかな」


ライエルが少し止まった。「……そうかもしれません」


エリナが手帳に何かを書いた。ジンが横目で見た。何を書いたのか、遠くてわからなかった。でも——エリナが書いている、ということが、なんとなく良かった。


廊下をしばらく歩いた。左に曲がり、また廊下。上り階段があった。石段が、少し古い。


「古い部分に入ります」とアルドが言った。「水鏡の間は、王宮の中でも古い建物の一角にある。改築の際にも、あの部屋だけは手を入れなかった、という記録があります」


「なぜ手を入れなかったんですか」とカインが聞いた。


「わからない」アルドが言った。「記録には『手を入れてはならない』とだけある。理由は書かれていない」


「理由を書かなかっただけかもしれない」とジンが言った。


アルドが振り返って、少し笑った。「さっきも同じことを言いましたね」


「そういうこと、多い気がして」


「そうかもしれません」


―――


石の扉があった。


廊下の突き当たりに、少し低い石の扉。鉄の取っ手がついている。扉に、紋様がある——細い線で、何かが刻まれている。


カインが扉に近づいて、紋様を見た。眼鏡を少し上げた。


「……これは」


「わかりますか」とアルドが聞いた。


「アル・ヴェリアの署名に似た紋様——と言いましたね」カインが指で紋様をなぞった。触れていない。空中で、形を確かめるように。「これは——術式の紋様ではありません。記す者の癖、というか——特定の人間が特定の意図で刻んだ、個人的な印です」


「個人的な印?」


「封印の台座に残っていた紋様と、同じ筆癖があります。断言はできませんが——同じ人間が刻んだと思います」


「アル・ヴェリアが、この扉を作った」とシアが言った。


「少なくとも、関わっている」


ジンが扉を見た。石の扉。古い。でも——崩れていない。400年、ここにあった扉だとしたら——この扉は、ずっとここで、誰かを待っていたのかもしれない。


(暖かい感じがする)


触れてもいないのに、扉の前に立つだけで——断絶の崖の石板に触れた時に似た、あの感触が、胸の奥に来た。


「ジン」とルルが言った。「においが——崖と同じ」


「うん」とジンが言った。「なんか、わかる」


「入ってみましょう」とアルドが言った。


―――


扉を開けた。


アルドが取っ手に手をかけて、引いた。重い。でも——鍵はかかっていなかった。鍵がないのかもしれない。もしくは——鍵は、別のところにある。


扉の向こうは、暗かった。


一歩、入った。


魔導ランプの光が、後から続く。アルドの護衛が持ってきた。その光が、部屋の中に入ってきた。


「……」


ジンは、息を止めた。


部屋の中央に、水があった。


大きな、円形の水盤。石で作られた、浅い水盤が、部屋の真ん中に据えられている。水は、澄んでいた。静かだった。動いていないのに——なぜか、生きているように見えた。


天井が、高い。天井に、穴がある。小さな円形の穴が、一つ。今は昼過ぎだから——光が、細く差し込んでいる。その光が、水盤の水面に当たって、部屋の壁に——揺れる光の網を作っていた。


壁に、何かが刻まれている。


文字だった。


ルルが「……読める」と言った。声が、小さかった。


「何て書いてある?」とジンが聞いた。


ルルが少し、目を細めた。文字を見た。それから——ゆっくりと、声にした。


「……待っていた。ここまで来てくれて、ありがとう。あとは、水に問いなさい」


部屋が、静かだった。


「水に問う?」とシアが言った。


「問う、というのは——」カインが壁の文字に近づいた。「術式的な意味合いで言えば、水面に魔力を流す、あるいは——触れる、ということかもしれない」


全員がジンを見た。


ジンが少し、困った顔をした。「また、俺が触るやつ?」


「たぶん」とカインが言った。「封印に触れることができたのは、ジン殿だけでした。ここでも——同じかもしれない」


ジンは水盤に近づいた。


水が近い。澄んでいる。自分の顔が映る。それから——部屋の天井が映る。穴から入る光が映る。


膝をついた。手を、水面に近づけた。


触れた。


―――


暖かかった。


水は、冷たいはずだった。石造りの部屋の水が、温かいはずがない。でも——触れた瞬間、断絶の崖の時と同じ——暖かさが、手から、腕から、胸に広がってきた。


光が見えた。


目を開けているのに、別のものが見えた。水の中から、光が来ている。水の中を通る光が、揺れて、広がって——一瞬、何かが映った。


場所だった。


水の中に、場所が映った。山だ。山の中に、水が湧いている場所。岩の間から、水が溢れている。岩に——文字が刻まれている。遠くて、読めない。でも——その場所の感触が、体に残った。


川の音が聞こえた気がした。鳥の声が聞こえた気がした。山の空気の、冷たい匂いが——一瞬だけ、鼻に届いた気がした。


それから——声が来た。


前に聞いた声と、同じ声だった。


(次は、水が火になる場所へ)


それだけだった。


―――


ジンが手を離した。


水盤の水が、少しだけ揺れた。


「どうだった?」とルルが聞いた。


ジンは少し、言葉を整えた。「……場所が見えた。山の中に、水が湧いてる場所。岩に文字が刻まれてた。それと——声が聞こえた」


「どんな声?」


「次は、水が火になる場所へ——って」


「水が火になる場所」とカインが繰り返した。眼鏡の奥で、目が素早く動いた。「……温泉、ですね」


「温泉?」


「水が熱を持つ場所。水が——熱くなる、つまり火の性質を帯びる。王都の北東の山域に、古い温泉地があります。かなり山の奥ですが——アル・ヴェリアの時代の記録に、その地域が古代の観測地として使われていたという記述が、一行だけある」


「次の場所が、わかった?」とシアが聞いた。


「断言はできません」カインが言った。「でも——可能性は高い」


「地図はありますか」とエリナが言った。手帳にペンが走った。


「研究院に資料があります。明日、確認します」


「では——次が、見えてきた」とアルドが言った。声が、穏やかだった。ただ——その目の奥に、何かが灯っていた。「王室として、山域への通行許可と案内人の手配は、私がします。出発の時期は——相談しましょう」


ジンが水盤を見た。


水は、また静かになっていた。光の網が、壁に揺れている。何も言わない。でも——言うべきことは、もう言った、という感じがした。


(ありがとう)


心の中で、静かに言った。誰に言ったのか、よくわからなかった。アル・ヴェリアに、かもしれない。この水盤に、かもしれない。400年間、ここで誰かを待っていたものに——言いたかっただけかもしれない。


―――


部屋を出た。


廊下に出ると、少し明るかった。窓から午後の光が入っている。ジンは少し目を細めた。


「セレク」とジンが言った。


セレクが振り返った。


「部屋の中で——何か感じましたか?」


セレクが少し考えた。「……感じました」


「どんなことを?」


「教会が守ろうとしてきたものと、アル・ヴェリアが守ろうとしたものが——同じかもしれない、と思いました。向きが逆だっただけで」


「向きが逆?」


「教会は——ザルヴァを遠ざけようとした。アル・ヴェリアは——何かを守ろうとした。結果として同じものを扱っていたとしても、動き方が違った。その違いが——今日まで、ずれを生んできたのかもしれない」


ジンが少し考えた。「それは——直せますか?」


セレクが少し間を置いた。「……わかりません。でも——今は、向きを揃えようとしている人間が、少しずつ増えている気がします」


「それは、良いことだと思う」


セレクが——また少し、笑った。空洞でも模索でもない、静かに温かい笑いだった。「……そうですね」


灰色の外套の背中が、廊下の奥へ遠ざかっていく。ジンはその後ろ姿をしばらく見送っていた。


向きを揃えようとしている人間が、少しずつ増えている——セレクはそう言った。


ほんの少し前まで、ジンたちを管理しようとしていた男が、今は同じ方向を向こうとしている。世界は、静かに動いている。


怖い、と思う。次の場所が見えてきたことも、ザルヴァのことも、まだわからないことばかりで——見えない先への恐怖は、確かにある。


でも——その恐怖が足元を揺るがさないことも、もう知っている。隣に、みんながいるから。向きが違っていた人間までもが、少しずつこちらに揃ってきているから。


(俺たちなら、続けられる)


―――


宿に戻ったのは、夕方だった。


食堂に六人と、今日はセレクも加わって、七人が集まった。


「セレクも一緒に食べますか?」とジンが聞いた。


セレクが少し、止まった。「……教会の使者が、こういう場に座ることは」


「個人の立場で、どうぞ」とジンが言った。


セレクが少し——また笑った。「……はい」


スープが来た。パンが来た。


「うまい」とジンが言った。


「また言った」とシアが言った。


「うまいから言ってる」


「……うまい、と思う」シアが言った。


「言えた」


「黙れ」


ルルが「セレクは、スープ好き?」と聞いた。


セレクが少し、考えた。「……好きかどうか、考えたことがありませんでした。ただ」


一口、飲んだ。


「……温かい」と言った。


「それが、好きってこと」とルルが言った。


セレクが少し、止まった。それから——「そうかもしれません」と言った。


食堂に、小さな静かさが漂った。悪い静かさではなかった。


エリナがペンを走らせていた。ジンが横目で見た。今日起きたことを全部、書いている。水鏡の間のこと。セレクの言葉のこと。次の場所のこと。


(みんなが、ちゃんとしてる)


ジンは思った。スープを飲みながら、静かに思った。


次が、見えてきた。山の中の水が湧く場所。温泉地。カインが「水が火になる場所」と言った。怖いか、と自分に聞いた。怖い、と思った。でも——続けられる。


それで十分だと、ジンにはわかっていた。


―――


夜。


ライエルが、一人で廊下を歩いていた。


今夜も、手に紙がある。でも——今夜は、宛先が、少しだけ見えてきた気がした。


(宛先のない手紙が、届くことがある)


エリナがそう言っていた。いや——ジンが言って、エリナが言った言葉だ。届かなくても、書いた言葉が、世界を動かすことがある。


自分が書いてきた手紙が、世界を動かしたことがあっただろうか。


答えは出ない。でも——今夜は、考えてみようと思った。それだけで、少し違う夜になる気がした。


廊下の窓から、王都の夜が見えた。灯りが多い。星は少ない。


ライエルは立ち止まって、少しの間、窓の外を見た。


それから——部屋へ戻った。


―――


月光が薄く差し込む静かな部屋で、シアは一枚の紙を見つめていた。


昨夜、静寂の中でペンを走らせた——カインへの手紙だ。


何度目かになる視線で、そこに刻まれた短い言葉をなぞる。


——ラングレイでジンに出会って、みんなと旅をして、ここに来て、良かったと思っている。


たったそれだけの、飾りのない言葉だ。


壁一枚を隔てたすぐ隣の部屋に、カインはいる。夜が明けて、いつも通りの朝が来れば、いくらでも話す機会はある。そんなことは、わかっている。


それでも——シアの心は、「今」を求めていた。


大切なことほど、声にすると震えて、いつの間にか消えてしまう。10年分の不器用な想いを文字という形に刻んだのは、消したくなかったからだ。文字にしたなら——届けなければ、この想いがもったいない。


丁寧に、紙を折る。封をして、宛名を書いた。かつての仲間であり、今、再び同じ前を向く男の名前を。


——カイン・セルフォードへ。


深夜にノックを躊躇うような理屈は、熱を帯びた決意の前には無力だった。銀髪をかすかに揺らし、シアは静かに立ち上がった。


―――


ルルは窓から、王都の夜を嗅いでいた。


においが、昨日よりもっと落ち着いていた。何かがちゃんと決まって——次に向かっている感じのにおい。怖いにおいは、まだ少しある。でも——良いにおいの方が、ずっと強い。


山のにおいがした気がした。気のせいかもしれない。でも——少し先の、まだ行ったことのない場所のにおいが、もうここまで来ている気がした。


(次も、一緒に行く)


ジンが言った。当然じゃん、と言った。


ルルは少し笑った。


そうだよ。当然だよ。


次も、その次も——みんなで行くから。それだけでいい。それだけで、十分だ。


―――


ジンは自分の部屋で、窓から夜を見ていた。


水鏡の間のことが、頭の中にある。手に残った暖かさが、まだある気がした。水面に映った山の景色が、まだ目の奥にある。


次の場所が、見えた。


怖い。でも——続けられる。


アル・ヴェリアが400年前に残したものが、少しずつ解けている。なぜジンが触れられるのか、まだわからない。「水と火の間」が何を意味するのか、まだ全部はわからない。ザルヴァが何なのかも、まだわからない。


わからないことだらけだ。


でも——今夜は、わかったことも増えた。


(俺たちの全部で、続ける)


ジンはベッドに横になった。


遠くで、王都の鐘が鳴った。夜の時刻を告げる音。低い音が、部屋に来て——やがて、消えていった。


窓の外に、今夜は昨夜より少し多く、星が見えた。


―――


― 第23話・了 ―


―――


次話予告:翌朝、カインが研究院の資料を確認しに向かった。戻ってきたカインの手には、一枚の古い地図があった。「ありました」とカインが言った。「王都北東の山域——ヴェルダ温泉郷。かつて古代の観測地として使われていた記録が、確かにある」。地図の上に、小さな印がついていた。「ここに——何かがある」。エリナが地図を覗いて、手帳を開いた。ジンが「どのくらいかかりますか?」と聞いた。カインが「歩いて三日。ただし——山道です」と言った。シアが「問題ない」と言った。ルルが「においがする。良い感じのにおい」と言った。次の旅が、始まろうとしていた。

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