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無詠唱の魔王  作者: Dちゃん
第二章「王都に響く歯車の話」

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第21話「審問会の朝と、灰色の外套と、セレクが選んだ席」

審問会の朝が来た。


 ジンが目を覚ました時、窓の外はまだ暗かった。でも——空の端が、ほんの少しだけ、白くなり始めていた。夜が終わろうとしている。


 今日だ。


 頭の中で、静かに思った。怖いか? 怖い。でも——続けられる。昨夜、廊下でルルにそう言った。今も、同じだった。


 身を起こして、顔を洗った。服を着た。特別なことは何もしなかった。いつも通りに動いた。エリナが「いつも通りにしていてください」と言っていたから。それだけが理由ではなかったが——いつも通りが、一番、自分らしかった。


 部屋の扉を開け、廊下へ足を踏み出す。


 視線の先に、銀色の光があった。


 シアだ。いつものように腕を組むこともなく、ただ所在なげに——けれど真っ直ぐに、壁に背を預けて立っていた。夜明け前の薄明かりの中で、その銀髪だけが世界の境界線のように静かに光っている。


「早いね」


「お前もな」


「眠れた?」


「そこそこだ」短い、拒絶のない沈黙。シアは小さく息を吐き、視線を窓の外へと戻した。「悪くはなかった。ただ——この街の夜明けが、少し気になっただけだ」


 ジンは何も言わず、そっとシアの隣に並んだ。


 廊下の窓の向こうで、巨大な王都のシルエットが、終わろうとする夜の底からゆっくりと浮き上がってくる。その層の厚い静けさを頼りに、ジンは静かに尋ねた。


「緊張してる?」


「している」


 シアの声は、風に溶けそうなほど静かだった。けれど、その瞳には迷いがない。


「ただ——怖いとは、少し違う」


「どう違う?」


「怖いのは、自分がどう見られるかを気にしている時だ。今は——」


 シアは一度言葉を切り、隣に立つジンの「いつも通り」の横顔を盗み見るように視線を走らせた。それから、ふっと微かに、口元を緩めた。


「今の俺は、この場所が、そんなに嫌いじゃないからな」


 ジンは少し、シアを見た。


「それは——大丈夫だと思う」


「なぜ」


「シアがちゃんとしてるの、俺にはわかるから。審問の人たちにも、わかる」


 シアが少し、黙った。


「……お前は、どうしてそういうことを、さらっと言えるんだ」


「さらっとじゃない。本当のことを言っただけ」


「……」シアが一度、目を閉じた。それから、前を向いた。「ありがとう」


「どういたしまして」


 廊下の奥から、足音がした。


 エリナだった。手帳を持っている——今朝は、きちんと革表紙を手に持っていた。目が、しっかりしている。昨夜、手帳をしまったはずのエリナが、また新しい手帳を持ち出してきていた。


「おはようございます」とエリナが言った。


「おはよう」とジンが言った。「新しい手帳?」


 エリナが少し間を置いた。「……昨夜の手帳は、引き出しに仕舞いました。今日は——今日の記録のための、新しいページです」


「仕舞った手帳は?」


「大切に取っておきます。ただ——今日は、新しい日です」


 シアが「良い顔をしている」と言った。


「そうですか」


「昨日より、ずっと」


 エリナが少し、口元を緩めた。それから、前を向いた。「朝食にしましょう。審問は昼前ですが——今日は早めに本部へ向かいます」


  ―――


 朝食の場に、六人が揃った。


 ライエルも同じテーブルに来た。今朝は珍しく、早い時間からそこにいた。灰色の上着。白い外套ではない。昨夜もそうだったが——今日も。


「ライエルさん、今日は白い外套じゃないんですね」とジンが言った。


「……ええ」ライエルが少し間を置いた。「今日は、審問の場に王室の特命顧問として立ちます。白い外套は、場を動かす時に使うものです。今日は——記録する側に立つつもりです」


「記録する側?」


「王室として、正式に審問の内容を確認する立場で同席します。ただし——介入はしない。ギルドの場で、ギルドの規則の中で進めることが、今日の意味です」


「それは——マルスさんが決めたこと?」


「私と、マルスさんと、アルド殿下と——三者で確認しました」


 カインが「王室が介入しないことを、あらかじめ確約することで——ギルドの審問としての正当性が担保される。それが、今日の審問の核心だ」と言った。


「教会は?」


「教会も、ギルドの場に入れば、ギルドの規則に従う必要があります。そこに乗り込んできた以上、自分たちの論理だけでは動けない」


 ルルがスープを飲みながら「セレクが昨日、灰色の外套着てた」と言った。


 テーブルが少し静かになった。


「そうだったね」とジンが言った。


「白い法衣じゃなかった。あれ、どういう意味?」


 ライエルが少し、目を細めた。「……私にも、まだわかりません。ただ——白い法衣は、教会の公式の使者としての服装です。それを着ていないということは」


「教会の公式の代理人として来ない、ということですか」とエリナが言った。


「可能性としては、そう解釈できます」


「それは——良いことですか? 悪いことですか?」


「どちらでもある」ライエルが言った。「教会の代理人でないなら——教会の論点を代弁する力が弱まります。ただし、セレクが独自の立場で動くということは——我々の想定の外にある動きをする可能性がある」


「準備の変更は?」とエリナがカインを見た。


「昨日の方針のままで問題ありません」カインが言った。「アル・ヴェリアの研究を最初に出す。その後、封印の経緯。セレクがどう動いても——土台は揺るがない」


「わかりました」


 ジンがパンをかじった。うまかった。


  ―――


 ギルド中央本部の大審問室は——思ったより、広かった。


 正面に、高い台がある。台の上に、三つの席。左から、ギルド法務部の記録担当二名、中央にマルス・ヴェイン。台の前に、長いテーブルが二つ、向かい合う形で置かれている。左側が、ジンたちの側。右側が——教会側の席。


 壁際に、立つための場所がある。そこにライエルが立った。


 部屋に入った瞬間、ジンは空気の重さを感じた。


 重い。でも——圧迫感とは少し違う。何かが決まろうとしている場所の重さだ。


「ジン」とルルが小声で言った。「においがする」


「どんな?」


「いろんな人の意図が混ざってる。でも——中心は、ちゃんとしてる感じ」


「中心は?」


「マルスさんのにおい。あの人が、今日のここの真ん中にいる」


 ジンは少し、マルスを見た。


 台の上に座ったマルスは、今朝も背筋がまっすぐだった。眼鏡の奥の目が、静かに一同を見ている。小さな体が、でも——ぶれない。


 右側の教会席に、二人の人物が座っていた。


 一人は白い法衣の、知らない顔の男だった。書類を持っている。教会の代理人だろう。


 もう一人は——


 灰色の外套だった。


 白い法衣ではない。灰色の外套を着て、教会側の席の端に、静かに座っている。笑顔は、ある。でも——以前の、空洞の笑顔とは、何かが違う。


 セレク・ヴァインだった。


「……セレク」とシアが小さく言った。


「うん」とジンが返した。


「灰色の外套は——想定外だ。教会の代理人ではなく、何かの証人として座っている?」


「あとでわかる」


「わかってから動けるか?」


「エリナが動ける」


 シアが少し、エリナを見た。エリナが静かに頷いた。


 マルスが「着席してください」と言った。声が、大きな部屋に静かに響いた。


  ―――


「審問を、始めます」


 マルスの声が、部屋に落ちた。


「本審問は、冒険者ギルド中央本部・法務部の権限において実施します。審問の対象は、ギルド辺境支部への教会特別教令部による介入の正当性、および当該介入に関連する一切の事案です」


 マルスが書類を一枚、持ち上げた。


「本日の審問では、三つの論点を順に審理します。第一に、封印完成の経緯とその安全性。第二に、ジン・キリシマ殿のギルド登録者としての権利と義務。第三に、ギルド規則に照らした教会側の介入行為の妥当性」


 マルスが、部屋全体を見た。


「最初の発言を——ギルド側、カイン・セルフォード殿にお願いします」


 カインが立った。


 書冊を持っている。眼鏡をかけた、落ち着いた顔。でも——今日の目は、いつもより少し、力が入っていた。


「王立魔法研究院、主任研究員のカイン・セルフォードです。本日は、アル・ヴェリアの封印術式に関する研究資料を、本審問の証拠として提出いたします」


 書冊を、記録担当の方へ手渡した。


「アル・ヴェリアが400年前に各地に施した封印は——何かを解き放つためのものではありません。世界の時間を特定の形で固定し、守るべきものを守り続けるための、防衛的な術式です。封印が完成したことで、何かが解放されたという前提は——術式の構造から見て、成立しません」


「根拠は?」


 教会側の代理人が、静かな声で言った。


「アル・ヴェリアの術式は、魔力を縛るのではなく、その場所の時間を固定する性質を持っています。断絶の崖での封印完成において、外部への力の放出は観測されていません。同行者全員の証言が一致しています」


「術式の解釈は、研究者によって異なる」


「異なる場合があります。ただし——私の解釈には、術式の写しと、ラングレイ唯一の古代語鑑定士レウス・ダーリン殿による解読記録が根拠として付されています。本日、その資料を提出しています」


 代理人が少し、書類を確認した。


 セレクは何も言わなかった。ただ——少し、目が動いた。カインを見ていた。


「続けてください」とマルスが言った。


 カインが座った。


 次に、エリナが立った。


「ギルド辺境支部、受付担当のエリナ・フォルスです」


 声が、落ち着いていた。震えていない。


「封印の現場に同行した記録を、本日の証拠として提出します」エリナが手帳を取り出した。「これは、断絶の崖への同行当日に現地で記録したものです。霧島ジン殿が石板に触れた瞬間から、封印が完成するまでの経緯を、同行した全員の証言と共に残しています」


「手帳の記録は、後から書き直すことができる」と代理人が言った。


「その信憑性の確認のために、同行者の証言があります」エリナが答えた。声が揺れなかった。「シア・ルーナ殿、カイン・セルフォード殿、ルルの三名が、この記録の内容を現場で確認しています。それぞれの証言が一致することを、ご確認ください」


 マルスが「確認します」と言った。「シア・ルーナ殿」


 シアが立った。


「シア・ルーナです」


 声が、静かだった。でも——通った。


「断絶の崖において、ジン・キリシマ殿が石板に触れた際、魔力の暴走や、外部への不安定な影響は観測しませんでした。強大な力が流れる感覚はあった。しかし——それは内側に収束するものであり、外部への破壊的な作用ではありませんでした」


「シア・ルーナ殿は、かつて勇者パーティーを離脱した経緯があります」と代理人が言った。「その信憑性について——」


「確認します」マルスが、代理人を静かに遮った。「シア・ルーナ殿の証言の信憑性は、離脱の経緯とは無関係です。本審問では、証言の内容の整合性を根拠として審理します」


「ただし——」


「離脱の経緯については、後の論点で扱います」マルスが言った。声が変わらない。「今は、封印の安全性についての審理です。続けてください、シア・ルーナ殿」


 シアが少し間を置いた。


「以上です」


 シアが座った。


 ジンはその横顔を見た。緊張しているのは分かった。でも——崩れていなかった。ちゃんとしていた。


  ―――


「次に、第一論点について——教会側の主張を聞きます」とマルスが言った。


 代理人が立った。


「特別教令部・審問代理のオルウェン・ベルデです。封印の完成が危険でないという主張は——証明されていません。術式の解釈は一つではなく、また——」


「封印に触れた当事者であるジン・キリシマ殿の証言を先に聞きます」マルスが言った。「オルウェン殿、着席してください」


 代理人が少し、止まった。それから、座った。


「ジン・キリシマ殿」マルスが、ジンを見た。


 ジンが立った。


「霧島ジンです」


「封印が完成した時——何を感じましたか」


 ジンは少し考えた。


「暖かかったです」


 部屋が、少し静かになった。


「それだけですか」


「暖かくて——誰かに、ありがとうって言われた気がしました。それだけです」


「危険な感覚は?」


「なかったです。むしろ——その場所に自分がいていい、という感じがした。怖くはなかった」


「力の暴走は?」


「ありませんでした。石板に触れた瞬間、力が流れる感覚はあった。でも——暴れるような力じゃなかった。静かなものでした」


「ありがとうございます」マルスが言った。「着席してください」


 ジンが座った。


「ルルの証言は?」とマルスがエリナに向けて聞いた。


「ルルが証言します」とエリナが言った。


 ルルが立った。


 部屋の全員がルルを見た。小さな幼女が、長テーブルの前に立っている。でも——その目は、真っ直ぐだった。


「ルルです」


「封印の場で、何を感じましたか」


「においがしました」ルルが言った。


「においとは」


「あの場所のにおいが——悲しさと嬉しさが混ざったにおいで、でも怒ったにおいじゃなかった。暴れる前の感じじゃなくて——やっと終わった、みたいな感じのにおいでした」


「暴れる感じは、なかった?」


「なかったです。ジンのにおいも、ずっと静かでした」


「ジン・キリシマ殿のにおいについて——普段と違う点は?」


「なかったです。ジンのにおいは、いつも同じ。大きくても、暴れないにおい。その場所でも、変わらなかった」


 代理人が「においによる判断は、証拠として認められるのか」と言った。


「認められます」マルスが言った。「ルルの感知能力については、同行者全員の証言が一致しており、事前の調査において記録があります。本審問ではこれを証言として扱います」


 ルルが座った。


 ジンがルルの頭に、こっそり手を置いた。ルルが少しだけ、嬉しそうにした。


  ―――


 第一論点の審理が一段落した後、マルスが水を一口飲んだ。


「次に——想定外の申し出があります」


 部屋が、少し静かになった。


「セレク・ヴァイン殿から、本審問に関連して証言を行いたいという申請が、本日未明に提出されました」


 エリナが、手帳にペンを走らせる動きが、一瞬だけ止まった。


「セレク・ヴァイン殿は——本日、教会特別教令部の公式代理人ではなく、個人の立場として審問に参加しています。その証言は、個人の証言として扱います。教会側の公式見解とは分離します」


「異議があります」と教会の代理人・オルウェンが言った。「セレクは教会の構成員です。個人の立場での発言を——」


「特別教令部の内部規則において、構成員は個人の立場で法的証言を行う権利を持ちます」マルスが言った。「オルウェン殿、お確かめください」


 オルウェンが書類を急いで確認した。少しして、黙った。


「……確認しました」


「では、続けます。セレク・ヴァイン殿、発言してください」


 部屋の全員が、セレクを見た。


 セレクが立った。


 白い法衣ではなく、灰色の外套。笑顔は、ある。でも——以前の、空洞の笑みではなかった。何かが、入っている笑い方だった。


「セレク・ヴァインです」


 声が——少し、変わっていた。以前の、機械的な均一さとは、少し違う。ほんの少しだけ、重さがある声だった。


「私は——断絶の崖において、封印の完成を直接目撃しました。教会の使者として派遣されていた立場から、正確な報告をする義務があります」


「どのような内容を?」


「封印の完成の場において、外部への危険な力の放出は観測しませんでした。霧島ジン殿が石板に触れた瞬間、大きな魔力の流れがありましたが——それは内部に収束するものであり、周囲への破壊的な影響はありませんでした」


 静寂があった。


「これは——教会の公式見解に反しますか」とマルスが聞いた。


「反します」とセレクが言った。声が揺れなかった。「私の観測した事実と、特別教令部が審問において主張しようとしていた内容は——一致しません」


 部屋が、少し重くなった。


「なぜ——今、それを証言するのですか」とマルスが聞いた。


 セレクが少し間を置いた。


「……観察する者は、観察した通りを伝えるべきだからです」


 セレクが、少し——ジンを見た。


「断絶の崖で——私は、ある言葉を聞きました。その言葉が、私の中で何かを変えました。続けられる理由が、わかった気がした——と、その時に思いました。今日の証言が、その理由の一つです」


 マルスが少し、目を細めた。


「ありがとうございます。着席してください」


 セレクが座った。


 エリナのペンが、ゆっくりと——でも、はっきりと、手帳の上を動いていた。


  ―――


 第二論点。


 ジンの出自——異世界から来た人間として、ギルドの保護対象かどうか。


 教会の代理人・オルウェンが立った。


「ギルドの規則は、この世界の住人を対象として書かれています。霧島ジン殿は——異世界から来た人間です。ギルドの保護は、適用されないのではないでしょうか」


「マルス殿の見解を聞きます」とジンの側からエリナが言った。


「ギルドの登録規則は、出自の世界を条件としていません」マルスが言った。「ジン・キリシマ殿はギルドに正式登録し、依頼をこなし、ギルドの枠組みの中で活動してきた実績を持ちます。出自がどこであれ、その実績はギルドの構成員としての行為です」


「しかし——世界の外から来た存在が、ギルドの利益を——」


「逆に確認します、オルウェン殿」マルスが言った。「霧島ジン殿が異世界から来た存在だと認定する場合——この世界の外に、世界が存在するということになります。それは、現在の教会の世界観と一致しますか」


 オルウェンが、止まった。


「世界を設計した神の御意思の下で、世界は完結しているはずです。その外から人間が来るということは——御意思の外に、何かがある。その矛盾について、教会側の見解を聞かせてください」


 オルウェンが書類を見た。何かを探した。答えが、なかった。


「……それは、本審問の論点とは」


「本審問の論点です」マルスが言った。「ジン・キリシマ殿の出自を問題にしたのは、教会側です。論点を立てた以上、その論点が呼び込む問いにも答える必要があります」


 沈黙が落ちた。


 ジンは少し、マルスを見た。


(小さいけど——強い人だ)


 頭の中で、静かに思った。椅子に座ったまま、ぶれない背中。声が揺れない。


「第二論点についての教会側の立場は、以上ですか」とマルスが聞いた。


「……以上です」とオルウェンが、やや小さな声で言った。


  ―――


 第三論点。


 教会特別教令部の辺境での介入行為の妥当性。


「エリナ・フォルス殿」マルスが言った。「辺境での介入の経緯を、具体的に証言してください」


 エリナが立った。


 手帳を開いた。でも——読み上げるためだけに開いたのではなかった。確認のために開いて、それから、自分の言葉で話した。


「ラングレイ支部において、教会特別教令部の使者セレク・ヴァイン殿は——ジン・キリシマ殿の身柄引き渡しを要求しました。水路で発見した石板の提出と、水源の文字の写しの提出も要求しました」


「その要求の根拠は?」


「根拠は示されませんでした。ギルドの管轄内にある人員の身柄と、ギルドの調査で発見された資料の引き渡しを——ギルドの規則に依拠しない形で要求することは、越権行為です」


「ギルドは、どう対応しましたか」


「拒否しました。ギルドの権限と規則を根拠として、毅然と拒否しました」


「その後は?」


「教会側は、断絶の崖においても先回りして動いていました。我々の調査を妨害しようとしました。これも、ギルドの調査権限に対する不当な介入です」


「それらの事実は、記録されていますか」


「はい」エリナが手帳を持った。「すべて、現場で記録しています。同行者の証言と一致しています」


 オルウェンが「セレク・ヴァインの行動は、特別教令部の正式な指示に基づくものです。それを越権と呼ぶことは——」


「セレク・ヴァイン殿は本日、個人の立場で証言されています」マルスが言った。「教会の公式行動としての立場との分離については、先ほど確認しました。オルウェン殿が言う『正式な指示』の内容を、本審問に提出していただけますか」


「……指示の内容は、教会の内部文書です」


「提出できないということは、公式に確認できないということです。公式に確認できない指示を根拠に行動した場合——それはギルドの規則においては、個人の判断による行動として扱われます」


 静寂があった。長い静寂だった。


「……異議はありますか」とマルスが聞いた。


 オルウェンが、書類を見た。それから、前を向いた。


「……ありません」


 エリナが着席した。


 手帳にペンを走らせる音が、静かな部屋に、はっきりと聞こえた。


  ―――


 審問が、一段落した。


 マルスが水を飲んだ。


「三つの論点の審理を終えます。本審問の結論は——後日、正式に文書で通知します。ただし、本日の審理の中で確認された事実については、この場で整理します」


 マルスが書類を一枚、手に取った。


「一。断絶の崖における封印の完成において、外部への危険な力の放出は確認されなかった。これは、複数の独立した証言によって裏付けられている。二。ジン・キリシマ殿のギルド登録者としての権利は、出自によって否定されるものではない。三。特別教令部のラングレイ支部における一連の要求は、ギルドの規則の外での行動として、越権行為に該当する可能性が高い」


「可能性、という表現は?」とエリナが聞いた。


「正式な結論文書においては、より明確な言葉を使います。本日は、審理の場での整理として、この表現を使います」


「了解しました」


 マルスが、立ち上がった。


「以上で、本日の審問を終了します」


 声が、大きな部屋に静かに響いた。


  ―――


 廊下に出た。


 五人と、ライエル。


 ジンは、大きく息を吐いた。緊張が、音もなく抜けていく感じがした。審問室の重い石の扉が閉まる音が、廊下の空気に溶けていく。


 エリナが手帳を胸に抱いて、一歩、足を止めた。その目が——審問室の方向をもう一度だけ向いて、それから前を向いた。小さく、でも確かに、頷いた。


(終わった)


 マルスがちゃんと守った。カインが資料を積み上げた。シアが揺れなかった。ルルが正直に証言した。エリナが毅然と立った。そして——誰も想定していなかった場所から、セレクが証言台に立った。


 それでいい。それだけで、今日は十分だった。


 廊下の端に、白い法衣ではない灰色の外套が、ひっそりと立っていた。


 エリナが少し、立ち止まった。


「セレク殿」


 セレクが振り向いた。笑顔。でも——以前の笑顔とは、はっきりと違った。


「エリナ・フォルス殿」


「証言——ありがとうございました」


 セレクが少し、首を傾げた。「礼を言われるとは思っていませんでした」


「観察した通りを伝えた、とおっしゃいました。それは——正直な人のすることです」


「正直、ですか」


「そう見えました」


 セレクが少し間を置いた。「……正直という概念を、私は長い間、理解していませんでした。観察する者に、正直や不正直は関係ない——そう思っていた」


「今は?」


「今は——観察したことを、ちゃんと伝えたい、という気持ちが、少しあります。それが正直と呼ばれるものかどうかは、まだわかりませんが」


「それで、十分だと思います」


 セレクが、少し——ジンを見た。


「ジン・キリシマ殿」


「何ですか」


「断絶の崖で——続けられる理由が、わかった気がすると言いました。今日、この審問に来たことで——もう少し、その理由が具体的になった気がします」


「どんな理由が?」


「観察する、ということは——何かのために観察するということだ、と。目的なく観察し続けることに、意味はない。でも——今日の審問を観察したことには、意味があった気がする」


「それは——良かった」


「良かった、ですか」


「良かったよ。なんか、セレク、ちゃんとしてきた気がする」


 セレクが少し、止まった。それから——本当に少しだけ、笑いの質が変わった。以前の空洞の笑いでも、何かを模索する重い笑いでもなく——ほんの少し、温かい笑いだった。


「……そうかもしれません」


 セレクが、廊下の奥へ歩いていった。白い法衣ではない、灰色の外套が、遠ざかっていく。


 ルルが「においが変わった」と小声で言った。


「どう変わった?」とジンが聞いた。


「探してる感じのにおいから——少し、落ち着いてきた。まだ混乱してるけど——悪くないにおいになってきてる」


「そっか」


「うん」


  ―――


 宿に戻ったのは、昼過ぎだった。


 食堂に五人と、ライエルが集まった。スープが来た。パンが来た。


「終わった」とジンが言った。


「終わった」とシアが言った。


「審問は、終わりましたね」とエリナが言った。「結論はまだですが——今日の審理は、ちゃんと終わりました」


「良かった?」とジンが聞いた。


「良かったです」エリナが言った。声が、落ち着いていた。「想定通りに動けました。セレクの証言は想定外でしたが——プラスに働きました」


「カイン、最初の発言、かっこよかった」とジンが言った。


「かっこいいとは何ですか」とカインが言った。


「なんか、すっと入った感じがした。難しいことを言ってるのに、わかりやすかった」


「……それは、研究者としての努力の賜物です」


「褒めてるのに受け取り方が難しい」


「シア殿に似てきましたね、言い方が」


 シアが「俺のせいにするな」と言った。


「否定できますか?」


「……黙れ」


 ルルが「シア、今日の証言、かっこよかった」と言った。


 シアが少し、固まった。


「……そうか」


「うん。声が、ちゃんとしてた。揺れなかった」


「……そうだったか」


「うん」ルルが言った。「シアのにおい、今日は違った。以前みたいな——遠慮してる感じのにおいじゃなかった。ちゃんと前を向いてた」


 シアが、スープを見た。少しだけ、目が動いた。何かを考えている顔だった。


「……ありがとう、ルル」


「どういたしまして」


 ライエルが「マルスから、先ほど連絡がありました」と言った。


「何ですか?」とエリナが顔を上げた。


「正式な結論文書は三日後に出る。その前に——非公式ではありますが、今日の審理は妥当に進んだという確認を、マルスから受けました」


「三日後に文書が出る、ということは」


「今夜は、休んでいいということです」ライエルが言った。「今日は——よく動いた」


「ライエルさんが褒めた」とジンが言った。


「褒めていません。事実を言いました」


「事実が褒めになってる」


 ライエルが少し、止まった。


「……そうかもしれません」


 シアが「珍しいな」と言った。


「何が」


「笑わない顔が——少し緩んでいる」


「……」ライエルが、少しだけ、顔を動かした。「緊張が解けているのかもしれません」


「良いことだ」


 短い沈黙があった。でも——悪い沈黙ではなかった。


「うまい」とジンが言った。


「また言った」とシアが言った。


「うまいんだから」


「……うまい、とは思う」


「言えた」


「黙れ」


 食堂に、小さな笑いが起きた。


 ルルが「明日のにおい」と言った。


「どんな?」とジンが聞いた。


「昨日より、軽い」ルルが言った。「何かが——ちゃんと落ち着いた感じのにおい。決まっていく感じが、今日より穏やかになってる」


「それは——良いことだね」


「たぶん」ルルが言った。「怖いにおいが、少し消えた。まだ全部じゃないけど——今日、ちゃんとしたことが、においになってる気がする」


 カインが「ルルの表現は、詩的ですね」と言った。


「詩的?」


「難しいことを、においで言えてしまう。それは、言語化の一つの才能です」


「褒めてる?」


「褒めています」


 ルルが少し、嬉しそうにした。


  ―――


 夜。


 ジンは宿の廊下を少し歩いた。


 窓から、王都の夜が見える。灯りが多い。あの王室の会合の夜より、少し——空気が軽い気がした。


「ジン」


 声がした。


 カインだった。自室の扉の前に立っていた。


「何ですか?」


「一つだけ」カインが言った。「今日の審問について——研究者として、確認しておきたいことがあります」


「どうぞ」


「封印に触れた時——暖かかった、と言いましたね。誰かにありがとうと言われた気がした、と」


「うん」


「その感覚は——石板に残っていたアル・ヴェリアの意思だと、私は考えています。400年前に術師が込めた念が、ジン殿という『引き継ぐ者』が触れた時に、初めて完全に伝わった」


「研究者として、それを確認したかったの?」


「確認したかった、というより——ジン殿に言っておきたかった、という方が正確です」


 廊下に灯る魔導ランプの柔らかな光が、カインの真摯な横顔を照らしていた。その瞳は、遥か過去の歴史の糸を手繰り寄せるように、静かに揺れている。


「アル・ヴェリアは、誰かが来ることを信じて、未完成の封印を残した。400年、誰にも触れられなかった。でも——ジン殿が来た」


 カインは少し間を置いた。


「決して、大仰な予言や運命の話をしたいのではありません。ただ——あの日、あの断絶の崖にジン殿がいた。そして、四百年間誰にも届かなかった祈りに、貴方が触れた。それだけのことです。ただ、その『それだけのこと』の重さを、私は研究者として、何より一人の人間として——深く、尊いものだと思っています」


 ジンは少し、カインの言葉の裏にある、押し付けがましくない純粋なリスペクトを感じ取った。


 それだけのこと、か。


 ジンは少し困ったように笑うと、窓の外の——昼間より少し空気が軽くなった王都の夜空を見上げた。


「……そっか。でも、俺一人じゃ絶対にあの崖には行けなかったからさ」


 声が、廊下の静寂に溶けていく。


「ルルがいて、シアがいて、エリナがいて、カインがいてくれたから、俺はあそこにいただけなんだよね。だから——世界が必要としてたのは、俺たちの全部、なのかもしれないね」


 カインが、一瞬だけ目を見開いた。


 それから——眼鏡の奥で、静かに目を細めた。苦笑とも微笑とも取れる、柔らかい顔だった。


「……そうかもしれませんね」


「嬉しいことを言ってくれてありがとう、カイン」


「嬉しいかどうかより、正確なことを言っています」カインが少し、首を振った。「ただ——そう、嬉しいことでもあると思います」


「おやすみ」


 扉が閉まった。


 ジンは廊下に一人、残った。


 魔導ランプのオレンジ色の光が、古い石壁を静かに照らしている。ジンはしばらくその場に立って、カインの言葉を頭の中でもう一度、転がした。


(俺たちの全部、か)


 そうだと思った。自分一人の力じゃない。エリナが書いて、シアが証言して、ルルが感じ取って、カインが積み上げた。それが全部、今日の審問室にあった。


 世界が必要としていたのは、その全部だった。


 ジンは廊下をゆっくり歩いた。


 ルルの部屋の前を通った。灯りが消えていた。もう眠っているらしい。


 シアの部屋の前を通った。灯りが漏れていた。何かをしている。書いているかもしれない。


 エリナの部屋の前を通った。灯りが漏れていた。ペンの音がした。書いている。


(みんな、ちゃんとしてる)


 頭の中で、静かに思った。


 自分の部屋の扉を開けた。窓から、王都の夜が見える。灯りが多い。星は少ない。でも——昨夜より、少し、見えた。


 ジンはベッドに腰掛けて、少しの間、窓を見た。


 ラングレイの路地裏で目覚めたあの日から、ここまで来た。まだ終わっていない。アル・ヴェリアの封印が守っていたものが何なのか、まだわからない。ザルヴァのことも、まだわからない。


 でも——今日、ここで、守るべきものが守られた。


 カインは「世界がジン殿を必要としていた」と言った。俺はそれを、「俺たちの全部」に言い直した。どちらが正確なのかは、まだわからない。でも——どちらでも、いい気がした。


 大事な人たちが、ちゃんとそれぞれの場所にいる。今夜は、それで十分だった。


 ジンは横になった。


 窓の外で、王都の鐘が鳴った。夜の最後の鐘。


 低い音が、静かに部屋に流れ込んで——やがて、消えていった。


  ―――


— 第21話・了 —


次話予告:三日後、マルスから結論文書が届いた。封を開いたエリナの手が、一瞬——止まった。文書の末尾に、通常の審問結論には書かれない、一文が加えられていた。「本審問において確認された事案は、ギルドの範疇を超える可能性があります。王室との正式な協議を推奨します」——エリナが顔を上げた。ジンが「どういう意味?」と聞いた。エリナが「次が、始まる、ということだと思います」と、静かに答えた。


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