第20話「審問前日の廊下と、セレクが笑った理由と、エリナが手帳を開かなかった夜」
審問会まで、あと一日。
王都の朝は、早い。
ジンが目を覚ました時、窓の外はまだ薄暗かった。でも、街の音がすでに動いている。荷馬車の軋み。遠くの市場の声。石畳を踏む靴の音が、重なって聞こえてくる。
ラングレイと、音の種類が違う。多い、というよりも——層が厚い。いろんな目的を持った人間が、いろんな方向に動いている音だ。
(今日は、マルスさんと最終確認)
頭の中で、エリナが昨夜整理していた予定を思い出した。審問前日の朝。ギルド中央本部での最終確認。そして——午後は、各自の準備時間。
ジンは身を起こして、窓を少し開けた。
冷たい空気が入ってきた。王都の朝の空気は、ラングレイより少し重い。人の気配が、空気にも混じっている。
―――
朝食を済ませて、一行はギルド中央本部へ向かった。
石畳の道を歩いた。五人と、ライエル。ライエルは今朝も白い外套ではなく、灰色の上着を着ていた。護衛は後ろに控えている。表情は、相変わらず笑わない。
「今朝は静かですね」とジンが言った。
「審問の前日は、関係者が外を歩かない傾向があります」とライエルが答えた。「それぞれが、それぞれの場所で準備をしている」
「教会側も?」
「おそらく」
「セレクも、どこかにいるんですね」
ライエルが少し間を置いた。「いるはずです。今朝の時点では、動きの報告はない」
ルルが「においはない」と言った。「今のところ」
「それは助かります」
ルルが「でも——」と続けた。「昨日より、全体のにおいが重くなってる。いろんな人が、同じことを考えてる感じのにおい」
「審問のことを?」とカインが聞いた。
「たぶん。何かが決まる前の、ちょっとざわざわした感じ」
シアが「明日の話だ」と言った。「今日は、準備をする」
「そうですね」とライエルが言った。
―――
ギルド中央本部に入ると、昨日より人が多かった。
廊下を歩く職員の数が増えている。書類を抱えた人間が行き交う。声のトーンが、昨日より少し低い。張り詰めた空気が、廊下の空気にも混じっていた。
エリナが、廊下を歩きながら少しだけ、辺りを見た。
建物の造りを見ている。廊下の幅。天井の高さ。窓の位置。昨日も見たはずなのに——もう一度、確かめるように。
「エリナ」とジンが言った。
「はい」
「緊張してる?」
エリナが少し間を置いた。「……しています。していない、と言ったら嘘になります」
「そっか」
「ただ——」エリナが前を向いた。「今は、緊張よりも、やることの方が多い。それの方が大事です」
「うん」
「審問が終わってから、緊張します。順番が逆ですが」
「それでいいと思う」
シアが「それが正しい順番だ」と言った。前を向いたまま、静かに。
―――
マルスとの最終確認は、昨日と同じ小会議室で行われた。
マルス・ヴェインは、今朝も同じ椅子に座っていた。背筋がまっすぐで、ぶれない。白髪混じりの短い髪。眼鏡の奥の目が、穏やかに一同を見た。
「揃いましたね」とマルスが言った。「始めましょう」
審問の流れについて、マルスが説明した。
冒険者ギルドの法務審問は、通常の裁判とは異なる。ギルド内部の事案として処理されるため、外部——王室や教会——が直接介入する権限は持たない。ただし、証人として呼ばれた者の証言は、外部組織にも影響力を持つ場合がある。
「教会側は、正式な反論権を持っています」とマルスが続けた。「特別教令部の代理人が、審問の場で発言する機会を持つ。ただし——ギルドの規則の外で動くことは許されない」
「どういう手を使ってくると思いますか」とエリナが聞いた。
「三つ、考えられます」マルスが指を立てた。「一つ目——ジン殿の無詠唱魔法が、世界に対して不安定な影響を与えると主張する。封印の完成が、何か危険なものを解き放ったと」
「でも、そうじゃない」とジンが言った。
「そうではない。ただし、証明が難しい。感覚的な体験は、記録として残りにくい」
「エリナが書いてます」
マルスがエリナを見た。
「手帳に、全部記録しています」エリナが言った。「封印の際に何が起きたか。ジンさんが何を感じたか。ルルが何を感じ取ったか。その場にいた全員の証言を、その場で記録しました」
マルスが少し、目を細めた。
「……それは、有効な資料になります」
「資料として提出できますか」
「できます。ギルドの法務審問では、個人の記録は証拠として扱えます。ただし——信憑性の確認が必要になる」
「信憑性の確認というのは?」
「記録が、実際に現場で書かれたものであること。後から書き直したものではないこと。それを証明できる人間が、少なくとも一人いること」
「シアさんが証言できます。カインさんも、一部については。ルルも」
「それで十分です」
「二つ目は?」とシアが聞いた。
「ジン殿の出自——異世界から来た人間であるという点を、突いてくる可能性があります。ギルドの規則は、この世界の住人を対象として書かれている。ジン殿が、ギルドの保護を受けるべき存在かどうか、という論点です」
「……それは、問題になりますか」とエリナが聞いた。声が少し低い。
「ギルドの規則の解釈問題です。私は、ジン殿はギルドの保護対象だと考えています。ラングレイ支部に登録され、依頼をこなし、ギルドの枠組みの中で動いてきた。それは、出自に関わらず、ギルドの構成員としての実績です」
「でも、教会はそう言わない?」
「言わない可能性がある。ただ——この論点は、教会にとっても諸刃の剣です。ジン殿が世界の外から来た存在だと認めることは、世界の構造そのものについての問いを呼び込む。教会が得意としない領域です」
カインが「なぜ」と聞いた。
「世界の外から来た人間がいるということは——ザルヴァが設計した世界の外に、何かがあるということになる。教会にとって、それは答えにくい問いです」
静かな沈黙があった。
カインが「……よく見ている」と、小さな声で言った。
「三つ目です」マルスが続けた。「これが、一番やっかいかもしれない」
「何ですか」
「シア・ルーナ殿の過去——勇者パーティーを離脱した経緯を、審問の場で問題化しようとする可能性があります」
部屋が、少し静かになった。
シアが何も言わなかった。でも——ジンにはわかった。聞こえている。
「どういう意図で?」とエリナが聞いた。声が、きちんとしていた。
「ジン殿の周囲に信頼性の低い人物がいる、という印象を作るためです。シア殿は、かつて神聖な職を持つ勇者パーティーを自ら離れた。教会にとっては——それは、神の意思に背いた行為として解釈できる」
「解釈できる、というだけで、事実ではありません」とエリナが言った。
「事実ではない。ただ——審問は、事実だけで動くわけではない。印象も、審問の結果に影響します」
「……シアさん」とエリナが言った。シアを見た。
シアが少し間を置いた。「……昨夜、話すと言った。話す」
「今、ここで?」
「マルスに聞いてもらった方がいい」
マルスが「話せる範囲で、話してください」と言った。「強制ではありません」
シアが、少し、テーブルを見た。
「勇者パーティーを離れたのは——神の使命に疑問を持ったからです。戦い続ける理由が、自分の中にはなかった。神のための戦いではなく、自分が守りたいものを守るために動きたかった。それだけです」
声が、静かだった。揺れていなかった。
「教会への反逆ではない。ただ——合わなかった。それが、答えです」
マルスが少し、頷いた。「わかりました。その言葉を、審問で使えます」
「使ってくれ」
「……シア殿」
「何ですか」
「あなたは、正直な人だ」
シアが何も言わなかった。でも——少しだけ、顔が変わった。ジンには、何かがほどけたように見えた。
―――
会合が終わったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
廊下に出た。五人と、マルス。マルスは「午後は各自、休んでください。明日は早い」と言って、別の廊下へ歩いていった。背中が、小さいが——ぶれない背中だった。
「昼食にしようか」とジンが言った。
「そうしましょう」とエリナが言った。
一行が廊下を歩き始めた。その時——
「エリナ・フォルス殿」
声がした。
廊下の端から。穏やかな、よく通る声。感情の起伏が、ない。
エリナが、立ち止まった。
振り返った。
白い法衣。
笑顔。
```
でも——その目は、笑っていない。いや——
(違う)
エリナは、一瞬、思った。
```
今のセレクの目は——以前と、何かが違う。断絶の崖で見た目とは、違う。あの時の目は、完全に空洞だった。何も入っていない、透明なガラスの目。
```
でも——今の目には、何かが入っている。それが何なのかは、エリナには、まだわからなかった。
「ご準備は、よろしいですか」
```
セレクが言った。笑顔のまま。
「……はい」エリナが答えた。声を、整えた。「明日の審問についてですか」
「そうです」セレクが言った。「明日——良い審問になると、良いですね」
「良い、というのは」
「正確な場になる、という意味です。誰かが誰かを言い負かす場ではなく——本当のことが、きちんと問われる場」
エリナが少し、セレクを見た。
(この人は、今——何を言っている?)
「セレク殿は」エリナが言った。「教会の側として、審問に来るのですか」
「私の立場は——今は、少し、変わっています」
「変わっている?」
「詳しくは、明日。今日は——ただ、ご挨拶をしたかっただけです」
セレクが、少し、一歩引いた。
「エリナ・フォルス殿。あなたが相談状を出したこと——私は知っています。届かなくても構わないと思いながら書いた文章が、世界を動かすことがある。それを——興味深いと思っています」
「……なぜ、それを知っているんですか」
「教会は、多くのことを把握しています。ただ——把握することと、正しく理解することは、別のことだと——最近、思い始めました」
セレクが、また少し、笑った。
でも——その笑いは、以前の、空洞の笑いではなかった。ほんの少しだけ——重さがある笑い方だった。
「明日」とセレクが言った。「よろしくお願いします」
```
そう言って、白い法衣が廊下の奥へ、静かに消えていった。
―――
五人が、廊下に残った。
```
しばらく、誰も何も言わなかった。
「……エリナ」とジンが言った。「大丈夫?」
「……はい」エリナが少し、息を吐いた。「大丈夫です。ただ——」
「ただ?」
「セレクが——変わっていました」
「変わった?」
「目が、違いました。断絶の崖の時とは」
ルルが「うん」と言った。「においも、違った」
「どう違った?」とジンが聞いた。
「前は——においがなかった。その人のにおいが、何も。でも, 今は——少しだけ、ある」
「良いにおい?」
ルルが少し考えた。「……わかんない。でも——悪くはない。混乱してる感じのにおい。何かを探してる」
```
カインが「アル・ヴェリアの断片に、あった言葉です」と言った。「感情を捨てた者は、やがて観察する理由も失う——と。もしセレクが、断絶の崖でジン殿の言葉を聞いてから変わり始めたとしたら」
「続けられる理由が、わかった気がします——って言ってたやつ」とジンが言った。
```
「ええ。あの言葉が——何かを動かしたかもしれない」
「それは……良いことですか」
「良いかどうかは、まだわかりません。ただ——」カインが少し、口元を引き締めた。「教会の使者が、教会とは別の動きをし始めるとすれば——明日の審問は、私たちが想定している以上に、複雑な場になるかもしれない」
シアが「対処できるか?」と聞いた。カインに向けて。
「対処できます。ただ——準備の方向を、少し変えた方がいいかもしれない。エリナ」
「わかっています」エリナが言った。「午後に、整理します」
―――
昼食は、宿の食堂で取った。
スープと、パンと、焼いた野菜。王都のスープは、昨日と少し味が違った。香辛料の種類が違うのかもしれない。
「うまい」とジンが言った。
「また言った」とシアが言った。
「うまいんだから仕方ない」
「それは認める」
ルルが「昨日より、ちょっと辛い」と言った。「でも好き」
カインが「香辛料の産地が変わるのかもしれません。王都は、辺境より東の交易路に近い」と言った。「辛みのある香辛料が安く入る」
「カインって、そういうことをよく知ってるね」とジンが言った。
「研究者は、世界の構造を知ることが仕事ですから。食材の流通も、世界の構造の一つです」
「研究院って、ほんとになんでも研究するんだね」
「わからないことを、わかろうとする場所ですから。対象は選びません」
シアが「昔から、そういうやつだった」と言った。小さな声で。どこか, 懐かしむような声だった。
カインが「シアは、昔から——調べることより、動くことの方が好きだった」と言った。
「悪いか」
「悪くない。そのおかげで、私の研究が進んだことも多い」
「……そうか」
```
二人の間に、短い沈黙が落ちた。でも——悪い沈黙ではなかった。十年という時間が、二人の間に静かに横たわっていた。でもそれは、隔てるものではなく——今は、共有されているものだった。
「午後は何しますか?」とジンがエリナに聞いた。
```
「私は——準備の見直しを。セレクの動きを踏まえて、証言の順序を変えた方が良いかもしれない。カインさんと相談します」
「俺は?」
「ジンさんは——普通にしていてください」
「普通に?」
「いつも通りに。それが一番、審問で役立ちます」
ジンが少し考えた。「……わかった」
「本当にわかっていますか?」
「普通にしてればいいんでしょ。できる」
エリナが「……信じます」と言った。
ルルが「あたしは?」と聞いた。
「ルルは——においのこと、少し頭の中で整理しておいてください。審問で証言を求められる可能性があります」
「においを、言葉で言う練習?」
「そうです。ルルの感覚は、とても正確です。でも——審問の場では、聞いている人に伝わる言葉にする必要があります」
ルルが「……難しい」と言った。「においって、言葉にしにくい」
「一つだけでいいです。セレクのにおいが、断絶の崖の時と今日で違った——それを、一文で言えたら十分です」
ルルが少し考えた。「……前は、何もなかった。今は、探してるにおいがある。そういう感じ」
「それで十分です」
―――
午後、ジンは宿の近くを一人で歩いた。
「普通にしていてください」とエリナが言った。だから、普通にしている。王都の石畳を歩いて、店先を見て、特に何かを買うわけでもなく、ただ歩いた。
人が多い。いろんな人がいる。商人と、職人と、子供と、老人と。教会の白い服の人間も、遠くに見えた。でも、近づいてくる気配はない。
(明日)
頭の中で、静かに思った。
審問。マルスが言っていたことが、頭の中にある。三つの論点——ジンの力への懸念、出自の問題、シアの過去。そのどれも、ジンにはどこか、遠い感じがした。
怖いか?
少し、怖い。でも——ルルが言ってくれた。シアが言ってくれた。エリナが準備している。カインが知識を持っている。ライエルが情報を持っている。アルドが——王室から動こうとしている。
みんな、続けている。だから、俺も続けられる。
石畳の角を曲がったところに、小さな屋台があった。果物を売っている。赤い、丸い、見たことのない果物。
「それ、何ですか?」とジンが屋台のおじさんに聞いた。
「ヴァリーナだよ。王都の名産。甘くて少し酸っぱい」
「一つ、もらえますか」
銅貨を一枚渡した。おじさんが「はいよ」と言って手渡してくれた。
一口かじった。甘い。それから、少し酸っぱい。確かに、そういう味だった。
(うまい)
心の中だけで言って、また歩き出した。
―――
夕方、宿に戻ったら、エリナとカインがテーブルで話し込んでいた。
手帳と書冊が、テーブルの上に広がっている。エリナのペンが、紙の上を走っている。カインが書冊を開いて、何かを指さしながら話している。
「どう?」とジンが聞いた。
「整理できています」エリナが言った。「セレクの動きが読めない部分は残りますが——こちらの証言の順序を変えました。カインさんのアル・ヴェリアの研究を、最初に出す形に」
「それはなぜ?」
「封印の完成が危険なものを解き放ったというのが教会の最初の論点だとすれば——その前提を崩すことで、議論の土台ごと変えられます。アル・ヴェリアの研究は、封印が何かを守るためのものであることを示す。ジンさんは、それを完成させた人間だ。危険ではなく——引き継いだ、ということが先に伝われば」
カインが「理論的には、正しい順序です」と言った。「ただし——アル・ヴェリアの研究を正当な証拠として認めさせるには、私が研究院の主任研究員として発言する必要がある。今回は個人での参加ですが——資格は持っています」
「問題ありますか?」
「形式上は問題ない。ただ——研究院への事後報告が、審問後に必要になります」
「了解しました」エリナが言った。「それはカインさんに委ねます」
「任せてください」
シアが窓際の椅子に座って、腕を組んで聞いていた。
「シア、何か聞きたいことある?」とジンが聞いた。
シアが少し間を置いた。「……俺の証言は、エリナが言った通りでいいか」
「何を聞くつもりですか?」とエリナが確認した。
「勇者パーティーを離れた理由——今朝マルスに言ったことを、そのまま言う。神への反逆ではなく、合わなかった。それだけだ」
「それで十分です。一つだけ、付け加えてもいいですか」
「言ってくれ」
「今のシアさんが何をしているか、なぜここにいるか——それも言える範囲で言ってください。離れた経緯だけでなく、その後の話があると、印象が変わります」
シアが少し、考えた。「……わかった」
「どんな言葉で言いますか?」
「……今は、世界に守られるべきものがあると思っている。それを守る側にいたい。だから、ここにいる」
エリナが少し間を置いた。「……完璧です」
「お世辞か」
「本当のことを言っています」
シアが何も言わなかった。でも——そのまま、静かに前を向いた。その顔に、決意があった。
―――
夕食は、また宿の食堂だった。
今夜はライエルも同じテーブルについた。六人。スープが来た。パンが来た。
「今日のスープは?」とルルが聞いた。
「昨日と同じ店のはずですが」とライエルが言った。
「味が違う」
「…そうですか。私には、わかりません」
「ライエルって、あんまり食べ物の味に興味ない?」
ライエルが少し、止まった。「……あまり、ないかもしれません」
「なんで?」
「考えることが多くて——食べることを、意識して行うことが少ない。食べないわけではないが」
「それ、寂しくない?」
ライエルがまた、少し止まった。「……そういう問いを、受けたことがなかった」
「寂しいかどうか、考えたことがなかったってこと?」
「……そうかもしれません」
```
ジンが「うまいものはうまいよ」と言った。「それだけのことだけど、それだけのことが——結構大事だと思う」
ライエルが、ジンを見た。
```
「……そうですね」
声が、少しだけ、柔らかかった。
「明日について」ライエルが言った。「王室としての立場を、一つ、今夜伝えておきます」
「何ですか」
「審問の結果がどうであれ——王室は、ジン殿の身の安全を保証します。ギルドの判断が教会に利用されるようなことがあれば、王室が介入する。それが、アルド殿下の意向です」
「アルドが?」
「殿下は——昨夜の会合の後、私にそう伝えました。正式な文書は審問の前日に出せないため、言葉だけになりますが」
「言葉で十分だよ」とジンが言った。「ありがとう。アルドに伝えておいてください」
「……伝えます」
ルルが「ライエル、今夜は何か書く?」と聞いた。
ライエルが少し、意外そうな顔をした。「なぜ聞くのですか」
「昨日、夜に書いてた。においがした」
「……報告書ではありません」
「じゃあ何?」
ライエルが少し間を置いた。「……宛先を書けていない手紙です。まだ、誰に送るべきかわからない」
「書き続ける?」
「……おそらく」
ルルが「そういうの、大事だよ」と言った。「届かなくても、書くことが大事なの。ジンが言ってた」
```
ライエルがジンを見た。
ジンが「俺じゃなくて、エリナが言ったことだけど」と言った。
エリナが「……私も、ジンさんの言葉から学んだことです」と言った。
三人が少し、見合った。
ライエルが「……そうですか」と言った。声が、また少し、柔らかかった。
―――
夜が来た。
```
宿舎の静寂の中、エリナは一人、机に向かっていた。
備え付けの魔導ランプが放つ淡い琥珀色の光が、ぽつんと置かれた白い手帳を静かに照らしている。その表紙は、ラングレイの支部で何度もめくり、彼女のこれまでの歩みをすべて書き留めてきた、いわばプロの受付嬢としての「誇り」そのものだった。
今日も、書き留めるべき言葉はいくらでも脳裏に溢れている。王都の層の厚い音。ギルド中央本部の高い天井。静かな廊下でこちらに向けられた、底の知れないセレクの笑み。シアが、勇者パーティーを離れた理由を、揺れることなく言い切った声。
けれど、エリナの指先は、手帳の硬い革の表紙に触れたままで、ぴたりと止まっていた。
(私は——記録をするためにここまで来たんじゃない)
目を閉じれば、今日の張り詰めた空気の中で、いつもと変わらず頼りなく、けれど世界の誰よりも絶対的な安心感を持って佇んでいた、黒髪の青年の背中が浮かぶ。かつてあれほど恐怖に震えていた指先は、いまや驚くほど静かに落ち着いていた。
エリナは吐息を一つこぼすと、そっと手帳から手を離した。ページは、白いままでいい。
一度も開かれることのなかった手帳を、彼女は机の引き出しの奥へと、静かに、優しく仕舞い込んだ。
明日は、歴史を記録するギルド職員としてではなく——彼の隣で、一人の人間として、その未来を見届けるために。
パチン、と小さな音を立てて引き出しが閉まった。暗い引き出しの中に消えていく白は、彼女が過去の憧れを完全に手放し、新しい明日へ進むための、静かな決意の証明だった。
―――
シアは、窓際に座っていた。
手に、紙がある。でも——今夜は、書いていない。ただ、持っている。
カインが向かいの部屋にいる。気配がある。灯りが漏れている。書いているかもしれない。それとも、読んでいるかもしれない。
(十年)
シアは、その時間を頭の中で転がした。
勇者パーティーを離れて、一人で動いて、誰にも連絡を取らずにいた。カインへの手紙だけは書いた。でも——カインがどこにいるかわからなかった。研究院にいるとは知っていても、宛名を書く手が、どうしても止まった。届かないかもしれない場所に送ることが、怖かったのかもしれない。それでも書いていたのは——言葉を出さないと、自分が何者かわからなくなる気がしたからだ。
今は、ここにいる。
ジンがいる。エリナがいる。ルルがいる。カインが戻ってきた。それだけで——十年の時間が、いつの間にか、隔たりではなくなっていた。
(俺が守りたいものを、守る)
今朝、マルスに言った言葉が、頭の中にある。
それは本当のことだ。今も、変わらない。
シアは紙を折って、そっとテーブルに置いた。
明日、終わったら——誰かに、この話をしようと思った。誰に、とはまだ決めていない。でも——言葉にしてみたい気持ちが、今夜は初めて、ある。
―――
ルルは廊下に座って、夜の空気を嗅いでいた。
「どんなにおい?」とジンが声をかけた。
ルルが少し考えた。「……ちゃんとしたにおい」
「ちゃんとした?」
「うん。みんなが、それぞれの場所で、ちゃんとしてる感じ。エリナは書いてる。シアは考えてる。カインは読んでる。ライエルも、たぶん書いてる」
「俺は?」
「ジンは——ここにいる」
「それだけ?」
「それだけじゃないけど」
ルルは少し首を傾げ、言葉を探すように小さく鼻を鳴らした。
「……一番大事なところが、それ。ジンがこうやって廊下にいるから、みんなが自分の部屋で、ちゃんとした場所にいられる気がする」
防音の魔術が施された静寂の回廊。ジンは、膝を抱えて夜の空気を嗅いでいる小さな少女の横顔を、静かに見つめた。己の中に宿る惑星をも押し潰す重力魔法の使い道を、世界は大層な理屈で問いかけてくる。けれど、この少女が求めているものは、そんな大仰な力ではなかった。
「それ、ちょっと買いかぶりすぎじゃない?」ジンが苦笑混じりに言うと、ルルは「買いかぶってない」と、珍しく強い口調で否定した。
「あたしには、においでわかるもん。ジンのいる場所が、いつも世界の真ん中になる」
振り返ったルルの瞳には、夜の星明かりを反射した確かな信頼の光が宿っていた。
「ジンがそこにいてくれるから、みんな、自分の行くべき場所へ迷わずにいられるんだよ」
すとん、と腑に落ちるような感覚が、ジンの胸に広がっていく。自分がこの世界にいていい理由を、少女の純粋な言葉が、何よりも優しく肯定してくれた。
「……ありがとう」とジンが言った。
ルルが「どういたしまして」と言って、少し笑った。それから、照れくさそうに視線を夜空へ戻した。
ジンは少し照れくさそうに笑うと、ルルの柔らかな髪にそっと手を置き、その小さな頭を優しく撫でた。
「じゃあ、明日もあさっても——俺はちゃんと、みんなの見える場所にいるよ」
「明日のにおいは?」とジンが聞いた。
ルルがゆっくり、息を吸った。
少しの間、静かにしていた。
「……重い」とルルが言った。「でも——きれいなにおい」
「きれい?」
「うん。いろんなものが、ちゃんとした場所に落ちていく感じ。決まっていく感じ」
「それは——良いことだよね」
「たぶん」ルルが言った。「怖いけど——いいにおい。それが、明日のにおい」
ジンは廊下の壁に背を預けて、少しの間、天井を見た。
明日。
怖い。でも——続けられる。
それで十分だと、ジンはもう、わかっていた。
―――
王都の夜が深くなった。
それぞれの部屋で、それぞれが何かをしている。書いている者、考えている者、息を整えている者。
明日——審問会。
辺境の小さな街から始まった旅が、ここに来た。ラングレイの石畳から始まって、水路があって、廃教会があって、焼祭の台があって、断絶の崖があって。封印が完成した。王都に来た。ライエルと会った。アルドと話した。マルスが準備を整えた。セレクが、何かを変え始めた。
そして、明日。
遠くで、王都の鐘が鳴った。夜の最後の鐘。
ルルが「おやすみ、ジン」と言った。
ジンが「おやすみ」と言った。
廊下の灯りが、静かに揺れた。
―――
— 第20話・了 —
次話予告:審問会の朝が来た。ギルド中央本部の大審問室——それは、ジンがこれまで立ったどんな場所とも違う空気をしていた。教会特別教令部の代理人が席についている。ライエルが壁際に立っている。マルスが正面の台に座っている。そして——セレクが、想定外の席に座っていた。白い法衣ではなく、灰色の外套を着て。「審問を、始めます」——マルスの声が、大きな部屋に




