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無詠唱の魔王  作者: Dちゃん
第二章「王都に響く歯車の話」

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19/39

第19話「王都の門と、ギルドの廊下と、灰色の外套の男」

王都が見えてきたのは、三日目の昼を少し過ぎた頃だった。


 街道が緩やかに下り坂になって、前方の視界が開けた。最初に見えたのは、城壁だった。石造りの、灰色の壁。高い。ラングレイの北門とは比べものにならない厚みと高さがある。その奥に、建物の屋根が重なって見えた。尖塔が二本、空に向かって伸びている。


「……でかい」とジンが言った。


「当然です」とエリナが言った。「王都ですから」


「ラングレイの何倍くらい?」


「人口は、二十倍ほどかと」


「二十倍」


「ギルド中央本部だけで、ラングレイ支部の建物が三棟入ります」


 ジンはしばらく、窓の外を見た。城壁が近づいてくる。門の上に旗が見える。王室の紋章——深い赤と金。


「においが違う」とルルが言った。「さっきより、ずっと多い」


「人が、ですか」


「人と——もっと別のもの。いろんなものが、ここに向かって集まってきてる感じのにおい」


「権力の集中するところには、あらゆるものが集まります」とカインが言った。「利益も、情報も、意図も」


「意図」


「目的を持った人間が、一番多く集まる場所です。王都は」


 シアが「それが、においになる」と言った。窓の外を向いたまま、静かな声で。


「うん」ルルが頷いた。「重い。でも——悪くない。ちゃんとしてる感じのにおいも、混ざってる」


 ライエルが「ご安心を」と言った。「門での確認は、私が対応します」


「頼む」とシアが言った。


「任せてください」


  ―――

 城門の通過は、思ったよりすんなりだった。


 ライエルが書状を出した。門衛が確認して、一礼した。馬車が進んだ。ジンは少し、拍子抜けした。


「もっと検問があるかと思った」


「王室の特命顧問の同行があれば、最短です」とライエルが言った。「ただし——通過の記録は残ります。あなた方がいつ王都に入ったか、誰と同行したか。教会側も、すでに把握するでしょう」


「想定内ですか」とエリナが聞いた。


「想定内です。むしろ、把握させることに意味があります。我々が王室の庇護の下にいることを、最初から示す」


 エリナが手帳に何かを書いた。


 ジンは窓の外を見た。王都の街並みが流れていく。石造りの建物が続く。道が広い。人が多い。屋台の声が聞こえる。子供が走っている。犬が一匹、荷馬車の影を追いかけていた。


(ラングレイと、そんなに違わない)


 思ってから、少し考えた。規模は全然違う。でも——人が生活している感じは、同じだ。飯の匂いがする。笑い声がする。誰かが何かを売っていて、誰かが何かを買っている。


「ジン」とルルが言った。


「何?」


「なんか、楽しそうな顔してる」


「楽しいよ」


「緊張しないの?」


「するけど——街って、どこも似てるな、って思って」


「似てる?」


「人が住んでるとこは、どこも同じような感じがする。飯食って、何かして、眠る。そういうの」


 ルルが少し考えた。「……うん。においは違うけど、根っこは同じかも」


 シアが「詩人みたいなことを言うな」と言った。


「詩人じゃないけど」


「そういう意味で言ったんじゃない」


「じゃあどういう意味」


「……普通に、緊張感が持てなくて困る、と言っている」


「俺のせいじゃないじゃん」


 カインが「シアが隣にいる時点で、緊張感は十分あります」と言った。


「褒めているのか貶しているのかわからない」とシアが言った。


「両方です」


 エリナが「到着します」と言った。


  ―――

 ギルド中央本部は、確かに大きかった。


 石造りの建物が、四棟、繋がっている。正面玄関の上に、ギルドの紋章——交差した剣と羽根ペン。受付の窓口が、ラングレイの五倍はある。廊下が長い。天井が高い。人の声が、遠くから重なって聞こえてくる。


 エリナが、正面玄関を入った瞬間に、立ち止まった。


 一秒、二秒——何も言わなかった。


「エリナ?」とジンが聞いた。


「……ここで、働きたかった場所です」とエリナが言った。声が、小さかった。「ずっと——目標にしていた」


 ジンは何も言わなかった。


 エリナが少し息を吸った。「今は、別の用事で来ていますが」


「別の用事の方が、ずっと大事じゃん」


「……そう、ですね」エリナが前を向いた。「そうです」


 声が、さっきより少し、しっかりしていた。


 ライエルが「こちらへ」と先を歩き始めた。廊下を進む。受付の声が遠ざかる。突き当たりを左へ。石の階段を二階へ上がる。また廊下。扉が並んでいる。どれも、閉まっている。


「静かですね」とカインが言った。


「審問会が近い」とライエルが答えた。「関係部署は、準備で動いています。廊下は静かでも——各室は忙しい」


「教会側も、中に?」とシアが聞いた。


「この建物には入っていません。ただし——外の宿には、すでに滞在しているはずです」


「セレクも?」


「把握していません。ただ、特別教令部が何も動かさないとは考えにくい」


「……そうか」


 ルルが「セレクのにおい、ここにはない」と言った。「少なくとも、今は」


「それは助かります」とライエルが言った。


  ―――

 通された部屋は、中くらいの大きさだった。


 長テーブルに、椅子が十脚ほど。窓が一つ、中庭に向いている。飾りのない部屋だ。でも——使い込まれた感じがする。議論の痕跡が、空気にある。


「ここが、明日の夜の事前確認の場所ですか」とエリナが聞いた。


「そうです。今日は、まず休んでください。明日の昼に、マルス・ヴェインと引き合わせます。夜に——事前確認を行います」


「マルスさんと直接会えるんですか」とエリナが言った。声が、少しだけ変わった。


「ええ。彼も——あなたに会いたいと言っていました」


「私に?」


「辺境の支部受付が、中央本部に直接相談状を出すことは——前例がない。彼は、それを書いた人間に興味を持っています」


 エリナが少し、静かになった。


「……怒られますか」


「返信に、何と書いてありましたか」


「正当な問題提起として記録に値する、と」


「では、その通りです」


 ライエルが、部屋を出ようとした。扉に手をかけて、少し止まった。


「一つだけ、今夜のうちに伝えておきます」


「何ですか」


「今夜の事前確認に——私が呼んでいない人物が、来る可能性があります」


 部屋が、少し静かになった。


「……誰ですか」とシアが聞いた。声が低い。


「私には止められない立場の人物です。ただし——敵ではない。おそらく」


「おそらく、という点が不安です」とエリナが言った。


「私にも、確約できないことがある、ということです」ライエルが言った。「今夜は休んでください。明日——全部、話します」


 扉が閉まった。


  ―――

 宿は、ギルド中央本部のすぐ近くだった。


 石造りの建物。廊下が広い。部屋が一人一室。ラングレイの宿より天井が高くて、窓が大きい。


 ルルが「広い」と言って、部屋の真ん中でくるっと回った。


「一人で使うの?」


「そうだよ」


「一人は、広すぎる」


「そう?」


「うん。ジンの部屋と繋がってたらいいのに」


「繋がってないけど、廊下で繋がってる」


「廊下は冷たい」


「……そうだね」ジンは少し考えた。「でも、何かあったら来ていいよ」


「うん」ルルが少し笑った。「来る」


 夕食は、宿の食堂で取った。五人と、ライエル——ライエルは別室を取っていた——で、テーブルが一つ。スープと、パンと、焼いた肉。ラングレイとは少し違う味だったが、うまかった。


「うまい」とジンが言った。


「それしか言えないのか」とシアが言った。


「うまいものは、うまいと言うべきだと思う」


「哲学みたいに言うな」


「哲学じゃないけど」


「……」シアが少し止まった。「……うまい、とは思う」


「言えた」


「黙れ」


 カインが「王都の食事は、香辛料が多いですね」と言った。「辺境より流通しているから、かもしれない」


「違うにおいがする」とルルが言った。「でも、ちゃんとしてる」


「ルルの『ちゃんとしてる』は、かなり高い評価ですね」とカインが言った。


「高い?」


「ルルが『ちゃんとしてない』と言ったものを、私はまだ聞いていない」


 ルルが少し考えた。「セレクのにおいは、ちゃんとしてない」


 テーブルが、少し静かになった。


「……そうだね」とジンが言った。「セレクは、ちゃんとしてない、かも」


「中に、違うものが入ってる感じ」ルルが言った。「その人のにおいじゃない、何かが」


 シアが「それが——ザルヴァ、と関係があるのかもしれない」と言った。


「カイン」とジンが聞いた。「セレクって、どういう存在だと思う? 研究者として」


 カインが少し、スープに視線を落とした。


「……教会の使者としての役職は、表の顔だと思っています。セレクという個体が何であるかは——私にはまだ、わからない。ただ、アル・ヴェリアの断片に、一つだけ、それに近い記述があります」


「どんな?」


「『観察する者は、感情を捨てることで観察の精度を上げる。だが、感情を捨てた者は、やがて観察する理由も失う』」


 静寂があった。


「セレクが言ってた」とジンが言った。「続けられる理由が、わかった気がします、って」


「断絶の崖で」


「うん」


 カインが少し目を細めた。「それは——興味深い」


「良かったのか、悪かったのか、よくわからないけど」とジンが言った。「なんか、あの人も何かを探してる感じがした」


「探している……」カインが繰り返した。「感情を捨てた者が、探している、か」


 誰も何も言わなかった。


 夜の食堂に、皿の音だけがしていた。


  ―――

 食事が終わった。


 テーブルに五人がいる。鐘の音が聞こえた。夜の最初の鐘。王都の鐘は、ラングレイより低い音がした。


「明日の昼——マルスさんに会う前に、何か準備したいことはありますか」とエリナが言った。手帳を持っているが、開いていない。


「俺は特にない」とジンが言った。「エリナが話すだろうから」


「任せっきりにしないでください」


「任せっきりじゃないよ。エリナが得意なことを、エリナがやる。それだけ」


 エリナが少し間を置いた。「……わかりました」


「審問会で何か聞かれそうなことは?」とシアが聞いた。「俺の過去については——勇者パーティを抜けた経緯まで、掘り返されるかもしれない」


「それは、どこまで話しますか」とエリナが聞いた。


「……話せる範囲で、話す。隠すより、出した方がいいと判断した場合は」


「了解しました。判断はシアさんに委ねます。ただ——私が事前に把握しておけることは、事前に教えていただけると助かります」


「……わかった」シアが少し間を置いた。「明日の朝、話す」


「ありがとうございます」


 カインが「私も、研究院の立場について整理しておきます。今回は個人での参加ですが——研究院がどこまで把握しているかを、先に開示しておいた方がいい」と言った。


「カインさんの研究院に対する義務は?」とエリナが聞いた。


「報告義務はあります。ただし——今の時点で、私が報告している内容は限定的です。ジン殿の能力については、まだ伝えていない」


「伝えない理由は」


「研究院に知られることで、ジン殿に新たな圧力がかかる可能性を排除したかった。ただ——いつまでも黙っていられる話ではない」


「審問会の後、ということですか」


「タイミングは——ジン殿と相談したいと思っています」


 ジンが「俺は別に、知られても構わない」と言った。


「本当に?」


「うん。隠してると、なんか、余計ややこしくなりそうだし。ただ——研究院がどういうところかにもよるけど」


「まともなところです」カインが少し、苦笑した。「理性的すぎて、たまに困るくらいには」


「理性的すぎる、って?」


「感情で動かない。知識と証拠と論理で動く。だから——ジン殿のような存在は、研究対象になる。ただし、排除の対象にもなりにくい」


「なるほど」


「理解できない存在を、理解しようとする方向で動く。それが研究院です。教会とは——根本的に、姿勢が違う」


 ジンは少し、カインを見た。「カインって、研究院のこと、好き?」


 カインが少し止まった。「……好きですね。愛着、と言う方が正確かもしれませんが」


「なんで?」


「わからないことを、わからないと言える場所だからです。教会は——わからないことを、神の意思として処理する。研究院は、わからないままにしておく。そこが——好きです」


 シアが「お前らしい」と言った。小さな声で。


「そうか」


「……昔から、そうだった」


 カインが少し、シアを見た。


 何も言わなかった。でも——その沈黙に、何かがあった。ジンにはその内容まではわからなかったが、悪いものではないことは、確かにわかった。


  ―――

 翌日の昼まで、時間があった。


 ジンは朝食を済ませてから、少しだけ宿の外に出た。王都の朝の空気を吸いたかった。


 石畳の街。人が動いている。荷馬車が通る。遠くで鐘が鳴っている——ラングレイとは違う音で。


(ここで、何かが決まる)


 頭の中で、静かに思った。怖いわけではない。でも——ここまで来た旅が、次の段階に入った感じがする。


 水路から始まって、廃教会があって、水源があって、焼祭の台があって、断絶の崖があって。封印が完成した。そして、王都にいる。


 ラングレイで始まったことが、ここで何かの形になろうとしている。


「早起きですね」


 声がした。


 振り返った。ライエルだった。白い外套ではなく、今朝は落ち着いた灰色の上着を着ていた。珍しい。


「ライエルさんも早いですね」


「確認したいことがあって」ライエルが隣に立った。同じ方向——石畳の街並みを、少し眺めた。「眠れましたか」


「眠れました。ライエルさんは?」


「……そこそこ」


「珍しい答え方」


「そうですか」


 しばらく、二人は黙っていた。


「今夜来る人物について」とライエルが言った。


「昨夜言ってた、止められない立場の人?」


「ええ。今朝、確認が取れました。来ます」


「誰ですか」


 ライエルが少し、間を置いた。


「王太子殿下です」


 ジンが少し、ライエルを見た。


「王太子って——次の王様になる人?」


「そうです」


「なんで来るんですか」


「殿下は——封印のことを、直接確かめたいと思っているようです。報告書ではなく、実際に関わった人間から。それが、来る理由です」


「それは——良いことですか? 悪いことですか?」


「どちらでもあります」ライエルが言った。「殿下は——正直に言えば、王室の中でも独自の立場にいる。王室が教会を制限しようとしている、その流れに対して——殿下は、もう一歩踏み込もうとしている」


「もう一歩、というのは」


「教会を制限するだけでなく、ザルヴァの問題そのものに向き合おうとしている。それが、殿下の考えです。私は——その動きを、全面的には支持していません。ただし、止める手段も持っていない」


「だから、止められない立場」


「そうです」


 ジンは少し、考えた。


「会ってみないとわからないですね」


「その通りです」ライエルが言った。「ただ——あなた方に、覚悟を持って来てほしかった。不意打ちにしたくなかった」


「ありがとう」とジンが言った。


 ライエルが少し、ジンを見た。また、お礼を言われるとは思っていなかったような顔だった。


「……どうして、あなたはいつも礼を言うんですか」


「感謝してるから」


「それだけですか」


「それだけです」


 ライエルが少し、空を見た。


「……シンプルですね」


「シンプルじゃないとわかりにくいじゃないですか」


「そうかもしれません」


 短い沈黙があった。王都の朝が、静かに動いていた。


  ―――

 昼の会合は、ギルド中央本部の小会議室で行われた。


 マルス・ヴェインは——想像より、小さい人物だった。五十代の半ば、白髪混じりの短い髪。眼鏡をかけている。背は低い。でも、座り方が、しっかりしていた。椅子に座ったまま、ぶれない感じがする。


「エリナ・フォルス殿」と、マルスが言った。「お会いできて、光栄です」


「……こちらこそ」エリナが少し、声を整えた。「ご連絡をいただいたこと、感謝しています」


「返信が遅れました。通常の伝令便では間に合わなかったので、急使を出しました。届いた時には、すでに別の書状も届いていたようですが」


「王室の書状が、先でした」


「……そうでしたか」マルスが少し、口元をひきしめた。「王室は早い。こちらより早く動いていた」


「最初から把握していたようです」


「それは、良い意味でも悪い意味でも、想定内です」マルスが言った。「王室は——常に、先に情報を持っている。それが、王室の動き方だ。ギルドは、規律の中で動く。だから——常に後手になる。ただし」


「ただし?」


「規律の中で動くからこそ、最終的な正当性を持てる。王室は速い。ギルドは正確だ。今回の審問は——正確さが、速さに勝てる場面です」


 エリナが少し、目を細めた。


「あなたの相談状は——正当な問題提起でした」マルスが続けた。「規律の外にある、という記録は残る。でも——規律の外にあることが、必ずしも間違いではない。エリナ・フォルス殿、あなたは正しい問いを立てた。その判断は、私が認めます」


 静寂があった。


 エリナが、一度だけ、深く息を吸った。


「……ありがとうございます」


 声が、少しだけ掠れた。でも——それは弱さではなかった。ジンにはわかった。長い間、ずっと積み重ねてきた何かが、今ここで、ちゃんと着地した音だった。


「審問会については、こちらから詳細を伝えます」マルスが言った。「明日の朝——もう一度、時間を取りましょう。今日のところは、顔合わせで十分です」


「はい」


「一つだけ、聞かせてください」マルスがジンを見た。「霧島ジン殿。封印の完成——それは、あなた自身にとって、どういう意味を持ちましたか」


 ジンは少し、考えた。


「……暖かかったです。場所に合ってる感じがした。俺がそこにいていい、みたいな」


 マルスが少し、目を細めた。


「それだけですか」


「それだけです」


「……審問で、そのまま答えてください」マルスが静かに言った。「飾らなくていい。難しく言わなくていい。あなたの言葉が、一番、正確です」


  ―――

 夜が来た。


 宮廷内の小会議室。ライエルが先に来ていた。エリナ、シア、カイン、ルル、ジン——五人が入った。部屋の灯りが、低く揺れていた。


「始めましょう」とライエルが言った。「今夜、王太子殿下も来られます。ただし——まず、私たちだけで話す時間を作りたかった」


「何を話すんですか」とジンが聞いた。


「審問に向けた——各自の立場と、証言の方針の確認です。教会側がどういう論点で来るか、王室としての見立てを共有します。そして——」ライエルが少し間を置いた。「殿下が来た時に、何をどこまで話すかを、先に決めておきたい」


「殿下に話せないことがある?」とシアが聞いた。


「話せないことではない——話す順番の問題です。殿下は、封印に強い関心を持っています。アル・ヴェリアのことも、ザルヴァのことも。先に情報を全部渡すと——審問よりも先に、殿下が動く可能性がある」


「それは——困りますか」とエリナが聞いた。


「審問の前に動かれると、ギルドの立場が消える。マルス・ヴェインが動ける根拠が失われます。王室が先手を打てば——ギルドの審問は、形式だけになる」


「なるほど」カインが言った。「ギルドの正確さを、王室の速さで潰させないために——今夜、順序を確認しておく」


「その通りです」


 テーブルに、静けさが落ちた。


「わかりました」とエリナが言った。「話しましょう」


 ライエルが書類を広げ始めた。エリナが手帳を開いた——今夜は、書いていい。ライエルが許可した。シアが腕を組んで、前を向いた。カインが書冊を膝の上に置いた。ルルが、ジンの横に静かに座った。


 一時間が過ぎた頃。


 扉が、静かにノックされた。


「……来ました」とライエルが言った。立ち上がった。


 扉が開いた。


 入ってきたのは——一人だった。護衛もなく、従者もなく、ただ一人。灰色の外套を着た、若い男だった。二十代の半ば。髪が赤みがかった茶色。目が、緑色——よく動く目だ。


 笑っていた。


 ライエルとは違う笑い方——笑わないことを選んでいるのではなく、笑うことを選んでいる顔だ。でも、軽くはない。その笑いの奥に、何かが入っている。


「遅れてすみません」と男が言った。「準備に時間がかかって」


「殿下」とライエルが言った。声が、僅かに固い。


「ライエル、そんな顔しないでください。怖い」


「私はいつも、この顔です」


「だから怖い」男が言って、それから——テーブルの全員を見た。ゆっくりと、一人ずつ。


 シアで、止まった。


「……シア・ルーナ」男が言った。「会ったことは、ない。でも——名前は知っている」


「……同じく」シアが言った。声が、いつもと少し違った。固い。でも——崩れそうではない。ただ、測っている。


 男の視線が、ジンに動いた。


「霧島ジン殿。はじめまして」


「はじめまして」とジンが言った。「名前、聞いていいですか」


 男が少し、目を細めた。


「王太子に名前を聞くんですか」


「王太子だって名前があるじゃないですか」


 男が、少しだけ——本当に少しだけ、笑いの質が変わった。今度は、さっきより軽くない笑いではなく——温かい笑いだった。


「アルド・ヴァリス。王太子、アルドと呼んでください」


「アルドさん」


「さん、は要りません。アルドで」


「アルド」


「ええ」


 ライエルが「殿下——」と言いかけた。


「ライエル。今夜は会合です。格式は要りません」


「……」ライエルが少し止まった。「……わかりました」


 ルルが、アルドの方をじっと見ていた。


 アルドが気づいて、ルルに向かって少し屈んだ。「君が、ルル?」


「そう」


「においで、いろんなことがわかるんだって?」


「うん」ルルが少し、アルドを見た。「あなたのにおい——複雑」


「どう複雑?」


「王室のにおいと——もっと別のにおいが、混ざってる。どっちが本当のかわからない」


 アルドが少し、笑いを収めた。


「……正確だ」


「どっちが本当なの?」


「両方、本当です」アルドが言った。「王太子であることも本当。それ以外でいたいことも本当」


「……それ以外でいたい、って?」


「それは——今夜、話しましょう」


 アルドが椅子を引いた。テーブルについた。ライエルが隣に座った。


「改めて」アルドが言った。声が、少し変わった。笑いはあるが——そこに、重さが加わった。「封印のことを聞かせてください。あなた方が、直接経験したことを」


 誰も、何も言わなかった。一拍。


「わかりました」とエリナが言った。「最初から、話します」


  ―――

 会合は、夜更けまで続いた。


 エリナが話した。シアが補足した。カインが資料を開いた。ルルが、時々、においの話をした。アルドは——静かに聞いた。合いの手を入れることはあったが、急かすことはなかった。遮ることもなかった。ただ、聞いた。その聞き方が、ジンは少し、好きだと思った。


「封印が完成した時——世界に、何かが戻った」アルドが言った。話が一段落した後で。「アル・ヴェリアが守っていたもの。選択肢、ということだと、カイン殿は考えているんですね」


「そうです」とカインが言った。


「その選択肢が——今、どこにあるか」


「まだわかりません。おそらく——審問会の中で、何らかの形で明かされると」


「なぜ審問会で?」


「教会が、審問の場でジン殿を危険な存在だと印象づけようとしているのなら——その動きは、選択肢を潰そうとする動きと一致します。ザルヴァが、審問を通じて何かをしようとしているとすれば——審問の場が、次の焦点になる」


 アルドが少し、沈黙した。


「ジン殿」とアルドが言った。


「何ですか」


「審問で——あなたが選べる可能性があります。世界の選択肢を、実際に選ぶ場面が来るかもしれない」


「カインも、同じようなことを言ってた」


「それは、怖くないですか」


 ジンは少し、考えた。


「……怖い、というより——大事だな、と思う。ちゃんとやりたい、っていう感じの方が強い」


「ちゃんとやる、というのは」


「俺の周りにいる人が、ちゃんといられる方向で、選ぶ。それだけかな、今のところ」


 アルドが、少し止まった。


 ライエルが「殿下」と言った。小さな声で。


「わかってる」アルドが言った。「……シンプルな答えだ」


「シンプルじゃないとわかりにくいじゃないですか」


 アルドが、少し笑った。今度は——さっきとは違う笑い方だった。安心したような、少しだけ、力が抜けたような笑いだった。


「そうですね」


 夜更けの鐘が、遠くで鳴った。


「今夜はここまでにしましょう」ライエルが言った。「明日の朝、マルス殿と審問の最終確認を行います。審問は——明後日」


「明後日」とジンが繰り返した。


「はい」


 二日後。


 ジンはその言葉を、頭の中で一度転がした。


(二日後)


 怖いか、と自分に聞いた。怖い、と思った。でも——続けられる。それだけは、確かだった。


  ―――

 廊下に出た。


 アルドが、先に出て待っていた。一人で。護衛もなく。


「ジン殿」


「何ですか」


「一つだけ」アルドが言った。「個人的なことを聞いてもいいですか」


「どうぞ」


「あなたは——この世界が好きですか」


 ジンは少し、考えた。


「好きです」


「帰りたい、とは思わない?」


「……思わないわけじゃないけど」ジンは少し間を置いた。「ここに、いたいとも思う。ここにいる人たちが——好きだから」


「それが——選べる理由に、なってるんですね」アルドが言った。独り言のように。


「アルドは?」とジンが聞いた。


「俺は?」


「この世界、好きですか」


 アルドが少し、止まった。


「……好きです。だから——変えたい。変えられると思っている」


「変えたい、というのは」


「ザルヴァが設計したまま動き続けるのではなく——人が、自分で選べる世界に。アル・ヴェリアが残した選択肢を、本当の意味で使える世界に」


 ジンは少し、アルドを見た。


「それは——でかい話だね」


「でかいです」アルドが言った。少し、笑いが戻った。「だから——一人では無理だと思っています。ライエルは、私を抑えようとしている。でも——あなた方がいれば、違う形で動けるかもしれない」


「俺たちを——使いたいってこと?」


「使う、じゃなくて——一緒に動きたい、という方が近い」


「どう違うの?」


「使う、は、こちらの目的のために動かすことです。一緒に動く、は——お互いの目的が、たまたま重なっているから、動く、ということです」


 ジンは少し考えた。


「それは——まずは審問を終わらせてから、かな」


「そうですね」アルドが言った。「その通りです。今夜は——話を聞けて良かった」


「俺も」


 張り詰めていた夜の空気が、ふっと緩んだ。


 アルドが歩き始めた。灰色の外套が、古い壁灯りのオレンジ色に染まり、影を長く伸ばしていく。


 角を曲がる直前。振り返らぬまま、男の声が静寂に溶けた。


「ジン殿。審問——よろしくお願いします」


「こちらこそ」


 遠ざかる足音が、やがて夜の底へ消えていく。


 ジンは一人、誰もいない廊下に立ち尽くしていた。窓から差し込む王都の灯りが、彼の影を静かに床へ伸ばしている。


(この世界が好き)


 胸の奥で、その言葉が温かい熱を持って広がっていく。


 ラングレイの路地裏で目覚めたあの日から、旅をして、ここまで来た。一生懸命に手帳を握るエリナ、ぶっきらぼうで優しいシア、明日のにおいを追うルル。不器用なカイン。この世界に生きる人たちが、愛おしかった。


 審問は、きっと厄介で、少し怖い。でも——守りたい「今」が、ここにある。


 ジンは静かに息を吸い込み、自分の部屋へと歩き出した。


  ―――

 同じ夜。エリナは一人、部屋の机に向かっていた。


 ランプの柔らかな光が、開かれた手帳の白いページを照らしている。「今夜のことは、すべて記録して構わない」——王室のライエル直々に、そう許可は得ていた。秘匿義務も、教会の圧力もない。


 書くべき職員として、これ以上ない自由なはずだった。


 なのに——エリナはペンを持ったまま、微動だにできずにいた。


(ここで、働きたかった……)


 昼間、ギルド中央本部の信じられないほど高い天井を見上げた時、胸の奥で燻っていた古い感情が、音を立てて溢れそうになった。辺境の支部で、理不尽な教会の介入に怯えながらも、「いつか中央へ」と願い続けた日々。ここは、人生をかけて目指していた場所だった。


 なのに、今。その憧れの中心に立ちながら、心は別の場所を向いている。


 脳裏を過るのは、王都の規模に「でかいね」と子供のように笑うジンの姿。銀髪を揺らして静かに寄り添うシア、明日のにおいを無邪気に追うルル。


 中央本部のエリート職員として歴史の表舞台に立つことよりも、あの予測不能で、世界一安心できるパーティの傍らで、彼らの歩みをただの一行も漏らさずに書き留めること。それが、今の自分のプロとしての「命」になってしまっている。


「……本当に、調子が狂うわね」


 苦笑混じりに小さく呟いて、エリナはペンを一度置いた。自分の本当の居場所がどこにあるのかを、深く、確かめるように。


 そして——また、ペンを取った。


 今夜起きたことを、全部、記録する。アルドのこと。マルスのこと。会議室の空気のこと。アルドが「好きだから変えたい」と言った時の、笑いの奥にあった重さのこと。


 恐れて書いているのではない。ただ——書きたくて、書いている。


 かつて怯えながら震えていたその指先は、今はただ、愛おしい人たちの記録を残すためだけに、迷いなく動いていた。


  ―――

 ルルは、窓を少し開けて、夜の空気を嗅いでいた。


「どんなにおい?」とジンが廊下から声をかけた。


「複雑なにおい。でも——」ルルが少し間を置いた。「ちゃんとしてる」


「ちゃんとしてる、ね」


「うん。アルドのにおい——さっきより、少しだけ落ち着いてた」


「そうか」


「話して、少し楽になった感じがした」ルルが言った。「ジンと話すと、みんなちょっと楽になるんだよね」


「俺が何かしてるわけじゃないけど」


「してる」


「何を?」


「シンプルでいること」ルルが言った。「シンプルな人が隣にいると、ごちゃごちゃしてたものが、少し整理できる感じがする」


「……それ、褒めてる?」


「褒めてる」


「ありがとう」


 ルルが「おやすみ、ジン」と言った。


「おやすみ」


 扉が閉まった。


 ジンは廊下を歩いた。自分の部屋の扉を開けた。窓から、王都の夜が見えた。灯りが多い。星は少ない。でも——遠くに、少しだけ、星の光が見えた。


 二日後。


(続けられる)


 それで、十分だった。


  ―――

— 第19話・了 —


次話予告:審問会の前日の朝——ギルド中央本部の廊下で、エリナは白い法衣の人物とすれ違った。振り返ったその顔を、エリナは知っていた。セレク・ヴァインだった。「ご準備は、よろしいですか」——セレクが笑った。笑っていた。でも、その目は、また違っていた。昨日までとは——何かが、変わっていた。

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