第18話「二日目の夜と、白い外套と、ライエルが笑わない理由」
王都への道は、最初の一日、穏やかだった。
馬車はラングレイの北門を出てすぐに街道に入り、整備された砂利道を西へ向かって進んだ。
辺境の岩盤地形を抜けると、なだらかな丘陵が続く。
木立の間に農地が見える。
人が住んでいる、という感触が、空気の中にあった。
ジンは窓の外を見ながら、パンをかじっていた。
「馬車って、思ったより快適だね」
「揺れを軽減しているからです」とカインが言った。
「気づいていますか、ジン殿。出発から、ずっと」
「……あ、また無意識だった」
「研究院に報告したい事案、第二件目です」
シアが「何件まで続く気だ」と言った。
「ジン殿がいる限り、おそらく無制限です」
ルルが「あたしがカウントしてあげる」と言った。
「頼みます」
エリナが手帳にペンを走らせながら「移動中も記録は続けます」と言った。
ジンが「窓の外も記録する?」と聞いた。
「地形と方角を」と答えた。
カインが「几帳面ですね」と言った。
シアが「エリナほどではない者には言う資格がない」と言った。
カインが少し黙った。
―――
一日目の夜は、街道沿いの宿場に泊まった。
小さな宿だった。
窓から星が見えた。
街道を行き交う旅人の話し声がして、それがかえって眠りを深くした。
ジンは朝まで一度も目が覚めなかった。
二日目も、最初は穏やかだった。
丘陵が続いていた。
空は薄曇りだが、雨ではない。
道は広い。
行き交う荷馬車の数が増えてきた。
王都に近づくにつれて、道が太くなる。
それが、どこか当たり前のように感じられた。
昼を過ぎた頃、ルルが「においが変わった」と言った。
「どう変わった」とジンが聞いた。
「人のにおいが、すごく多くなった。
でも——もう一個、別のにおいがする」
「別の」
「人のにおいじゃない。でも——なんか、整ってる感じのにおい。全部が、ちゃんと並んでる感じ」
カインが少し首を傾げた。
「整ってる?」
「うん。辺境はにおいがバラバラだった。でも、こっちに来るほど——なんか、同じ方向を向いてる感じのにおいがしてくる」
「王都に近い街道だからかもしれません。管理が行き届いている地域ほど、空気の流れが一定になる傾向がある」
「管理」
「ええ。水路、道、市場の配置——全部が設計されている場所は、においも規則的になる」
ルルが少し考えた。
「……規則的なにおいって、好き?」
「好き嫌いはわかりません。ただ、慣れると気にならなくなる」
「あたしは、バラバラなにおいの方が好きかも」
「それは、あなたが辺境で育ったからかもしれませんね」
ルルが「育った、かなあ」とつぶやいた。
その声が少し遠かった。
ジンがルルを見た。
ルルは窓の外を向いていた。
「ルル?」
「ん。ちょっと、なんか、考えた」
「どんな」
「どこで育ったんだろう、あたし」ルルが言った。
「辺境って言ったけど——ちゃんと、どこかで育ったのかな、って」
誰も何も言わなかった。
馬車が揺れた。
少しだけ、揺れた。
「ここにいるじゃん」とジンが言った。
「うん」
「それで十分じゃない? 今、どこにいるかの方が、どこで育ったかより大事だと思う」
ルルが少し、ジンを見た。
「……でも、気になる」
「気になるのはいいと思う。
でも、どこで育ったかわからなくても——今ここにいていいよ、ここにいる」
ルルが「……うん」と言った。
シアが窓の外を向いたまま、何も言わなかった。
でも、聞いていた。
それはわかった。
―――
夕方になった。
二日目の宿場に差し掛かる手前——街道が、突然、止まった。
馬車が速度を落とした。
御者が手綱を引いた。
前方に、何かがある。
「止まった?」とジンが前を見た。
窓の外に、三つの人影があった。
街道の真ん中に、横一列に並んでいる。
白い外套。
帽子はない。
顔が、夕暮れの光の中で、ちゃんと見える。
魔獣ではない。
人間だ。
でも——旅人でもない。
立ち方が違う。
街道を行く者の立ち方ではなく、迎えに来た者の立ち方だ。
「……白い外套」とエリナが言った。
声が低い。
「王室の、紋章が入っている」
カインが窓に顔を近づけた。
少し見て、少し目を細めた。
「……真ん中の人物です」とカインが言った。
「背が高い。髪が白に近いグレー。あれは——」
「知ってる?」とジンが聞いた。
「王立研究院で、一度だけ顔を見たことがある。直接話したことはないが」
「誰?」
カインが答える前に、馬車の扉が叩かれた。
「霧島ジン殿、エリナ・フォルス殿、および御同行の方々」
声がした。
男の声。
静かで、よく通る。
感情の起伏が、ない。
でも——セレクのような、空洞の静けさとは違う。
こちらは——冷えている。
意図的に、冷えた声にしている。
「王室特命顧問、ライエル・ソードと申します。
こちらに乗り換えていただけますか」
―――
馬車の外に出た。
夕暮れの街道。
風が少しある。
遠くに木立。
空の端が、橙と灰に染まっている。
ライエル・ソードは、確かに背が高かった。
三十代の後半か、四十代の手前か。
白に近いグレーの髪が、整えられている。
目が、灰色だ。
笑っていない。
でも——笑わないことを表情にしている人間ではない。
ただ、今は笑わないことを選んでいる。
そういう顔だ。
ジンはその顔を見て、少し考えた。
感情が読みにくい。
でも——セレクとは違う。
セレクは感情を持たない顔をしていた。
ライエルは、感情を持っているが、今は出さないと決めている顔だ。
「予定より早いですね」とエリナが言った。
「急ぎたい理由があります」ライエルが言った。
「移動しながら話せます。
乗り換えていただければ」
「ここで話せませんか」
「できないことはない。
ただ——」ライエルが街道を一瞥した。
「人目があります」
エリナが少し間を置いた。
「シア」とエリナが言った。
「わかってる」とシアが答えた。
ライエルに向かって一歩、前に出た。
「王室の要請に応じる前に、一つだけ確認する」
「どうぞ」
「我々を囲い込むために来たのか、協力を申し出るために来たのか」
ライエルが、シアを見た。
静かに。
少し。
「どちらでもない、と答えたら?」
「信用しない」
「正直な方ですね」
「答えてくれ」
短い沈黙があった。
「……協力を申し出るために来ました。
ただし、王室の利益と合致する範囲で」とライエルが言った。
「囲い込みが目的なら、もう少し丁寧な手順を踏みます。
今夜、街道の真ん中で待ち伏せするのは——急ぎたいからです。
その理由は、馬車の中で話します」
シアがジンを見た。
ジンが少し考えた。
「乗ろう」とジンが言った。
「理由は?」とシアが聞いた。
「急ぎたい理由がある人の顔をしてるから」
シアが「……そうか」と言った。
―――
王室の馬車は、元の馬車より広かった。
内張りに紋章が入っている。
座席が革張りだ。
でも、豪華さを見せつけるよりも、機能を優先した造りだとジンは思った。
長い移動をするための馬車だ。
五人と、ライエルと、もう一人——外套を着た護衛らしき人物が同乗した。
護衛は黙っている。
ライエルの向かいに座って、窓の外を見ている。
馬車が動き始めた。
ライエルが、懐から紙を一枚取り出した。
「十日後の審問会——予定通り、開かれます。ただし」
「ただし?」とエリナが聞いた。
「その前日、王室として、非公式の事前確認をしたいと思っています。
審問会の前夜に、王都の宮廷内の小会議室で——教会側が知らない場で——情報を共有したい」
「何の情報を?」
「教会特別教令部が、辺境で何をしていたか。
そして——封印が完成した今、彼らが次に何をしようとしているか」
静寂があった。
「知ってるんですか、教会の次の動きを」とジンが聞いた。
「完全にではない。ただ、いくつかの情報が集まっています。断絶の崖で起きたことを、セレク・ヴァインが報告した内容を、王室は一部把握しています」
「セレクの報告が、王室に漏れた?」
「漏れたのではなく——王室は教会の中に、独自の情報経路を持っています。詳細は言えませんが」
カインが「それは公式には認められていない話では?」と言った。
「公式には、ありません」ライエルが言った。
声が変わらない。
「だからこそ、今夜この馬車の中で話しています」
エリナが手帳を取り出した。
「書いてもいいですか」
「……できれば、今夜の話は記録を残さないで頂きたい」
エリナが少し間を置いた。
「書かない代わりに、聞いたことは全部、私の仲間と共有します」
「それは構いません」
「わかりました」エリナが手帳を閉じた。
―――
「封印が完成した、という報告が届いた時」ライエルが続けた。
「教会内部が、一時、静かになりました」
「静かに?」とジンが聞いた。
「動きが止まった。
これまで、断絶の崖に向けていた人員が、一斉に引き上げた。
セレクも、報告だけして——その後、指示を受けていない」
「指示がない?」
「特別教令部の長が、沈黙しています。
封印の完成に際して、どう動くべきかの判断を、まだ出していない」
「それは——良いことですか?」とエリナが聞いた。
「判断を迷っているということは、封印の完成が彼らの想定と違う形で起きた、ということです。彼らが恐れていたのは、封印が完成することで、ある力が解放されること——でした」
「ある力」
「詳しくは言えません。ただ——」ライエルが一度、ジンを見た。
「霧島ジン殿。封印が完成した時、何かが解放された感覚はありましたか」
ジンは少し、考えた。
「暖かかった。誰かに、ありがとうって言われた気がした」
「それだけ?」
「それだけ」
ライエルが少し、目を細めた。
「……そうですか」
「教会が恐れてたのと、違った?」
「おそらく、違う。彼らは——もっと、劇的な何かが起きると予測していたようです」
「劇的って?」
「この世界の力の均衡が、一瞬で変わるような——そういうことを、想定していたと思われます」
ジンが「そんなことにならなくて良かった」と言った。
ライエルが少し、ジンを見た。
何かを測るような、静かな目だった。
「……そうですね」と、ライエルが言った。
声が、さっきより少しだけ、柔らかかった。
―――
馬車が揺れた。
街道が少し悪くなった。
木立が密になっている。
夜が近い。
「審問会の話をします」とライエルが言った。
「ギルド中央本部の法務部が、エリナ・フォルス殿の相談状を正当な問題提起として受理した。これを受けて、教会特別教令部の辺境活動について、正式な審問が開かれます。ただし——」
「ただし」
「審問の結果が、教会を動かせるかどうかは、別の話です」
「どういうこと?」とシアが聞いた。
「ギルドは、ギルドの法の中で動く。教会は、教会の法の中で動く。審問で教会の行為が不当と認定されても、それは教会に対する直接的な拘束力を持ちません」
「じゃあ審問は意味がないの?」とジンが聞いた。
「意味はあります。ただ——実際に教会を止めるためには、ギルドの判断だけでは足りない。王室が正式に、教会の越権を認定し、制限をかける必要がある」
「王室が動く、ということですか」とエリナが言った。
「王室が動くためには、根拠が必要です。審問の結果は——その根拠の一つになる」
「なるほど」エリナが少し間を置いた。
「審問は、王室が動くための材料を作る場、でもある」
「正確です」
シアが「王室は、教会と戦う気があるのか」と聞いた。
ライエルが少し、シアを見た。
「戦う、ではない。制限をかける、です」
「同じことだ」
「違います。戦えば、どちらかが消える。制限をかければ、どちらも残る。王室は——教会を消したいわけではない。ただ、独走を止めたい」
「神の名を使って、好き勝手に動くことを、止めたい」
「そうです」
シアが「……理解した」と言った。
声が、さっきより少し、柔らかくなっていた。
―――
「一つ、聞いていいですか」とジンが言った。
「どうぞ」
「ライエルさんは、なんで急いでたの? 日程より早く来た理由」
ライエルが少し、止まった。
馬車が揺れた。
夜の木立の中を、灯りをつけて走っている。
「——教会が、一人、動かしました」
「動かした?」
「審問会の前に、あなた方に接触させるために。教会の内部でも——審問を、別の方向に持っていこうとしている者がいる」
「別の方向って?」
「審問を、あなた方の力の危険性を証明する場に変えることです。教会の越権を問う場ではなく——霧島ジン殿の無詠唱魔法が、世界に対して危険であることを示す場に」
静寂が落ちた。
「俺が、危険なの?」とジンが聞いた。
声は普通だった。
「危険だと思わせることが、教会にとって有利です。封印の完成によって何かが解放されたのではなく——あなた自身が、世界の均衡を乱す存在だと証明できれば、彼らの正当性が担保される」
「担保……」ルルが言った。
「ジンが危ないって言えば、教会が正しかったことになるってこと?」
「そうです」
ルルが「おかしい」と言った。
声が、普段より低い。
「ジンは危なくない。ジンは——場所に合ってる人だから。壊れない」
「ルル」
「あたし、ちゃんとわかる。においで。ジンのにおいは——暴れないにおい。大きくても、静かなにおい」
ライエルが、ルルを見た。
ライエルが何か言いかけて、止まった。
「……そうですね」ライエルが言った。
「だから、あなた方に早く接触したかった。教会が先に動いて、審問の前にジン殿の印象を操作する前に」
「俺の印象を守りに来た?」とジンが聞いた。
「情報を共有しに来ました」とライエルが答えた。
「あなた方が、審問の場で正確に動けるように」
ジンは少し、ライエルを見た。
笑わない顔だ。
感情を今は出さないと決めている顔だ。
でも——その奥に、何かがある。
(この人も、続けている誰かだ)
なんとなく、そう思った。
「わかった」とジンが言った。
「ありがとう」
ライエルが少し、ジンを見た。
「……お礼を言われるとは思っていなかった」
「感謝してるから言った」
「そうですか」
短い沈黙があった。
それは悪い沈黙ではなかった。
―――
今夜の宿は、街道沿いの大きな宿場だった。
ライエルが手配していた。
王室の紋章の入った書状を出すと、宿の主人がすぐに案内した。
部屋が、六つ用意されていた。
「広い」とジンが言った。
「王都に近いので、施設も大きくなります」とライエルが言った。
「ライエルさんも泊まる?」
「同じ宿に。ただ、今夜は別々にお休みください。明日、また話す時間を取ります」
「わかった」
廊下を歩いた。
ルルがジンの袖をつかんだ。
「ジン」と小声で言った。
「何?」
「ライエルって、いい人?」
「どう思う?」
「においは、悪くない。でも——何かを、ちゃんと隠してる」
「隠してる、か」
「うん。悪意じゃない。でも——全部は出してない」
「それは、俺たちも同じじゃない?」
ルルが少し考えた。
「……そうかも」
「みんな、全部は出さないよ。
でも、悪意がないなら——今は、一緒に動ける」
「うん」ルルが「わかった」と言った。
部屋の前に着いた。
扉を開けた。
中は、ラングレイの宿より少し広かった。
窓から夜の木立が見える。
ジンは荷物を置いた。
窓を少し開けた。
夜の空気が入ってきた。
(審問会、か)
王都への道が、また一段、具体的になった気がした。
ライエルが言っていた——教会があなたの印象を操作する前に、と。
ジンは自分が「危ない存在」だと思われる可能性を、頭の中で少し転がした。
怖いか?
怖い、というよりも——おかしい、という感じだった。
俺は危なくない。
ルルがそう言った。
シアも、カインも、エリナも——一緒にいる。
ただ、おかしいと思うだけでは、審問は止まらない。
エリナが正確に動ける場所を作った。
カインが知識を持ってきた。
ライエルが情報を持ってきた。
俺は——俺にできることをやる。
「ジン」
扉をノックする音がした。
エリナの声だった。
「入っていいよ」
エリナが入ってきた。
手帳を持っている。
でも、開いていない。
「ライエルさんの話——整理しました。頭の中で」
「手帳に書かないの?」
「今夜は書かないと約束しましたので」エリナが少し間を置いた。
「ただ——一つだけ、確認させてください」
「うん」
「審問の場で、ジンさんが何かを証明しなければならない場面が来るかもしれません。霧島ジン殿は危険ではない、ということを」
「そうだね」
「その時——ジンさんは、どうしますか」
ジンは少し考えた。
「普通にしてればいいじゃない?」
「普通に?」
「うん。俺、危なくないから。危なくない人間が普通にしてれば——それが一番、証明になる気がする」
エリナが少し、ジンを見た。
「……それは、正しいと思います」エリナが言った。
「ただ、正しいだけでは足りない場合があるかもしれない」
「そうなった時は、エリナが頭を使ってくれる?」
「使います」エリナが言った。
「それが、私の役目です」
「よかった」
「……頼られすぎている気がしますが」
「でも頼れるから頼ってる」
エリナが少し間を置いた。
「……わかりました。頼ってください」
そう言って、扉の方へ向かった。
「おやすみ」とジンが言った。
「おやすみなさい」エリナが言った。
「明日、出発前にもう少し話しましょう」
「うん」
扉が閉まった。
―――
廊下に出たエリナが、少し歩いた。
シアの部屋の前を通り過ぎようとした時——扉の隙間から、灯りが漏れていた。
ペンの音がしていた。
書いている。
(誰に?)
エリナは考えなかった。
それはシアが決めることだ。
ただ——書いている、ということが、今夜のエリナには、なんとなく、嬉しかった。
カインの部屋の前からも、同じように灯りとペンの音が漏れていた。
(二人とも、書いている)
自然と、エリナの口元が小さく緩んだ。
自室へ戻り、扉を閉める。
机の前に腰を下ろして、広げたのは手帳ではなく、一枚の白い紙だった。
今夜は書かないと約束した。
でも——今夜聞いたことを、この胸の熱さを、忘れたくなかった。
(忘れないうちに——)
ペン先が、迷いなく紙の上を走り出す。
文字が溢れ、思考が走り、止まらない。
かつて恐怖に怯え、あれほど小さく震えていたその指先は、今はただ、未来を描くためだけに動いていた。
―――
夜が深くなった。
宿場の音が静かになった。
馬の声がして、それが遠ざかった。
ルルは部屋の窓を少し開けて、外のにおいを嗅いでいた。
「……明日のにおい」
誰かに言ったわけではない。
ただ、独りごとのように言った。
「どんな?」とジンが廊下から声をかけた。
ルルが振り返った。
ジンが廊下に立っていた。
水を飲みに行った帰りらしい。
「重いにおい」とルルが言った。
「でも——悪いにおいじゃない。大事なことが、たくさんある感じ」
「大事なことが、たくさん」
「うん。王都に近づくから——そういうにおいになるのかも」
「怖い?」
ルルが少し考えた。
「……あたし、最初はね、どこにも属さなかった。名前だって、なかったんだ」
窓の外を見つめるルルの横顔が、夜の空気の中でどこか遠かった。
「でも——ジンたちと一緒にいて、名前を呼んでもらえるようになって」
ぎゅっと、ルルが自分の小さな胸の服を掴んだ。
「だから、怖くても——ここにいたい。この場所を手放したくない」
ジンは何も言わなかった。
ただ、ルルの頭にそっと手を置いた。
「……うん」ルルが小さく笑った。
「わかってるから、言った」
ジンが「そっか」と言った。
「ジン、眠れる?」
「眠れると思う。ルルは?」
「もう少し、においを嗅いでから」
「わかった。おやすみ」
「おやすみ、ジン」
廊下の足音が遠ざかった。
ルルは窓の外を見た。
夜の木立。
遠くの空に、星が少しだけ出ている。
王都は、まだ一日先にある。
でも——重い、大事なにおいが、すでにここまで届いていた。
―――
一方、宿の一番奥の部屋で、ライエル・ソードは書いていた。
報告書ではない。
指示書でもない。
短い、手紙のようなものだった。
宛先は——書かれていない。
書いてから、宛先を書こうとして、少し止まった。
霧島ジンの言葉が、頭の中に残っていた。
「暖かかった。誰かに、ありがとうって言われた気がした」
封印が完成した時。
あの石板の前で。
ライエルは、断絶の崖のことを、報告書の中で読んでいた。
セレクの報告書は、感情のない文体で書かれていたが——その中に、一行だけ、通常の報告書には入れない類の文言があった。
「続けられる理由が、わかった気がします」
ライエルは、その一行を、読んだ時に少し止まった。
セレクが——そういうことを書く人間だとは、思っていなかった。
(続けられる理由、か)
自分にも、あるだろうか。
ライエルは紙を見た。
宛先のない手紙を見た。
書こうとして——やめた。
代わりに、短い一行を書いた。
「明日、話す」
それだけ書いて、紙を閉じた。
灯りを消した。
夜が続いていた。
―――
— 第18話・了 —
次話予告:王都へ到着したのは、三日目の昼過ぎだった。
ギルド中央本部の建物は、ラングレイのギルドとは比べものにならない大きさで——エリナが「ここで、働きたかった場所です」と小さく言った。
審問会まで、あと二日。
その夜、宮廷内の小会議室で、ライエルとの非公式な事前確認が始まる。
そこに——もう一人、想定外の人物が現れた。
白い法衣ではなく、灰色の外套を着た、その人物の名前を、シアは知っていた。




