第16話「帰り道の手帳と、中央からの返信と、王室の封蝋」
断絶の崖から下りてきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
帰り道は来た道を戻る。岩盤と枯れ草が交互に続く、踏み跡のない地形。朝より風が出ている。空の雲が、少しだけ薄くなっていた。
エリナは歩きながら手帳を書いていた。
普段も歩きながら書くのはいつものことだが、今日のそれは少し違った。ペンが走っている。止まらない。崖の内部の構造から、石板の形状、碑文の一行、光の様子、ジンが触れた瞬間の変化——全部を、見たまま、聞いたまま、感じたまま、書き続けている。昨日までとは違う。恐れて書いているのではない。ただ——書きたくて仕方がない。
「エリナ、足元」とジンが言った。
「……わかっています」
「石が多い」
「わかっています」
それでも三秒後に石を踏み外しかけた。
ジンが横から腕を支えた。エリナが「ありがとう」と言って、また書き始めた。
ルルが「エリナって止まると死ぬの?」と聞いた。
「死にません」
「でも止まらない」
「書かずにいられないんです」
「ふーん」ルルが少し考えた。「でも、ここまで来て、本物を見たんだから——もう薄れないんじゃない?」
エリナの手が、一瞬だけ止まった。
「……そうかもしれません」
「でも書くんでしょ」
「書きます」
「うん。知ってた」
シアが「ルル、余計なことを言うな」と言った。
「余計じゃない。エリナが書くのが好きなんだって話をしてた」
「それを本人に言うな」
「なんで」
「……」シアが少し止まった。「余計だからだ」
ルルが首を傾げた。エリナは書き続けていた。その横顔が、さっきより少しだけ、やわらかかった。
―――
一時間ほど歩いたところで、地形が落ち着いてきた。
岩盤から土の地面に変わり、草の匂いがした。遠くに木立が見える。ラングレイはまだだが、もう迷わない道だ。
ルルが立ち止まった。
「?」とジンが振り返った。
「においがする」
「どんな」
「……紙のにおい。でも、新しい紙じゃなくて——使いこまれた感じの。誰かが何かを、長い時間かけて書いたもの」
「ギルドの方から?」
「ギルドの方向から、する。でも今じゃない。ここより先に、あるにおい」
エリナが手帳から顔を上げた。
「紙のにおいが、この距離でわかるんですか」
「わかる。間違えたことない」
「……」エリナが少し間を置いた。「それは、ルルが特別な存在だからですか」
「わかんない。いつもそうだから、普通だと思ってた」
シアがエリナを見た。エリナがシアを見た。二人の間に、何も言わない一瞬があった。
「行きましょう」とエリナが言った。
―――
ラングレイの北門をくぐったのは、夕方近くだった。
石畳の感触が足の裏に戻ってきた。ジンは少し、ほっとした。崖の地形は嫌いではないが、街の地面は別の安心感がある。
ギルドに戻ったのは、鐘が四つ鳴る頃だった。
後輩の受付担当が、エリナを見た瞬間に立ち上がった。
「エリナさん、お帰りなさい。あの——」
「何かありましたか」
「……二通、届いています」
後輩が声を少し落とした。
エリナの手が、手帳を閉じた。
「場所は」
「小部屋に置いてあります」
「わかりました」
四人は廊下を歩いた。小部屋の扉を開けた。机の上に、封書が二通並んでいた。
一通は、簡素な封蝋。ギルドの中央本部の印。
もう一通は——深い赤の封蝋。紋章は、エリナも、シアも、一度見れば忘れない。
王室の印だった。
「……」ジンが二通を見た。「どっちから開ける?」
誰も何も言わなかった。
エリナが、ゆっくりと机に近づいた。王室の封書を一瞬だけ見た。それから、ギルド中央本部の封書を取り上げた。
「こちらから」
―――
封を開ける音が、小さく響いた。
一枚の紙が出てきた。エリナが広げた。少し読んで——手が止まった。
「……」
「エリナ?」とジンが聞いた。
「読んでいいですか」エリナが言った。声が少し低い。「声に出して」
「もちろん」
エリナが少し息を整えた。
「『辺境ギルド、ラングレイ支部、エリナ・フォルス受付担当へ。相談状の内容、確認しました。教会特別教令部による辺境ギルドへの干渉については、現在、中央本部でも把握を進めています。あなたの判断は規律の外にあるものの、その内容は正当な問題提起として記録に値すると、本部法務部が判断しました。詳細については、追って正式な連絡を送ります。——ギルド中央本部、法務担当主任、マルス・ヴェイン』」
静寂があった。
ルルが「……どういうこと?」と聞いた。
「エリナが怒られなかった、ってこと」とジンが言った。
「完全に怒られなかったわけではありません」エリナが紙を見たまま言った。「規律の外、と書かれています。これは、逸脱したという記録が残るということです」
「でも」
「でも——正当な問題提起、と書かれています」エリナがゆっくりと紙を下ろした。「これは……届いた、ということです」
ルルがエリナの袖をつかんだ。「良かった」
「……はい」エリナの声が、少しだけ掠れた。「良かった、です」
シアが窓の方を向いていた。
「キャリアは」と聞いた。
「今すぐ、どうなるということではないようです。ただ——この記録が、今後の査定に影響しないとは言い切れない」
「それでいい、のか」
エリナが少し間を置いた。
「……書いた時点で、覚悟していました。届いたなら——それで十分です」
ジンは何も言わなかった。言うべき言葉を探して、見つからなかった。でも——それでいいと思った。言葉じゃなくてもいい。
―――
しばらく、誰も王室の封書に触れなかった。
ルルがまず言った。
「……あっちも、開けないといけないよね」
「開けないと何も始まらない」とシアが言った。
「シアが開ける?」
「俺宛ではない」
「エリナ宛?」
エリナが封書を見た。表書きを確認した。
「……名指しではありません。『ラングレイ・ギルド宛』」
「じゃあギルドとして受け取るものか」とシアが言った。
「そうなります。ただ——王室から直接ギルドに届く書状というのは、通常の流れではない。本来は、中央本部を経由します」
「中央を通さずに来た」
「……というより」エリナが少し考えた。「中央本部への打診と、この書状が、ほぼ同時に動いていたと見る方が自然です。教会の動きに対して、王室側も独自に情報を持っていた」
「王室は教会の敵、ということか」とジンが聞いた。
「必ずしも、そうとは言えません。王室と教会は——複雑な関係です。でも、少なくとも今回は、教会とは別の立場で動いている」
「開けましょう」とエリナが言った。
封蝋に指をかけた。赤い蝋が、割れる音がした。
中の紙を取り出した。複数枚。最初の一枚だけ広げた。
読んだ。
少し読んで、また止まった。
「……」
「何が書いてあった?」とジンが聞いた。
エリナが顔を上げた。表情が、いつもより少し、読みにくかった。
「『ラングレイ・ギルド及び関係者各位。先日、教会特別教令部の辺境における活動について、王室として把握を進めていた内容と、貴所の方針が一致していることを確認しました。つきましては——王都において、正式な会合を設けたく存じます。日時及び詳細については、同封の書類をご参照ください。——王室特命顧問、ライエル・ソード』」
静寂。
ルルが「……王都?」と言った。
「王都」とエリナが繰り返した。「正式な会合——ということは、個人的な呼び出しではない。王室として、公式に、接触を求めてきた」
「第一章が、終わる」とシアが言った。
声が低かった。でも、恐れているようではなかった。ただ、確認するように言った。
「第一章が、終わる」
ジンは窓の外を見た。夕方のラングレイの空。雲が少し薄くなって、橙色の光が石畳を染めていた。
(王都)
王都という言葉を、ジンは頭の中で一度転がした。異世界に来て——ラングレイから始まって、水路があって、廃教会があって、水源があって、焼祭の台があって、断絶の崖があって。封印が完成した。
そして今、王都と言われている。
怖いか、と自分に聞いた。
怖いというより——続きがあるんだな、という感じだった。
「飯、食べてから考えよう」とジンが言った。
シアが「また食べ物の話か」と言った。
「腹が減ったら考えられない」
「それはそうだ」
ルルが「あたしも減った」と言った。
エリナが複数枚の書類を丁寧にそろえて、封書に戻した。
「今夜、詳細を読んで——明日の朝に皆さんと方針を決めましょう」
「うん」とジンが言った。
「急ぎすぎない。でも、時間もない。それが現状です」
「わかった」
四人は小部屋を出た。廊下を歩いた。食堂の方向へ。夕飯の匂いが、すでに漂ってきていた。
―――
夕飯はスープと黒パンだった。
ジンは一口飲んで「うまい」と言った。
「毎日同じ感想」とシアが言った。
「毎日うまいんだから同じになる」
「論理としては正しい」
「でしょ」
ルルが「あたしも同じ」と言いながら、パンをちぎった。エリナが「今夜は少し食べられそうです」と言った。
珍しい言葉だな、とジンは思った。エリナが「今夜は食べられそう」と言うのは——何かが、少し変わった証拠だ。
「エリナ」とジンが言った。
「はい」
「良かったね」
エリナが少し、ジンを見た。
「……届かなくてもいいから書いた、と言ったのはジンさんですよ」
「うん」
「でも、届きました」
「うん」
「……本当に、届いてしまいました」エリナの声が、少しだけ笑っていた。「なんだか——拍子抜けするくらい」
「拍子抜けでいいじゃん」
「いいんですかね」
「いいと思う。怖かった分だけ、拍子抜けしていい」
エリナが少し間を置いた。
「……そうします」
シアがスープを一口飲んだ。
何も言わなかったが、聞いていた。それはわかった。
―――
食事が終わった。
テーブルに四人がいる。鐘の音が聞こえた。夜の最初の鐘。
ルルが「王都って、遠いの?」と聞いた。
「馬車で三日ほどかかります」とエリナが答えた。
「三日!」
「片道です」
「往復六日!」
「ルルは長旅が苦手ですか」
「苦手じゃないけど——馬車って揺れる?」
「揺れます」
「ふーん」ルルが少し考えた。「ジンが重力で揺れを消せない?」
ジンが「できると思う」と言った。
「それ、やって」
「馬車ごと浮かせようか」
「浮かせたら馬が困る」
「そうだね。考えとく」
シアが「馬車を浮かせるな」と言った。「目立つ」
「わかった」
「本当にわかったか」
「大丈夫。たぶん」
「たぶん、が不安だ」
エリナが「出発前に、詳細を確認します。王室からの書状には、日時の指定もあります。余裕があるかどうかは、今夜の書類次第です」と言った。
「読んで、明日の朝に教えてくれるの?」
「はい。ただ——」エリナは少し間を置いた。「今夜は、もう少し休んでから読もうと思っています」
「珍しい」とジンが言った。
「珍しいですか」
「うん。エリナ、いつもすぐ読む」
「……今日は、少し」エリナが窓の方を見た。「頭が、追いついていなくて」
「そっか」
「怠けているわけでは」
「わかってる。追いついてないなら、追いつかせてから読めばいいじゃん」
エリナが少し、ジンを見た。
「……そうですね」
「うん」
シアが立ち上がった。
「俺も休む。今夜は、頭を使わない」
「シアが頭を使わないって宣言するの、珍しいね」
「黙れ」
「はーい」
ルルがジンの袖を引いた。
「ジン、今日、怖かった? 崖のやつ」
「どの部分が?」
「石板に触ったとこ」
「うーん」ジンは少し考えた。「怖くはなかった。なんか——ちゃんとした感じがした」
「ちゃんとした」
「うん。場所に合った感じ、というか。俺がそこにいていいみたいな」
ルルがじっとジンを見た。
「……それって、すごく大事なことだと思う」
「そう?」
「うん。場所に合ってる、って感じることができる人は——絶対に、変なことにならない」
「変なこと?」
「壊れない、ってこと。力があっても、場所に合わせてる人は、壊れない」
ジンは少し、ルルを見た。
「ルルって、たまにすごいこと言うよね」
「たまに?」
「……いつも?」
「いつも、です」とエリナが横から言った。
ルルが「えへへ」と笑った。
―――
夜が更けた。
エリナは自室の机に座っていた。王室の書類が広げてある。
読み始める前に、エリナはふと手を止めた。中央本部への相談状を出したのは、つい一昨日の朝だ。伝令便の往復には、通常四日から五日かかる。それがこんなに早く——。
(これは、相談状への返信ではない。王室は、最初から私たちを把握していた)
読み始めた。一枚、二枚——詳細が書かれている。日時は、十日後。場所は王都のギルド中央本部内の会議室。出席者として想定されているのは——ジン・霧島、エリナ・フォルス、および同行者。
教会の名前は、書かれていない。でも——王室が動いた理由として、「教会特別教令部の権限外の活動」という文言がある。
(教会に対して、王室も動いている)
エリナは手帳を開いた。今日起きたことを、もう一度整理する。断絶の崖で起きたこと。封印が完成したこと。セレクが最後に言った言葉。そして、二通の書状。
書きながら、思った。
第一章が終わる、とシアが言った。
第一章が終わるということは——次が始まる。
怖くないわけがない。でも、さっきジンが言っていたことが、頭に残っていた。
「怖かった分だけ、拍子抜けしていい」
届かないかもしれないと思いながら書いた手紙が、届いた。
それが——今夜の事実だ。
(次も、書こう)
エリナは手帳を閉じた。
机の上の書類を、丁寧に封書に戻した。
窓の外を見た。今夜の空には、星が少しだけ出ていた。昨日の厚い雲が、少し薄くなっている。
明日、四人に伝える。王都へ向かうことを。
それが、次の一歩だ。
―――
一方、同じ夜。
ラングレイの宿の一室で、シアは窓に背を預けて腕を組んでいた。
手元に紙がある。
カインへの返事を書こうとして、まだ書き出せていない。
でも今夜は——昨夜とは少し違った。書けない理由が、違う。昨夜は怖くて止まっていた。今夜は——何を書くか、まだ選んでいる。
選んでいる、というのは——向き合っている、ということだ。
(カイン、)
書き出しを頭の中で作った。
(今日、封印が完成した)
続きが、少しだけ、出てきた気がした。
ペンを取った。紙に向かった。
窓の外から、夜の空気が入ってくる。星が少し、出ていた。
シアは書き始めた。止まらずに。
―――
— 第16話・了 —
次話予告:王都への出発は、十日後——のはずだった。ラングレイ滞在の最終日、ギルドの外でジンは見知らぬ男に声をかけられる。「霧島ジン殿。少し、お時間をいただけますか」——王室の使者ではない。教会でもない。男は名乗った。「王立魔法研究院、主任研究員。カイン・セルフォードと申します」




