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無詠唱の魔王  作者: Dちゃん
第一章「辺境から始まる話」

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第15話「断絶の崖と、四百年の祈りと、ジンが触れた瞬間」

ラングレイの北門を出てから、一時間が過ぎた。


 道は、最初から悪かった。


 舗装はとうに途切れ、岩盤と枯れ草が交互に現れる地形が続いている。昨日の焼祭の台へ向かった道よりさらに険しく、踏み跡さえ残っていない。空は厚い雲に覆われ、光が薄い。遠くで鳥が鳴いた。それだけが、生きているものの音だった。


「においが変わった」とルルが言った。


「どう変わった」とジンが聞いた。


「昨日まであった、普通の土のにおいがなくなってきた。代わりに——なんか、すごく古いにおい。石が古くなった感じのにおいじゃなくて、もっと深い。空気ごと、昔のままみたいな」


「封印が近い?」


「近い。でも——もう一個、別のにおいもする」


「別の」


「人のにおい。でも、今日じゃない。昨日でもない。二日か——もしかしたら、もっと前」


 エリナが前を歩きながら、手帳に何かを書いた。歩きながら書くのはいつものことだが、今日は少しだけ、筆圧が違うとジンは思った。昨日より、強い。


 それがいいことなのかどうかは、わからない。でも、エリナの背中は——昨日の朝より、少しだけ軽そうだった。


  ―――

 二時間を過ぎた頃、地形が変わった。


 岩盤が、突然、壁のように立ち上がった。


 高さは、見上げるほどある。灰色の岩肌が、空に向かって垂直に切り立っている。割れ目に枯れた草が少しだけ生えているが、それ以外に何もない。生き物の気配がない、ということが、ここまで明確に感じられる場所を、ジンはこれまで歩いたことがなかった。


「……断絶の崖だ」とシアが言った。


 声が、少し低かった。


「実際に来たのは、初めて?」とジンが聞いた。


「地図で見ただけだった。こんなに——」シアが少し止まった。「垂直だとは、思っていなかった」


「圧迫感があるね」


「感想がそれか」


「でも実際そう感じた」


 シアが少し、呆れたような顔をした。でも否定しなかった。


 ルルが崖の方を向いて、じっとしていた。鼻が、かすかに動いている。


「ルル?」とエリナが聞いた。


「……ここだ」ルルの声が、普段より少し低い。「ここが、最後の点。においが、すごく、強い。水源とか、焼祭の台とか、全部合わせたより、ずっと強い」


「怖い?」


「怖い、とも違う。でも——」ルルが少し考えた。「お墓の前に立つ感じ、かな。誰かが、大事なものをここに置いていった感じ」


 誰も何も言わなかった。


 風が来た。崖の岩肌を撫でて、四人の間を通り抜けていった。


  ―――

 崖沿いに東へ進むと、岩壁にわずかな切れ込みがあった。


 人が入れる幅ではない。でも、その切れ込みの奥に——光が見えた。自然光ではない。岩肌の奥から、ほんのかすかに、青白い何かが漏れている。


「……光ってる」とジンが言った。


「封印の反応だ」とシアが言った。「崩れかけた封印から、魔力が漏れ出している。廃教会でも水源でも感じなかったが——ここは、違う」


「崩れてる?」


「弱くなっている。誰も引き継がなかったから、四百年かけて薄れてきた」


「触ったら?」


「わからない。だが——」シアは切れ込みを見た。「この先に、起点がある。それは間違いない」

 エリナが古い地図を広げた。


「文献には、崖の内側に小さな祭壇があると書かれていました。切れ込みの先に、空間があるのかもしれない」


「入れる?」


「地図には、入口があると——」エリナが地図を指で辿った。「もう少し南の方に、書かれています」

 四人は崖沿いを歩いた。五分ほどで、わずかに広い割れ目が現れた。横向きになれば、通れるかもしれない。岩が長い年月で削れて、ゆっくりと開いていったのだろう。


「ジン」とシアが言った。「先に入れ。視界が広い」


「俺が先?」


「暗くても見える」


「そうだった」


 ジンが横向きになって、割れ目に入った。岩が冷たい。少し狭い。でも——三歩進んだところで、急に開けた。


「入れる」と後ろに向かって言った。「空間がある」


  ―――

 岩の割れ目の内側は、思ったより広かった。


 天井がなく、崖の上まで垂直に切り立っている。空が、細い帯のように見える。地面は平らで、中央に——小さな石の台座が一つ、あった。


 台座は、焼祭の台のものより小さい。腰ほどの高さ。四角い形。上部に、薄い石板が乗っている。その石板の表面が、青白く光っていた。


 外から漏れていた光は、これだった。


「……生きてる」とシアが入ってきて言った。


「まだ光ってるから?」


「魔力がある。薄いが——消えていない。四百年、ここで、誰も引き継がないまま、でも消えなかった」

 ルルが台座の近くに寄った。鼻をひくひくさせて、それから顔を上げた。


「におい、すごく複雑」


「どんな感じ?」


「悲しいにおいと、嬉しいにおいが、両方ある。なんか——送り出した人と、待ってた人の、両方のにおいがする。ずっとここで、混ざってたみたい」


 誰も何も言わなかった。


 エリナが羊皮紙を取り出した。台座の石板を見て、手が少し止まった。


「……碑文がある。これまでのとは——違う」


「違う?」とジンが聞いた。


「短い。一行だけ、です」


 シアが台座の正面に立った。石板の表面を見た。少し沈黙して、口を開いた。


「——読める」


「全部?」


「全部だ。ここだけが、原始魔法言語ではなく——普通の、古い言語で書かれている」


 誰かが聞かなくても、シアが読み始めた。


「『重さを知る者よ。あとは、あなたに任せる』」


  ―――

 石板の空白が、しんと広がった。


 ジンはその一行を、頭の中で繰り返した。


(重さを知る者よ。あとは、あなたに任せる)


 水路の石板に書いてあった言葉が、頭に戻ってきた。重さを知る者が来るまで、眠れ——廃教会の壁に書いてあった言葉が。忘れないでいてほしい、私たちは、あなたを待っている——


 全部が、ここに繋がっていた。


「アル・ヴェリアが、最後に書いた言葉だ」とシアが言った。「ここが——本当に、最後の点。そして、封印の全てが揃う場所」


「触ったら、完成するの?」とルルが聞いた。


「——おそらく。五つの点が揃い、引き継ぎ手が触れた時に、封印が完成する、という構造だと思う。廃教会の碑文にそう書いてあった」


「何が完成するの」


「それは——まだ、わからない。何を守っているかは」


 ジンは台座を見た。光っている石板を。四百年前に誰かが書いた、最後の言葉を。


「触っていい?」とジンが聞いた。


 シアがジンを見た。


「お前が触れるかどうかを、俺には判断できない。ただ——」シアは少し間を置いた。「水源の石組みでも、廃教会でも、お前が触れた時に反応した。この台座も、おそらく、お前を待っている」


「怖いとかは、ない」


「そうか」


「なんか——ちゃんと、ここに来た気がするから」


 エリナが羊皮紙から顔を上げた。


「ジンさん」


「うん」


「触れる前に——一つだけ、確認させてください」エリナは少し間を置いた。「何が起きても、皆さんと一緒に帰ります。それだけ、決めておきたかった」


 ジンが「うん」と言った。ルルが「うん」と言った。シアは何も言わなかったが、わずかに頷いた。

「わかりました」エリナが言った。「では——」


 その瞬間だった。


  ―――

 岩の割れ目の入口が、陰った。


 人影が一つ、立っていた。


 白い法衣。


 従者なし。手ぶら。笑顔。


 ただ——今日の笑顔は、最初にギルドで見た笑顔とは、何かが違った。笑顔の形は同じだ。でも——その奥の感情が、今日は隠れていない。


「……来ていたんですね」セレク・ヴァインが言った。「予想より、少し早かった」


 シアが一歩、前に出た。


「条件を受けて、今朝の広場で会った。それで終わりだったはずだ」


「交渉者としての私には、そうです」セレクが言った。静かな声だった。「ただ——」


 セレクの視線が、ジンの方へ動いた。


 光る石板を見た。台座を見た。それから——ジンを見た。


「この先を、私は止めなければならない立場にいます」


 沈黙が落ちた。


 ジンはセレクを見た。感情が読めない、ガラス玉の瞳。でも今は、その奥に何かがある。さっきルルが言っていた——「答えを聞きたいにおい」の、続きのようなものが。


「なぜ」とジンが聞いた。


「ザルヴァの御意志です」


「ザルヴァが嫌なのか」


「神がお望みにならない」


「神が嫌でも、俺はやる」


 セレクが少し、止まった。


 笑顔のまま、でも——何かが、動いた。


「……それは」セレクが言った。「四百年前の術者も、同じことを言ったのかもしれませんね」

 誰も何も言わなかった。


 夜明け前の広場でシアに問いかけた声と、今の声が——同じ温度をしていた。脅しではない。問いでもない。ただ、確認している。何かを。


「セレク」とシアが言った。


「はい」


「お前は、止めたいのか」


 長い沈黙があった。


 セレクの笑顔が、ほんの少しだけ——ほんの少しだけ——揺れた。


「……私には、判断する権限がない」


 それだけ言って、セレクは黙った。入口を塞いでいる。動かない。でも——攻撃もしない。


 ジンは台座を見た。石板を見た。光っている。待っている。四百年待っていた、最後の一点が。


 シアがジンの横に並んだ。エリナがその後ろに立った。ルルがジンの袖をつかんだ。


「行って」とルルが言った。小さな声で。「ここまで来たんだから」


 ジンは頷いた。


 一歩、前に出た。


 台座に近づいた。光が少し強くなった。石板の表面が、熱を持っているような気がした。

 ジンは右手を伸ばした。


(重さを知る者よ。あとは、あなたに任せる)


 指先が、石板に触れた。


  ―――

 光が、弾けた。


 岩の空間全体が、青白い光で満たされた。台座から光の柱が伸びた。天井のない空間を突き抜けて、曇り空を貫いた。


 地面が揺れた——いや、揺れたのではない。封印が動いた。五つの点が揃って、四百年越しに、誰かが触れた。それだけの事実が、世界を少し動かした。


 ジンは光の中に立っていた。目を開けていた。


 何かが、流れ込んでくる。言葉ではない。温度でもない。でも——誰かの気持ちが、指先から伝わってくるような感覚があった。


(ありがとう)


 声ではない。でも、そう聞こえた。


 光が、落ち着いた。ゆっくりと、収まっていった。


 ジンは手を離した。台座の石板を見た。光が消えていた。でも——さっきまでの、崩れかけていた青白い光とは違う。石板の表面が、静かに——穏やかに——光っている。封印が、完成した色だ、とジンは根拠もなく思った。


 後ろで誰かが息をついた。


「……終わった、のか」とシアが言った。


「わかんない」とジンが言った。「でも、何かが、ちゃんとした気がする」


「お前の感覚は信用できるのか」


「できると思う」


「……そうか」


 ルルがジンの袖を引いた。


「ジン、大丈夫?」


「うん。なんか——暖かかった」


「暖かかった?」


「うん。さわった時。怖くなかった」


「そっか」ルルが「よかった」と言った。


 エリナが、羊皮紙を手に持ったまま、石板を見ていた。何かを書き留めようとして、でも何も書けていない。


「エリナ」とジンが言った。


「……はい」


「大丈夫?」


「大丈夫、です。ただ——」エリナが少し間を置いた。「今は、少しだけ、言葉が追いつかなくて」


「そっか」


「ええ」


 それだけで、十分だった。


  ―――

 全員が石板から視線を外した時、入口の方を見た。


 セレクは、まだいた。


 白い法衣。でも、今は——笑顔ではなかった。笑顔でも、無表情でも、ない。ジンがこれまで一度も見たことのない顔が、セレクの顔にあった。


 名前をつけるとすれば——途方に暮れた顔、だった。


「……もう、止まらないんですね」とセレクが言った。


「止まる理由がない」とシアが答えた。


「そうですか」


 長い沈黙。


 空の細い帯から、光が差し込んできた。雲の切れ間から、一筋だけの朝の光。断絶の崖の内側に、初めて日が入った。


「一つだけ、教えてください」セレクが言った。声がいつもと違う。交渉者ではない声だ。「封印が完成した時——何かが、変わりましたか」


 ジンは少し考えた。


「暖かかった」


「暖かかった」


「うん。誰かに、ありがとうって言われた気がした。声じゃないけど」


 セレクが、ゆっくりと目を閉じた。一拍。また開いた。


「……そうですか」


 それ以上、何も言わなかった。


 セレクが一歩、後ろに引いた。二歩、後ろに引いた。入口の影の中に消えていく。最後に、一度だけ振り返った。


「シア・ルーナ」


「何だ」


「——続けられる理由が、わかった気がします」


 それだけ言って、今度こそ、消えた。


 足音が遠ざかった。


  ―――

 四人が残った。


 岩の空間。穏やかに光る石板。空の細い帯から差し込む朝の光。


 誰も何も言わなかった。しばらく、ただそこに立っていた。


 ルルが最初に口を開いた。


「……ね、ジン」


「何?」


「封印が完成したら、どうなるの?」


「どうなるんだろう」


「シアは?」


 シアが少し考えた。


「碑文には——引き継がれた時、封印は守るべきものを守り続ける、と書いてあった。何を守っているかは、まだわからない。だが——完成したことで、崩れなくなった」


「崩れなくなった」


「ザルヴァが壊しにくるかもしれない。教会が動くかもしれない。でも——今この瞬間は、ちゃんと、ある」


「それで良かった」とルルが言った。


「ああ」


 エリナが手帳を開いた。今度は、書けた。ペンが走っている。手が、震えていない。


「記録しておかなければ」エリナが言った。「今日起きたことを、全部」


「帰りながら書く?」


「帰りながらでは追いつかないので、少しここで書かせてください」


「わかった」


 ジンは台座の横に腰を下ろした。岩が冷たい。でも、今は構わなかった。


 空の細い帯を見上げた。


 光が、少し広がってきた。雲が薄くなっている。


(あとは、あなたに任せる)


 そう書いた人は、どんな顔をしていたんだろう。怖かったと思う。四百年前に、神に逆らって、誰かが来るかもわからない場所に言葉を残して、そこから二度と戻らなかった。


 でも——誰かに任せると書いた。


 任された側が来るまで、封印はちゃんと待っていた。四百年。崩れかけながらも、消えなかった。


「ジン」とシアが言った。


「何?」


「次が、来る」


「次?」


「封印が完成したことを、セレクが教会に報告する。教会は——ザルヴァは、動く。第一章は、ここで終わりじゃない」


「そうだね」


「怖くないのか」


「怖いけど」ジンは少し間を置いた。「ここまで来たじゃん。続けられる」


 シアが何か言いかけて、やめた。


 代わりに、岩壁に背中を預けて、腕を組んだ。それだけだった。


 でもその顔が——朝の広場で見たセレクへの問いに答えた時よりも、少しだけ、軽かった。


「帰ったら、スープ飲もう」とジンが言った。


「また食べ物の話」とルルが言った。


「腹が減った」


「減るよね。歩いたし」


「うん」


 シアが「帰れたらな」と言った。嫌みの声ではなかった。普通の声だった。でも、その普通の声の中に、何かが混じっていた。


 ジンにはその何かに、名前をつけることができなかった。


 でも——悪いものではないと、思った。


 エリナが手帳を閉じた。


「書きました。帰りましょう」


「うん」


 四人は立ち上がった。


 岩の割れ目を通り抜けて、断絶の崖の外へ出た。


 空が、少し明るくなっていた。雲の切れ間から、光が広がっている。雨にはならない。


 断絶の崖は、四人の後ろに残った。静かに。


 台座の石板は、今も穏やかに光っているだろう。四百年待って、ようやく続きを書いてもらった言葉のように。


  ―――


— 第15話・了 —

次話予告:ラングレイへの帰り道、エリナの手帳に折り畳まれた紙が一枚挟まっていた。ギルド中央本部からの返信——それは、エリナが最も恐れていたものではなく、最も必要としていたものだった。そして翌朝、四人の宿の扉に、白い封蝋の書状が届く。差出人は、教会ではない。王室だった。


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