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無詠唱の魔王  作者: Dちゃん
第一章「辺境から始まる話」

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第14話「夜明けの広場と、問いの意味と、ジンがいる」

夜明け前の広場は、静かすぎた。


 石畳が白く浮かび上がるほどではない。空の端に、ほんの薄い青が混ざり始めている——そういう時間。


 シアは広場の中心に向かって歩いた。足音が、石畳に吸い込まれるように響く。


 セレクはすでにいた。


 白い法衣。従者なし。夜明け前の寒さの中で、少しも縮こまっていない。まるで、この世の温度がそもそも関係ない人間のように。


 「来てくれましたね」


 声が静かに落ちてくる。笑顔は、いつも通りだ。感情の抜け落ちた、ガラス玉の笑顔。


 シアは立ち止まった。五歩ほどの距離を保ったまま、答えた。


 「条件を受けたから来た。言いたいことを言え」


  ―――


 路地の角で、ジンは石壁に背中を預けていた。


 見えない。広場の向こうに二人がいることはわかる。声はここまで届かない。でも——確かに、そこにいる。


 ルルが隣で膝を抱えていた。


 冷たい石段に直に座るルルは、鼻をかすかに動かしている。


 「においは?」とジンが小さく聞いた。


 「緊張してる。シアが。でも——怖がってない」


 「そっか」


 エリナが後ろで手帳を開いている。書いているわけではない。ただ、手に持っている。


 「待つしかない」とジンが言った。


 「うん」とルルが答えた。


 三人は黙って、夜明けを待った。


  ―――


 「あなたは——あの日のことを、まだ正しかったと思っているか」


 シアは即答しなかった。


 その問いが、予想通りだったからだ。予想通りだったのに、言葉がすぐには出てこなかった。


 「……何が聞きたい」


 「答えを、です」セレクの声に、色がない。「あなたがパーティを抜けた日。あの選択が正しかったかどうか」


 「そんなことを聞くために、わざわざ呼び出したのか」


 「そんなこと、ではない」


 セレクが一歩、前に出た。


 「あの日のことが——今、ここで起きていることと繋がっているからです」


 シアの喉が、わずかに動いた。


 あの日。


 勇者パーティが東の砦を攻略した翌朝のこと。シアだけが知っていた——あの戦いで何が起きたかを。教会の騎士団が、先回りして封印の台座を砕いたことを。理由は、「邪神の復活を防ぐため」と言われた。でもシアには、その台座が邪神封印のためのものではなく、むしろ逆のために存在していた、という確信があった。


 誰にも言えなかった。言えるはずがなかった。


 それで、パーティを抜けた。


 「……お前は」シアは言葉を選んだ。「あの台座が何のためにあったか、知っているか」


 セレクが、少し間を置いた。


 「知っています」


 「それでも、砕いた」


 「教会は——ザルヴァの御意志に従いました」


 静寂が落ちた。


 夜明けの風が、石畳を冷たく舐める。


 「だから聞いている」とセレクが続けた。声が、いつもより低い。「あなたは正しかったか、と。あの日、抜けたあなたの判断は。ここに来て、その封印を追いかけているあなたは——教会と、ザルヴァに、本当に抗えると思っているか」


 脅しではない。


 シアは、それを感じ取った。これは脅しでも、取引でもない。


 セレクは——本当に、聞いているのだ。


  ―――


 路地の角で、ジンが体を起こした。


 何かが変わった、という感覚があった。説明できない。でも——空気が、少し違う。


 「ルル」


 「……わかってる」ルルが立ち上がった。「においが変わった。セレクが——少し、違うにおいになってる」


 「違う、って」


 「最初は、決めてきた人のにおいだった。でも今は——聞いてる人のにおい。なんか、本当に答えを聞きたいみたいな」


 ジンは少し考えた。


 「……行く」

 「ジン」エリナの声が、低く落ちた。「シアさんが一人でと言っていました」

 「わかってる。近くに、いるだけ」


 ジンが路地の角から一歩、出た。

 広場の端、まだ影の中。二人に気づかれない場所。ただ——シアの視界の端に、届くかもしれない場所。


  ―――


 シアは答えを、まだ持っていなかった。


 正しかったか。


 あの日、パーティを抜けたことが。


 わからない。今も、わからない。でも——


 視界の端に、何かが動いた。


 路地の角。影の中に、人影がある。背が高い。黒髪。


 ジンだ。


 見えなくていい、ここにいてくれ——シアが昨夜そう言ったことを、ちゃんと守っている。広場には入ってこない。ただ、影の中に立っている。それだけ。


 シアは前を向いた。セレクと目が合った。


 「わからない」シアは言った。「あの日、正しかったかどうか、今もわからない。でも——」


 一拍。


 「続けることは、できる。それだけは、わかった」


 セレクが、何かを見るような目でシアを見た。


 笑顔は変わらない。でも——その奥の何かが、ほんの少し、動いた気がした。


 「……なぜ、今は続けられると思えるのですか」


 シアは少し間を置いた。


 「それは」


 言いかけて、止まった。


 言わなくてもいいと思った。少なくとも、セレクに言う言葉ではない。


 「関係ない」


 セレクが、わずかに息を吐いた。


 「……そうですか」


 長い沈黙があった。


 空の端の青が、少し深くなっている。夜明けが、来る。


 「一つだけ、聞かせてください」セレクが言った。「封印の最後の点へ——向かうつもりですか」

 シアは、即答した。


 「向かう」


 「……そうですか」


 セレクが一歩、後ろに引いた。会話を終わらせる動きだ。


 「引き止めないのか」


 「引き止める権限は、私にはありません」セレクが言った。「交渉者としての私には——今日は、ここまでです」


 「交渉者として、は」


 「はい」


 セレクが振り返った。白い法衣が、夜明けの薄い光の中に溶ける。歩き始める前に、一度だけ振り返った。


 「シア・ルーナ。あなたが続けられる理由を——私は、知りたいと思っています。いつか、聞かせてくれますか」


 シアは答えなかった。


 セレクは待たずに、歩き出した。


  ―――


 広場に、シアが一人残った。


 ジンが路地の角から歩いてきた。普通の歩幅で。急いでいない。


 「終わった?」


 「……終わった」


 「そっか」


 ジンがシアの隣に並んだ。同じ方向を向いた。セレクが消えていった方を、二人で少し、眺めた。


 「何話してたの」


 「……あいつは、答えを聞きに来た」


 「答え?」


 「俺がパーティを抜けたことが、正しかったかどうか」


 ジンが少し考えた。


 「なんて答えたの」


 「わからないと言った。でも続けられる、と言った」


 「うん」


 「……それだけか」


 「それだけ」


 シアが少し、ジンを見た。


 「なぜいたんだ。影の中に」


 「そこにいてくれって言ったじゃん」


 「視界の外でいい、と言った」


 「外だったじゃん。ちゃんと外」


 シアが何か言いかけて、やめた。


 代わりに、小さく——本当に小さく——息を吐いた。笑いではない。でも、それに近い何かだった。


 エリナとルルが追いついてきた。


 「大丈夫でしたか」とエリナが言った。


 「問題ない」


 「セレクは何か」


 「引き止めなかった。今日のところは」


 エリナが手帳に何かを書き込んだ。歩きながら。


 ルルがシアの袖をつかんだ。シアは振り払わなかった。


 「においが、昨日より全然軽い」


 「そうか」


 「うん。良かった」


 空が、明るくなっていた。


 雲は多い。でも、雨にはならなそうだ。


 「断絶の崖、今日行くんですよね」エリナが言った。


 「朝食を食べてから出る」とシアが言った。


 「賛成」とジンが言った。


 「あたしも」とルルが言った。


 エリナが、かすかに——本当にかすかに——笑った。


 四人は、ラングレイの石畳を歩き始めた。


  ―――


 食堂に戻ったのは、朝の鐘が鳴り終わる頃だった。


 スープが来た。パンが来た。ジンは一口飲んだ。


 「……うまい」


 「毎朝同じこと言う」とシアが言った。


 「うまいものはうまい」


 ルルが「あたしも同じ感想」と言った。エリナが「私もそう思います」と言った。


 シアは何も言わなかった。でも、スープを一口飲んだ。その顔が、昨日より少し、違う気がした。


 ジンはそれに気づいたが、何も言わなかった。


 「今日の予定を確認します」エリナが手帳を開いた。「ラングレイを出るのは朝食後。断絶の崖まで急ぎ足で半日以上。夕方前に到着が理想です。戻りは翌朝になる可能性があるので、野営の準備を」


 「野営か」とジンが言った。「四人では初めてだね」


 「ルルは平気?」


 「野外は得意。森でずっと寝てたし」


 「そうか、そうだった」


 シアが「問題ない」と言った。「ただし——崖地形での夜間行動のリスクは取らない。無理はしない」


 「シアが無理するなって言うの、珍しい」


 「封印が相手だ。相手を選んで無理をしろ」


 「そっか。わかった」


 エリナが手帳をパタン、と閉じた。


 その指先が、わずかに震えているのをジンは見逃さなかった。


 「一つ、報告があります」


 「何が」とジンが聞いた。


 「ギルド中央本部への相談状を、昨夜、出しました」


 シアの手が、スープのスプーンを握ったまま止まった。


 「中央へ……? セレクの件か」


 「はい。教会の理不尽な介入に対して、辺境ギルドの受付がどこまで裁量で突っぱねられるか。その限界線を探るための、必死の打診です」


 エリナは一度言葉を切り、自分の膝の上で、そっと拳を握りしめた。


 「出せば、これまでのキャリアも、今の立場も失うかもしれない。規律を重んじるギルドへの、これは明確な反逆ですから」


 窓からの朝の光が、エリナの横顔を白く浮き上がらせていた。


 恐怖がないわけがない。それでも、その瞳の奥には一本の強い芯が通っていた。


 「皆さんに、黙っていてすみません。でも——」


 エリナは少し間を置いた。


 「届かなくてもいいから書いた、とおっしゃったのはジンさんですから。背中を押されたのは、私の方でした」


 ルルが、エリナの服の袖をそっと引いた。純粋な瞳が、エリナを見上げている。


 「エリナ、お仕事なくなるの?」


 「ふふ、わかりません。でも——不思議と、後悔はしていないんです」


 シアは最後まで何も言わなかった。


 ただ、スープのグラスを静かに置いて、語らずともその覚悟を深く受け止めるような、優しい沈黙をエリナに返した。


 ジンはスープを最後の一口まで残さず飲み干し、器をカタンと置いた。


 彼がいるだけで、部屋を包んでいた張り詰めた重圧が、嘘のように霧散していく。


 「そっか」


 ジンは立ち上がり、いつものように、世界で一番安心できる笑顔を浮かべた。


 「よし、行こう」


  ―――


 出発の準備をしている間、ジンはふと窓の外を見た。


 ラングレイの北の空。雲は厚いが、遠くに薄い光がある。


 (断絶の崖)


 アル・ヴェリアが、最後に立った場所。


 封印が、五つ揃う場所。


 何を守っているのか、まだわからない。でも——ここまで来た。水路の石板から始まって、廃教会があって、水源があって、焼祭の台があって。それでここに、いる。


 (届かなくてもいいから書いた、みたいな感じがする)


 自分で言った言葉が、頭の中で繰り返された。


 届かなくても、というのは——届いたから意味があるわけじゃない、ということだ。書いた時点で、もう意味があった。


 アル・ヴェリアも、そうだったんだろう。


 シアの後ろ姿が、廊下を歩いていた。


 荷物を持って、首の後ろが少し、昨日より軽そうに見えた。


 ルルがジンの横を通り過ぎた。「ジン、ぼーっとしてる」


 「してない」


 「してた」


 「……少しだけ」


 ルルが笑った。「いいじゃん、たまには」


 「そうかな」


 「そうだよ。行こ」


 ルルが先に走り出した。


 ジンはそれを見て、少しだけ笑って、荷物を持ち直した。


  ―――


 四人は、ラングレイの北門を出た。


 向かう先は、断絶の崖。

 封印の最後の点。

 アル・ヴェリアが、最後に立った場所。


 空は曇っている。でも、歩ける。

 それで、今日も始まった。


 ——ただ、ジンは北の空を見上げながら、ふと思った。


 セレクが言っていた言葉が、頭の端に引っかかっている。


 「交渉者としての私には、今日は、ここまで」


 交渉者として、は——


 では、交渉者ではない誰かは、どこにいるのか。


 ジンは少しだけ首を傾けた。考えているというより、ぼんやり引っかかっている、という感じだった。


 「ジン、遅い」前を歩くシアが言った。


 「今行く」


 ジンは歩き出した。


 頭の端の引っかかりは、まだそこにある。


 でも、今はそれでいい。


 ——断絶の崖は、まだ遠い。


  ―――


— 第14話・了 —


次話予告:断絶の崖は、想像以上の場所だった。切り立った崖の縁に、小さな石の台座が一つ——風化しながらも、まだそこにある。ジンが台座に触れた瞬間、四方から光が収束した。封印が、動き始める。そして——崖の下から、白い法衣ではない者たちが、姿を現した。


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