第13話「断絶の崖と、シアへの手紙と、動き出す夜」
朝は、図書館から始まった。
ラングレイの図書館は、ギルドの建物から二本北に入った路地にある。石造りの建物で、看板が小さすぎて初めての人間には見つけにくい。エリナはその入口を迷わず開けた。顔なじみの司書に会釈して、奥へ進む。
ジンとルルは入口で待っていた。シアは隣で、腕を組んで壁に背を預けていた。
「古い地図と、旅行記があれば十分です」エリナは言っていた。「一時間もあれば調べられます」
「一緒に入らないの?」とジンが聞いた。
「本が傷みますから」
「俺たちが傷めるの?」
「ルルさんが走ります」
ルルが「走らないよ」と言った。
「走りそうです」
ルルが黙った。
シアが「待つ」と言ったので、三人は日当たりのいい石段に腰を下ろした。空は薄く曇っている。昨日より気温が低い。ルルは膝を抱えて、路地を行き来する人の流れをぼんやり眺めていた。
「シア」とジンが言った。
「何だ」
「昨日の話、ありがとう」
シアが少し止まった。
「……何が」
「パーティのこと、話してくれたじゃん」
シアは路地の方を向いたまま、何も言わなかった。少し経ってから、「気にするな」と言った。
「気にしてないよ。ありがとうって言っただけ」
「同じことだ」
「そう?」
またしばらく沈黙が続いた。ルルが小石を一つ拾って、指先でくるくる回した。
一時間も経たないうちにエリナが出てきた。手に羊皮紙を何枚か持っている。
「見つかりました」
三人が立ち上がった。
―――
小部屋に戻って、四人で地図を囲んだ。
「断絶の崖について、二つの文献に記述がありました」エリナが羊皮紙を広げた。「一つは二百年前の旅行記。もう一つは、百七十年前に書かれた巡礼僧の日記です」
「どんなこと書いてあった?」とジンが聞いた。
「旅行記の方は——ラングレイから北東に半日以上歩いた先に、人が近づかない崖がある、という記述です。地形の描写がありますが、地図には記載がない。ただ——」エリナが羊皮紙の一枚を前に出した。
「巡礼僧の日記に、もう少し詳しいことが書かれています」
「何が書いてある?」
「……『断絶の崖は、かつて一人の術者が最後に立った場所である。術者は崖の向こうへ何かを封じ、二度と戻らなかった。その名を、我らは知らない』」
部屋が静かになった。
「アル・ヴェリアだ」とシアが言った。
「そう読めます」とエリナが答えた。「名前は書かれていませんが——封印の術者が最後に立った場所、という記述は、これまでの碑文の内容と一致する」
「封印の最後の点が、そこにある」
「可能性は高い」
ジンは地図を見た。ラングレイの北東——廃教会よりさらに先、焼祭の台を経由して、さらに奥。
「半日以上、か」
「急げば一日で行って帰れる。ただし、かなり険しい地形のようです」エリナが手帳に何かを書き込んだ。「猶予はあと一日と少し。今日の昼に出れば、断絶の崖には夕方に着けるかもしれない。ただ、夜に崖地形を歩くのはリスクがある」
「じゃあ、明日の朝一番で出る?」
「それが現実的です。今日は準備に充てる」
「わかった」
ルルが「でも今日、何かあるかも」と言った。
「何が」とジンが聞いた。
「なんとなく。なんか、空気が変わる感じがする」
「においがする?」
「においじゃない。でも——なんか、今日、何かが来る」
シアが「根拠はないんだな」と言った。
「うん。でも、外れたことないよ」
シアは何も言わなかった。エリナが手帳から目を上げて、ルルを一度見た。それだけだった。
―――
夕方、ギルドに戻ったところで、後輩の受付担当が小走りで来た。
「エリナさん、届いています」
「何が」
「書状です。ただ——エリナさん宛ではなくて」
後輩が差し出した封書を、エリナが受け取った。表書きを見た瞬間、手が少し止まった。
「……シアさん宛てです」
小部屋に四人が揃った。
エリナがシアに封書を渡した。無言で。シアが受け取った。封の紋章を一瞬見た。教会の印。それから、差出人の名前を見た。
セレク・ヴァイン。
シアの手が、わずかに止まった。息が、一拍、止まった。
エリナがジンとルルに目配せした。二人は何も言わなかった。
シアが封を開けた。中の紙を取り出した。一枚だけ。短い文章だった。声に出さずに読んで、また黙った。
「……」
「読んでいいですか」とエリナが言った。
シアが無言で紙を差し出した。
エリナが読んだ。ジンが隣から覗き込んだ。ルルは覗かなかった。
書いてあったのは、こうだった。
シア・ルーナ殿。交渉の場ではなく、個人として話したいことがあります。明日の夜明け前、ギルドの外——西門近くの広場で会っていただけますか。お時間は取らせません。
セレク・ヴァイン
「エリナを通さなかった」とジンが言った。
「……そうです」エリナの声が少し低くなった。「ギルドの管理枠外に引き出す戦術です。私を経由させない。シアさんと教会の間に、個人的なやり取りを作ることで——ギルドが干渉しにくい状況を作る」
「因縁がある、ってこと?」
「何かがある。だから、直接呼んだ」
シアは窓の方を向いていた。背中が、いつもより少し硬く見えた。
「シア」とジンが言った。
「……」
「どうする?」
シアはすぐに答えなかった。
ルルが小さく「においが変わった」と言った。誰にとでもなく、ただ呟くように。
しばらく経って、シアが口を開いた。
「決めるのは俺だ。今夜、考える」
「うん」とジンが言った。
「急かすな」
「急かしてないよ」
シアが振り返った。ジンを一瞬見て、またそっぽを向いた。
「……夕飯、先に食っていろ。後で行く」
「わかった」
―――
夜になった。
シアは部屋に一人でいた。
窓の外に星は出ていない。雲が厚い。暗い夜だった。
机の上に紙があった。カインへの手紙を書こうとして、止まっている。書き出しだけある。「カイン、」と書いて、その先が出てこない。
セレクとの記憶が、断片的に戻ってくる。
初めて会ったのは、勇者パーティが王都を出る前だった。教会の使者として現れて、笑顔で挨拶して、何も感じさせなかった。あの頃のシアには、セレクが何者なのか、わからなかった。パーティの仲間たちも、誰も疑わなかった。
疑う必要がないと思っていた。
そういう時代だった。
(あの日のことを、まだ正しかったと思っているか)
セレクが聞きに来るとすれば、そういうことだと思った。それ以外に、わざわざ個人として会う理由がない。
あの日——シアがパーティを抜けた日のことを。
机の紙を見た。「カイン、」という書き出し。
続きが書けない理由が、自分でもわかっていた。何を書けばいいかわからないのではない。書いたら、向き合わなければならないことがある。それが、まだ怖かった。
怖い、という言葉を、シアは自分に対して滅多に使わない。それでも、今夜は、そうとしか言えなかった。
ノックがあった。
「シア?」ジンの声だった。
「……入れ」
扉が開いた。ジンが入ってきた。一人だった。
「ルルが、においが重いって」
「そうか」
「俺も気になったから、来た」
ジンは部屋に入って、机の横の床に腰を下ろした。椅子は使わなかった。床に直接、体育座りで。
シアは「何を聞きに来た」と言った。
「別に」
「別にで来るな」
「いたら良いかと思って」
シアは返事をしなかった。ジンも何も言わなかった。二人で、しばらく黙っていた。
「……セレクと、昔会ったことがある」シアが先に言った。
「うん」
「教会のやつとして、ではなく——個人として、関わったことがある。俺がパーティを抜けることに、あいつが絡んでいる」
「今話せる?」
「全部は話せない。ただ——」シアは机の紙を見た。「一対一で会うことを、どうするかを考えていた」
「行くの?」
「……行く。ただし、条件をつける」
「条件?」
「話を聞くだけだ。こちらから何も渡さない。その条件を、先に書面で送る。それで来るなら会う」
「エリナに頼む?」
「そうなる」
ジンが少し考えた。それから、「一緒に行く」と言った。
「できない」とシアがすぐに言った。
「そっか」
「個人として会いに来た、という場に、他の人間が来れば——それだけで会話にならない」
「わかった」
「だから——」シアは少し間を置いた。「近くにいてくれ。俺の視界の外でいい。それだけでいい」
ジンは少し黙った。
「……うん。それなら、できる」
シアが「お前は本当に」と言いかけて、止まった。代わりに、机の紙を手に取った。
「少し書く。席を外せ」
「はーい」ジンが立ち上がった。「何か食べる?ルルが林檎残してたって」
「要らない」
「そっか」
ジンが部屋を出た。扉が静かに閉まった。
シアは紙を見た。「カイン、」という書き出し。
続きを書いた。インクが滲むのも構わず、止まらずに書いた。
カイン、
明日、セレクに会う。お前なら止めるか?
お前ならそうするかもしれないと、お前の呆れた顔を思い浮かべながら書いている。
でも、俺は会う。
あいつが何を言いに来るか、俺にはもう、見当がついているからだ。だから、聞きに行く。
……ジンが、近くにいてくれると言った。俺の視界の外でいいから、と。
それだけで、驚くほど少し、楽になった。
お前には絶対に言いたくないが、嘘は書きたくないから、正直に書く。
また連絡する。
丁寧に封をして、シアは小さく息を吐いた。
窓の外へ視線を向ける。今夜の空は、厚い雲に覆われていた。あの日、雨上がりに見上げたような美しい星は、どこにも見えない。
それでも、夜は確実に明ける。
(明日、行く)
胸の奥でその言葉を繰り返すと、高鳴っていた鼓動が静かに凪いでいくのがわかった。覚悟の重さは、焦りを消してくれる。
―――
夜明け前。
まだ空が深い闇に沈んでいる頃、四人は一階に集まった。
エリナがシアの手書きの条件書をセレクの宿へ届けたのは、昨夜のことだ。返答はない。来なくても行く。最初からそのつもりだった。
「条件を無視して来なければ、それはそれで情報だ」とシアが言っていた。
「条件を受けて来た場合は?」とエリナが聞いた。
「聞いてくる」
「わかりました。——戻ってきてください」
シアが一瞬、エリナを見た。それから頷いた。一度だけ。
ルルがジンの袖を引いた。
「ジン、シアのにおい、昨日より少し軽くなってる」
「そっか」
「うん。良かった」
ジンは「そうだね」と言った。それ以上は言わなかった。
四人で西門の方角へ歩いた。夜明け前のラングレイは、人がほとんどいない。石畳に足音が響く。空の端がほんのわずかに白み始めていた。
西門近くの広場が見えてきたところで、シアが立ち止まった。
「ここから先は、俺一人で行く」
「わかった」とジンが言った。
「広場の手前、この路地の角で待っていてくれ。見えなくていい。ただ、ここにいてくれ」
「うん」
シアがジン・エリナ・ルルを順番に見た。それから前を向いた。
「——行ってくる」
「行ってらっしゃい」とエリナが言った。
ルルが小さく手を振った。
シアの背中が、夜明け前の薄暗い道を進んでいく。
ルルはその背中を見送った。ジンは路地の角に体を預けた。エリナは手帳を取り出した。歩きながら何かを書く習慣が、今は立ち止まって続いている。
広場に、人影があった。
白い法衣。従者なし。夜明け前の広場に一人で立って、シアが来るのを待っていた。
シアが広場に踏み入った。
セレクが振り返った。笑顔。いつもの、感情のない笑顔。でも、今日は少しだけ——何かが違う気がした。シアにしかわからない、ほんの微細な違いが。
「来てくれましたね」セレクが言った。
「条件を受けたから来た」とシアが言った。「言いたいことを言え」
セレクが少し間を置いた。
夜明けの薄い光が、広場の石畳を白く染め始めていた。
セレクの声が、いつもより少しだけ低かった。
「あなたは——あの日のことを、まだ正しかったと思っているか」
―――
— 第13話・了 —
次話予告:夜明けの広場で、シアとセレクは二人きりで向き合った。セレクが口にしたのは、脅しでも取引でもなく——「あなたは、あの日のことを、まだ正しかったと思っているか」という問いだった。




