第12話「焼祭の台と、刻まれた名前と、シアの話」
祭の台へ向かう道は、北への道だった。
ラングレイの北門を抜けて、荒れた街道を三十分ほど行くと、舗装が途切れる。そこからは草地と岩盤が交互に現れる地形で、踏み固められた跡もなく、案内板もない。エリナが古い地図を片手に先頭を歩き、シアがその斜め後ろについた。ジンはルルと並んで後ろを歩いた。
「においする?」とジンが聞いた。
「うん。昨日よりずっとはっきり」ルルは北の空を見上げた。「遠いけど、ちゃんとある」
「遠いってどのくらい」
「歩いて、もう少し」
「もう少しって何分?」
「わかんない。においに分はない」
「なるほど」
シアが振り返らずに言った。「喋っていると足が遅くなる」
「そうでもないよ」とジンが答えた。
「お前だけだ」
エリナが地図を確認しながら言った。「岩盤地帯に入ったら、北東に方角を取ります。古い地図では、そこから先に黒い印があって——」
「黒い印?」
「焦げた跡、という意味だと思います。百五十年前の地図師が、火で焼けた土地の記号として使っていた」
「土地が焦げてるの?」とルルが聞いた。
「跡が残っているかもしれません。祭祀の火は、長い年月をかけて地面を変えることがある」
ルルが「へえ」と言った。
ジンは足元の草を踏みながら、空を見た。今日は雲が多い。雨にはならなさそうだが、光が薄い。焼祭の台、という言葉が、なんとなく頭の中で繰り返されていた。
(焼祭)
お祭りで火を焚くのか。それとも、火を使って何かを祀るのか。
どちらにしても、誰も来なくなって百五十年、土地だけが残っている。それは水源と同じだ、とジンは思った。忘れられても、ちゃんとそこにいる。
ルルが言っていた言葉が、また頭に浮かんだ。えらいね、と。
ジンはそれを声に出さなかった。
―――
岩盤地帯に入ってから二十分ほどで、視界が開けた。
台地状の地形だった。岩盤が平らに広がり、その中心に——黒く焦げた、円形の跡がある。直径にして十メートル近い。草が生えていない。岩盤そのものが熱で変質したように、表面が滑らかに溶けている部分があった。
そして、中心に、石の祭壇があった。
高さは腰ほど。四角い台座に、古い石の板が乗っている。石板ではない——石を積み上げた台座そのものに、文字が刻まれていた。
「……ある」とシアが言った。声が、いつもより少しだけ低かった。
「廃教会と同じ系統?」とエリナが聞いた。
「遠目にはそう見える。近づく」
四人が中心に向かった。焦げた地面は、踏むと少し砂のような感触がした。灰が積もっているのかもしれない。ルルは少し立ち止まって、鼻をひくひくさせてから、また歩き出した。
「においは?」
「強い。ここが、点だ。絶対に」ルルの声に、珍しく確信がある。「でも——もう一つ、別のにおいもする」
「別の?」
「さっきも言ってた、人のにおい。でもこっちは——昨日じゃない。もっと前。三日か、四日か」
「セレクが来た、ってこと?」
「たぶん。でも、今はいない。通り過ぎたにおい」
シアが祭壇の前に立った。
石台座に刻まれた文字を、黙って見た。
五秒。十秒。
それで十分だった。
シアの体が、ほんの少し——硬直した。
「シア?」とジンが言った。
シアは答えなかった。
エリナが横に回り込んで、文字を確認しようとした。その瞬間、シアが先に口を開いた。
「……エリナ、書き写す前に少し待ってくれ」
「何か——」
「読める部分がある。私が読める部分が、ここにある」
誰も何も言わなかった。
シアはゆっくりと、台座の正面に膝をついた。指先で、一行を辿った。
「ここだ」低い声で言った。「ここに——名前がある」
「名前?」とジンが聞いた。
シアが振り返った。
その顔を、ジンは一度だけ見た。普段のシアと違う——と思った。プライドが剥がれた顔ではない。それよりもっと、奥にあるものが、少し表に出ている顔だった。
「……ザルヴァ、と読む」
沈黙。
「ザルヴァって」とジンが言った。「神様の名前?」
「創造神。教会が奉じる、この世界の神。その名が——封印の碑文に刻まれている」
「封印されてる?」
「違う。この台座の碑文は封印の構造記録だと思う。廃教会と同じ。その中に——ザルヴァの名が出てくる」
「どんな文脈で?」
シアは少し間を置いた。
「読める部分だけで言えば——」シアは再び台座を見た。「『ザルヴァの手の届かない場所へ』という一節がある。封印は、ザルヴァから何かを隠すために作られた」
部屋の温度が下がったような感覚があった。正確には、台地の上に風が来たのだが、それだけではないとジンは思った。
エリナが静かに言った。「封印は——神から、何かを守るために」
「そういう読み方が、できる」
「アル・ヴェリアが、神に逆らって作った封印」
「……第8話で、レウスが言っていたことと、重なる」とシアが言った。「術者は、世界を管理する者に反逆して封印を施した。その管理する者が——ザルヴァだということが、ここで確認できる」
ルルが、祭壇から少し離れたところで立っていた。近づこうとしない。
「ルル、大丈夫?」とジンが聞いた。
「うん。大丈夫。ただ——ここ、ちょっとこわい。においが、重い」
「重い?」
「悲しいにおい、じゃない。もっと、古くて、怒ってる感じのにおい。誰かが、すごく強い気持ちでここに書いたにおい」
シアが立ち上がった。
「……アル・ヴェリアが書いた。四百年以上前に、神の名を刻みながら、それでも逆らうために書いた」
「すごいね」とルルが言った。「怖くなかったのかな」
「怖かったと思う」とジンが言った。
「ジン、そういうの、すぐわかるんだ」
「なんとなく。俺でも怖いと思うから」
シアがジンを見た。何か言いかけて、やめた。
―――
エリナが書き写しを始めた。
廃教会や水源と同様、羊皮紙に丁寧に写し取っていく。シアは隣で、読める部分を口述した。全体の量は廃教会の碑文より少ない——が、密度が違う。一行一行が、判断して書かれた言葉だとわかる。
「この台座の碑文は——封印の配置の完成形を記録している」シアが言った。「五つの点が揃うことで、封印は完成する。そう読める」
「五つの眠りは、一つを知ることで目覚める——水源に書いてあったやつ」
「そうだ。この台座には、その逆のことが書いてある」
「逆?」
「五つの点が揃った時、封印は最後の段階に入る。何を封じているかは、まだわからない。だが——完成することを、アル・ヴェリアは意図していた」
「今は、完成してない?」
「未完成だ。誰かが引き継がなければ、封印はいずれ崩れる。第8話でレウスが言っていた——誰かが引き継ぐ必要があった——という話と一致する」
ジンは台座を見た。
「五つの点のうち、今わかってるのは——地下水路の石板、廃教会、旧ベイラ水源、ここ。で、残り一つ」
「そうなる」
「残り一つは、どこかわかる?」
シアは台座の文字を見た。じっと見た。
「——方位の記述が、この台座にもある。廃教会のものより、精密だ。エリナ、写し終わったら教えてくれ。方位を読む」
「もう少しです」
ジンはその間、焦げた地面を歩いた。円形の跡の縁に沿って、一周した。百五十年、誰も火を焚いていない場所。でも地面は、まだ焼かれた記憶を持っている。
(忘れないでいてほしい。私たちは、あなたを待っている)
廃教会の壁に書いてあった言葉が浮かんだ。
待っていた人たちは、ここにもいたのかもしれない。
ジンはそれを声に出さなかった。出す必要もないと思った。
―――
書き写しが終わったのは、一時間後だった。
シアが方位の記述を解読した。エリナが古い地図と照らし合わせた。
「……北東」とシアが言った。
「廃教会よりさらに北東?」とジンが聞いた。
「違う。廃教会を経由して、その先だ。廃教会は中継点だったのかもしれない」
「中継点?」
「封印の点は五つだが、その配置は単純な散点ではない。何らかの流れがある。水が北東を示し、廃教会があり、さらに北東に——最後の点がある」
「どのくらい遠い?」
「ラングレイからだと、丸一日はかかるかもしれない。ただ——」シアは方位の記述をもう一度見た。「この記号は、古い言語で『境界』を意味するものだ。境界の場所、という意味合いがある」
「境界って、何の境界?」
「わからない。だが——人が踏み込まない場所、という可能性がある」
エリナが地図を折り畳んだ。「今日中に戻って、明日に備えましょう。今日はここまでで十分な情報があります」
「セレクの期限まで、あと二日ですね」とジンが言った。
「あと一日と少しです。今日が猶予二日目ですから」
「……え、もう?」
「ジンさんは時間の計算が苦手ですね」
「苦手というか、気にしてなかった」
「気にしてください」
「はい」
ルルがジンの袖を引いた。「帰りに、何か食べたい」
「何が食べたい?」
「ジンが決めて」
「じゃあ、スープ」
「また?」
「シンプルでいい」
「……まあいっか」
シアが「歩きながら話せ」と言った。
四人は台地を下り始めた。
―――
帰り道、シアが口を開いた。
唐突に、前を向いたままで。
「少し話してもいいか」
「いいよ」とジンが言った。
エリナとルルも、足を緩めた。
「勇者パーティを抜けた理由を、今は言えないと言っていた」
「うん」
「今も、全部は言えない。だが——一つだけ、言える」
誰も何も言わなかった。シアが続けた。
「勇者パーティは——教会が管理していた。正確には、教会が勇者召喚に関与していた。そのことを、俺は途中で知った」
「知って、どうした?」
「最初は無視した。任務があったから。でも——知れば知るほど、教会の介入が深いことがわかった。勇者の目的、魔王との戦い——それが全部、誰かの筋書きに沿っているような気がし始めた」
「誰かって」
「わからなかった。当時は。今は——」シアは少し止まった。「ザルヴァの名が封印に出てきた今は、少し、輪郭が見えてくる気がする」
「教会がザルヴァの意志で動いてて、勇者パーティもその一部だった」
「そうかもしれない。違うかもしれない。でも——そういう可能性が、あの台座の文字を見て、ここに来て、より現実的になった」
ジンは少し考えた。
「シアが抜けたのは、その筋書きに乗りたくなかったから?」
シアがまた止まった。今度は少し長い間があった。
「……それが全部じゃない。もっと、個人的なことも、ある」
「今は言えない?」
「今は言えない」
「そっか」
「怒ってないのか」
「怒ってないよ。シアが言いたい時に言えばいい」
シアは前を向いた。また歩き出した。
「……お前は、どうして怒らないんだ」
「怒る理由がないから」
「普通は、隠し事に怒る」
「シアが俺に悪いことをしようとしてるわけじゃないじゃん」
「……そうか」
「そうだよ」
ルルがシアの横に並んだ。小さな手で、シアの袖をつかんだ。シアは振り払わなかった。
「シア、話してくれてよかった」とルルが言った。
「少ししか言えなかった」
「少しでも、話した方がいいと思うよ」
「……なぜ」
「においが、少し軽くなったから」
シアは何も言わなかった。
ルルは袖をつかんだまま、一緒に歩いた。
エリナが後ろで手帳を出した。歩きながら、何かを書き込んでいる。
「今、書いてるの?」とジンが聞いた。
「後で忘れるといけないので」
「そんなに忘れる?」
「情報量が多い日は、夜に書き直す前に要点を残します」
「エリナ、すごいな」
「仕事ですから」
「三度目」とシアが言った。
「三度目あることは四度あります」
「どこまで続くんだそれ」
「必要な限り」
ジンが「エリナ強い」と言った。エリナが「ありがとうございます」と言った。
それだけで、なんとなく笑える空気になった。
岩盤地帯が終わって、草地に入った。空が少し明るくなってきた。雲が薄くなっている。
―――
ラングレイに戻ったのは、午後の遅い時間だった。
ギルドに直行して、小部屋に入った。エリナが書き写した羊皮紙を広げ、シアが読める部分を整理した。
ポイントは三つだった。
一つ。封印は五点で構成され、それが揃った時に完成する。
二つ。封印の目的は、ザルヴァの手から何かを守ること。
三つ。最後の点は、ラングレイから北東に一日程度の、「境界」と呼ばれる場所にある。
「境界、というのは」エリナが言った。「ラングレイの北東に、そういう地名や地形の記録はありますか」
シアが少し考えた。
「一つ、候補がある。勇者パーティで動いていた頃——ラングレイより北の地域で、『断絶の崖』という地形を地図で見たことがある。人が近づかない場所として記録されていた」
「断絶の崖」
「詳しくは覚えていない。ただ、方位と距離が合う」
「明日、図書館か教会の古い記録を探してみます」エリナは手帳に書き込んだ。「ただ——」
「ただ?」
「明日は猶予の最終日です。セレクへの回答をどうするかも、今日中に方針を決めておきたい」
「方針は決まってる」とジンが言った。「どちらも選ばない。時間を引き延ばす」
「引き延ばし方が問題です。三日で回答すると言ってしまった以上、今日が期限になります。今日中に何らかの形でセレクへ返答しないと、教会が次の手を打ってくる可能性がある」
「返答するとしたら、何を言う?」
エリナが少し間を置いた。
「——検討中、とは言えません。それは時間稼ぎだとわかる。ただ」エリナは手帳を見た。「セレクは交渉者です。交渉が続く限り、急な実力行使はしない。それが原則です」
「交渉を、続けさせる?」
「選択肢の内容について、追加の質問をする、という形なら——返答を引き延ばしながら、対話の形を保てます。セレクは賢い。すぐに気づくかもしれない。でも——それでも、今は時間が必要です」
シアが「エリナに任せる」と言った。
「いいの?」とジンが聞いた。
「エリナの判断が、今の段階では最も適切だ」
「そっか」
エリナが「では、今夜中に文書を作ります」と言った。「セレクへの問い返しの文書です。監察の具体的内容について確認事項があるとして、追加の説明を求める」
「それで何日伸びる?」
「うまくいけば、三日。最低でも二日は——持ちます」
「じゃあ、明日、断絶の崖への道を調べて、明後日に動く」
「そのスケジュールで、行けると思います」
ルルが「じゃあ今日はゆっくりできる?」と言った。
「今日は休んでください」とエリナが言った。「ジンさんも、シアさんも、よく歩きました」
「エリナが一番歩いてたと思うけど」とジンが言った。
「私は慣れています」
「慣れてるって、どういう意味」
「街の中の移動が多い仕事ですから」
「受付じゃなかったっけ」
「受付だけじゃありません」エリナは少し間を置いた。「今は、そうでもない」
言葉が少し違う何かを含んでいた。ジンにはうまく説明できなかったが、エリナがそれを補足しなかったので、聞かなかった。
―――
夜、四人は食堂で夕食を食べた。
ルルが「やっぱりスープ好き」と言った。ジンが「毎日飲んでるからね」と言った。シアが「この店のスープは悪くない」と言った。エリナが「明日も同じ席で食べられるといいですね」と言った。
「なんか不吉なこと言ってない?」とジンが聞いた。
「縁起を担ぎました」とエリナが答えた。
「そういうのするんだ」
「します。大事な前日は、必ず前夜と同じものを食べるようにしています。——明日、断絶の崖へ向かうなら、今夜はそういう夜です」
「験担ぎだ」
「そうです」
「エリナって、そういうとこあるんだね」
「そういうとこ、というのは?」
「意外と、ちゃんと不安になってる」
エリナは少し止まった。
「……当然です」
「そっか」
「怖くないわけがありません」
エリナはスープを一口、温度を確かめるようにゆっくり飲んだ。
「ただ——怖いまま動かないより、怖くても動く方が、私には合っています」
「うん」
「それだけ、です」
ルルがにこっとした。
「エリナ、かっこいい」
「ありがとうございます」
シアは、最後まで何も言わなかった。
ただ、スープのグラスを静かに置いて、視線を窓の外へ逸らした。それだけだった。
その沈黙が何を意味するか、ジンにはもうわかっていた。
食堂の窓から、夜の街が見えた。石畳に灯りが反射している。ラングレイの夜は、静かだ。何も起きていない顔をしている。でも、何かは動いている。
それでいい、とジンは思った。動いているなら、こっちも動ける。
―――
部屋に戻って、ジンは窓の外を少し見た。
何かを考えていたわけではない。ただ、今日のことを、順番に思い出していた。
焦げた地面。石の祭壇。ザルヴァの名前。シアが膝をついた背中。ルルがシアの袖をつかんで歩いた、帰り道。エリナが歩きながら手帳に書いていた姿。
(封印は、神から何かを守るために作られた)
それが何かは、まだわからない。でも、アル・ヴェリアが四百年前に書いた言葉が、今日も台座の上にあった。消えていなかった。
ジンはベッドに横になった。
天井を見た。
「……石板みたいだな」
声に出したら、少し恥ずかしかった。誰も聞いていなかったから、まあいいかと思った。
届かなくてもいいから書いた、という石板。
ジンは目を閉じた。
何かを考えようとしたが、考えているうちに眠くなった。
それで今夜は十分だ、と思ったが、それはシアが言う言葉だな、とも思った。
移ってきたのかもしれない。
まあ、悪くない、と思いながら——
眠る直前に、一つだけ頭に浮かんだことがあった。
シアは、まだ「個人的なこと」を話していない。
それでいい。
話したい時に話せばいい。俺は、ここにいる。
それだけ思って、眠った。
―――
同じ夜、エリナは文書を書き終えた。
セレクへの問い返し。丁寧な、しかし明確な追加質問の形を取った文書。教会の監察体制の具体的な権限範囲と、「任意の同行要請」の法的根拠を問う内容だった。
これで、少なくとも二日は持つ。
そして——ギルド中央本部への手紙は、すでに昨夜の便に乗せた。返事が来るとすれば、三日後か四日後か。それまでに、全てが片付けばいい。
片付かなくても、やるしかない。
エリナは手帳を開いた。今日の記録を書く。焼祭の台のこと。碑文のこと。ザルヴァの名が出てきたこと。シアが話してくれたこと。
最後に、一行だけ書き加えた。
みんな、怖がっていない顔をして歩いている。
私も、そうしていたい。
それだけ書いて、閉じた。
窓の外で、星が出ていた。
昨日より少ない。でも、ある。
それで十分だ、とエリナは思った。
―――
— 第12話・了 —
次話予告:翌日、エリナは「断絶の崖」の記録を見つけた。ラングレイから北東、半日を超える行程の先——そこはかつて、アル・ヴェリアが最後に立った場所だという記述が残っていた。そして夜、セレクから予想外の返答が届く。「交渉ではなく、直接会いたい」——宛先は、エリナではなく、シアだった。




