8 シュウアク臓物
怖い怖いと神様と初めて会った日のように泣きじゃくって話すわたしを、いつものようにとぐろの中に招き入れて額を合わせて静かに聞いてくれた。時折聞こえる無色透明な相槌が余計に口を滑らせていく。神様の尾に落ちた涙が鱗を伝って流れていく。
「そうか。怖いか。それでもいいのではないか。お前さんの全てを受け入れられる者をむやみやたらと探すことはない。全てを求めることはない。自身を何人も作ったと言っておるが、その中に一欠片もお前さんの核がないということはない。仮面をかぶることが悪いことではない。が、それで核を見失うならばたまに外して息継ぎをするのも良かろうて。お前さん自身が見落とした欠片を拾い届けてくれるものは必ずいる」
そんなことをしてくれるお人よしの好き者は神様しかいないだろう。それに張り付けた仮面の外し方も、化けて出た自分の消し方も、もうわからない。
「だから何だ、という顔をしておるが。さて薬として、お前さんにとってちと耳に痛いことを言うとするか。まず、もうここに来てはならん。ここはもう閉じる。ああ、やはり泣いたか。頭突いていてもいいが、今回ばかりは話を聞きなさい。お前さんは大海と今まで己を満たしていた水源を知るべきじゃ。一つでいい。出会った者に一つだけ、お前さん自身の言葉をかけてみなさい。今まで徹底して相手の望むものを与えてきたのだから、少しくらい自分の好きなことを言ってもいいじゃろ。罵倒でも何でも。それで嫌われたら、なんて知らん。お前さんを受け入れるか受け入れないかは相手の器の問題であって、お前さんが考えることではないわ。そもそもどんな人間が苦手で好ましいかすらも自覚しておらんじゃろ。聖人であっても相手との関係をえり好みするのだから、お前さんだってそうしてはいけない道理はないじゃろうて。まさか、己を殺せば全ての人間と友好を保てると思っているか?それは不可能じゃ。儂にも無理じゃな。可能であったならば、儂の両腕は今も存在していたじゃろうな。神にも無理なことを小娘ができるわけないじゃろ。自身の善意で覆った臆病と無垢に縋った脆弱を、諦めて、認めなさい。そのせいでお前さんは溺れかけている。今すぐ開き直れとは言わんが、もうちと傍若無人になったとて儂は怒らんよ。それくらいが丁度いい。自由に泳ぎなさい。お前さんはそれができる。そして自由なお前さんとともに泳いでくれるものは必ずいる。少しの勇武があれば事足りる。目を開けられたのだから、息もできる」
常に不機嫌な父が怖い。得体のしれない母が怖い。兄弟の模範となれないのが怖い。友人に一緒にいても価値がないやつだと思われるのが怖い。
他人が、怖い。他人に嫌われることが怖い。わたしの根底はこれだった。
受け入れられたいと、嫌われたくないとにこにこ笑うだけ。全く持って一番薄気味悪くて悍ましいのは自分だった。自分の核にやっと気づいたと思ったらこれだ。神様の言う通り、臆病で脆弱で醜悪で、本当に嫌になる。
そんなものをさらけ出していいのだろうか。本当に、それで楽になるの。
尾を抱き込んで体裁もなく泣くわたしを宥めながら、神様はついと室内の文机を目で示した。なにか取って来いということだろうか。ぐすぐすと泣きながら神様の尾を抱え込んだままの状態でずるずると文机まで移動する。神様の尾はかなり長いから神様自身は元居た場所から動かずにわたしの行動を苦笑しながら眺めていた。
「その引き出しに入っているものを持ってきなさい」
わたしも書き物をするときによく借りている文机の引き出しには、神様の髪と同じ色をした縮緬の小さな巾着が入っていた。布地の模様はなんとなく水の波紋と飛沫を組み合わせたように見える。持つと中に何か入っているのに気づいた。開けてみろと言われ、封を解くと掌にころんとガラス玉のようなものが転がり出てきた。神様が出した水のように透明だけれど、玉の中に水流が閉じ込められているような揺らぎを感じる。
「神様。これ何」
「さて、なんだったか。まあ陸で息ができなくなった時に使いなさい」
なら今使ってもいいだろうか。
目の前が涙で見えなくなってきたので、ぐしぐしと乱暴にこするとやめなさいと尾が両腕にまで巻き付いて、またとぐろの中に戻された。そして今までわたしが書き溜めてきたノートが入った箱を渡される。
「この中身を読み返したことはあるか」
ぶんぶんと首を横に振る。神様は褒めてくれたけれど、わたしは自分が書いた文章が別に好きでも何でもないし、ただ思考整理に使っていただけだから中身も支離滅裂なことになっているのはわかりきっている。そんなものをもう一度読み返すなんて気は起きない。自分で羞恥心を煽ってどうするの。
「そうか。ならば、まずこの中身を読み返して己を取り戻すことから始めなさい。お前さんがないないと騒いでいたものはここにある。あとは、そうじゃな。思いっきり遠くに行ってはどうかのう。お前さんのことを誰も知らない場所へ行ってごらん。ここはお前さんにとては質の悪い水瓶の中のようじゃしの」
「どっかに行けって言われてもわかんないよ。行きたいところも、やりたいこともないんだし」
「それもお前さんの残した記録の中にあると思うがな。まあ、あてもなく放り出してもお前さん戻ってきそうじゃし。信濃国はどうかの」
「……長野県?なんで」
「儂の源流が近いと言えば行く気になるか」
正直ちょっと気になってきたのが癪で、むすっとした顔のまま黙り込む。どうせ子供っぽいしぐさだと思ったのだろう。神様は水流のような髪を揺らしながら、くすくすと笑っていた。示された先が思いのほか惹かれるもので、怖いけれど今よりは楽しそうかもなんて思ってしまって。もしかしたら、神様の名前を知ることができるかも。
けれど涙は止まらない。当たり前だ。子供の頃から家族より誰よりわたしを見てくれていた神様と離れたいわけがない。
「ほら、もう行きなさい。なるべく早く行くのがいいじゃろ。数日のうちに出ろ。いいな」
「嫌だけど」
「いいな?」
「嫌」
「い、い、な?」
「い、や、だ!」
呆れたような、でも泣きそうな顔をしている神様を睨みつける。だって、嫌だよ。嫌に決まってるでしょ。20歳にあるまじき駄々の捏ね方をしている自覚はある。けれど理由なんて神様だってわかってるくせに。
だって、だって。
「……神様、お願い聞いて」
「断る」
「わたしここにまた来るからね。門閉めないでよ」
「断ると言ったろう。相変わらず話を聞かんな?」
「さっき、取り乱したのは忘れてよ。わたしは神様が消えるなら、もうわたしが消えてもいいよ」
確かに息苦しいけれど、泣きじゃくるほど自分が限界なことはわかったけれど、ここまでこれで通したのだからこの先だってやっていける。わたしがいない分は私が何とかしてくれるよ。神様を消してまでわたしを欲するのはさすがに強欲じゃないかな。だって、こんな優しい神様と悍ましいわたしなら、神様を選ぶでしょ。




