6 アイデンティティ崩壊少女
今日はブーツと着物を合わせて、お酒をもって神様のところへ行く。神様への供物のお酒はお神酒と言ったか。ようやく買えるようになったお酒を神様に渡したらこの前とは別の友達と飲みに行く約束をしている。あの子は今日、なんの服で来るかな。着物の柄被ってないと良いんだけど。あと、話すのが好きな子だから聞き役に徹して穏やかに。
なんて考えていたら、ふと思い至る。
どうしてわたしはこんなことをしているんだ。
相対する人間ごとに服装だけでなく名前や自分の性格自体を変えて時間やペースを合わせて。そもそも何で今日飲みに行くことになったんだっけ。ああ、そうだ。二十歳になったから大体の人は友達とお酒飲みに行くから、行かないとって思ってたら誘われて、その子に合わせて。
なんでそんなことしないといけないんだろう。それって誰に何を言われてやっていることなの。わたしはそれがしたいと思ってしているの。
お酒なんて飲めようが飲めまいがどうでもいいでしょうに。あれってただの機嫌取りの道具でしょ。
かつての新年に襲われた虚無感に唐突に苛まれる。どうしてとなんでが止まらない。
昨日はあの子に合わせて、その前は彼氏に合わせて、その前は。と考えたところで思考が一点で止まった。
わたしは誰。
友人といたときのはしゃいでいた私はわたし?彼氏といたときのお淑やかな私はわたし?仕事場でのポーカーフェイスの私はわたし?兄弟といるときの穏やかな私はわたし?母親の前の、父親の前の良い子の私はわたし?
どの私が誰で、誰がわたしなの。
子供の頃にはわたしっていたのかな。いや、もうその時からいなかったのかもしれない。いたとしても、何人の私がいて、何がわたしだったのだろう。
ガコンと缶チューハイが地面に落ちて転がっていく。力なく揺れた手にあたったのだろう。拾う気も起きない。頭が、まだ何も飲んでないのにぐるぐるぐちゃぐちゃする。頭の中身を洗濯機にぶちまけてそのままスイッチを入れられたみたいな吐き気がするのに、わたしの中身はひどく冷めて何も感じない。
ねえ。わたしって誰。どこに居るの。
「ここにおるじゃろうに」
転がっていった缶を器用に尾で回収してこちらを覗き込んだのは、わたしだけが知っている神様だった。
「これが、お前さんがお前さんである証左じゃろう」
そういって、わたしの手元のノートを目で示した。相変わらず寝坊してくる神様が起きてくるまで、今日ここでわたしがずっと書き綴っていたもの。
「これが、何」
「これに書いてあること全てがお前さんの言葉じゃろう。毎日ここにくるたびに残し続け、儂に願ってまで守り通したお前さん自身ではないのか」
「こんなのただの日記だよ。それですらないかも。文章になってないめちゃくちゃなものだってある。そんなのわたしである証拠だなんて言えないでしょ」
「ならば、何故隠した。何故守った。この記録だけは誰にも、儂にすら侵されたくないからではないのか。見目を変えようが振る舞いを変えようが、己の核だけは死守しようと戦った産物がこの手記じゃろうて」
果たして本当にそうだろうか。確かにこの神社で毎日書き物らしきことをして、それを誰にも見られないように神様に守ってもらっていた。でも、だから何なのだろう。その文字の羅列の中にわたしが存在しているのだろうか。私が書いていたらわたしと言えるの。
神様の言葉に納得が行かなくて、頭のぐちゃぐちゃが加速して半泣きになっているの顔を顰めて耐えていたら、急にふはっと神様が笑った。なんだ、喧嘩か?
「落ち着け。そう睨むな。儂が悪かったよ。おいで」
もはや涙目になりながらぷいと、そっぽを向いていると笑いをこらえ切れていない神様のとぐろのなかであやされていた。
「何笑ってるんだ」
「いや。お前さんは子供の頃から本当に変わらんなと思ってな」
今も子供か、と余計なことをつぶやきやがった神様の肩に頭突きする。が、そういうところだとまた笑われた。
「落ち着け。そういうところがお前さんであり、この記録がその根拠じゃ。お前さんはここにいるとも」
「いない」
なかばやけになって答えた。いない。いないの。本当に。
「では少し、問いかけでもしてみるか。お前さん、好きな色は?」
「青」
「本当にか?」
あ、だめだと思った。喉が震えて目が熱くなる。あの友人の前では青といった。少し前の彼氏の前では、最初にくれたものが赤だったから赤といった。じゃあ、わたしは?
「……わからない」
「そうか。では嫌いなものは?」
わからない。
「好きな食べ物は?」
「特技は?」
「やりたいことは?」
わからない。わからない。わからない!神様の着物を掴んでもうほとんど泣きじゃくっていた。
「わからないの!何にもわかんない!」
わたしのことなんて、わからない。わたしが何が食べたいかなんて知らない。明日何をやりたいのかもわからない。わからないのだからなにもできっこない。だから、わたしなんていないんだ。
「なら、最後に。お前さんが一番大事なものは?」
「……神様」
「そうかい」
神様はいつものように優し気に、けれど悲しそうに目を細めた。
ようやく一つ答えられたのに、神様がそんな顔をするからまた嗚咽がこみあげてくる。
「だめなの」
「だめとは言っておらんよ。お前さんの好きにするといい。けれど、お前さんは大海を知るのがよい。このままでは息苦しいかろうて。甕の中でひっくり返っておる金魚のようじゃのう。儂のところで息継ぎしたとて、外に出るたびに溺れていては辛かろう」
神様が何を言っているか意味が分からなくて、もう一度頭突きをしようとしたけれどそんな気勢はなくて、それに気づいた神様にまたあやされる。20歳になったんだけどな。何でこんななんだ。
「先ほどの問に、代わりに儂が答えてやろう」
何それと思う間もなく唄うような声が続く。
「お前さんは白が好きなのではないか?白い服を着ているときは殊更に機嫌よく見える。嫌いなものはうるさい音じゃろ。耳がいいようじゃしの。好きな食べ物は……儂によく持ってくる菓子……いや、辛い物か?お前さん辛い菓子は一人で全部平らげておるし」
わたしが答えられないわたしを神様が口にするたびに自身が輪郭を持つような錯覚を思える。
「お前さんが何もできないなんてことはない。何もないなんてことはない。前にここで墨を擦って書をしていたこともあったな。感想文といったか、それを儂に添削しろと見せてきたこともあった。儂はお前さんの流麗な字が好ましい。綴る文も明快で情緒豊かに思う。それに何より、お前さんは自身を押し殺してでも相手を思いやり守る子じゃ。それは美徳じゃ。何物にも代えがたい。お前さんは優しいが、優しいがゆえに辛かったな」
そうか。辛かったのか。苦しかったのか。わたしは。
だから、どんな格好で性格でも神様のところへ行って自分を見せて。その中にわたしを見つけてほしかったのか。
「どんな姿でもお前さんだった。纏うものの好みがお前さんのものではなくともな。だから、安心していい。ここにいる。今のお前さんは今までの自身や周囲を必死に守ってきただけじゃ。中身は変わっていないし、変えなくていい。否定しなくてもいい。無駄ではない。ただ、それが苦しいのであれば、息の仕方を学べばいい」
海水と淡水は違うからの、と神様はさっきからわたしのことを稚魚かなんかだと思っていないだろうか。でも、ようやく神様がどんなわたしを見ても同じ言葉をよこすのかがわかった。
見ていてくれたから。本当に、色々なものでごてごてと覆っていた私の中にわたしを見つけてくれていた。それが嬉しくて、自身を代わりに離さないでくれた存在の安堵感に勝手に救われたような、拾い上げてもらったかのような感覚を覚える。わたしも気づいていなかった助けを求める泣き声にずっと寄り添ってくれていた。
「事実、稚魚じゃろうて。そろそろ、放流してやらんとな。お前さんは儂と違ってここに存在しておるのだから、此岸を行きなさい。まあ、儂がここに縛り付けてしまったかもしれん。子離れは難しいというのは事実だったか」
疑問を口にする前に、神様の悲哀と罪悪が混ざったような声が聞こえる。顔を見たかったのに、ずっと泣いているから頭をなでられていてそれが押さえつけられているようにも感じた。
「この記録の中身を少しずつ、見せて気づけばいい。お前さん自身にも、他者にもな」
「い、やだ。無理」
「何故」
「怖い」
「何が」
「神様以外の人。全部が」
これも口に出たことで、初めて気づいた。怖かったんだ。ずっと、子供の頃から。
わたしは、わたしのままだと誰にも受け入れられないと思っていたから。




