5 ハンセイ皆無
「いや。阿保じゃろ。何をしておるんじゃ阿保。違うな。何がしたかったんじゃ阿呆が」
人の子が水の中で呼吸できるわけがなかろうに、と今まで聞いたことがない怒気を孕んだ声に目をそらす。
水中で息を吐き出し切ってそこでの呼吸を試みたわたしは、案の定溺れかけた。その時の神様の慌てっぷりが面白くて、叱られている最中だということをつい忘れて思い出してしまい口元を緩めてしまったところを見咎められる。すでに神様の尾にぐるぐる巻きにされているのにそれがさらに強まった。ぐえ、と潰された蛙のような声が出る。そういえば蛇って本当に蛙を食べるのかな。
「お前さん、ほんに儂の話を聞かんな。甘やかしすぎたか。今回ばかりはしかと反省することじゃ。苦しくなったら知らせろと言ったじゃろう。そもそも自ら溺れに行ったようにしか見えんぞ阿呆が」
神様の『阿保』カウントが4になったな。どこまで行くかな。予想としては8回かな。
「阿保め。また余計なことに思考を飛ばしよって。死ぬこともありえたのじゃから、叱られている自覚を持ってくれ。頼むから」
カウント5。もう神様は怒っているというより呆れているように見える。あと少しげんなりして遠くを見てるな。この様子だともうカウントは進まないかも。
「ごめんなさい。助けてくれてありがとう」
「そんな型通りの言葉が儂に通用すると思うなよ。お前さん全く反省しとらんじゃろ」
「ね。また今度水の中連れてって」
「やはりこりとらんな。もうやらん」
「なんでよ。神様がいれば泳げないわたしでも溺れないのに」
「それを溺れかけたのがお前さんじゃろうが。説教も聞かずに呆ける阿保のことなぞ知らん」
すっかり元通りの地面になってしまった境内を残念そうに見るわたしに気を揉む神様がやっぱりなんだか面白かった。
あのね、神様。ちゃんと神様の話は聞いてたよ。今も尾をわたしに巻き付けたまま本気で心配してくれて怒ってくれたことが嬉しいの。こんなことを口に出したらカウントが凄まじく進むだろうから言わないけれど、確かにわたしは反省も感謝もしていない。だって、空気の代わりに水が入ってきてわたしを動かすためのものすべてが止まったと感じたとき、確かに苦しかったけどいつも私がいる場所に比べたらそこまでじゃなくて。耳の奥で聞こえる水音が心地よくて。
実際水中で呼吸なんてできなかったけど、それでも。本気でここで息がしたいと思ったの。
「水の中の神様、綺麗だったよ」
「……」
「目を開けられたの初めてだったのにな」
「……次は同じことをしてくれるな」
優しくて心配性な神様。ごめんなさい。
きっとわたしは、また同じように水の中で息をする。
高校を卒業し家のごたごたで引っ越した後も、何故かわたしは神様の元へと通い続けることができている。引っ越したら神社に来れないかもしれないと神様に泣きついたら、水門を開いておいてやると言われた。引っ越し後も以前と変わらずに水のせせらぎを頼りにふらつくと神様のいる神社に来ることができた。なぜこんなことができるのか理由を聞いたら、水源がどうとか循環がとかなんか言ってたけれど、よくわからなかったから適当に頷いておいた。手段はどうあれ、わたしが神様の元へ通い続けられるのであればなんだってよかった。
流石に色々と生活上やるべきことが増えてしまって、幼子の頃のように夕方から夜までずっと居座るなんてことはできなくなってしまったが、それでもわたしは神様に毎日会いに行く。
仕事用の私を、彼氏用の私を、友人用の私を、兄弟用の私を。エトセトラエトセトラ。
完璧な着せ替え人形というより、百面相のできそこないの工作員のような私を毎日飽きもせずに神様に見せに行く。なぜこんなことをしているのかはもうよくわからないし、考えたこともない。きっと幼いころからの惰性のようなものだ。
神社に行って神様に挨拶して掃除して記録して隠して。これをしないと取り返しがつかなくなるような、そんな変な脅迫感すら感じる。
そんなわたしを神様がどう見ているかなんて知ったことではないけれど、毎度律儀に私のおしゃべりに付き合ってくれるから追い出されるまではこれを辞める気はない。
だからわたしは、20になった今日も真っ先に神様の元へ行く。




