4 スイセイ呼吸
中学一年生の夏。
外界から隔絶されたような境内でも暑いものは暑くて、神様に暑い暑いと管を巻きながらそのひんやりとした尾に引っ付いていた。暑くてもそうでなくともいつも引っ付いてる気がしないでもないが。
「耐え性がないのう。そんなに言うならば、少し泳ぐか?」
泳ぐ?どこで?
この神社の中に大きな水場なんてないし、私の住んでいる地域には市民プールも川もないけれど。ついでに言うならば、わたしは一切泳げない。家族旅行で海に行ったこともなければ、水泳教室に通っていたなんてこともない。プールの授業は毎年のごとく、補習の常連だ。なんなら仮病で見学することの方が多いし。
「言っていなかったか?儂は水神でな。水場など、どうとでもなる」
わたしが現在しがみついている尾を使って何かしようとしていることは察したが、別に泳ぎたいわけでもないのでそのまましがみつくことにする。
「いや、いい加減離さんか」
「うっ」
ペしりと尾の先で小突かれた。痛くないけれど、せっかくの涼が遠ざかってしまった。実に残念だ。
「お前さん、儂の尾を気に入りすぎじゃろ。儂より気に入っとるじゃろ」
そうなんかぐちぐち言いながら、自由になった尾で神様が境内の地面をぱしんと叩くと、途端にその尾が触れた場所から波紋が広がった。それは見る間にさざ波のように境内全体に広がっていき、鳥居と本殿を残して後は全て一面の池となった。のぞき込めばかなりの深さのように見えるが、境内に湛えられた水は不純物など一切ないかのように透明で真夏の陽光も相まってきらめいていて、泳げないくせについ手を伸ばしそうになる。
と、隣からとぷんと静かな水音が聞こえた。
透き通った水の中を悠々と、しかし音はたてずに滑るように泳ぐ蛇神様。水面と水中をなめらかにのたうつ尾が綺麗だった。
「どうした」
「どうしたじゃない。わたし泳げないんだって」
「なんじゃ。そんなことで動けんのか」
境内の中ほどまで泳いでいった神様は戻ってきて、ほれ、とこちらに尾を伸ばしてきた。まさか、これに掴まってわたしも水中に来いということか。
「いや無理。絶対に溺れる」
「水神が目の前で見ておるのに子を溺れさせるわけないじゃろ」
その後もなんとか回避しようとうだうだ言い訳にも誤魔化しにもならないものを言っていたら、流石の神様も呆れた目をし始めた。頼むからそっちが折れてくれと文句を言おうとしたら、するりと尾が胴に巻き付いた。もう一度見た水面は、相変わらずきらめいていたがどこからかあのプールの塩素の匂いがしたような気がした。反射的に身を後退させようとしたが、穏やかな声がそれを止めた。
「大丈夫だから。おいで」
導かれるような優しい声音に自分でもよくわからないが泣きそうになる。もう水に入ってみたいのか神様のところに行きたいからなのかわからなくなってきたがぐっと力を入れて尾にしがみつき、そっと足先で水面をなぜた。そこから生み出され広がっていく透明な輪がやっぱり綺麗で、少しずつその輪の中に自身を沈めていく。とはいっても、わたしは神様の尾にしがみついているだけなので、ほとんど神様が持ち上げてくれているだけなのだけれど。
とぷん、と胸元まで入ると神様の人間態の方に掴まる様に誘導される。泳げないながらもなんとなくの浮遊感を感じながら、神様の首に腕を回して掴まるとようやく人心地着いたような気がした。
当たり前だが、神様が生み出した水から塩素の匂いなんてしてはいなかった。
「頑張ったな。ここまで来れた感想はどうじゃ」
神様はゆっくり水面を泳ぎ、神社の中央にまで来ていた。真夏の陽光は本来ならば人を焼き殺せそうなものなのに神社を覆う木々の葉で水を飾り立てる木漏れ日となり、それでも感じる熱はひんやりとした水が中和してくれて心地よかった。そのまま水面を揺り籠のように揺蕩ってくれていた神様に、ねえねえと話しかける。この話しかけ方って中学生だともう幼かったりするのかな。
「お願い聞いて」
「儂に対してはお前さん遠慮せんのう。まあいいが」
「潜ってみたい。目を開けられたことないけど、水の中、見たい」
「水中に連れていくのは構わんよ。ただ、苦しくなったらすぐに儂に知らせなさい」
うん、と頷いて神様の方を見れば思いのほか、濡れた髪に艶目かしく飾られた顔があった。やはりこの神様は水そのもののようだ。どこまでも透明で触れているのに掴めなくて、いつかは消えてしまいそうな。
「水の中で目を開けらるかはお前さん次第だが、ほんの少しの勇武とそれを引き出すきっかけがあれば案外たやすいものだ」
息を吸いなさい。尾が体に強く巻き付いたのを感じ、言われるがままに肺を膨らませた。
とぷんと頭の先までひんやりとしたものに包まれているのを感じる。と、同時に固く閉じた目蓋に水の温度よりも少しあたたかいものが一瞬触れた気がした。それがなんなのか知りたくて、思わず目を開けた。
数秒はぼやけていた視界が徐々に鮮明になっていく。目の前には、よくできたとばかりに優しく目を細める神様がいた。
水中で豊かにそれこそ自由を得たかのように流れ躍る髪が差し込んでくる日光をあびて、それを纏う神様があまりにも清らかで。本当に神様なんだと今更ながら稚拙な感想を持った。
水中から見た空は陽光が次々に文様を変え、その柔らかな光が陸に上がれば人をも殺すほどの日射になることなんて忘れてしまうほどの光景だった。
ふとずっとここに居たいと思った。ここで水の下からあの眩しすぎるものを見るくらいが丁度いいと、この冷たい膜の中に居れたらと考えてしまうほど。もしかしたら陸よりも水の中の方が息がしやすいのかもしれないと、ごぽりと肺の中を空にした後で息を吸ってみた。




