1.5 鉄格子の向こう
何日経ったかわからない。正確には、数えていない。
鼻につく太陽は毎日小窓から差し込み、
夜が来ると代わりにほのかな月明かりが出る。
聞こえる音は虫の音色だけ。
丘の上の独房は寝床すらなく、
レンボは蟻やトカゲがそばを歩く地面で寝た。
石造の天井からはたまに雫が垂れ、また石床の隙間に吸い込まれていく。
あの日から宰相が牢を訪れることはなかった。
牢の中には他に囚人もいない。
監視がカビたパンを投げ込むだけで、何か起こることもなく、
一日中冷たい床の上で寝転がっていた。
何回目かの眠りから覚めると熱は引いていて、少し痺れた右手に大きな跡が残っているだけだった。
拳を握ろうとすると、少し震えた。
天気の変化を待つだけの日は、突然終わりを迎えた。
「ちょっと味見しただけじゃねえか!」
その声は独房まで響いてきた。
レンボは飛び上がって鉄格子に顔を寄せ、通路の先の扉に目を凝らした。
重い金属音と共に現れたのは、衛兵に手縄をかけられた子供だった。
「金は払うから!放してくれって!なあ!」
「勘弁してくれ…俺らは他の仕事で忙しいんだ!一旦ここに入っておきなさい!」
レンボの向かいの独房に勢いよく放り入れられた子供は、白いローブを身に纏っていた。
カレンと同じくらいの、またはそれより少し上の年齢だろうか。フードを目下まで深く被り、鼻まで覆うなどして顔や体が隠されているが、手綱の解かれた腕は痩せ細っていた。
衣類だけではなく荷物すら取り上げられていないのを見るに、軽い罰で一時的に捕まったのだろう。
「出せよ!おい、おっさん!!ジジイ!!こっちきて話そうぜ!」
フードは扉に向かって喚き続ける。
我慢できなくなった監視が扉の小窓を音を立てて閉めると、牢はフードとレンボの二人きりになって静まり返った。
「ん、なんだ。人がいたのか」
フードは向かいの牢から興味津々でレンボを見つめる。
レンボは横目で睨みつけると、返事をせずに背を向けた。
「なあ。お前は何をやらかしたんだ?」
振り返らずとも伝わる注ぎ続けられる視線に、静かに口を開いた。
「……王子を殴った」
「え、うはは!すげえ勇気!!多分死刑だな!」
軽快な大声が耳を突き抜ける。
何日も人と会話していないレンボにとってはひどくうるさい。
言動は荒々しく、幼さとはまた違った落ち着きの無さがあった。
「少しの間だけどさ、仲良くしようぜ!お隣さん」
フードは一息つくと、腰につけたポーチや荷物を外して座り込んだ。
隠された短剣や硬貨の入った袋がローブの中から次々に出てくる。
なんて粗雑な逮捕だろうか。衛兵の仕事ぶりに呆れて言葉も出ない。
「何日ここにいるのかなあ、オレ」
フードとその下に重ねていたマスクを外すと、気さくな笑みと共に、褐色の肌に琥珀色の瞳が現れた。
透き通るような肩までの金髪はボサボサで、大きな耳からは多彩な耳飾りがじゃらりと輝いている。
レンボは息を呑んだ。
ユスティシアは貿易大国である。
物資と共に流れ着いた者たちはやがてこの地に根を下ろし、移民街には多種多様な人々が暮らすようになった。図体の大きな種族や、荒っぽい気性の一族が疎まれることはあっても、この国では風貌を理由とした差別は存在しなかった。
________"厄災" を除いて。
金髪、褐色の肌、そして太陽のような琥珀の瞳を持つ怪物。その者は、訪れた地に必ず災いをもたらす「絶滅すべき種族」であると、ユスティシアでは繰り返し教えられていた。
それはもはや迷信の類であり、子供にも「早く寝ないと厄災が来るよ」と笑って語られる、恐怖の象徴。
近年、目撃情報こそ多発しているが、実際に国が襲われた例はない。迷信に踊らされた人々の騒擾として王国軍は笑い飛ばした。その存在は、おとぎ話のようにどこか現実味を欠いたものとして扱われていた。
それが今、目の前にいるのだ。
「や、厄災…」
牢の中に。
「お前もオレのこと知ってんのな!」
八重歯を見せて陽気に笑う様子からは、
"厄災" などと呼ばれる脅威は微塵も感じられない。
「まじかよ…」
追われ人を意図せず捕まえた衛兵に、乾いた笑いが出てしまう。
しかしこれほど世間のイメージとかけ離れた "厄災" ならば、見つけられないのも無理はないように思える。
目の前の厄災の腕は剣すら振れなさそうなほど細く、小さく華奢な身体は鉄格子をすり抜けられそうだ。
路地裏やアングラ酒場を血眼で捜索する兵士たちは、恰幅の良い異人や怪しい商人に目をつけていることだろう。
「お、お前…こんなところで何をしているんだ?」
目の前の子供を『厄災』と呼ぶにはあまりにも概念的だと、レンボは戸惑った。
「旅の途中だ!」
厄災は閃いたように顔を上げると、レンボの顔をよく見ようと自らの独房の鉄格子に近づいた。
「オレは旅をしながら冒険記を書いているんだが…ここで出会ったのも何かの縁だ!
てめえのことも書くぜ!おい、名前は?」
独房の間にあたたかな陽の光が差し込んだ。
石床の埃がキラキラと照らされる。
レンボは驚きと呆れを隠さず、失笑して呟いた。
「…蓮慕」
「そうか。蓮慕か!夢はなんだ?」
「……夢?」
「独房にぶち込まれているヤツでも、何かしらあるだろ?」
蓮慕の人生の中で『夢』という言葉など登場しなかった。
自由と家族の幸せを願ってひたすらに生きてきた。
母親を失い、自らを犠牲にして剣を振り続け、妹も失った今、蓮慕の人生には夢を見るほどの希望も未来も存在しなかった。
途端、頬の筋肉が地に引っ張られ、蓮慕は陽の光の中で舞う埃から目を逸らした。
「…カレンも、もういないんだ。俺の人生には何も無い」
「カレン?女か?」
「妹だ」
蓮慕は再び痛み出した右拳を握りしめた。
宰相の灰色の瞳が頭にこびりついている。下唇を噛み締める蓮慕を見て、厄災は天を仰いだ。
「ああ……わかるぜ、心にぽっかり穴が空いた感じ」
「お前に何がわかる!」
扉まで低い声が響いた。反射的だった。
こめかみに血が流れる。息を荒げて厄災を睨んだ。
「オレも家族はいない」
「……!」
先ほどの明るさは何処へやら、影の落ちた厄災の表情に、
出しかけた棘のある言葉が喉に詰まった。
「随分前の話だ。最初は結構沈んだ。
世界中の希望を根こそぎ奪われたみたいにクソだった…悲しみは次第に恨みに変わって、目に映るもの全てを壊したくなった。そのうち自らをも蝕んでいって、気づいた時には手遅れだ。
今じゃ安心して帰れる場所がどこにも無い」
小窓を見上げる厄災には笑みが消えていた。
太陽は少し角度が落ち、赤みを増した光が独房に差し込む。
「だがな、オレは夢を思い出した」
厄災は薄汚れた鞄の中から一冊の本を取り出すと、意気揚々と空にかざした。
「それは?」
「オレの親父が書いた…冒険記だ!!」
簡易的に製本されたその冒険記は角が削れ、表紙に大きく印字された文字は消え掛かっており、随分な古さが伺えた。
「…親父さんの」
「ああ、すごい人なんだぜ!世界中のすべての場所を巡って、その全てここに連ねた」
パラパラとページを捲る手つきは丁寧で、
その積もった古さが何年も大切にされ続けてきた故なのだとわかる。
「これ読んでると、すっげえワクワクするんだ!
まるで自分が冒険をしているみたいで……!」
厄災は幼い子供がおもちゃを与えられた時のように屈託のない笑みを浮かべていた。
瞳の奥に宿る熱い耀きが垣間見えると、蓮慕は思わず釘付けになってしまった。
「世界には信じられないようなもんがたくさんあるんだと。
虹でできた空、水面に立てる海、永遠の夜が続く大地…だが百聞は一見にしかず!
オレは全てをこの目で見て、親父を超える冒険家になるんだ!!」
独房の天井を見つめる真っ直ぐな眼差しは、先の未来に希望があることを疑わず、むしろそれを待ち焦がれていた。
その熱さは冷たく静かな牢の中ではあまりにも不相応で、蓮慕は自分の牢の冷たさに身震いした。
まるで炭の中で燃え続ける炎。
光などとっくに失われた人生に、自らに鞭を振って歩き出すなど、どれほどの絶望を乗り越えなければならないのか。
「壮大な夢だな」
石床の冷たさに引きずられるように、蓮慕は笑いを絞り出した。
厄災はその言葉に俯くと、冒険記を鞄の中にしまった。
「勘違いするな。オレは希望で立ち直ったわけじゃない。
死ぬ理由を探しているだけだ」
「死ぬ理由……?」
目の前にいる "厄災" は世界中から忌み嫌われて孤独となり、
居場所を失っても尚、未来を目指して足掻いている。
蓮慕の冷え切った心臓に血が巡り始めた。
俺はどうだろうか。
カレンを失って絶望に飲み込まれ、すべてを諦めようとした。
不条理な人生を鵜呑みにして、生きてきた理由も目的も、家族が壊れた原因も。
「…何もわからないままだ」
ふと、耳元で誰かが囁いたようにその言葉を思い出した。
蓮華の一族。
右腕に残る痺れを握り締め、それを払拭するように厄災に微笑んだ。
「オレは読むぞ。お前の冒険記」
「おう。それまで生きとけ」
厄災は拳を突き出して笑った。
「そういやここ、食事は何が出るんだ?」
「カビたパンが昼にひとつ」
「そりゃあ耐えらんねえな。腹が減った!食い物でも探しにいくかな!!」
厄災はフードを被り直して立ち上がると、小さい左拳を強く握りしめ、
大きく後ろに引いて勢いよく石壁を殴りつけた。
「……!!!」
牢屋の壁は暴風を起こし凄まじい音を立てて崩れ、閉ざされた牢屋には傾いた西陽が差し込む。
その眩しさと土埃に蓮慕は手で顔を覆った。
「う、嘘だろ…素手で……!?」
振り向いた厄災の白い八重歯が光を反射する。
「蓮慕」
蓮慕は舞い上がる粉塵の中で顔を上げた。
燃えるように赤い西陽は、厄災の琥珀色の瞳の中で輝いていた。
「オレと来るか?」
心臓が跳ねる。
あまりの輝きに、飛び出そうになった言葉を飲み込んだ。
熱が引いた右腕が、誰かに引っ張られている気がした。
「……いや、俺は…」
太陽を直視できず、視線を床に落とす。
蓮慕の足元は冷ややかで、壊した壁の破片が転がっていた。
「そうか。じゃあ、またどこかで!」
厄災はすぐさま壁を乗り越え、丘に広がる原っぱを走り抜け、眼下に賑わう街の方へ走っていった。
静かになった独房には石壁のかけらがぱらぱらと崩れる音と、遠くから近づいてくる衛兵の足音が響いている。
沈む直前の夕陽が牢いっぱいに満ちている。
逞しく、豪然たる美しい日差しだった。




