1.4 牢屋
市街地から外れた丘の上、あたりは人気が無い。
監視役の衛兵が乗る馬の鳴き声と、
周囲の森林から聞こえる木の葉の揺れ。
石造りの牢屋は冷たく湿気ていた。
重い鉄の扉から、衛兵の話し声が石壁を伝って最奥まで響いてくる。
頭上には小さな窓が設置され、差し込む微かな光は独房内に舞う埃を照らし、青年の足元まで届いていた。
独房に囚われたレンボは背中を壁に預け、
床を這うアリが鉄格子の向こうまで作る行列を虚な目で眺めていた。
脳裏にこびりついているのは、ふわりと舞ったドレスの裾、
そして鉄球が芝生にのめり込む鈍い音。
「うっ…」
割れるような頭痛に膝を抱えて目を閉じる。
地べたに座り込んでいる間に、足先はすっかり冷たくなってしまっていた。
遠くから鉄の扉が開けられる音が響く。
硬い靴の足音がだんだんと近づいてくると、その男は気味の悪い微笑みと共に現れた。
宰相だった。
「貴様……!!」
「久しぶりだね。レンボ」
薄暗い瞳はずっと変わらない。
胸元の勲章は以前よりも増えているようだった。
「王子を殴るなんて、派手なことをしてくれたね。君を雇った私の立場も考えていただきたいよ」
「カレンは!? カレンの容態は!?」
「即死さ」
微かな希望が瞬時にはじけ、理性が崩れ去っていくのがわかった。
焦点が定まらない。
「ああ…すまないねレンボ。お前の大切な妹を…。
『悪いことはしない』と約束したのにね」
宰相の口元はずっと緩んでいて、無惨な死を遂げたカレンのことなど微塵も悔やんでいない。
無慈悲な弔いに腹が煮え繰り返るようだった。
「いいね!あの夜と同じ顔をしている」
怒りに任せて鉄格子にぶつかった。
宰相は鼻息を荒くし、鉄格子に顔を寄せた。
「国王に掛け合っているんだ。君は貴重な人材だから、
どうか死刑だけは免れられないかって」
宰相の喉の奥から出てくる声は軽快で、まるで喜劇の観客のようだった。
衝動にも近い嫌悪を感じ、鉄格子から離れようとしたレンボの右手を、宰相がさらりと撫でた。
「……この火傷、どうしたんだ?」
引っ込めた右手の甲は、皮膚が焼けただれ、血が固まって肉が引き攣る。シャツの袖を捲りあげると、激痛とともに皮膚がめくれた。肘に沿って水脹れが走り、赤黒い斑点が腕全体を覆って腫れ上がっていた。
レンボは部屋に満ちていた焦げた臭いを思い出した。
どこからか現れてレンボの身を包んだ青い炎。
右拳には痺れが残り、指先はかじかんだように動かしづらい。
あの時、骨の髄から滲み出した熱。
「…そういえば、ここから炎が……」
レンボはじんじんと熱が残る掌に視線を落とした。
宰相の冷たい両手が鉄格子を超え、レンボの肩を掴んだ。
「やはり僕の直感は正しかった……!」
歯を剥き出し恍惚とした表情に、背筋が寒くなったレンボは、その手を振り払った。
「さ、触るな!」
「それは反動だ。初めてだったんだろう、レンボ」
「何を言って……」
「あの夜、なぜ僕らが君らの家に訪れたか……知っているか?」
首筋が力強く脈打つ。あの日の月明かりが鮮明に思い出される。
まだ幼かったカレンの泣き声と、母親から溢れ続けて止まらない熱い血。
男を刺した瞬間の重い衝撃と、振り向いた彼の半開きになった口元。目は虚で、怒りに満ちた目が自分を見下ろしていた。
宰相に掴まれた右肩がじりじりと熱を帯びていた。
レンボを覗き込んだ薄暗いグレーの瞳は、何年もの月日が経った今日まで変わらず冷ややかだ。
口を開くと、微かに血の味がした。
「あの日は……カレンが…」
「なぜ移民街の貧民が王家に迎えられたのか、疑問を持たなかったのか?」
レンボは灰色の瞳に吸い込まれ、何も考えられなかった。
あれほど静かな移民街は、あの夜だけだった。
兵士たちの服が秋風に揺れて、靴音が辺りに響いていた。
「王命は娘の方だったが、僕は君がそうだと思って王国軍に招いた。
そして今、それは証明された!」
「何の話だ……?」
宰相は子供のように目を輝かせ、空を仰いだ。
「蓮華の一族」
灰色の目には冷たい牢屋の天井が映っている。
めくれた右腕の皮膚からじわじわと熱が吹き出し、こめかみには冷や汗が滲み、喉の奥が渇く。
「本当に使えるのは息子の方だった。その間違いがなければ、君の妹はあんなふうに死ななくてもよかったのさ。ああ、母親もね」
レンボの鉄格子を握っていた手は緩んでいた。
宰相は満足そうに目を細めて微笑み、鉄格子の間から伸ばした右手でレンボの頬をそっと撫でた。
あの夜のように。
「憎悪に満ちた君でいてくれ。こんなところで死ぬんじゃないよ。
何十年と憎しみを煮えたぎらせて、僕を呪い殺して欲しいくらいなんだ」
宰相は独房からそっと離れると、風が吹き抜ける扉の方へ歩き出した。
「さあ、無能な国王に報告しなくては」
「おい、待て」
鉄格子の錆がレンボの手のひらにこびりついていた。
重い扉を閉める金属音が響く。
右腕からじわじわと全身に熱が伝わり、背骨が炙られているようだった。
「待ってくれ、カレンは……。母さんは……」
途切れる息が言葉をせき止める。
裸足の熱は石床に吸われていく。床がひっくり返るような眩暈がして、鉄格子の前に倒れ込んだ。
太陽の下で笑う妹の暖かさを、もう思い出すことすらできなかった。




