1.3 暖かい家
貿易国家ユスティシア。
さまざまな文化が公益と共に混じり合う世界の港。
貿易で国が栄える副産物として、貨物と共に流れ着いた人々もそこに留まる。
一家はユスティシアの移民街に暮らしていた。
パッチワークの服を着る母親と、まだ小さい兄妹。
母のか細い収入では足りず、8つになる兄もわずかな銭を稼いでいた。
移民街の中でも弱者だったその家族は、街の端の方で生活していた。
母親と子供二人で住むにはちょうどいい小さな家で、時には雨漏りを楽しみ、嵐の日は屋根が飛ばないか騒ぎながら、3人で身を寄せ合った。
小さなことでも幸せで、貧しいことを不幸だとは思わなかった。
隙間風が吹くある夜、国の紋章を掲げた男達が家にやってきた。
移民街ではなかなか見かけない王国軍だった。
「王命により、娘を第二王子の正妃として引き取る」
突然だった。
母親は赤子を守ろうと必死に抵抗するも、呆気なく腹を刺され、動かなくなってしまった。
彼女の腕の中では赤子がつんざくように泣き続け、
息子は背を向けて台所の隅で膝を抱えながら震えていた。
兵の中を掻き分け、軍帽を深く被った長身の男が現れた。
「…もう済んだ?じゃあ城へ戻ろう」
少年ははっきりと覚えている。
左胸につけた大量の勲章は、がちゃがちゃと音を立て、全ての光を吸い込んでしまうような冷たく色のない瞳だった。
まだ息のある母の腕から赤子を取り上げ、隣の部下に押し付けた。
軍帽が動かなくなった母を一瞥して部屋を出ていくと、兵士たちも床を軋ませて後に続いた。
残されたのは震える少年と、母親の掠れた息だけだった。
「本日の任務に、宰相が直々に足を運んでくださるなんて光栄です!」
その言葉に、先頭の軍帽が振り向いた。
微笑みは貼り付けられたように無機質だ。
「たまにはこうして、移民街も我々の支配下だってことを見せつけよう」
敬愛にも近いどよめきが起こった。
一行は軽やかな足音を地面に響かせながら、月明かりで満ちた街を歩いていた。
「それにしても、夜の移民街はこんなに静かなんだなあ」
赤子を抱えた兵士がぽつりと呟いた。
泣き疲れてしまったのか、赤子は知らない兵士の腕で静かに眠っていた。
常に賑やかな大通りはひっそりと静まり返り、通りを囲む民家の窓からは、影に隠れた住民達が一行を見ていた。
「宰相が居られるからさ! いつもなら暴動を鎮めるために夜更けでも兵士が駆り出されてる。
こんなに静かな移民街は見たことねえや」
兵士たちの朗らかな笑い声が夜道にこだますると、冷たい風が吹くと共に「おぎゃあ」と赤子が起きた。
慌てて赤子をあやすが、泣き声は収まらず次第に大きくなり、ついにしかめ面をした兵士の一人が口を出した。
「うるさいな。口に布でも詰めておけ」
母親を求めて機嫌を拗らせる赤子に注目が集められた時、一行の後ろから「うっ」と鈍い声が聞こえた。
宰相は立ち止まると、列を成す部下達の奥にじっと目を凝らした。
街灯などなく月明かりだけが頼りのこの街で、闇の中で何かが動いた。
「う……ぐっ!」
再び鈍い音がすると、最後尾を歩いていた一人が膝をついて倒れた。
泣き叫ぶ赤子の声を後ろに、一行はやっとそれに気づいた。
地面に突っ伏した仲間の腹からは赤く血が広がり、背後には小さな少年が立っていた。
「何者だ!」
兵士の剣は少年の台所包丁を叩き落とし、あっという間に押さえつけられてしまった。
「ジョゼフ!!」
傷から噴き出る血は地面に流れ、瀕死の兵士が消え入りそうな声で呟いた。
「こいつ、さっき家にいたガキだ…」
「!!」
手綱をかけられた少年は荒々しく頭を掴まれ、顔が月光に照らされた。
浮き出た血管に引きつった目は怒りに血走り、兵士達を睨み上げる。
全身を震わせ、食いしばった歯からは熱い息が漏れ、今にもその歯で食いちぎられてしまうのではと思うほど、獣のような殺気。
「精々苦しんで死ね……! 母さんもそうやって死んでいった!!」
一行は思わず一歩下がった。
息絶えた同僚を抱えていた兵士はゆっくりと彼を寝かせ、少年の前に立ちはだかった。
「一丁前に復讐か?
スラムのガキが………身の程を知れ」
握っていた剣を鞘にしまうと、拘束されて身動きの取れない少年の顎を、加減無しで蹴飛ばした。
「ゔっ」
少年の眼球はぐるりとひっくり返り、膝をついてふらついた。
兵士たちは顔を見合わせると、つられて皆笑みを浮かべ、次第にそれはエスカレートしていった。
「ジョゼフになんてことをしたんだ!」
「思い知らせてやる!」
「ガキのくせに、王国軍につけあがるな!!」
まだ幼い少年は鈍い声をあげてうずくまり、涙をこぼすことなく耐え続けた。
少年は土埃に包まれながら、兵士たちの隙間から覗いた妹の泣き顔を見逃さなかった。
「カレン!今助け、る…から………」
少年の叫びは怒号の中に埋もれ、赤子を抱えた兵士は呆気に取られて外野に立ち尽くしていた。
月明かりがあたりに降り注ぎ、恫嚇と叫泣きだけがあたりに響く夜だった。
「待て」
昂りは鶴の一声にかき消された。
動きを止めた部下たちが道を開けると、宰相が少年の元へゆっくりと歩み寄った。
「………素晴らしい…素晴らしいよ」
手袋で顔に触れようとすると、少年は勢いよく顔を背けた。
腫れ上がった顔には嫌悪が満ち溢れていた。
少年の血走った黒い瞳を覗き込み、宰相は白い歯を剥き出しにして笑った。
先ほどの貼り付けた微笑みとは比べ物にならない、悪魔のような笑みだった。
周りの兵士たちは息を呑んだ。
「君の才能だ。復讐で人はここまで燃えるものなのか」
ゆっくりと右の手袋を脱外し、骨骨しい手を少年の頬に添える。
こめかみから流れた血が宰相の指に伝った。
「大切なものを失った絶望、憤怒、運命への反逆!
この国には、それが足りない。…でも君にはある」
宰相は部下から乱暴に妹を取り上げると、土埃で汚れた少年に抱かせた。
少年は大粒の涙をこぼしはじめ、ぐずる妹をしっかり抱きしめたが、その細い腕は震えていた。
「いいかい。この夜を決して忘れるな。その怒りを、灯火を吹き消してはならないよ。
それはいずれ君の原動力になる」
少年を見つめる宰相の瞳は薄暗く、どこを見ているのかわからなかった。
兄の腕に抱かれた妹はいつのまにか眠り、力が抜けた少年は地面に座り込んだ。
年相応に泣き続ける少年に宰相がため息をつくと、月明かりの方へと帽子を向けた。
「城に来て私の下で勤めなさい。
お前が真面目に働き続ける限り、妹に悪いことはしないと誓おう」
宰相ゆったりとした足取りでまた歩き出した。
戸惑った部下たちはその背中を呼び止めた。
「宰相、一体何をお考えで…!?
こいつはジョゼフを…仲間を殺したんですよ!」
「そうだ。王国軍の兵士をいとも容易く。素晴らしい才能ではないか!」
宰相の朗らかな声は月明かりが満ちる移民街に響き渡った。
息絶えた兵士の血は道を染め、彼を支えていた同僚は、冷たくなった手を離した。
少年は朦朧と地面に手をついた。
月明かりを前に伸びる黒い影は、高らかに笑っていた。




