1.2 目覚め
城の長い廊下を抜けた先、北にある小さな部屋が、カレンの自室だった。
レンボが装飾の剥がれたドアを開けると、うずくまった少女を従者たちが心配そうに囲んでいた。
本や化粧品は散乱し、ドレスは床に引っ張り出され、
開けっぱなしの窓から拭く風が、引きちぎられたカーテンを揺らしていた。
「カレン!」
みかん色だった頬からは血の気が引き、焦点は定まらない。
「う、あ」と短い言葉を発しては苦しそうに息を吸う。
小さく震える指先を潰れそうなほど強く握りしめ、太陽の下で風に吹かれていた柔らかい髪はぼさぼさで、まるで嵐の後のようだった。
「カレン、どうしたんだ! 何があった?」
駆け寄った兄に縋り、糸が切れたように泣き出すと、
周囲の従者たちは安心したように隅へと下がった。
カレンは喉の奥から途切れる息を振り絞った。
「……私、王子の、あの忌まわしい男の子供を………」
その後は何も聞こえなかった。
腕の中で苦しそうにもがく最愛の妹が、鉛のように感じた。
どろどろと黒い感情が視界を覆っていく。喉の奥で何かがつっかえた。
「…おにいちゃん、いやよ。
あいつの子供なんて、産みたくない。気持ち悪い。いやなの」
老婆は息を求めて震えるカレンの肩を掴んだ。
「お気を確かに、カレン様! これは貴方に課せられた義務なのです。
拒むことは許されません。王子のためにも、この国のためにも、どうか……」
老婆が宥めるのも聞かず、揺れる瞳孔はサイドテーブルに飾られた花瓶を手にし、足首の枷に打ちつけられた。衝撃と共に花瓶の破片が飛び散り、真っ白な足首が裂けた。
鉄枷には傷ひとつ無い。
侍女たちの悲鳴が上がった。
「おやめください。カレン様、ああ…カレン様!」
「こんな鎖……こんな鎖っ!」
レンボの頭はぼんやりとしていた。
喚くカレンの声が耳を抜けていく。
何が起こっているのか、あまり理解ができずに、目の前で取り乱す妹を見ていた。
心臓が激しく、そして重く脈を打つ。
兄にはかけてやれる言葉がなかった。
使用人たちも口をつぐみ、泣きじゃくるカレンから顔を逸らした。
その時ドアが荒々しく開かれた。
嗚咽が響く部屋に駆けつけて来たのは、第二王子だった。
「カレン! 何をしているんだ!」
その野太い声に一瞬身を縮ませたカレンは、
すぐさま床に散らばった破片を自身の首元に当てた。
老婆の「ひっ」という息と同時に王子はその腕を掴んだ。
「死ぬのよ!ここで、私は…あなたの子供を産むくらいなら、死んでやる!!」
「お前の腹にいるのは俺の子供だぞ!そんな勝手が許されるか!」
「カレン様!!落ち着いてください!」
「…カレン」
レンボは思わず立ち上がったが、
止めに入った王子と引かない妹の掴み合いをただ見つめていた。
体に力が入らなかった。
暖かく柔らかな手には、強く握りしめた破片に裂けてどくどくと艶やかな血が伝う。
やっと声が出たかと思えば、掠れた叫びは喧騒に届かない。
「…カレン、やめろ」
カレンは一瞬の視線をレンボに向けた。
涙でぐちゃぐちゃになった瞳には、いつもの春の暖かさなどなく、
大粒の涙で覆われていた。
「…………おにいちゃん…」
救いを求める声はヒステリックな動揺にかき消された。
「カレン様!! それを置いてください!」
鋭い破片を取り上げようと王子が腕に力を入れると、カレンは血眼になって抵抗した。
男の力に勝てるはずもなく、重い枷を引きずって壁の方へ追いやられると、
王子の怒気を帯びた声が部屋に響いた。
「奴隷ごときが、抵抗するな!」
カレンは衝動的にのけぞった。
「いやっ!!」
途端、開いていた窓から身を乗り出し、ふわりとドレスごと風に包まれれた。
足元の鉄球が遅れて窓枠を乗り越えると、瞬く間に部屋から消えてしまった。
外で鈍い音がした。
王子が窓枠から動かない。
その背中を見つめて固まった使用人たち。
静まり返った中、レンボは放たれたように駆け寄り、窓の下を覗いた。
「カレン」
眼下では片付けをしていた庭師が落ちてきたものを囲んで騒いでいる。
手足は違う方向に曲がり、ぼさぼさになった髪で隠されて顔は見えない。
クリームイエローのドレスはぼろぼろに破け、コサージュは崩れて、厚底のヒールも片方外れて側にぽとんと落ちていた。
足首には枷がついたまま、重い鉄球が芝生に沈んでいた。
パタパタと破けたカーテンだけがはためく頭上では、
窓枠に鎖の痕が削り付けれていた。
「まったく…鈍臭い女だ」
それが王子の発した言葉であると理解するのに、時間を要した。
ゆっくりと顔をあげると、目の前の王子はばつが悪いというふうに薄ら笑いを浮かべていた。
拳が熱い。
カレンが優しく撫でてくれた頬の内側から、血の味がした。
呼吸の仕方を忘れ、全身をめぐる血液が沸々と熱くなる。
部屋の空気が歪む。
頭の後ろから近づいてきた耳鳴りが、ぶつんと音を立てて消えた。
いつかきっと。
レンボの拳が王子の顔を床に叩きつけ、
潰れた頬をジリジリと音を立てて焦がす。
王子は白目を剥き動かず、欠けた歯がレンボの足元に転がった。
部屋は熱気と鼻を刺す焦げ臭さに包まれる。
使用人達は部屋の隅に固まり、幽霊でも見たかのように、射すくめるレンボの "右" を凝視した。
青年の右拳には、青白い炎がゆらめいていた。




